ペトロと岩【マタイによる福音書—約束されたメシア】#8

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「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」(マタ16:21)。

新約聖書ははっきりしています。イエスは死なねばなりませんでした。迫りくる十字架の影を直視して、イエスは祈られました。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」(ヨハ12:27)。これは、「永遠の昔に」(テト1:2、さらにIIテモ1:9も参照)神の御心に宿った神聖な計画でした。

だからこそイエスは、「多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活する」と単純に言わないで、これらのことに直面することに「なっている」〔英訳聖書に従えば、直面しなければ「ならない」〕とおっしゃったのです。神の御性質、律法の神聖さ、自由意志の存在を考えるなら、人間が罪の刑罰から救われうる方法は、イエスの死だけでした。

私たちは今回、イエスの物語をもう少し取り上げますが、ペトロと、「永遠の昔に」計画された死に向かう過程でのイエスの働きにペトロがどう応じたかに注目します。

「あなたはメシア」

ほとんど最初からイエスと一緒にいたペトロにとって、それがどのようなことであったか、想像してみてください。病人のいやし、悪霊の追い出し、群衆への給食、すばらしい教え、自然界の支配、死者の復活、湖上をともに歩いたことなど、信じがたい出来事を次から次へと目撃したとき、ペトロの頭の中をどのようなことがよぎったのでしょうか。来る日も来る日も、あらゆる時代のだれも目にしなかったことを見ながら、どのような疑問(例えば、改めて、なぜイエスは、バプテスマのヨハネが屈辱的な最期を遂げることをお許しになったのか、といった疑問)が彼の心の中で跳ね回ったのでしょうか。そもそも、イエスは人間の肉体を取られた神であり、肉体を取って生き、人間に奉仕なさいました(ガラ4:4、ヘブ7:26、イザ9:6、ルカ2:10、11)。ですから、彼の周りにいて、彼とともに生き、彼の弟子であった者たちは、多くのめずらしい体験をすることになっていました。

マタイ16:13〜16を読んでください。イエスは弟子たちに質問をなさいました。また、ペトロの答えは極めて重要です。「あなた〔イエス〕はメシア、生ける神の子です」(マタ16:16)というペトロの告白は、聖書全体における見せ場の一つです。ペトロはイエスを「メシア」、つまり油注がれた者と呼んでおり、この告白によって彼は、イエスが救世主、つまりアブラハムやその後のイスラエルと結ばれた契約の成就として来ることになっていたお方(ガラ3:16参照)であると言っていました(正確には、結果的にそうだとわかりました)。

また、ペトロがイエスをメシアと宣言したのは、フィリポ・カイサリア地方でのことであり、そこは異邦人の国でした。それまでの日々の中で、ペトロは、イエスがユダヤ人だけでなく、異邦人をも大切になさるのを目撃していました。ペトロは聖霊の助けを得て、ほかの人たちがそれとなく言っていたように、イエスが一介のユダヤ人預言者をはるかに超えた存在であることに気づきました。イエスの働きは、バプテスマのヨハネ、エリヤ、エレミヤたちの働きよりもずっと幅広いものでした。実際のところ、その働きは全人類を含むものであり、それゆえイエスは御自分のことを「人の子」と呼び、全人類との一体感を示しておられました。あとで聖書が示すとおり、ペトロには、イエスと、イエスの働きの奥深さと普遍性について学ぶべきことがまだたくさんありました。

「この岩の上に」

イエスを「メシア、生ける神の子」として信じます、というペトロの大胆な告白の直後、イエスはペトロへの返事として何かを言われました。

マタイ16:17〜20を読んでください。「この岩の上に」という言葉は、キリスト教会において議論の的になってきました。カトリック教徒は、「この岩」がペトロ自身を意味していると解釈し、彼が初代の教皇であったと主張します。しかしプロテスタント教徒は、正当な理由によってその解釈を受け入れません。

聖書の有力な証拠は、この岩はキリスト御自身であってペトロではないという考えを明らかに支持しています。

第一に、ペトロはいくつかの箇所で岩の比喩を用いて、自分自身ではなくイエスに言及しています(使徒4:8〜12、Iペト2:4〜8参照)。

第二に、聖書の至る所で神やイエスが岩にたとえられており、その一方で、人間は弱く、信用できないものと見なされています。「主はわたしたちをどのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを御心に留めておられる」(詩編103:14)、「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない」(同146:3)。またヨハネは、「人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(ヨハ2:25)とも書いています。そしてイエスは、何がペトロの心の中にあるのかも知っておられました(マタ26:34)。

