新しい生き方(エフェソの信徒への手紙4の17~32)

目次

新しい生き方――古い生き方を捨てる(エフェソ4の17~23)

クリスチャンの生き方の主要な手引きを記してから(エフェソ4の1~16)、パウロは更にこの生き方を古い価値観を拒み、全く新しいライフスタイル――思想、品性、価値観、関係、動機等において――を採用する抜本的な改変として描き始めています。この新しい生き方は、死から命へ移ることです。それは、所有者がサタンからキリストに変わることです。パウロはこの新しい生き方を三つの段階で提示しています。すなわち、古い生き方を捨てること、新しい生き方を身に着けること、そして新しい支配の下に生きることの三つです。

クリスチャンの生き方は、過去からの潔く明らかな断絶から始まります。使徒の強い勧めは、誤解の余地がありません。「古い人を脱ぎ捨て」、「もはや、異邦人と同じように歩んではなりません」(22、17節)。この強い勧めは、抽象的な理論ではなく、その人の全人的生活(思想、品性、人格、ライフスタイル)に影響する行動への招きです。パウロはこの命令を、非常に厳粛な調子で発しています。「そこで、わたしは」とパウロは語り、「主によって強く勧めます」と続けています(17節)。パウロは主の権威を喚起し、クリスチャンの生き方は異邦人の生き方とは絶対的に異なるものでなければならない、と強く勧めています。

異邦人の生き方とはどのようなものだったのでしょうか? キリストの下に来る前の生き方とはどのようなものだったのでしょうか? パウロは、キリストのない生き方の特徴を、一つの句で要約します。すなわち、心の無益さです。使徒は、キリストを持っていない人の優れた知性を否定してはいません。事実、使徒以前の時代から今日に至るまで、知的な偉大さ、論理的な思考、合理的な議論、哲学的な探究、倫理的な高潔さ、科学的な進展、及び歴史的な不屈の努力等が、人間の思想の特色となっていました。

われわれは人間の思想に大いに負っていることは確かです。未知を知るための執拗な探究と、人類の知識を分析し、統合し、保存する能力は事実測り難いものでした。プラトンの力、ガリレオの執拗な努力、ベートーベンの卓越した技量、シェークスピアの際立った才能、ミケランジェロの創作力、アインシュタインの天才、ガンジーの同情心等を、一体誰が否定できるでしょうか?

パウロは、人間の心が産み出したこれらの技術や能力が無益である、と言っているのではありません。彼が述べていることは、創造者の意図や目標に対する反対、無知、無関心などに見受けられる心が持っている道徳的、霊的堕落性が無益であるということなのです。彼が言及していることは、心が神の真の啓示を拒み、心自体が造る危険な場に入り込む時に起こる心の衰退(ローマ1の21)についてなのです。心は「自我」をそれ自体の神として創作します。それは罪の存在を否定します。それは神が存在していないかのような生き方、人生はその創造者に対して責任があるという道徳的、霊的規範のようなものは一切存在しないかのような生き方、に人を導きます。

このように堕落した心は、道徳的、霊的暗黒の中に生きます。このような心の下で、「知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています」(エフェソ4の18)。暗くなった知性は、暗くなった態度に導き、暗くなった態度は善悪の区別ができなくなります。その結果は、「無感覚」、「放縦な生活」、「ふしだらな行い」です(19節)。要するに、心の無益さです。

無益な心は、「情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人」(22節)の背後にあるものです。それゆえに、クリスチャンへの招きは、古い人を十字架に磔にすることです。古い自我を磔にすることが(ガラテヤ2の20)、「新しい人を身に着ける」ためには必須です。古い自我の死は、回心の経験の結果として訪れるものですが、それは毎日注意深く祈りをもって守られなければならない経験です。なぜなら磔は緩慢な死だからです。われわれの唯一の安全策は、神の恵みの下に絶えず生活し、神の力を求め、神の愛の内に住むことです。

古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けるというこの行為は、人間が自分自身の力で遂行できるものではありません。それはわれわれを古い人から新しい人へと造りかえるキリストの御業の結果としてのみもたらされるものです。この変化は、イエスの内にある真理(エフェソ4の21)の結果です。パウロがこの章で、「イエス」という名前を用いたのはこの個所だけです。ここでパウロがこの呼び名を用いたのは、決して偶然のことではありません。使徒は、信者たちに歴史上のイエス――受肉され、十字架に付けられ、復活し、昇天なさったお方――は神話ではないことを知って欲しいと願っているのです。彼は現実のお方です。彼はわれわれのただ中で生きられました。彼はわれわれのために亡くなられました。彼は再び甦られました。彼は天父のもとに昇天されました。

この受肉のイエスはまた、受肉の真理です。彼は御自身について、次のように言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14の6)。イエスを通してのみ人は罪からの贖いを受けることができるという神の独占計画は、あらかじめ定められていました。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4の12)。

われわれを古い人から新しい人へと導くイエスの内にある真理とは何でしょうか? 他の誰も持っていないもので、イエスだけが持っておられるものとは一体何でしょうか?

