神の秘められた計画(エフェソの信徒への手紙3章)

目次

秘められた計画の内容(エフェソ3の1~7)

エフェソの信徒への手紙第3章は、パウロの自己描写で始まっています。すなわち、「キリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロ」です。二つの点に注意を要します。パウロは自分自身を「ネロの囚人」として紹介することもできました。実際にその通りでしたから。しかし使徒は、現在の苦境を超えてより高く、より高貴な真実をつかんでいます。真のクリスチャンはそのようにします。地はその人を縛りません。その人は常に天を見上げます。そこでパウロは、「キリスト・イエスの囚人」(3の1)と自らを称します。

第2点は、パウロが自らを、「あなたがた異邦人のために……囚人となっている」と述べている点です。文字どおりそれは真実です。なぜならば、彼に対する告訴の一つは、彼がエフェソ出身の異邦人をエルサレムの神殿の境内に連れて入ったということでしたから。パウロは彼の投獄の理由を「こういうわけで」という言葉で述べています。その理由は、エフェソ第2章に遡って見いだされます。彼はそこにおいて、イエスにあってはユダヤ人も異邦人もないと主張しています。一致への招きは、しばしば感情を害させます。パウロの時代はそうでしたし、われわれの時代でもそうです。しかしクリスチャンの原則に立つには勇気が必要で、使徒は壁を壊す原則に自分の命を賭けたのでした。

ローマの囚人は、今や、新しい創造の福音と改変された関係を、「秘められた計画」と銘打って、提示しています。第3章は、この秘められた計画の内容、秘められた計画の目的、及びこの秘められた計画に対する感謝について述べています。

既に述べたように、新約聖書は「秘められた計画」という言葉を、「隠されたもの」とか「隠し立てする」という意味では用いていません。パウロにとっては、秘められた計画とは、過去においてわれわれは知らなかったが、神がわれわれに啓示してくださった事柄のことです。この秘められた計画の内容と目的は、神の啓示と助けがなければ人間には理解できない事柄です。パウロは、神の秘められた計画を、キリストによる神の啓示と同一視しています(コロサイ2の2、 エフェソ1の9)。

この秘められた計画のもう一つの特徴は、キリスト来臨以前に住んでいた世代の人々には、それが十分には知らされていなかったということです(エフェソ3の5)。神は、キリストの御生涯において、それを完全に示すことをお選びになりました。パウロはこの啓示を受けた人でした。エフェソの信徒への手紙は、この秘められた計画を明瞭に理解する助けとして四つの方法を示しています。

第1に、キリストにあるこの秘められた計画の啓示は、神の主権的な行為です。神は、「秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです」(エフェソ1の9)。いかなる人間といえども、この贖罪の計画を考えつくことはできませんでした。ましてそれを実行することなど不可能なことでした。しかし、神はキリストを通してこの計画を啓示なさり、キリストを通して、「キリストのもとに一つにまとめられるのです」(1の10)。

第2に、使徒は、一つにするこの秘められた計画を、神の恵みと結びつけています(3の2)。ここにおいても再び、人間の無力が際立っています。パウロの前後の学者たちは、一致について書きましたが、それは通常単独の集団内における一致で、しばしば他の集団とは対立していました。いかなるギリシア哲学者も、ローマ詩人も、ユダヤ教のラビも、ヒンズー教の賢者も、仏教の僧侶も、異なる人々の集団――自由な身分の人と奴隷、ギリシア人と未開の人、ユダヤ人と異邦人、貴族と不可触賤民――の一致について書いたことはありませんでした。しかし、パウロが神の秘められた計画と呼んでいる一致についての聖書の概念は、十字架上のイエス・キリストを通して神が啓示された結果です。隔ての壁を打ち破り、すべての人々に同じように赦しと和解とを与えるためには、十字架の神の行為が必要なのです。

戦時中のお話しですが、幾人かのフランスの兵士たちが、戦死した戦友の遺体を埋葬するために運んでいました。彼らが墓園を持っている地域の司祭を訪ねた時は、既に夜も遅くなっていました。司祭は遺体を埋葬してあげたいと思いましたが、その前にまず尋ねたいことがありました。「この方はローマカトリックの信者でしたか?」この墓園にはローマカトリックの信者しか埋葬することができませんでした。

