賛美と祈り(エフェソの信徒への手紙1の3~14)

目次

「天」のあらゆる霊的な祝福(エフェソ1の3)

序言の挨拶の後に、パウロはエフェソの教会への書簡を、長い祈りの言葉で始めています。この祈りは2つの部分から成り立っています。最初の部分は賛美と感謝の祈り(エフェソ1の3~14)で、第2の部分は、エフェソの教会のための祈りです(15~23節)。クリスチャンの生活は常に神への賛美で始まり、次いで自分自身と他者のための祈りへと移っていかなければなりません。この順序は重要です。神が常に最初に来なければなりません。われわれの人生における神の役割の自覚――われわれが神を必要としていること――は、われわれの存在の霊的分野に常に知らされていなければなりません。

われわれはしばしば神の御座の前に急いでやってきて、神の畏るべき御臨在も自覚しないまま、取るに足りない願いをするような過ちを犯します。聖霊はわれわれの祈りを携え、それを神に喜ばれる正しい方法で提示してくださることができるということは真実ですが、われわれの祈りの生活の中で、神を最優先させる霊的成熟さを育てることは重要です。

パウロの感謝と賛美の歌(3~14節)は、ギリシア語では区切りのない長い一つの文章です。それはあたかも聖霊が使徒を捕まえ、彼の手を導いて次から次に言葉や、句や、思想を与えて、名状し難いこと――罪深い人間のために、神の御子イエス・キリストを通して神がなされたこと――を描かせたもののようです。

初めに、パウロの頌栄は、その構成において三位一体説信奉者の頌栄となっています。ユダヤの学者が、父と子と聖霊について語るということは考えられないことです。神の唯一性を提示している聖書が、同時に神の三位一体性を啓示しているということを認めるユダヤ人は一人もいなかったことでしょう。しかしパウロの回心は徹底したものであったので、彼のユダヤ教からキリスト教への転向は、彼の神概念と彼の救いの経験の両方を含んでいました。すなわち、父と子と聖霊の三つの人格を持っておられる神についての聖書の啓示、及び、救いは神の恵みの無償の賜物であるという聖書の啓示です。エフェソの信徒への手紙の冒頭の聖句の中に、三位一体説信奉者の構成が明らかに表されています。パウロは全位格の神が、教会の形成に係わられた、と提示しています。父なる神は「天地創造の前に、……わたしたちを……キリストにおいてお選びになりました」(4節)。「わたしたちは……その血によって購われ」(7節)、神の永遠の目的が果たされる(10、11節)のはキリストにおいてです。聖霊はわれわれに安全を備え、永遠の相続権を保証します(13、14節)。

神がこの地上で、歴史の中でお働きになられたことを認めながらも、使徒は決して神の超越性を見失いませんでした。神の内在性――すなわち、地上における神の働き、及びわれわれに対する神の即時性――は、パウロにとって重要ですが、神の超越性――すなわち、神の「天」における御臨在と、宇宙の支配者としての神の役割――を犠牲にしてはいません。

同様に、イエスの人性はわれわれの救いの経験にとって重要ですが、それを強調するのあまりキリストの神性を忘れたり、それに無関心であってはなりません。「地上」と「天上」という概念は、天において支配しておられる神は、われわれの肩を叩き、われわれと共に歩き、われわれの心の中に住みたいと願っておられるお方でもあることを、常にわれわれに思い出させる聖書神学の側面です。天は神の御座であり、地は神の足台です(イザヤ66の1)。

パウロは「天の」という句をエフェソの信徒への手紙の中で5回使っています。この句の意味は何でしょうか? まずそれは、われわれの祝福の源泉となる場所です(エフェソ1の3)。神は霊的、物的なあらゆる祝福の源泉であり、通路です。この聖句でパウロは、天から与えられる霊的な祝福に対して、特に神をほめたたえています。霊的な祝福は、聖霊の介在を通して与えられる祝福で、人の内面に関係するものです。われわれは失望するでしょうか? 特別な罪は打ち勝ち難いように思えるでしょうか? 他者との関係がわれわれのクリスチャン信仰と矛盾しているでしょうか? われわれの結婚は挫折していますか? これらの問題は、いくらお金を積んでも解決できません。いかなる株式オプションもわれわれの心の奥底にある違反を癒すことはできません。しかし聖霊はおできになるし、してくださるのです。