問1

これらの聖句は、この岩が本当はだれなのか、また教会がだれの上に建てられているのかということについて、何と述べていますか(Iコリ10:4、マタ7:24、25、エフェ2:20)。

「キリストがこのことばを語られた時、教会は、何と弱々しく見えたことだろう。信者はほんの一握りしかなく、この人々に向かって悪鬼と悪人の全勢力が向けられるのであった。それでもキリストに従う者たちは恐れないのであった。力の岩なるキリストの上に建てられているので、彼らを打ち倒すことはできなかった」(『希望への光』886ページ、『各時代の希望』中巻181ページ)。

サタンとしてのペトロ

マタイ16:21〜23を読んでください。ペトロの問題は、彼がイエスを守ろうとしたことではありませんでした。彼はイエスを操縦しようとしていました。彼はもはやイエスに従っておらず、自分に従えと、イエスに言っていました。

イエスは、「サタン、引き下がれ」(マタ16:23)と言われました。なぜなら、荒れ野におけるサタンのように、ペトロがキリストの使命を脅かす存在になっていたからです。

マルコ8:33は、このやり取りのさなかに、イエスが弟子たちを振り返ってご覧になったと記しています。イエスは彼らを救うためにおいでになりました。さもなければ、誘惑を受けることなど、たとえどんなにその弟子が善意にあふれていたとしても、しかも御自分の弟子の1人から誘惑されることなど決してありませんでした。

シモン・ペトロはその歩みにおいて成長していましたが、イエス御自身も含めて、物事をいまだに支配しようとしていました。その意味においてペトロは、イエスを操って、自分が思い描くメシア像のための計画を実行しようとしたもう1人の弟子ユダと、さほど違いませんでした。しかしユダと違って、ペトロは深く反省し、自ら進んで懲らしめを受け、赦されようとしました。

問2

マタイ16:24〜27を読んでください。イエスはどういう意味で、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(25節)と言われたのでしょうか。

私たちは、「手に入れたいもののためにすべてを犠牲にして、夢を追いましょう」という文化の中に生きています。しかしイエスは、正反対のことをするようにと言われます。イエスは、「あなたの夢をすべて諦め、それらを私に委ねなさい」と私たちを招かれます。ペトロと弟子たちは、真の信仰がどのようなものであるかを徐々に学びつつありました。真の信仰は、あなたが最も望むものを追求する刺激的な体験ではありません。真の信仰は、あなたが最も望むものを手放すつらい体験なのです。あなたが夢を諦めるとき、あなたは「自分の命を……失」いますが、同時にそれを得ることができます。

天からの励まし

問3

マタイ17:1〜9を読んでください。ここでどのようなことが起きていますか。イエス御自身にとっても、弟子たちにとっても、それはなぜ重要だったのですか。

「イエスは天の愛とまじわりのうちに住んでおられたが、ご自分が創造された世では孤独であった。いま天は、イエスのもとに使者たちをつかわした。それは天使たちではなくて、苦難と悲しみに耐え、地上生涯の試練にあたって救い主に同情することのできる人たちであった。モーセとエリヤは、キリストの共労者であった。彼らは人類の救いを願われるキリストと思いを一つにしていた。……み座のまわりの天使たちよりもこの人たちがえらばれ、彼らがイエスの苦難の場面について語り、天の同情の確証をもってイエスを慰めるためにやってきたのだった。世の望み、人類の一人一人の救いが、彼らの会見の主題であった」(『希望への光』892ページ、『各時代の希望』中巻194、195ページ)。

人性を取られた神の子イエスが、それなりの苦しみと失望を自ら味わったこれらの人たち〔モーセとエリヤ〕から慰めと励ましを必要とされたというのは、なんと興味深いことでしょう。ルカは、彼らがイエスに、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9:31)と記しています。「成就する」とも訳すことのできる「遂げる」という言葉に注目してください。人類の救済のためにイエスの死が必要であったというさらなる証拠です。多くのものが危機に瀕しているので、天が必要を感じて、このような励ましを送ったのもうなずけます。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネがこれまでに何を見、何を聞いてきたにしろ、彼らはさらに多くの信じる根拠を得ようとしていました。3人が最初の恐れを克服したところで雲の中から聞こえてきた声も、確かに励ましを与えたに違いありません。「イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない』」(マタ17:7)とマタイが記していることも、実に示唆に富んでいます。イエスは差し迫る苦難の中でさえ、御自分の弟子たちを慰め、励ましておられます。