「われわれは知りません」と兵士たちは答えました。

「ごめんなさい」と司祭は謝りました。「わたしはこの方をこの墓園に埋葬することはできません」。がっかりした兵士たちは、墓園の外の墓に穴を掘り、戦友を埋葬して兵舎に帰って行きました。翌朝、兵士たちはうまく埋葬できたかを確かめるために、その場所に帰って行きましたが、どうしても戦友の墓の場所を特定することができませんでした。彼らは懸命に探しましたが、無駄でした。

ちょうどその時、あの司祭が教会から出てきて、兵士たちに告げたのです。「一晩中、わたしは埋葬を拒否したことを後悔し、重荷に思っていました。規則は、カトリック教徒でない者は、この墓園に埋葬してはならないとありますが、垣根を動かしてはならないとは書かれていません。そこでわたしは、勇敢な兵士の墓を中に入れるために垣根を動かしたのです」。キリストの霊が支配する所では、中に入れ込むために垣根が動かされなければならないのです。

第3に、パウロは、この秘められた計画が彼に啓示されたのだ、と言っています。使徒は、彼が恵みによって救いの真理を発見したのだ、とは1度も主張してはいません。また、彼が打ち破られた壁の真理を発見したとも言ったことはありません。和解の水平的、垂直的側面を持つこの真理は、ダマスコの途上における啓示として彼に与えられました(使徒言行録9の1~15)。その経験以来、彼は異邦人への使徒として、キリストが打ち立てられた世界的な交わりの一部として異邦人を招くという彼の召命を、パウロは1度も疑ったことはありませんでした。

第4に、この秘められた計画についてのパウロの理解は、十全かつ完全であったので、彼はこの計画の宣教のために彼の全生涯を捧げました。使徒に関する限り、神の新しい創造の中に異邦人を含むことは、既に無条件に完成したものでした。神の贖いの恵みが、「異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる」(エフェソ3の6)ことを可能にしたのです。かつては外国人であり、寄留者であり、希望を持たず、神を知らずに生きていた人々が、今や、感謝すべきことに神の恵みにより、われわれと一緒に受け継ぐ者、同じ体の一員、同じ希望を分ち持つ者となったのです。イエスの福音は、さまざまな人々の集団を区別しません。福音は、新しい人間の新しい創造だけを認識するのです。

福音以外に、分裂した人類の問題に対する解答は存在しません。歴史は、一致をもたらそうとした人間の多くの試みを記録しています。ギリシア人は、「永久循環」や普遍的心という言葉で語りました。ローマ人は、律法、言語、文明に向かいました。マルクスは、無階層的経済を計画しました。ニーチェは、彼の超人を産み出しました。ヒンズー教徒は、輪廻の宿命を持っています。しかしこれらのいずれも、またその他の試みも、神と人間、人間と人間の間の不一致の根源である、罪を解決することはできませんでした。聖書の啓示のみが、壁を破り、全人類が兄弟の食卓につくことができる交わりを創造する解決策を持っているのです。この解決策こそイエス・キリストの福音です。この福音――この秘められた計画――について、パウロは自分自身をその僕、管理者、仕える者と考えました(7節)。

秘められた計画の目的(エフェソ3の8~13)

神がこの秘められた計画を彼に啓示されたと言うことによって、パウロは高慢になったり、自己主張したりはしませんでした。事実使徒の側では、なぜ神がこの働きに、そもそも「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者」(エフェソ3の8)である彼を、お召しになられたのかについて、不思議に思う要素もありました。なぜ神は、無償の恵みを伝えさせるために、律法主義者を選び、キリスト教最大の擁護者とならせるために、初代教会に反対する「ゲシュタポ」の手先を選び、異邦人の使徒とならせるために、ファリサイ派の中のファリサイ派の人を選ばれたのでしょうか? 福音の働きへの召命は、常に不思議なものです。この働きの成功は、召命の源泉と目的とを決して忘れないことにかかっています。

