価値ある歩み(エフェソの信徒への手紙4の1~16)

目次

ふさわしい歩み――その特徴(エフェソ4の1、2)

「わたしはあなたがたを」とエレン・ホワイトは述べています。「エフェソの信徒への手紙第4章にある使徒パウロの言葉に向けます。この章全体は、神がわれわれに学び、実践するようにと望んでおられる教訓です」1

エフェソの信徒への手紙第1章から第3章において、パウロは神の救いの計画について語りました。人は教理を信じることによって救われることができるのでしょうか? その答は明らかです。ジョン・ウエスレーはかつて、「悪魔は信じていながら、いまだに悪魔であり続けている」と言いました。知識の正しさや、われわれの知識の量や、イエスについての知識の真実性を擁護する能力などが、新しい創造をもたらすものではありません。和解と新しい創造は、イエスをわれわれの主また救い主として受け入れることの結果です。キリストのもとに行き、キリストに信頼して命を預け、キリストが歩まれたように歩き、キリストが生きられたように生き、何ら臆することなく、躊躇することなくキリストのうちに住むこと、これらすべてはキリストの恵みと力によってなされるのです。

教理は重要ですが、知的な段階を超えて実践へと進まなければなりません。パウロはまさにそのことを第4章から始めているのです。彼は神学から実践へ、解説から奨励へ、神がなされたことから、われわれがなすべきことへと進んでいます。従ってパウロは彼の注意を、信者の生き方、「招きにふさわしく歩」(4の1)むことへ向けています。この書簡の残りの部分は、クリスチャンの歩みについて記されています。

信仰の実践についてクリスチャンに訴えるに当って、パウロがどのように切り出したかは、注目に値します。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」(1節)。「そこで」という言葉は、第1章から第3章までに述べた贖い、和解、一致の教理を指しています。教理は空しい理論ではありません。それは「そこで」と、先に進まなければならないものであり、土台であり、クリスチャンの倫理と実践の根拠です。神がなされたことは、われわれからの、生き方による応答を要求します。熱心な「勧め」のかたちによる訴えは、秘められた計画の大いなる真理を提示した時と同じ自己紹介の言葉(3の1)、「主に結ばれて囚人」となっているパウロからのものです。この秘められた計画が産み出した新しい命から湧き上がったものは、それにふさわしい歩みの要求であり、それが4章1節から16節 に、ふさわしい歩みの特徴、その目的、及びその権能という言葉で提示されています。

「ふさわしい」という言葉のギリシア語は、「アキシオス」です。その語根の意味は、天秤皿の上に置かれているように、釣り合った状態を指します。クリスチャンの行動は、クリスチャンの信条と信仰告白とに釣り合うものでなければなりません。釣り合いが取れなかったり、一貫性が欠けたりすることほど、クリスチャンの生活と証しを傷つけるものは他にありません。マホトマ・ガンジーは、かつて、「わたしにクリスチャンを見せよ。そうすればわたしはクリスチャンになろう」と言いました。これは伝道と宣教の挑戦です。人が、造り変えられた生活の中に福音の力を実際に見る時に、福音は生活を改変する神の力であるという教えを、人はより信じ易くなるものです。立派な生き方は、1000の言葉よりも雄弁に語ります。

オーガスチンは、かつては罪と道楽の人生を送りましたが、救い主を見いだしてからは、クリスチャンの奉仕と伝道に生涯をささげました。ある日彼が街を歩いていましたら、昔の女が彼を見つけて、「オーガスチン、こちらにいらっしゃいよ」と彼に声をかけました。しかしオーガスチンは、振り返りませんでした。誘惑の声が再び聞こえました。しかしオーガスチンは依然歩き続けました。遂にその女は大声で、「オーガスチン、わたしよ」と叫びました。振り返りもしないで、この偉大なクリスチャンは大きな声で返しました。「しかし、わたしはもはやオーガスチンではない!」と。彼はそのまま立ち去って行きました。ふさわしい歩みとは、造り変えられた、自己矛盾のない歩みです。「俗人や懐疑論者は自己矛盾のないことを賞賛し、神の民の行いがその信仰と一致する時に、神が確かに神の民と共におられることをこれまでいつも認めざるを得なかった。『あなたがたはその実で彼らを見分ける。』すべての木は、その実で見分けられる。われわれの言葉、われわれの行動は、われわれが結ぶ実である」2