第2に、天は、甦られた主がわれわれのために仲保の働きをするために座しておられる所です(エフェソ2の6)。「キリストはわれわれと天父の間の仲保者です。クリスチャンのために主御自身に執り成して頂くこと以上に大きな祝福を、クリスチャンは他の何に期待することができるでしょうか。今、天父の右の御座に座しておられる甦られたキリストは、大いなる癒し主です。キリストを通してのみ、罪人はありのままの姿で神の御前にぬかずくことができるのです」1

第3に、天は、キリストが座しておられ、われわれもまた座すであろう神の住まいを示しています。キリストを通して贖われた者たちを、神は何と高い場所に引き上げてくださるようにご計画なさったことでしょう! 贖われた者たちは、新しい天と新しい地において、特別な特権を持つ被造物となるのです。なぜなら神御自身が彼らと共に住み、彼らは神と共に住むからです(黙示録21の1~3)。

第4に、教会が、罪から彼らを贖うために神がなされたことについての彼らの経験を、天使たちと分かち合う機会を持つ場所となる時、「天」となるのです。

最後に、教会は、「悪の諸霊を相手に」揺るぎなく戦い、「天に」その起源を持つ戦いに勝つ時にのみ上述の特権を残らず頂くのです(エフェソ6の12)。教会はこの戦場に一人で立つのではありません。十字架の死を通して、キリストは悪魔の軍勢を打ち破り、罪とサタンに決定的な勝利をおさめ、その勝利を信者たちに与えられるのです。われわれに必要なことは、神の永遠の計画によって実現された、神の無償の賜物を受け入れることです(エフェソ3の11)。

天から流れる霊的な祝福を述べた後で、パウロは、神が信者たちに与えられた語り尽くせない富について、神への賛美に向かっています。時には、パウロは言葉を失ったようであり、また他の時には、恍惚と喜悦の高みに舞い上がっています。しかし使徒は、エフェソの聖徒とわれわれの前に描こうと願っている大きな肖像画を決して見失うことはありません。その肖像画には、神の偉大さとわれわれのような無価値な罪人に対する神の愛の崇高さが描かれているのです。

神はキリストにおいてわれわれをお選びになられた(エフェソ1の4)

パウロの賛美と感謝は、信者の日々が始まり、また終わる場所から始まっています。それは、神の家族の一員であるというわれわれの立場が与えられた理由を自覚するということです。神は「わたしたちを……祝福」し(1の3)、「わたしたちを……お選びになり」(4節)、「わたしたちを……神の子にしようと……前もってお定めにな」り(5節)、「わたしたちがたたえ」(6節)、われわれに「神の豊かな恵み」を与え(7、8節)、「秘められた計画をわたしたちに知らせ」(9節)、われわれを「神の栄光をたたえる」器となるように召された(12節)ことです。

神の主体的な選びは、偶然になされたことでも、後から考えられたことでもありません。それは「天地創造の前に」(4節)、神の御心に抱かれていたことでした。「これらの言葉は、キリストによる人間の救いは物質の創造や歴史的過程の前に存在していたのであって、創造者が後で考えたことでも、進化の偶然によるものでもないことを主張している。神の前で聖なる者、汚れのない者を生み出すことによって、神が御自身の力と愛とを表す劇場として宇宙は造られたのである」2

「神はわたしたちを……キリストにおいてお選びになりました」(4節)と述べると共に、パウロは、神の選びは、神の愛のうちにわれわれを、「御自分の前で聖なる者、汚れのない者」とするためである、と述べています。神がわれわれをお選びになられたからといって、それによってわれわれがその選びから墜ちることはないという保証とはなりません。ユダは選ばれましたが、堕落しました。イスラエルは特別な民として選ばれましたが、彼らの可能性に到達しませんでした。そこでペトロは次のように警告しています。「だから兄弟たち、召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい。これらのことを実践すれば、決して罪に陥りません」(ペトロ二 1の10)。選びの教理は、特権を指し示し、神の御品性に相応しく生きることを求めています。それは、「1度救われれば、永久に救われる」という「贅沢」を提供するものではありません。