この秘められた計画の目的は何だったのでしょうか?パウロは三つの目的を挙げています。

第1の目的は、新しい人間の創造です(2の15)。ユダヤ人と異邦人を一つにすることによって、キリストの体である教会と呼ばれる新しい交わりが出来上がりました(1の23)。キリストを通してすべての者が、この体の一部となることができます。教会それ自体は、「キリストの計り知れない富」(3の8)を聞き、受け入れた信者たちの交わりです。

キリストの富は、隠されているとか、理解を超えているとの意味ではなく、計り知れない富です。それが豊かであり、人間の計算を越えたものであり、無尽蔵であるので、「測り知れない」のです。キリストの愛、恵み、憐れみ、赦し、力、義認、聖化、――その他多くのもの――は皆、人間の想像力が考え、計画し、願望できることを超えたものです。事実、キリストは計り知れない富を所有し、それらをもってわれわれを力づけられるばかりではなく、キリスト御自身がわれわれの富であり、キリストのうちにわれわれの想像を超えた豊かさをわれわれは見るのです。

計り知れないキリストの富の最も重要な要素は、われわれが救われるために、われわれに代わってキリストが死なれたこと、及び、われわれが救われたので、お互いに一つとなり、神と一つになることができるということだと思います。

キリストによって啓示された秘められた計画の第2の目的は、全宇宙に対する神の御名と御品性の擁護です。その中に隔ての壁がない信仰の共同体としての教会は、分裂した人類に対し福音がなすことができることを示す、天の展示物です。教会は宇宙に対する神の力(1の19)と神の恵み(2の7)及び、「神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿」って、(3の11)分裂させるサタンの勢力を打ち破った神の「知恵」の展示物なのです。「天上の支配や権威」が、「いろいろの働きをする神の知恵」が「キリスト・イエスによって実現された」事柄を知るようになるのは、神の新しい創造である教会を通してなのです(3の10、11)。

「われわれの主は、御自身の教会が、キリストのうちに見られる富と力を世界に反映するようにと計画された。われわれが神の恵み深い賜物を絶えず受け、それを与えることによって、神の愛と慈悲を世界に示すのである。……われわれはキリストの神秘な体の一員である。キリストが体のすべての器官を統御する頭である。イエス御自身が、無限の憐れみによって、人間の心に働きかけ、天使たちが驚異と喜びをもって見つめるほど、驚くべき霊的変化をお与えになるのである」1

知性を持つすべての創造された者――堕落した者、堕落しなかった者もすべてを意味する「支配や権威」が、神の和解の計画の結実に関心を持っている、と使徒は述べています。ペトロもパウロに同意しています。神の愛と知恵と恵みによって完成された事柄――サタンの敗北と人類の救済――について描写するに当り、ペトロは、これらの事柄は「天使たちも見て確かめたいと願っている」(ペトロ一 1の12)ものだ、と記しています。「われわれの小さな世界は、宇宙の教科書である。神のすばらしい恵みの目的、すなわちあがないの愛の奥義は、 『御使いたちも、うかがい見たいと願っている』テーマであって、それは永遠にわたって彼らの研究となるであろう」2

それにしてもなぜこれがサタンや彼の仲間たちの関心の的となっているのでしょうか? その答は、失われた子らを探し求める愛の神についての聖書の描写を理解するに当って、その中心となっている、大争闘の主題の中に見いだされる筈です。ルシファーが神に対して反逆し、彼の使いと共に天から落とされた時(黙示録12の7~9)、主要な争点は、神の律法と愛と義の中に表された神の御品性でした。

天でも地上でもサタンの告訴は、神の律法が専制的で守ることのできないものであり、神の愛は正義と矛盾するものである、という内容のものでした。天の御使いたちの3分の1を味方にし、アダムとエバの不服従によって――彼らを通して、人類の不服従によって――サタンは勝利をおさめたかのようでした。エデンにおける悲劇以降、サタンの主な働きは、人類を罪の束縛に閉じ込めておき、神の律法は守ることができないもので、神は愛であると同時に義ではあり得ない、という非難を永久のものとすることでした。正義は死を要求します。神は正義でありながら、同時にいかにして罪人を赦すことができるでしょうか?

