忍耐して待つ
キリストを忍耐して待つことは、クリスチャンにとって重要なことです。それはまた信者と未信者を区別する大きな違いです。
アウトライン
1. 繰り返された注意(Ⅱテサ2:1、 2、 3:6)
2. 偽りの危険(Ⅱテサ2:3、 10)
3. 信者の挑戦(Ⅱテサ3:5)
4. 忍耐の要素(Iテサ5:8)
5. 再臨を待つ残りの民(黙示14 : 12)
信仰の逆説
パウロは義人の復活について教えることによって、再臨前に死ぬことに対する信者の不安を取り除こうとしました。しかしながら、テサロニケ人の再臨に対する信仰と希望を弱めることもパウロの意図ではありませんでした。彼らにとって、これは信仰の逆説でした。忠実な弟子として、彼らはよみがえりの約束によって慰められるべきでした。しかし、希望に満ちた巡礼者として、彼らはキリスト再臨のしるしを注意深く調べ、つねに再臨に備えるべきでした。
失望の中にも希望を持つイエスの昇天以後、どの時代のクリスチャンもみな再臨を待ち望みました。そして、失望を味わいました。しかし、テサロニケ人の失望はその誤った解釈のゆえに特異なものでした。1843年から1844年にかけての、初期のアドベンチストの場合もそうでした。死別した愛する者たちに再会すること、平和と繁栄の世界に生きること、永遠のいのちを受け継ぐこと、そしてとりわけキリストと共に永遠に住むことに対する彼らの願望は、私たちにもよくわかります。私たちも同じ希望を持っているので、彼らの気持ちを理解することができます。今日の私たちの必要は過去の世代の人々の必要と同じです。つまり、時のしるしに注意し、キリストの再臨に備えることです。狂信におちいって誤った考えを抱いたり、冷笑的立場をとって神のみことばを疑うようなことがあってはなりません。今回は、パウロの言葉から、キリストの再臨を待つ必要とその実際的な意味について学びます。
繰り返された注意(Ⅱテサ2:1、2、3:6)
質問1
パウロはキリスト再臨にともなうしるしについてどんな注意を与えましたか。Ⅱテサ2:1、2
テサロニケ人への第1の手紙4、5章に見られる死と再臨の遅れについてのパウロの勧告は、この教会を訪問したテモテの報告にもとづいて書かれました。しかし、この手紙において与えられた勧告も問題を解決するには至らなかったようです。このことは、テサロニケ人への第2の手紙に見られるいくつかの言葉によって明らかです。第2章に書かれているパウロの注意はその一例です。
質問2
信者の誤解を解こうとするパウロの強い態度は、テサロニケ人への第2の手紙のどんな言葉に示されていますか。Ⅱテサ3:6
テサロニケ人への第1の手紙が感謝と賞賛の言葉で満ちているのに対して、第2の手紙は勧告と命令に満ちています。あたかも、第1の手紙において信者の誤解を解くことに失敗したために、こんどはより厳しい明白な勧告に訴えているかのようです。このことは、第1 の手紙においては嘆願( I テサ5 : 1 2 ) 、 勧告( I テサ5 : 1 4 ) 命令(Iテサ5 :27)が与えられていても、第2の手紙においては、嘆願と勧告(Ⅱテサ2:1、3:12)もさることながら、命令が繰り返し与えられていることからも明らかです(Ⅱテサ3 12)。テサロニケ人への第2の手紙を注意深く読むなら、はっきりした口調の違いがあることに気づきます。
偽りの危険(Ⅱテサ2:3、10)
質問3
キリストとパウロのどんな言葉のうちに、再臨に対して誤った態度をとる危険性が強調されていますか。マタ24:4、5、11、24、Ⅱテサ2:3、10
質問4
信者が主の再臨に備えて(1)目をさまし(マル13:35)、(2)身を起こし(ルカ21 : 28) 、 (3)用意をしている(マタ24:42,44)ように勧められているのはなぜだと思いますか。
質問5
テサロニケの信者の中には、狂信的な信仰のためにどんな極端な行動をとっていた人たちがいましたか。Ⅱテサ3:10、11
今日の私たちの中には、キリスト再臨に関してあまり健全でない考えを持つ人々もいるかもしれません。しかし、テサロニケのある信者たちのように再臨を待つために仕事をやめてしまうような人はいないでしょう。しかしながら、大異変のしるしを無分別に強調する人たちがいるかもしれません。
主の先走りをしない