しかし多くのクリスチャンたちが、この危険な教理の犠牲となっているのです! 聖書のどこにもこのような間違った憶測は教えられていません。事実これはクリスチャンが救いの経験を当然のことだと考えるように導くサタンの巧妙な罠であって、人生を無気力と無関心に導くものです。1度救われることは、永久に救われることを意味してはいません。そうでなければ、聖書がどうして、われわれに目を覚まし、しっかりと立ちなさいと述べ(コリント一 16の13)、「奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラテヤ5の1)、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(エフェソ6の11)、「召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努めなさい」(ペトロ二 1の10)等と警告するでしょうか。

予定と養子縁組み(エフェソ1の5、6)

イエス・キリストにおいて神がわれわれをお選びになられたというパウロの議論の直後に出てくる聖句は、教会の歴史の中で多くの論議を生み出した主題でした。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(エフェソ1の5、6)。

「前もって定めること(予定)」という言葉は、誰が救われ、誰が滅びるかについて神が既に決定しておられる、という独断的な見方を取ることによって誤った概念を生み出しました。しかしこのような教えは、聖書の極めて重要な以下の二つの真理に違反するものです。すなわち、(1)神の救いの計画は、信じるすべての者のためのものである(ヨハネ3の16)。(2)神はすべての人に選択の力を与えられた。従って各人の運命は、アダム以来、その人自身の手中に置かれている。神は神の計画を受け入れるか、拒否するかについての選択の自由な行使に介入なさらない(エゼキエル18の31、32、33の11、ペトロ二 3の9)。

それでは、何が前もって定められたのでしょうか? 答は簡単です。すなわち、キリストにあるすべての者は救われるということです。救いと永遠の命は、イエスによって神の無償の賜物としてすべての人が得られるように前もって定められました(ヨハネ3の16、エフェソ2の8、9)。しかし、「独り子を信じる者」のみが救われるのです。賜物の普遍的性質が前もって定められました。この賜物の不確定な性質は、人間の選択によって決められます。この賜物の限度――「キリストにある」――は前もって定められています。つまり、救いは「キリストにある」という円の内側で、手に入れることができる、ということです。神はこの救いの円――「キリストにある」――を天地創造の前に描かれました。この円の中に誰が入り留まるかは、各人の選択に委ねられているのです。

何のために前もって定められたのでしょうか? 使徒は彼の読者にとって、そしてわれわれにとっても、素晴らしい意味をもたらす言葉を付け加えています。パウロは言います。神は、われわれを選び、「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェソ1の5)と。

パウロの時代ローマには、養子縁組みのための法律が備えられていました。息子や娘として養子縁組みされた人たちは、遺産と市民権を含む、実の子供たちが持っているすべての特権を持っていました。事実、この法律の下で、幾つかの家庭が彼らの奴隷を養子にして、彼らに自由と遺産と市民権を与えるということは、決して珍しいことではありませんでした。使徒が、サタンによって罪の奴隷になっている人たちに書き送った時、彼は恐らくこのことを念頭に置いていたことでしょう。このような男女がイエスを受け入れる時、彼らはまぎれもなく神の家族の一員となるのです。罪からの自由が彼らのものとなります。神がなされたすべての約束の相続権は、彼らのものとなります。天の市民権は、彼らのものとなるのです。

赦しと贖い(エフェソ1の7、8)

神の家族に養子縁組みされることによって、われわれは神の家族の一員となります。われわれはもはや孤児でも、放蕩者でもありません。われわれを孤児とし、放蕩者としたのは、われわれが自ら選んで家を後にし、罪の生活という遠い所へ行ったからでした。こうしてわれわれは、反逆者となり、天父から離れてしまったのです。聖書はわれわれの罪深い姿を次のように鮮やかに描いています。「お前たちの悪が 神とお前たちとの間を隔てお前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(イザヤ59の2)。