パウロは、われわれが「その招きにふさわしく歩く」ようにと強調しています。使徒は、クリスチャンの生活と歩みの特徴となるべき五つの基本的美徳を述べています。

最初の美徳は謙遜です(4の2)。英語のニュー・インターナショナル・バージョンは、「全くへりくだり(Be completely humble)」と訳しています。(「一切高ぶることなく」――新共同訳、「できる限り謙虚で」――口語訳、「謙遜……の限りを尽くし」――新改訳、以上訳者註)。パウロの時代の文化――(ローマもギリシアも)は、謙遜は弱さのしるしだと考えました。ギリシア文学は謙遜を一切美徳として言及していません。むしろ謙遜を、奴隷的な屈従、卑屈、意志の欠如、下劣、畏縮、自己尊重の低さ等と関連づけています。このような文化的障害に対抗して、パウロはクリスチャンに謙遜で優しくあれ、と訴えているのです。

パウロの招きは、聖書の教えと一致しています。イザヤは神を超越なさるお方であると同時に、遍在なさるお方として描いています。神は、「高く、あがめられて、永遠にいまし その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる」(イザヤ57の15)。イエスが御自身を無にして、僕――ドゥーロス(奴隷)――の身分になり、救いの秘められた計画を示すために死に至るまでへりくだられたのは、謙遜の心からでした(フィリピ2の2~5)。謙遜は真の宗教のしるしであり(ミカ6の8)、神の王国に入るのに必要な美徳です(マタイ5の3)。

これとは対照的に、聖書は、ルシファーを堕落に導いたものは、神の御意志に反抗して、「わたしは、わたしは、わたしは」と自己の主張を繰り返した高慢心と自己主張であった、と指摘しています(イザヤ14の12~15)。高慢は滅びに先立ち(箴言16の18)、神を求めようとしません(詩編10の4)。それゆえに、神は高慢な者に反対します(箴言3の34、 ヤコブ4の6)。

第2の美徳は柔和です。柔和と謙遜は不可分です。しかし柔和は優しさ、敏感さ、思慮深さ、他者への寛容さ、等の感覚を伴っています。弱い気性を表しているのではなく、柔和はむしろ、冷静な内面の力のしるしです。モーセは地上の誰よりも柔和であったと言われています(民数記12の3 口語訳)が、決して意気地のない指導者ではありませんでした。

柔和のギリシア語は「プラウス」で、この語はしばしば、良く訓練され完全に統御されている動物を指すのに使われました。従って、プラウスな人とは、良く訓練され完全に統御されている人だと言えるかもしれません。神によって統御されている人は、確かに柔和な人で、「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思う」人です(ローマ12の10)。

次は忍耐の美徳です。聖書は繰り返し忍耐を、人類に対処なさる神の御品性として用いています。ペトロはノアの時代の反逆の世界に対処なさる神の忍耐に言及しています(ペトロ一 3の20)。彼はまた「主の忍耐深さを、救いと考えなさい」とも述べています(ペトロ二 3の15)。もし神がわれわれのようであられたら、ずっと以前に人類を宇宙から抹殺しておられたことでしょう。しかし、神はそうはなさらず、われわれを耐え忍んで待っておられるのです。使徒は、キリストの再臨が遅れているとさえ述べています。それは主が約束を遅らせておられるのではなく、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(ペトロ二 3の9)。

クリスチャンは、苦難に直面して忍耐を、不義の時代に寛容を表さなければなりません。悪に対する復讐を拒み、怒るに遅くなければなりません。忍耐は最終世代のクリスチャンの特徴です(黙示録14の12)。

次の美徳は、「寛容の心を持ちなさい」(エフェソ4の2)です。これは「互いに我慢しなさい」という意味ではありません。これは他者を理解し、互いに快く赦し、受容し合うことを含んでいます。これは忍耐を行動で示すことです。それは他者が荷す重荷を負い、復讐しようと思えばできる時でも、復讐への誘惑に負けないことです。クリスチャンにふさわしい歩みの最後の美徳は、クリスチャン人生の最高の宝石である愛です。この愛がなければ、他の特徴は力もなければ、機能する動機もなくなります。クリスチャン人生の他のすべての美徳――謙遜、柔和、忍耐、寛容――を産み出し、保持させるものがこの愛――アガペー(自己犠牲の愛)――です。「この『アガペー』は、感情的なものであるばかりではなくて、意志的なものでもある。それは愛情のない者や愛し得ない者、さらにまた、わたしたちを愛さない者に対して不敗の善意を持ち続ける能力である。アガペーはわたしたちが好きでない人をさえ愛する力である。アガペーは、キリスト者が恨みがましい感情をもったり、復讐したいと願ったりする代わりに、たとい相手がどんなことをしてこようとも、常に、相手の最良のことしか求めないような心と思いを表現する特質である」3