「悩みの時が神の民に臨もうとしている。しかし、私たちは彼らの心をたえずそのことに向けることによって、彼らが悩みの時を先取りすることがないようにすべきである。神の民のうちにふるいが起こるであろう。しかし、これは諸教会に伝えるべき現代の真理ではない。……人々がラオデキヤの状態にとどまって、なまぬるく、豊かになった、自分たちに必要なものはないと考えるとき、サタンの目的は達成される。同じように、人々がキリストの先走りをして、自分たちにゆだねられていない働きをするときにも、同じくらい確実に、サタンの目的が達成されるのである。これらの人たちは等しくつまずきの石となる」(「セレクテッド・メッセージズ』第2巻13ページ)。
質問6
私たちはキリストの再臨が自分の生きているうちにあると断言することはできません。では、再臨は自分の死後、あるいは将来のいつかあると断定できますか。使徒1:6、7、ロマ9:28、マタ24:36、42、44、50
信者の挑戦(Ⅱテサ3:5)
質問7
パウロはテサロニケ人への第1の手紙において、が与えられたどんな警告を繰り返していますか。マル13:35―37、1テサ5:6
質問8
キリスト再臨に対する正しい態度に関して、パウロは信者に何と教えていますか。Ⅱテサ3:5
現代ほど忍耐して待つことに耐えられなくなっている時代はありません。今日、世界の多くの人々が即席の満足と楽しみを求めています。現代の技術と便利さが待つことをほとんど不要のものとしています。今は、瞬時のコミュニケーション、短時間でできる旅行、インスタント食品、スピード金融、そしてスピード結婚・離婚の時代です。多くの人々は待つように訓練されていません。押しボタン時代は待つことと相いれないのです。神の命令に従って待つということは特別な霊的経験です。
質問9
「忍耐して待つ」ことはどのような生き方を示唆していますか。ルカ12:35,36、ルカ19:13、Ⅰテサ1:8―10、Ⅱテサ1:4、Ⅱテサ3:4,5
待つことは何もしないでただ静観していることではありません。
待つことは「実行する」ことを含みます(Ⅱテサ3:4)。それはいわば、主の助けを思い起こさせてくれる山を見上げながら、谷で勇敢に戦うことを意味します(詩121:1、2)。忍耐は熱意を失わせるものではなく、むしろそれを強めてくれるものです。パウロは忍耐することを熱心に勧めていますが、同時に「御霊を消してはいけない」とも教えています(Iテサ5 :19)。今日の多くの教会に見られる冷淡で無気力な形式主義は、パウロの勧めている前向きの待望の姿勢ではありません。パウロの言う「忍耐して待つ」ことは、積極的に耐えることです。それは、救いの約束と希望に動かされて、喜んで神の恵みの愛に応答し、聖霊の力によって神の目的のために全的に献身することにほかなりません。
忍耐の要素(Iテサ5:8)
質問10
忍耐して待つうえで欠かすことのできないクリスチャンの徳は何ですか。
質問11
パウロはローマ人への手紙の中で、忍耐に関係あるものとしてほかにどんな徳をあげていますか。ロマ8:24、25
三つの徳
パウロはその手紙の中で、忍耐が三つの徳によって支えられていると述べています。信仰は私たちを神に結びつけます。それは神を知るただ一つの道です。愛は信仰によって啓示されたものに私たちを応答させます。それはまた私たちに強く迫ってきます(Ⅱコリ5:14)。つまり愛は、(1)信仰を強化し、(2)肉欲を抑制し、(3)祝福を分かち与えさせます。一方、希望は確信をもって期待することであって、私たちに絶えざる喜びを与えます。希望は成就ではなく信頼です。希望の成就はあらゆる疑いを取り除いてくれます。しかし、それは証拠を重視し、すべての感情、力、計画を神の約束にゆだねます。
質問12
パウロはこれら三つの徳を何にたとえていますか。Iテサ5:8
パウロはここで二つの象徴を用いています。一つは戦いの象徴で、クリスチャンを完全に武装した兵士にたとえています。このたとえはローマ人への手紙13:12、コリント人への第2の手紙6:7、10:4でも用いられています。もう一つは三重の徳、つまり信仰と希望と愛です(ロマ5:2〜5、1コリ13 : 13、ガラ5:5、 6、’、ブ6:10〜12参照、Iペテ1 :21、 22比較)。パウロの用いているたとえは変わることがあります。たとえば、エペソ人への手紙6:16では、信仰はたてです。テサロニケ人への第1の手紙5:8では、信仰は胸当の一部です。パウロにとって重要なことは、どの武具がどの徳を表すかではなく、私たちが神によって完全に守られているということでした。