神は罪からわれわれを贖い、われわれを家に連れて帰り、われわれを神の子供たちとして養子縁組みをしてくださいました。われわれの罪は赦され、神は「すべての罪を海の深みに投げ込まれ」ました(ミカ7の19)。しかし何を根拠にしてこの赦しと贖いが成し遂げられたのでしょうか? これに対するパウロの答は実に明白です。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです」(エフェソ1の7)。この聖句は、贖いと赦しについて三つの点を明らかにしています。

第1に、贖いと赦しは、キリストによってのみ可能であるということです。好むと、好まないとにかかわらず、キリストから離れては贖いの計画は存在しない、という事実に誰でも直面しなければなりません。ある人たちはこのような言葉を、高慢か偏屈か、その両者の言葉だと呼ぶかもしれません。パウロの時代、ギリシア人たちは、それを「愚かなもの」と言い、ユダヤ人たちは「つまずかせるもの」と考えました(コリント一 1の23)。しかし、信じた者たちは、それを救いを与える「神の力」とみなしました(19、24節)。

こと罪に関しては、基本的問題は、われわれは無力であるということです。われわれは、われわれ自身の良い業の功績によって、救いを勝ち取ることはできません。罪は健康上の問題でも、職業的害悪でも、環境的錯覚でも、また道徳的失敗でさえもありません。罪は基本的には、神に対する反逆であり、罪の問題に対する解決は、神のみがお与えになることができるのです。神はキリストによって、そのことをなさいました。

第2に、贖いと赦しは、「その血によって」のみ可能であるということです。聖書の罪の赦しの教理は、「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」(ヘブライ9の22)という、どんなにしても切り抜けられない原則の上に置かれています。洗礼者ヨハネは、キリストがどのようなお方であるかを理解して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1の29)と言いました。キリスト御自身は、罪人の贖いのために、身代金として御自身の命を献げることを自覚しておられました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10の45)。ペトロは、「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(ペトロ一 1の18、19)とはっきりと語りました。

これらの聖句やその他の聖句によって表明されていることは、単純な真理であって、それは、われわれは善良な人間イエスによって、また偉大なる教師イエスによって、あるいは完全な模範者イエスによって救われるのではないということです。われわれはイエスの死によって救われるのです。イエスはわれわれの罪のために死んだのです。イエスはわれわれに代わって死なれたのです(ローマ5の6~8)。このことをわれわれが忘れないために、イエスは最後の晩餐のときに、イエスの血は、「罪が赦されるように、多くの人のために流される」(マタイ26の28)ものである、と言われました。

この流された血は、救いを経験し理解するために重要で不可欠なものです。一つ明白なことは、流された血は、罪について語るということです。罪は現実のものです。罪は高くつくものです。罪はあまりにも激しくまた執念深くわれわれをつかんでいるので、罪の赦しと、罪の力と罪責からの自由は、「キリストの尊い血」(ペトロ一 1の19)を流すことなしには得られないのです。罪についてのこの真理は、繰り返し何度も述べる必要があります。なぜならば、われわれは罪の現実を否定し、あるいはそれに対して無関心である世界に住んでいるからです。ヒンズーの哲学者である、ビベカナンダはかつて次のように述べました。「人間を罪人だと呼ぶことは罪である。それは人間性への永続的な侮辱である」と。3

今日の多くの人々――持ち物によって人生の価値を決める物質中心主義者から、自己実現の中に人生の目的を捉える哲学的人道主義者に至るまで――が、このような考えを持つのはもっともなことです。しかし十字架においてはそうではありません。十字架においてわれわれは、「罪が赦されるように、多くの人のために流される」(マタイ26の28)その血によってのみ打ち砕くことができる、罪の横暴な性質と出会うのです。