イエスと神殿税

問4

マタイ17:24〜27を読んでください。どのようなことがここで起きていますか。イエスについて、この出来事は何を教えていますか。

すべてのユダヤ人は神殿税を払うように義務づけられていたものの、祭司、レビ人、ラビたちは免除されていました。それゆえ、イエスが神殿税を払ったかどうかというこの質問は、彼の働きに対する挑戦でもありました。

エレン・G・ホワイトは、この場面でペトロがキリストの絶対的権威をあかしする機会を逃したと記しています。「ペテロが、イエスは納入金を納められるだろうと集金人に答えたことによって、彼は祭司や役人たちが言いふらそうとしているイエスについてのあやまった観念を実質的に承認したのであった。……祭司たちとレビ人が、宮との関係から、納入金を免除されているのなら、イエスにとって、宮は父の家なのであるから、イエスが納入金を納められる必要はますますなかった」(『希望への光』897ページ、『各時代の希望』中巻208ページ)。

私たちは、ペトロに対するイエスの慈悲深い対応から多くを学ぶことができます。イエスは彼に恥をかかせるのではなく、彼の間違いを穏やかに説明なさいました。そのうえ、ペトロが取った態度に、とても独創的な方法で合わせました。単に税金を払う——それによって、御自分の義務を認める——のではなく、イエスはほかの場所(魚の口の中)から税金を手に入れられたのでした。

この奇跡はいつもの奇跡とは違います。一見したところ、イエスが御自身の利益のためになさったと思われる唯一のケースだからです。しかし、銀貨を手に入れることはこの奇跡の目的ではありません。そうではなく、この奇跡は、イエスが神殿に対してのみならず、すべての被造物に対して権力を持っておられることの実物説明でした。私たちは人間的な観点から見て、イエスがどのようにこの奇跡を起こすことができたと理解したらよいのでしょうか。釣り糸を垂れ、最初の魚を釣り、神殿税として払うべきぴったりの額の銀貨を見つけたとき、どのようなことがペトロの頭をよぎったか、あなたは想像できますか(イザ40:13〜17)。

さらなる研究

イエスがペトロに、最初に釣った魚の口からちょうど必要な額の銀貨を取り出させたという物語は、普通ではありません。が、学者たちの中に——これは「取るに足りない民話」だ。主張を述べるためのわざとらしい話にすぎない、と——この物語を退けようとしてきた人たちがいるというのも普通ではありません。言うまでもなく、それは不適切な解決策です(それどころか、まったく解決になっていません)。確かに、ほかの種類の奇跡(例えば、病人をいやすこと、目の不自由な人を見えるようにすること、死人を復活させること、空腹な人に食事を与えることなど)と比べると、これはまったく異なる種類の奇跡です。しかし聖書の中には、浮き上がった斧の話(王下6:2〜7)や、乾いた土の上のぬれた羊の毛やぬれた土の上の乾いた羊の毛に関する話(士師6:36〜40)もあります。ですから、魚の口から銀貨が出てきた物語は、聖書の中でまったく知られていない種類のものではありません。

比較的小さな問題を解決するために、このような驚くべき業を行ったりしないで、なぜイエスは、ペトロに単純にお金を手渡して、「これで支払いなさい」と言われなかったのでしょうか。聖書は何も述べていません。しかし、今週の研究で触れたように、この物語は神の信じがたい力、私たちにとっては驚くに当たらない力を示しています。何しろ、私たちは神の信じがたい力の証拠をいつも目にしているからです。目に見える宇宙よりはるかに小さい私たちの存在することが、神の力の驚くべきあらわれです。神がこの宇宙とそこにあるものをすべて造ることができるのであれば、1匹の魚の口の中に1枚の銀貨を入れることなど何でもありません。

異なる文脈の中で書かれていることですが、パウロの言いたいことはよくわかります。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ロマ11:33)。マタイによる福音書のこの物語も、この真理のあらわれの一つにすぎないでしょう。

*本記事は、安息日学校ガイド2016年2期『マタイによる福音書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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