ふさわしい歩み――その目的(エフェソ4の3~6)

ふさわしい歩みの特徴は、謙遜、柔和、忍耐、寛容と愛です。一方その歩みの目的は、「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努め」ることです(エフェソ4の3)。パウロがすべてのクリスチャンに期待している一致と平和は、正しい関係を求めます。結局、エフェソの信徒への手紙は、人間と神、及び人間と人間との間の正しい関係の福音なのです。

この一致と平和とはどのように維持されるのでしょうか? もう1度クリスチャン生活の基本となる五つの美徳を見てください。すべてに共通する一つの素材があることに気づきます。それは、自己に死ぬことです。自己が中心にいる限り、他者はどこか外にいることになり、一致は起り得ません。自己が教会の中で優位を占めていると――自己美化、自己探究、自己満足――教会は、バラバラな人間が寄り集まった社会に過ぎないものとなります。主にある一致を主張しても、それは偽物や偽善以外の何物でもありません。自己が死ぬ時、他者が大切なものとなり、キリストの主権と支配が信仰の共同体の中で最高位を占めるようになります。その時においてのみ、われわれは、「あらゆる人知を超える平和」と世界もうらやむ一致、及び宇宙のすべての者も見たいと願っている秘められた計画を持つことができるのです。

1世紀のローマ人は、迫害者も沈黙の賞賛者も共に、クリスチャンについて、「彼らは互いにいかに愛していたことか、いかに一致していたことか」と言いました。一致は、愛が結ぶ必然的な実です。

パウロは「一つ」の公式を7回繰り返しています。「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(4~6節)。クリスチャンの信仰と生活についてのすべては、一つです。一人の主により唯一の神は、われわれを罪から贖い、われわれに一つの信仰を与え、一つの霊によりわれわれを新たにし、一つの洗礼を通してわれわれを一つの体の会員となし、われわれに永遠の一つの希望を与えてくださいました。

一致への七つの公式を学ぶ時に、もう一つの重要な要素があることに気づきます。贖いと一致は、神の優先順位の中でも高位を占めているので、神の位格のすべてが、キリストの体である教会の一致を創造するために深く関わっておられるのです。これはこの書簡の精神と一致しています。この書は、和解の務めを果たすために、三位一体のすべての神が働いておられることをしばしば強調しているのです。従ってわれわれがキリストの体の和解と一致のために働く時に、われわれは単独でなしているのではありません。三位一体の神が残らずわれわれの働きを支えておられるのです。次の表からそれぞれの「一つ」が、いかに働いているかを見ましょう。

要素     意味
一つの体          贖われた共同体との交わり
一つの霊          私たちを再生し、清めるお方、聖霊
一つの希望       私たちが召されている永遠の命の希望
一つの主          私たちを罪から贖ってくださるイエス
一つの信仰       私たちの本性、信仰を定義するもの
一つのバプテスマ         私たちが神の家族であるという公のあかし
ひとりの神、父 万物の源である父なる神

一つであるクリスチャン

パウロは一致に関する彼の教えを、神の和解の務めがキリストを通して何を創造されたかということから始めています。それはキリストの体である教会です。神は、信者の一つの体だけを創造されました。そこには、国、地理、民族、種族、教理、言語のそれぞれ異なる体が存在するのではありません。キリストは頭であり、体を統御する力であり、知性です。キリストはわれわれの思考の中心であり、行為の動機であり、機能を支配する権威です。

第2に、パウロは一つの霊について述べています。そのお方は聖霊です。聖霊はわれわれに真理を示し、われわれに罪を示し、われわれの中に住まわれます(ヨハネ16の8~14、14の15~18)。われわれが生まれ変わるのは、聖霊の力によります。「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」(コリント一 13の13)とも記されています。クリスチャン一人ひとりが、この一つの霊の導きのもとに絶えず生きることを求めない限り、クリスチャンの一致は、捕らえ所のないものとなります。

ドワイト・L・ムーディはかつて、「分けるのは悪魔の霊で、一つにするのは聖霊の働きである」と言いました。不一致という醜い頭がもたげた時は、誰の霊がこのような勢力の背後にいるかを尋ねると良いでしょう。