イエスはわれわれの罪のために死なれたという事実を決して忘れたり、それに対して無関心であったりしないようにしましょう。イエスの死がなければ、罪の赦しはあり得ないのです。イエスを十字架に追いやったのは、われわれの罪なのです。エレン・ホワイトは、次のように述べています。「人の罪がキリストの上に重くのしかかり、罪に対する神の怒りの意識がキリストの生命をすりへらしていた」4。「当然キリストが受けられるべきとり扱いをわれわれが受けられるように、キリストはわれわれが当然受けるべきとり扱いを受けられた。われわれのものではなかったキリストの義によってわれわれが義とされるように、キリストはご自分のものではなかったわれわれの罪の宣告を受けられた。キリストのものであるいのちをわれわれが受けられるように、キリストはわれわれのものである死を受けられた。 『その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ』(イザヤ書五三ノ五)」5

第3に、贖いと赦しは、「神の豊かな恵みによるもの」(エフェソ1の7)です。パウロはこの書簡の中で「豊かな」という言葉を6回使用しています(1の7、18、2の4、7、3の8〔新共同訳では使われていない――訳者注〕、16)。われわれは多くの面で貧しく乏しいかもしれませんが、神の恵みは豊かで富んでいます。われわれが神の恵みを受けていなければ、この世の富が一体何の役に立つでしょうか? 恵みは、エフェソの信徒への手紙の中で重要な概念です。恵みという言葉は、われわれが救いの計画を考えたり、またそれを実行することも全くできないという点を強調するときに、度々現れます。神の恵みがなければ、われわれは罪の中に滅び、われわれの存在自体が無意味で目的のないものとなります。

神の御心の秘められた計画(エフェソ1の9、10)

パウロの賛美の祈りは、各自の選び、予定、養子縁組み、贖い、赦しから、宇宙的な側面へと移行します。「秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(エフェソ1の9、10)。

この聖句は、パウロが先ほど述べた祝福を経験した人々のみが、彼が今述べていることの意義を完全に把握できるような霊的な高みにわれわれを導いています。彼は十字架の出来事と神の贖いの業とを宇宙的な視野に置いていて、この主題に度々帰っています。パウロの理解は、罪が、宇宙にかつて存在していた調和を破壊したので、この破壊が完全に根絶されない限り、神の永遠の目的はその輝かしい実現には至らないというものです。彼はこの過程を、神が「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」(10節)ことだと呼びました。

パウロの理解の深さは驚くべきもので、彼が用いている言葉によってそれがはっきりとわかります。彼はこの過程を「秘められた計画(神秘)」と呼んでいて、この言葉をその神的性質を強調するために幾度か用いています(1の9、3の3、9、6の19)。この神秘とは何でしょうか?

この言葉のギリシア語は、「ムステリオン」で、その古典的な用途は次の通りです。「隠されているもの、または秘密のもので、これは、入会した者のみがあずかることができるギリシアの神秘宗教の神聖な儀式を指す……ために用いられる。(しかし、この言葉の新約聖書の用法は、)秘密のお方、または啓示されたものでも、神的な要素をも備えているものであり、かつ聖霊を通して神によって人に知らされる必要があるものを意味する」6

パウロにとっては、この神秘の内容と目的は共に、神の啓示がなければ人間の心には不可解なものです(ガラテヤ1の11、12)。パウロは、「このような方法によって、彼が福音の大真理を認めて理解したのは、神の力の特別な現れによるものであることを示そうとした。パウロがこのように厳粛で積極的な方法で……警告と勧告を発したのは、神ご自身から受けた指示によるものであった」7

従って、パウロの感覚によれば、神秘とは隠されたものとか、秘められたものとか、理解することが不可能なものなどではありません。それは、過去においては理解できなかったが、今や啓示されたものなのです。そしてその啓示を受け入れない人々にとっては、それは依然として神秘なままであるかもしれません。

ところでパウロが語っているこの秘められた計画とは何でしょうか? エフェソの信徒への手紙第3章は、この計画の一部がユダヤ人と異邦人を一つの交わりの中に入れ、一つの新しい共同体、すなわち、壁のない一つの教会を造るという神の御計画であることを明らかにしています。しかしこれとて、「前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(エフェソ1の9、10)という神の更に大きな御計画のほんの前触れに過ぎません。