宇宙大のサタンの挑戦は、天地創造の以前から神の御心の中にあった贖いの計画に、その適切な解答が見いだされたのです (エフェソ1の4、3の9)。「キリストのあがないの働きによって神の統治の正しいことが証明される。全能者は愛の神として知らされる。サタンの非難は反ばくされ、その性格がばくろされる。反逆はふたたび起こることができない。罪は二度とこの宇宙にはいることができない。永遠にわたって、だれも背信の心配がない。愛の自己犠牲によって、天と地の住民は決してきれることのないきずなで創造主にむすびつけられる」3

この「決してきれることのないきずな」は、サタンとその使いに対する非難として存在しています。サタンは十字架で死のとげを経験しました。彼は和合して、勝利をおさめるキリストの体が、人間を破滅に導く彼の邪悪な計画に対してなすことができることを見て、身震いします。事実、教会を通して表される「キリストの計り知れない富」は、宇宙における悪の勢力に対する告発として立つのです。

神の働きのこの宇宙的な展示物に参加する者として、われわれは特権と共に責任をも有しています。われわれの特権は、新しい創造の交わりに忠実であることであり、われわれの責任は、悪魔に「抵抗する」ことです(ペトロ一 5の9)。更に、神の和解の永遠の目的を、われわれの交わりと行動において実現させることです。

第3に、福音の秘められた計画の目的は、戸を大きく開いて、われわれが大胆に神に近づくことができるようにさせることです(エフェソ3の12)。堕落以前、アダムとエバは神と直接自由に話すことができました。罪によって彼らは神に大胆に近づくことができなくなりました。しかし、今や、贖いの計画を通して人類は、新しい立場、親密な関係に入ったのです。たとえ司祭や聖者や儀式などの仲介者がいなくても、大胆に、確信を持って、直接神に近づくことができるようになったのです。十字架によって、神に近づく道が開かれたのです。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4の16)。

秘められた計画に対する感謝(エフェソ3の13~21)

パウロはここで、神の秘められた計画についての研究の最後の部分に入ります。この大いなる啓示に対する神への感謝の祈りです。彼は神の偉大さと慈愛を認め、祈っています。これは贖われたすべての者たちの祈りでもあるべきです。「こういうわけで」とパウロは言います(エフェソ3の14)。すなわち、赦し、和解、一致をもたらした福音のゆえにです。人をひざまずかせるに足る十分な理由です。それがパウロの姿勢でした。へりくだり服従と感謝の念で、パウロは新しい家族を創造された天父と御子に、感謝の祈りをささげています。

この家族とは何でしょうか? その家族には名前があります。イエス・キリストという名前です(14、15節)。それはすべての者を包含している名前です。天にいるすべての者、及びこの地上の贖われたすべての者が、救い主の尊い御名を担うこの家族を構成しています。クリスチャン家族は、従って、イエス・キリストを主また救い主と認める宇宙的な家族なのです。その日はやって来ます。そして確かにまもなくやって来ます。その日には全宇宙が、堕落天使と悔い改めない罪人たちを含む創造されたすべての者たちが、この御名の崇高さを認めるのです。これがフィリピの信徒への手紙のパウロの結論でした。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」(フィリピ2の9~11)。

キリストの主権を全宇宙が認めること――これがキリストとサタンの大争闘のしめくくりとなるのですが――こそ、福音の秘められた計画の最終目的なのです。使徒は、神がわれわれの救いのために実現してくださったことに対し感謝し、その感謝を祈りに託して言い表わしているのです(エフェソ3の14~21)。

第1に、パウロは、「内なる人」を強めてくださるように、と祈っています(16節)。神の民の共同体の力は、彼らの生活と証しの一致の中に見られるものであって、この新しい関係の福音における重要部分です。それと同じように重要なことは、信者一人ひとりの内なる人の力です。ギリシア人にとって「内なる人」とは、理性、良心、意志を指していました。パウロにとって内なる人とは、その人の人格の中心に存在するもので、それは重大な決断の場であり、勝敗を決める魂の決定的な戦いの場です。その内なる座を占める者がその人を統御することを、パウロは知っています。そこでパウロは、キリストが「信仰によってあなたがたの心の内に」住むようにと祈っているのです(17節)。「住む」という言葉のギリシア語は「カトイケオー」で、「永久に住みつく」という意味です。われわれは客としてではなく、われわれの人生の永久的な一部分としてキリストを必要としています。キリストはわれわれの人生を統御する力――導き、勧告し、慰める――となってくださるのです。