第3に、一つの希望です。パウロが述べているように(エフェソ3の12)、キリストとかかわりのない所に希望はありません。キリストとキリストが十字架上で完成されたことが、われわれの現在の救いの希望と、キリストがわれわれに「天の」遺産をお与えになる未来への希望の根拠です。罪からの贖いと神の永遠の住まいとは共に、キリストに根ざしています(ペトロ一 1の21、テトス1の2)。従ってキリストの再臨が、すべてのクリスチャンの「祝福に満ちた希望」と呼ばれているのです。

次いで、一人の主です。パウロがこのエフェソの信徒への手紙を書いた時、皇帝礼拝が既に行われていました。やがて、クリスチャンは彼らの主として、キリストかそれとも皇帝か、のいずれかを選ばなければなりませんでした。イエスを信じ、イエスを主また救い主と告白することは、命かそれとも死かの選択をすることでした。それは容易な選択ではありませんでした。事実、この選択をした者は、その結果が迫害か死であることを知った上で選んだのです。しかしクリスチャンには、イエスだけと一つになると告白する以外に他の選択肢はありません。パウロが述べているように、多くの神々や多くの主がいるかもしれませんが、われわれには、「唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」(コリント一 8の6)。

さまざまな宗教の中だけの神々ばかりでなく、他の競争相手――物質中心主義、人道主義、不可知論、主知主義、科学、科学技術等々――をも拝んでいるこの時代において、クリスチャンはキリストを一人の主として告白するように招かれているのです。そしてこの告白は何の妥協も競争も認めません。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4の12)。

イエスを主また救い主として告白することは、自ずと一つの信仰へと導きます。「信仰」という言葉によってパウロは、救いに導くキリストを信じる行為ばかりではなく、「聖なる者たちに一度伝えられた信仰」(ユダ3)をも指しています。この信仰の対象も主体も共にイエスなのです。イエスこそ信仰の内容であり、中心です。それゆえにわれわれの信仰はすべてキリストに中心を置き、キリストの言葉を権威の源とすることが重要なのです。言い伝え、世俗の影響、人間的な便利さ、いわゆる知的な疑問、及び、創造主また贖い主としてのキリストの主権を過小評価する同様な要素等は、一つの信仰の告白や宣言の中に入り込む余地はありません。われわれは一つの信仰、一つの真理、すなわち、イエスの内にある真理(エフェソ4の21)に招かれているのです。

次は、一つの洗礼です。エフェソで伝道していた頃、パウロはそこにいた数人の信者たちに洗礼について質問を投げかけました。彼らはヨハネの洗礼を受けていたのでした。そこでパウロは、洗礼者自身が伝えた言葉に彼らの注意を促しました。「自分の後から来る方、つまりイエスを信じるように」(使徒言行録19の4)。その後彼らはイエスの御名によって洗礼を受け、聖霊を受けました。

そこでエフェソの信徒たちは、少なくとも2種類の洗礼について知っていたのです。ヨハネの洗礼とイエスの洗礼です。使徒は、実際には一つの洗礼だけであると教会に書いています。つまり、イエスの洗礼は、ヨハネの洗礼よりも勝っているのです。ヨハネは罪人に悔い改めて洗礼を受けよ、と招きました。しかしイエスは、悔い改めと共に、われわれにイエスを救い主と信じて洗礼を受けよ、と招いておられるのです。そこで、イエスの次の任命があるのです。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け……なさい」(マタイ28の19、20)。

丁度使徒がイエスの洗礼を指して、「洗礼は一つ」と強調したように、われわれもまた教会のこの重要な儀式が一つであることを、注意深く掲げなければなりません。われわれの文脈では、この「一つ」には、洗礼の方法――全身を水中に沈めることによる(新約聖書はこれ以外の方法については何も述べていません)――と、洗礼の前段階、すなわち救い主イエスとその教えを受け入れること(従って、信仰を働かすことのできない幼児は洗礼を受けることはできません)の両方が含まれています。

最後に使徒は、「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(エフェソ4の6)と語っています。パウロにとっては、神の優位性と唯一性は、すべてのものが流れ出る源泉となる真理です。神は創造者です。「この神は天地の主です」「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。……『我らは神の中に生き、動き、存在する』」(使徒言行録17の24~28)。

もしわれわれが神の創造性を拒み、神の主権や統治権を拒否し、人類の出来事における神の救いと維持の役割を疑い、神を求めることを拒み、神の子らの一致と平等を否定したならば、われわれには何が残るでしょうか?何もありません。

ふさわしい歩み――その権能の授与(エフェソ4の7~16)