パウロが論じていることは、この「一つにまとめられる」神秘は、「時が満ちるに及んで救いの業が完成され」るときに実現されます。丁度「時が満ちると」、神はその御子を遣わして救いの神秘を明らかになさった(ガラテヤ4の4)と同じように、この時代の終わりに、時が満ちると、神は、天と地に宇宙的な調和を回復なさるのです。

「時が満ちるに及んで救いの業が完成され」という句は、クリスチャンの歴史概念にとって重要な意味を持っています。「業」に当るギリシア語は「オイコノミア」でこれは、「計画」(英語――RSV、[日本語――口語訳――訳者註])、「実行」(英語――NASB、[日本語――新改訳――訳者註])とも訳されています。神はこの宇宙に対して「実行すべき御計画」を持っておられるのです。歴史は神の御手の中にあります。神は計画し、実行し、調整し、処理し、キリストが再びお帰りになられるこの時代の終わりに「キリストにおいて」最高潮に達する仕上げに向かってすべてのものを備えられるのです。

これが、固有の無意味性を伴う歴史の循環的概念が、聖書の世界観とは縁遠いものである理由です。聖書は歴史を直線的で、意味を有し、目的を持ち、指向性のあるものとしてとらえています。歴史は容赦なくその最終に向かって進行しています。創造から回復まで、神の御計画は歴史を支配し、神こそ歴史の神であり、歴史は神のみ業であることを証ししています。

従ってキリストの受難、十字架刑、復活、昇天、そして再臨は、クリスチャンの歴史観の積極的な道標です。この歴史は、神の実行すべき御計画の頂点に向かって進行しています。その時は、「キリストにおいて」(エフェソ1の11)神の永遠の御計画を神が終わらせる時、すなわち、キリストの再臨の時です。それは神が、「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」時なのです。

ある人々はこの聖句の中に、「普遍的救済論」――すなわち、誰一人失われず、すべてのものが救われるという教え――があると考えます。これほど真理から遠く離れているものはありません。聖書の歴史の頂点は、現代と、現代が表しているすべてのものと対決なさるキリストがお帰りになられる時です。恵みの良き知らせをもたらしたお方が、最後の日に、堕落し、反逆した秩序に対する裁きの宣告者としてお立ちになるでしょう。善と悪の歴史の最高潮の瞬間は、神に向かって表されたすべての敵意と反逆に対して神の怒りが爆発する様を目撃するでしょう。これは、罪と罪人と彼らの総指揮官であるサタンが追放される瞬間です(ペトロ二 3の10~13)。

天と地に神の調和が回復され、万物が頭なるキリストの下に置かれ、「調和と喜びのただ一つの脈搏が、広大な大宇宙に脈打つ」8のです。宇宙が一つにまとめられるこの神の実行すべき御計画を、パウロは、神の御心によって決められた「秘められた計画」(エフェソ1の9)だ、と述べているのです。

相続(エフェソ1の11、12)

パウロは更に、信者たちについて、「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです」(エフェソ1の11、12)と付け加えています。ニュー・イングリッシュ・バイブルは、「キリストにおいて……われわれが受けるべき嗣業を受けた」と訳しています。旧約聖書は「嗣業」という言葉をイスラエルに関連づけていますが(詩編33の12、106の40、列王記上8の51等)、パウロはキリストを信じるすべての人々に適用しています。キリストにおいてユダヤ人も異邦人も共に、聖なる者(エフェソ1の1)、相続者(11節)、「神のもの」(14節)となったのです。神の御目的を果たす至上権に誰が異議を唱えるでしょうか? 従ってパウロが強調していることは、ユダヤ人も異邦人も、一つの神一つの主の、一つの民一つの嗣業となる、ということです。

神のこの御目的には二つの側面がありました。一つは神の側面で、それは、神がキリストを通して実現されたということ。もう一つはわれわれの側面で、それには、キリストに信頼して、真理の言葉を聞き受け入れること、及び、救いをもたらす福音を信じることが含まれています(13節)。そこでわれわれが相続者となるということは、自動的になるものではなく、神がイエス・キリストを通してなされたこととわれわれとの関係、という条件によるのです。われわれがキリストを受け入れ、キリストのうちに住むとき、永遠の命を得ているのであり(ヨハネ一 5の11~13)、われわれは、「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人」となるのです(ローマ8の17)。