再臨を待つ残りの民(黙示14:12)
質問13
残りの民についてのヨハネの描写はどんな意味においてパウロの勧告の繰り返し・補強になっていますか。黙示14:12
啓示者ヨハネはクリスチャンの経験において忍耐の果たす役割について繰り返し勧告を与えています(黙示1:9、2:2、3、19、3:10、13:10参照)。ヨハネは神の民の忍耐のなさを叱責する一方で、彼らが忍耐を保ち、忍耐において成長していることを賞賛しています。ヨハネは再臨を待つ残りの民の第一の特徴として忍耐を強調しています。それはこの点についてパウロの勧告を支持するものです。
質問14
忍耐は何によって強められますか。ロマ5:3、ヤコ1:3
質問15
現在、全世界で進行中のどんな宗教と政治の結合による運動が、クリスチャンの忍耐強い待望の終わりが近いことを示していますか。マタ24:15〜21、28
確かなしるし
「神の律法に逆らって法王権の制度を強制する法令を布告することによって、私たちの国家〔アメリカ合衆国〕は完全に義と手を切る。プロテスタント主義がローマの権力と手を握るために深淵をこえて手をさしのべるとき、 それが深淵をこえて心霊術と手を結ぶとき、そしてこの三重の結合の影響下において私たちの国家がプロテスタントまた共和国政府としてのその憲法のあらゆる原則を拒否し、法王権の偽りと惑わしを広める道を備えるそのときこそ、サタンの目ざましい働きの時が来たこと、また終わりが近いことを知るのである。
ローマ軍の進攻が弟子たちにとって切迫したエルサレム滅亡のしるしであったように、この背信は私たちにとって、神の忍耐が限界に達したことの、……またあわれみの天使がのがれて二度と戻らないことのしるしとなるのである。そのとき、神の民は預言者たちによってヤコブの悩みの時として描写された災難と苦悩のただ中に投げ込まれるであろう」(「教会へのあかし」第5巻451ページ)。
質問16
時のしるしと預言の成就もさることながら、神への服従と奉仕を促す最も基本的なものは何ですか。ロマ8:35(ヨハ15:9比較)
より高尚な動機
「時の切迫ということがしばしば、義を求め、キリストを自分の友とすることの動機として強調されている。しかし、このことは私たちにとって主要な動機であってはならない。とのは、そこに利己心の香りがするからである。恐怖心によって正しい行いを強制するために、神の日の恐怖を前面に出す必要があるのであろうか。そうであってはならない。イエスは魅力のあるかたである。彼は愛とあわれみと同情に満ちておられる」(「サインズ・オブ・ザ・タイムズ」1887年3月17日)。
愛の欠如が再臨を遅らせている
私たちは次の二点を心にとめる必要があります。(1)私たちがキリストに仕える第一の理由は、彼に対する愛であって、再臨における報酬ではありません。(2)各時代のクリスチャンはキリストの再臨に関して失望を味わってきました。しかし、キリストご自身も、私たちが再臨に対して備えをしていないことに失望を感じておられます。これが、再臨の遅れている真の理由です。
「40年のあいだ、不信仰、不満、反逆が古代イスラエルをカナンの地から閉め出していた。同じ罪のゆえに、現代のイスラエルは天のカナンに入るのが遅れている。どちらの場合も、神の約束が破られたのではない。主の民のうちにある不信仰、世俗心、不献身、不和が、私たちをこれほど長く罪と悲しみの世にとどめているのである」(「伝道』696ページ)。
まとめ
希望の実現が遅れているといってもそれは希望が失われたことではありません。救い主にお会いするという希望は、私たちの働きに動機を与え、人生に意味と方向を与えてくれる道しるべです。クリスチャンの警戒と待望の生活は、苦しく報われないように思われることもあるかもしれません。しかし、それはほかの生き方よりも深い満足感と価値をもたらします。
*本記事は、安息日学校ガイド1991年3期『再臨に備えて生きる』からの抜粋です。