エフェソの信徒への手紙第4章において、パウロはこれまでに、クリスチャンの招きにふさわしい歩みの特徴を列挙してきました(1~3節)。使徒はまた、一致への七つの公式の中のクリスチャン生活のしるしである一致の特徴についても記しました(4~6節)。使徒は、今7~16節において、クリスチャンにこの歩みができるようにさせる神の権能の授与について述べています。弟子たちにふさわしく歩むようにと命じられた主は、個人として、また共同体としてのクリスチャンが責任を持って神の御栄光のために生きることができるように、さまざまな霊の賜物を与えられた同じお方です。パウロは一致から、彼らに与えられた祝福の無類の素晴らしさに主題を移しています。

しかしまずこれらの賜物について、幾つかの要素を指摘する必要があります。一つのことは、これらはキリストによって与えられた恵みの賜物である(7節)ということです。キリストは与え主であり、われわれは受ける者です。恵みが動機であり、奉仕は目的です。キリストはこれらの霊の賜物を、信者に対する神の最高の恵みの行為として与えておられるのですから、受ける者としては賜物に疑問をはさんではなりません。賜物は神の判断に従って与えられています。われわれは受け取ったものについて要求したり、条件を指図したりすることはできません。

もう一つ指摘したい点は、次の難しい聖句です。「そこで、『高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた』と言われています。『昇った』というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです」(8~10節)。

最初の部分――「高い所に昇ったとき」彼は人々に賜物を分け与えた――は、明らかです。昇天に先立ちイエスは、弟子たちに、聖霊を受けて福音を証しする力を頂くまでは、エルサレムで待つようにと言われました(使徒言行録1の4)。彼らは留まり、聖霊が下り、こうして五旬祭と宣教は、歴史上の出来事となりました。イエスが「高い所に昇ったとき」(エフェソ4の8)与えられた聖霊とそれに伴う教会への賜物は、復活のイエスの最高の贈り物でした。

しかし、次に述べられた言葉はどのような意味があるのでしょうか? 「『昇った』というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです」(9、10節)。「降りた」と「昇った」との間の対比は、霊的なものではなく、神学的なものです。地上の「低い所」は、地下の空間的な場所を指しているのではなく、この地におけるイエスの受肉と十字架の経験において、イエスが通られた謙遜の深みを指すものです。

神であられたキリストが、地上に来られ、われわれの最中に歩み、ゲッセマネと十字架で苦しまれたこと――これらは皆、謙遜の深みでした。パウロは、「地の低い所」という比喩を用いて、われわれ罪人のためのキリストのへりくだりを描いているのです。この比喩はまた、イエスが大争闘の戦いを悪魔の本拠地にまで持って行くこととしても理解することができます。それは神学的に最暗黒のときであり、比喩的に地上で最も低い所です。そこにおいて年老いた蛇が打ち砕かれ、勝利が得られるのです。

キリストが降りて来られたことはこのように徹底的に低いことでしたが、有難いことに、復活の力によってキリストが昇られたことは、それよりも更に高い出来事でした。サタンに対するキリストの勝利によって、彼は「天よりも更に高く昇られ」、すべてのものを満たされたのです。キリストが天において持っておられた神と等しい高い身分を捨てて、死に至るまで御自身を低くされたので、キリストの昇天に当り宇宙の主また支配者として高く上げられ、宇宙のすべてがキリストの膝下にひざまずくのです(フィリピ2の10)。この高い地位からキリストは地上の教会と結びつき、その結びつきが余りにも親密なのでキリストは教会に賜物を満たされるのです。この賜物は受け手によって異なります。「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです」(エフェソ4の11)。賜物の相違は信者の優劣を示すものではありません。「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7節)。キリストに属している者のうち、誰一人として霊の賜物を頂かない人はいません。すべての人が招かれ、すべての人に賜物が与えられ、すべての人が仕えるのです。「(エフェソ4の11)は、異なる働き人、異なる器が存在していることを示している。それぞれが異なる働きを持っている。誰も他の人の働きまでするようにとは求められてはいない。十分に訓練されていなくとも、それをするように試みなさい。神は一人一人に、その能力に応じて与えておられるのである」4

エフェソの信徒への手紙には四つの賜物が挙げられています。パウロはまず、使徒を挙げています。イエスの働きの目撃者を、イエスは使徒と呼ばれました。彼らは、福音を伝え、教会を設立する任命を受けた人々です。もともと十二弟子が使徒と呼ばれましたが、後にパウロが特別に異邦人への使徒として召されました(使徒言行録9の15、16)。彼の召命は自ら造り上げたり、他の人から与えられたりしたものではなく、甦られたイエスから直接頂いたものであることを、彼は常に明らかにしました(ローマ1の1、コリント一 9の1、ガラテヤ1の1)。