聖霊の証印(エフェソ1の13、14)

最後に、使徒は彼の賛美の祈りを締めくくるに当って、聖霊の賜物について簡潔に述べています。三位一体の神の救いの様相が、再びわれわれの注意を惹いています。第1に、神がわれわれの贖いの実行計画を生み出し、前もって定め、作成なさいました。すなわち、罪の赦し、及び、宇宙の調和をもたらす歴史の究極の目標です。第2に、御子なる神が御自身の血を流すことにより、また、救いの福音が、御子を受け入れるすべての者に無償で与えられることによって、この神の目的を実現なさいました。第3に、聖霊なる神が、この永遠の相続の現実に証印を押し、保証なさいました。

証印は所有権と信憑性のしるしです。牧場主は自分たちが所有しているしるしに自分たちの牛に証印を押します。文書にはその信憑性を保証するために証印を押します。同様に、神は、われわれが神のものである証印として、われわれの内に住まわせるために聖霊をお与えになるのです(ローマ8の14~17、コリント二 1の22)。われわれは神に属する者であり、われわれは自分自身のものではないのです(コリント一 6の19)。

更に、この書簡は、聖霊を、神がイエス・キリストにおいて始められたことを、われわれの内に完成してくださることの神の保証である、と呼んでいます。「保証」という言葉のギリシア語は、「保証金」、「誓約」、「頭金」とも訳すことができます。聖霊を通して神は、「神の栄光をたたえる」ために、(エフェソ1の14)ユダヤ人にも異邦人にも等しくなされた神のすべての約束を実現なさるという保証金を払い、誓約をなさったのです。それどころか、われわれは聖霊の賜物と実を今頂くことができるのです(4の7~13、ガラテヤ5の22、23)。われわれの今持つことができる特権は、神の永遠の御計画のうちに豊かに蓄えられている語り尽くせない富を、最初に前もって味わうことができるということです。

かくしてパウロの賛美の祈りは終わります。これらの聖句(エフェソ1の13、14)の中で、パウロは3回にわたり、われわれがいかにして神の民となるか――神の御計画によって――について描いています。彼はまた3回にわたって、われわれがなぜ神の民となったか――神の栄光をたたえるために――についてわれわれに告げています。「いかに」は、われわれの召命であり、「なぜ」は、われわれの義務です。

参考文献

1         Ellen G.White, Mind, Character and Personality (Nashville, TN: Southern Pub. Assn.,1977), vol,. 2,p.706.

2         The Interpreter’s Bible (Nshville: Abingdon Press, 1981), exegesis on Ephesians 1:4.

3         S.Vivekananda, Speeches and Writings (Msdras: G.A.Natesan,n.d.) quoted in John R.W.Stott, The Cross of Christ (Bombay: Gospel Literature Service, 1986), p.162.

4         エレン・G・ホワイト著『各時代の希望』下巻、178頁

5         同 上巻、11頁

6         The Illustrated Bible Dictionary(Wheaton: Tyndale, 1980), vol.2.p.1041.

7         エレン・G・ホワイト著『患難から栄光へ』下巻、70頁

8         エレン・G・ホワイト著『各時代の大争闘』下巻、467頁。

この記事は、ジョン・M・ファウラー(山地明・訳)『エフェソの信徒への手紙』からの抜粋です。

ジョン・M・ファウラー
インドで生まれ、10代の頃に預言の声ラジオ放送を通してアドベンチストとなる。スパイサー・カレッジで神学学士を取得後、32年間、インドで牧師、教師、教会行政、編集に携わる。1990年、『ミニストリー』誌副編集長として世界総会に招聘される。1995年より世界総会教育部副部長。ニューヨーク・シラキュース大学よりジャーナリズム修士号、アンドリュース大学より博士号を授与される。教会誌および専門誌に300以上の記事を寄稿。『キリストとサタンの宇宙的争闘』ほか、数冊の著書がある。妻メリーとの間に2人の子供がいる。

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