第2に、使徒は、秘められた計画のあらゆる側面を、あまさず理解させてくださるようにと祈っています。それはキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解させてくださるようにとの祈りです(18、19節)。このような理解は、孤独の国で一人だけの旅によって得られるものではありません。それは「すべての聖なる者たちと共に」獲得できるものです。個人の祈りや学びや瞑想は重要で、決して過小評価されてはなりません。しかし、神を主要な関心事とする人は、孤独な瞑想者の人生を送ることを選びません。むしろそのような人は、他の聖徒たちと一つになることを求め、彼らと共に神の愛を祝い、神の御言葉からの洞察を互いに分かち合い、共に祈り、礼拝するのです。これが「神の満ちあふれる豊かさ」を理解し、それを生きる一つの確かな道です。

このような知識は、人間の一生の仕事だけでは得られないものです。それを得るには永遠にわたる学びが必要です。わたしの妻とわたしは結婚して44年になります。われわれは互いに手に手を取って、人生の喜びも悲しみも、敗北も勝利も、葛藤も平静も共に進んで来ました。しかし2人共、互いに知るべきことをすべて知っていると、言うことはできません。相手が考えていることを知っているとも主張できません。親密な愛の旅路の浮き沈みを互いに予言することもできません。そうであれば神の愛を知り、感謝するには更にどれほどの時間が必要なことでしょう!

「贖罪問題は、天使たちも研究したいと望んでいるもので、それは永遠にわたってあがなわれた者の科学であり歌であります。ですから贖罪の問題は今でも熱心に研究する価値があるのではないでしょうか。……こうして天の事柄を考えるとき、私どもの信仰と愛はますます強くなり、私どもの祈りはいよいよ神に受け入れられるものとなります。というわけは、もっと信仰と愛とが祈りのうちに織り込まれるようになるからであります。その祈りは理知的な祈りとなり、熱誠なものとなります。そしてイエスをいよいよあつく信じ、日ごとにかれによって神にきたる者をすべて全く救いたもうイエスの能力を身をもって経験するようになります」4

クリスチャンの共同体には、このような躍動的な可能性が存在しているのです。来るべき未来の御国においてばかりではなく、今もです。われわれの神は、「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる」お方なのです(20 節)。神の愛は無限です。神の恵みは計り知れません。神の約束は尊く豊かです。神は不可能を可能となさるお方です。神は二つの部類の人々を、一つの新しい人間として創造されたお方ではありませんか。そのようなお方に、「教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(21節)。

参考文献

1         Ellen G. White, Testimonies for the Church (Montain View, Calif.:Pacific Press Pub. Assn, 1948),vol. 5, p.731.

2         エレン・G・ホワイト著『各時代の希望』上巻、2頁

3         同、12 頁

4         エレン・G・ホワイト著『キリストへの道』113頁。『キリストへの道 ポケット版』121頁

この記事は、ジョン・M・ファウラー(山地明・訳)『エフェソの信徒への手紙』からの抜粋です。

ジョン・M・ファウラー
インドで生まれ、10代の頃に預言の声ラジオ放送を通してアドベンチストとなる。スパイサー・カレッジで神学学士を取得後、32年間、インドで牧師、教師、教会行政、編集に携わる。1990年、『ミニストリー』誌副編集長として世界総会に招聘される。1995年より世界総会教育部副部長。ニューヨーク・シラキュース大学よりジャーナリズム修士号、アンドリュース大学より博士号を授与される。教会誌および専門誌に300以上の記事を寄稿。『キリストとサタンの宇宙的争闘』ほか、数冊の著書がある。妻メリーとの間に2人の子供がいる。

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