新約聖書は「使徒」という言葉を、他の数人の人を指すためにも用いています。例えば、バルナバ(使徒言行録14の4、5)、主の兄弟ヤコブ(コリント一 15の7)、シルワノとテモテ(テサロニケ一 2の7――新共同訳には氏名はない)、その他の人々(ローマ16の7)等です。「使徒」という言葉は一般的に「遣わされた者」という意味ですが、新約聖書の著者たちは、この言葉を、特別な意味で、キリストの働きのために用いられる人間の器を指すために用いています。使徒には二つの特別な資格が必要でした。すなわち、彼らはイエスの目撃証人でなければならなかったこと(コリント一 9の1)、及び、主の復活の証人でなければならなかったことです(使徒言行録1の21、22)。

従って、すべてのクリスチャンが、福音の宣教のために「遣わされた者」と考えられる一方で、今日誰に対してもこの「使徒」という称号を与えることは、僭越なことであリ、不適切です。この独特な称号は、生まれようとしていた教会を育てるために、主御自身がある人々を使徒として召された、新約聖書の時代に適用されたものでした。「この原則は、長い間キリスト教界を騒がせた問題、すなわち使徒の継承という問題に同じように重大な関係がある。アブラハムの子孫ということは、名や血統によらず、品性が似ていることで証明された。同じように使徒の継承は、教会の権威を引き継ぐことにあるのではなくて、霊的な関係にあるのである。使徒たちの精神、彼らが教えた信念と真理の教えとを原動力とする生活――これが使徒の継承の真の証拠である」5。従って、ローマ・カトリック教会が、法王はペトロの後継者であると主張しているように、誰かを使徒または使徒の後継者だと主張することには、何らの聖書的な根拠はありません。

第2の賜物は、預言者の賜物です。聖書の大部分は預言者たちによって書かれました。「預言者」という言葉は、旧約聖書には300回以上、新約聖書には約125回出てきます。預言者の働きは、次の三つの内の一つ叉はそれ以上の方法で定義することができる、とある人々は指摘しています。すなわち、①状況や出来事を「予告する」働き、②神の代表または代理として神に「代わって語る」働き、③妥協や不明瞭さがなく、大胆に「外に向かって語る」働き、です。聖書の中の預言者は、勇敢な神の代弁者でした。

しかし、神は預言の賜物を聖書の時代だけに限定なさいませんでした。終末時代における神の教会のしるしの一つは、預言の賜物を持っていることです(黙示録12の17、19の10)。われわれはこの賜物を無視することはできますが、それはただ危険を招くだけです。

列挙されている第3の賜物は、福音宣教者です。「福音宣教者」という名詞は、新約聖書の中に3回しか出てきません(エフェソ4の11、使徒言行録21の8、テモテ二 4の5)が、動詞の「福音を宣教する」という言葉はしばしば出てきます。キリストの大いなる任命は、すべてのクリスチャンは出て行って、宣べ伝え、教えるという責任を果たすことです。この意味では、すべてのクリスチャンは福音宣教者です。しかし、ある人々のみが伝道的説教と説得の特別な賜物を頂いているのかもしれません。すべての人々がムーディーやスポルジョンやビリー・グラハムやH・M・S・リチャードとして召されているわけではありません。しかし、すべての人々は証人として召されているのです。

わたしはある空港で足止めを喰らい、疲れ、お腹を空かしていました。わたしの乗る便が遅れ、いつ出発できるかわからなかったのです。1時間ほど待って後、わたしは空港のレストランに行き、軽食を注文しました。ウエイターは「出来上がるまで15分ほどかかります」と親切に教えてくれました。「結構です」とわたしは彼に答えました。2分程して彼は再び来ました。今度は手に一枚のパンフレットを持っていました。「待っておられる間、よろしければこれをお読みください」。そのパンフレットは、イエスがどなたであるかについて書かれたもので、マニラのセブンスデー・アドベンチスト教団出版社が発行したものでした。

わたしの荷物をチェックインする時が来ました。航空会社の係官は遅れたことについて丁寧に詫びました。彼女はわたしの荷物をチェックし、航空券が渡されました。わたしが丁度出発しようとした時、彼女はわたしに一冊の雑誌を手渡しました。「待っておられる間、どうぞお読みください」と微笑みながら、彼女は言いました。それは9か月前の古い「サインズ・オブ・ザ・タイムズ」でした。

「どちらからお越しですか?」、3万フィートの上空で、わたしはいきなり居眠りから起こされました。年輩の紳士が彼の座席から移動してわたしの隣の空いた席にやって来たのです。

「インドからです」とわたしは彼に答えました。

インドについての質問が次々と飛び出し、非常な熱心さが伺われました。数分後、彼はわたしに一枚のカードを手渡し、通信講座に申し込むようにと訴えました。「これを学んでイエスのことがわかると、最善の友を得ることになりますよ」と彼は言い続けました。わたしはフィリピンを訪れただけです、と彼に告げましたが、「御心配なく」とその年輩者は微笑んで、更に、「われわれにはインドに支社があるのです。わたしはそちらにお願いしてあなたに教科を郵送するようにお願いしますから」。彼はわたしに預言の声を申し込むようにと訴え続けました。

それはほんの1時間程の間に起こった出来事でした。3人のアドベンチストが、わたしに彼らの信仰を分け与えたのでした。これこそが伝道です。

次いでパウロの賜物に、牧者、教師の名称が出てきます。この句は、「教師である牧者」とも訳し得るものです。すべての牧者は、教師です。なぜならば彼らは、会衆に神の御言葉を教え、それをもって彼らを養うばかりではなく、神の民を牧者として世話をし、彼らの霊的健康を通して彼らを牧すからです。神の御言葉に飢えている会衆は、弱り果てて死にます。それが今日アドベンチスト教会を含む、キリストの体が直面している大きな危険の一つです。

セブンスデー・アドベンチストは、伝道において先端を行っています。しかし現実を見てみましょう。信徒数が飛躍的に成長して来た地域を訪ねてみてください。不特定の安息日に、新しく洗礼を受けた人々の大多数の姿を、あるいは、その半数でも教会の座席に見つけることができるでしょうか? スチュワードシップは比例して伸びているでしょうか? それに対する正直な答は、現実をかなり映し出すことができます。欠けていることは、養うことです。福音宣教者の冒険と喜びは、しばしば牧者の悪夢と悲嘆になっています。そこで、ここにすべての人が祈る必要がある一つの賜物があるのです。それが牧者、教師の賜物なのです。

これら四つの賜物が、教会に与えられた賜物のすべてではありません。パウロは、ローマ12章6~8節、及びコリント一 12章28~31節に、更に幾つかの賜物を挙げています。奉仕、勧め、施し、指導、慈善、快活、奇跡、癒し、援助、管理、異言を語る、及び、最高の賜物である愛等です。賜物はさまざまです。すべての信徒が皆同じ賜物を受けるのではありません。もっとも慈愛、快活、援助、愛のように、すべてのクリスチャンの一部となるべき賜物は存在しますが。しかし、他のクリスチャンの賜物と自分の賜物との比較について討議する以上に、最も重要な問題は、自分自身の賜物を発見することです。更にわれわれは一つの質問をすべきです。なぜ神はこれらの賜物をわれわれにお与えになられたのでしょうか?

なぜ霊の賜物が与えられたか?(エフェソ4の12~16)

エフェソの信徒への手紙4章12節には、教会に賜物が与えられた二つの理由が挙げられています。すなわち、「奉仕の業に適した者とされ」と、「キリストの体を造り上げてゆき」の二つです。

「適した者とされ」と訳されている言葉のギリシア語は、「カタルティスモン」で、それは破れた網の「手入れをする」(マタイ4の21)や骨折に対する医療的処置 のように、「直す」「正す」という意味です。生来われわれの間には多くの壊れや破れが充満しています。少し名指すだけでも、ユダヤ人とギリシア人、男性と女性、教育を受けた者と教育を受けなかった者、白い皮膚と黒い皮膚の人々との間にです。このような分裂を持ったままでは、伝道の働きに適した者である筈はありません。そこで使徒は、聖霊とそのさまざまの賜物がわれわれの上に働きかけてくださるように願い、われわれの壊れや破れを直し、正し、すべての隔ての壁を打ち破ることによって一致を創造し、それによってわれわれが神の御業に適した者とされるようにと、優しく訴えています。

更に使徒は、この「適した者とする」や「造り上げてゆく」働きは、一時的な働きではないことを明らかにしています。それはわれわれが、「キリストの満ちあふれる豊かさ」(エフェソ4の13)に到達するまで継続してゆく働きです。キリストのもとに来て、キリストの赦しと救いを経験し、神の家族と一つになり、キリストの働きに適した者とされることだけでは不十分なのです。クリスチャンはキリストにあって成長しなければなりません。パウロはこのような成長に必須の五つの要素を列挙しています(14~16節)。

クリスチャンの成長は、継続的である。

クリスチャンの成熟は、人が突然到達するような目標ではありません。それはわれわれがそれに向かって旅をする目的地です。毎日が発見の日です。毎日われわれは自分が成長する必要のある分野を見いだします。「人は生きた頭なるキリストにまで成長できる。これは短期間になされる業ではなく、一生涯かかる働きである。恵みの期間が終わるまでは、神の命の中に日毎に成長することによっても、キリストの満ちあふれる豊かさに到達することはないのである。成長は継続的な業である」6

クリスチャンの成長は、幼子から成人に移行する。

神はわれわれが幼子のようであるようにと望んでおられますが、決して幼稚な者であるようにとは望んではおられません。神はわれわれが「幼子のこと」を棄てて(コリント一 13の11)、霊的なものと世俗のものとを識別し、乳ではなく固い食物をとることができる(同3の2)成熟した大人となるようにと願っておられるのです。

クリスチャンの成長は、固く立つことである。

幼子のままでとどまり、成熟した大人にまで成長しないことは、非常に危険なことです。あえて言うならば、それはクリスチャンが直面しているサタンの罠です。パウロはその危険を、「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりする」(エフェソ4の14)信仰が未熟なままでいる人々だ、と述べて定義しています。

このような幼児症候群に対する解毒剤は、真理と教理に着実に成長することです。真理と教理には、御自身こそ真理であると言われたイエスに人が身を委ねない限り、達することはできません。われわれは、キリストがその真理を啓示された唯一の確かな源泉に向かわなければなりません。いかなるクリスチャンも神の御言葉を絶えず学び、意味のある祈りの生活をしないまま、成熟したり、成長したりすることはありません。祈りと聖書の学びは、クリスチャン生活の成熟に必須です。成熟したクリスチャンは、神の御言葉に根付いていなければなりません。それによって「だまし惑わす策略」、「人々の悪巧み」、「陰謀」がわれわれを襲う時、神の証しの書に固く立つことができるのです(イザヤ8の20)。

クリスチャンの成長は、「愛に根ざして真理を語る」ことである。

文字通り、それは真理を実行することです。しかも愛に根ざして実行することです。ストットは、「真理は、もしそれが愛によって柔らかくされなければ、固いものとなる。愛は、もしそれが真理によって強くされなければ、柔らかいものとなる」7と述べています。

クリスチャンの成長は、キリストが頭であることを認めて、共同体の中で成長することである(エフェソ4の15、16)。

 頭と永久に絶えず結びついていなければ、体のいかなる部分も機能しません。頭は体の各部がその決められた働きを行うように力を与え、支配します。すべての部分は一致と調和のうちに働かなければなりません。それと同じように、キリストとキリストの御命令が体なる教会のすべての教会員に浸透し、キリストが信者の共同体の心と働きを支配しない限り、個人及び共同体の成長と成熟は、危機の中にあることになるのです。

キリストにあって成長することが、キリストに似た者となる結果を産み出すのです。

参考文献

1         The SDA Bible Commentary, Ellen G.White Comments, vol.6, p.1117.

2         White, Testimonies for the Church,vol.1.p.416.

3         Barclay, p.140.

4          White, Testimonies for the Church, vol.8, p.170.

5         エレン・G・ホワイト著『各時代の希望』中巻、256、257頁

6         White, Testimonies for the Church, vol.4, 367.

7         John R.W.Stott, The Message of Ephesians (Downers Grove,Ⅲ:Inter-Varsity Press, 1979), p.172.

この記事は、ジョン・M・ファウラー(山地明・訳)『エフェソの信徒への手紙』からの抜粋です。

ジョン・M・ファウラー
インドで生まれ、10代の頃に預言の声ラジオ放送を通してアドベンチストとなる。スパイサー・カレッジで神学学士を取得後、32年間、インドで牧師、教師、教会行政、編集に携わる。1990年、『ミニストリー』誌副編集長として世界総会に招聘される。1995年より世界総会教育部副部長。ニューヨーク・シラキュース大学よりジャーナリズム修士号、アンドリュース大学より博士号を授与される。教会誌および専門誌に300以上の記事を寄稿。『キリストとサタンの宇宙的争闘』ほか、数冊の著書がある。妻メリーとの間に2人の子供がいる。

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