それはこれです。イエスが、人間の肉体をとり、われわれのために苦しまれた神であるという事実です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。……言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1の1~4、14)。イエスは神であり、同時に神が人間の肉体を受けられたという真理は、イエスをわれわれの救い主となる適格者とします。彼の神性を奪えば、イエスは救う権威を持っていないことになります。彼の人性を取り去れば、イエスは服従の模範及びわれわれの罪の身代わりの役割を果たせなくなります。

エレン・ホワイトは、イエスがわれわれの救い主であるという真理を、詩的でまた神学的な洞察をもった言葉で次のように述べています。「キリストは、ご自分の生涯と死によって、罪のために生じた破滅から回復するよりももっと大きなことをなしとげられた。神と人とを永遠にひき離すことがサタンの目的であった。しかしキリストのうちにあるときに、われわれは堕落しなかった場合よりももっと密接に神につながるようになるのである。救い主は、われわれの性質をおとりになることによって、決してたちきれることのないきずなでご自分を人類にむすびつけられた。永遠にわたって、キリストはわれわれとつながっておられる」1これこそ十字架に付けられ、甦られた救い主、イエスの内にある真理の中心です。この真理がわれわれの生き方の一部となり、支配力となり、思想や行動や存在の中心となるその時にはじめて、われわれは本当に古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けたことになるのです。新しい人を身に着けるとは、「キリストが可能になさった新しき創造と、その結果としての全く新しい命とを把握することである。それは、汚れた衣のような古い人間を脱ぎ捨て、清潔な衣服のような神の似姿に創造された新しい人間を身に着けること」2を意味しています。

新しい生き方――新しい人を身に着ける(エフェソ4の23~29)

トムは若くて元気が良く、フットボールが大好きでした。10代にして彼は高校のフットボールチームの花形選手でした。彼はボールを非常に高く、遠くまで蹴ることができましたので、観客は只々感嘆するばかりでした。彼はまさに肉体の力の絵に描いたヒーローでした。しかし彼が18才を迎えた年、悲劇が彼を襲いました。突然彼は弱くなり、時間に起きることができなくなり、ボールを蹴る力もなくなったのです。歩くことさえ困難となり、疲れ果ててしまうのです。彼の両親は、彼を最高の医者に連れて行きました。彼のクラスメイトや教師たちは長い間懸命に祈りました。診断は、トムに残されていた僅かのエネルギーさえ消失させました。彼は恐ろしい白血病に罹ったのでした。

医者たちが試みた多くの処置の中に、輸血がありました。彼の血液全体を流出させ、新しい血液を輸血しなければならなかったのです。古いものがなくなり、新しいものが入って来なければなりません。その過程は長時間かかりましたが、トムが再び普通の状態になるという保証はありませんでした。

それは肉体的命の悲劇です。聖書は、霊的な命においても、われわれは確実に死をもたらす堕落という悲劇的な診断で苦しんでいることを明らかにしています。罪が人間を神から引き離す時、その別離は永遠のものです。しかし出口は存在しているのです。われわれは輸血をして頂かなければならないのです。われわれの組織から古い人を流出させ、神なる大医師に、われわれの内に新しい人を注入して頂かなければなりません。「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(ヨハネ一 1の7)。この輸血が新しい人を創造するのです。

新しい生き方についてのパウロの議論は明らかです。古い人を脱ぎ捨てるだけでは不十分です。イエスは、自分の心を掃き清めそれまで彼の中に住んでいた悪霊から解放された一人の人の譬えをお語りになりました。ところがまもなく七つの霊が彼の中に入ったのです。彼が自分の心を空にしたまま、一つの悪霊の代わりに何も入れずに、そのまま放置していたからです(マタイ12の43~45)。

キリスト教は否定的な生き方ではありません。それは積極的な生き方です。それは信者が道徳的、霊的な生き方と責任を持つ更に高い場所へと昇るように招いています。使徒は、「心の底から新たにされて、……新しい人を身につけ」(エフェソ4の23、24)と訴えています。もし、古い人の生き方の特徴が「無益な」心であったとすれば、新しい人の生き方は、新しい心が際立っています。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき……なさい」(ローマ12の2)。心を新たにすることは、知的訓練の運動ではありません。それは価値観と実践とを移動させることです。それは暗黒から光に移ることです。それは生活とその中のすべての活動の中心また動力源として、キリストを受け入れることです。「キリストに屈服した魂は、キリストご自身のとりでとなり、キリストはそれをそむいた世の中に保たれる。キリストはその中でご自身の権威よりほかの権威がみとめられないように望まれる。このように天の勢力によって占領された魂はサタンの攻撃に攻め落されることがない」3

次の表で、古い人と新しい人とを、幾つかの点で対比してみましょう。

古い人新しい人
無益な心新しい心
神と断絶神によって創造された
暗くて無知イエスによって教えられた
不浄で貪欲義にして聖
堕落真実
だから、脱ぎ捨てなさいだから、着なさい

新しい人を身に着けるためには、古い人を完全に捨てて、キリストとの新しい関係を築かなければなりません。新しい生き方とは、「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活」(エフェソ4の24)をすることです。結果として、新しい生き方は、これまでとは全く異なる状況を受け入れます。使徒は、ライフスタイルの四つの変化を述べています。

第1に、「偽りを捨て、……真実を語りなさい」(25節)。使徒はなぜこの勧告を最初に述べたのでしょうか? 無神論者やクリスチャンでない人でも、偽りには渋面します。偽りは社会全体の憎悪の的です。それであるならば偽りに対してパウロが抱いている重荷は何でしょうか?パウロが心に抱いていたことは、不敬虔についてパウロがローマの信徒たちへの手紙の中で記した事柄であった可能性はないでしょうか?「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です」(ローマ1の25)

ここには偽りの生き方についての、より大きな描写がなされています。すなわち、神の真理を偶像礼拝の偽りに置き換えることです。キリストにある新しい生き方には、いかなる形態の偶像礼拝の偽りであっても――たとえそれが物資中心主義、教育、富、社会的地位、その他神の場を占めるものという偶像礼拝であっても――一切入り込む余地はありません。パウロは、新しい人はこれらの見せかけや憶測のすべてを捨てて、真理のみを求める、と述べているのです。

この拡大図に加えて、パウロは生活のすべての活動において真実であることを心に留めています。クリスチャンは中古車の販売員でありながら、社会で信頼される人となり得るでしょうか? 教師として、たとえ生徒たちが悪い点を取っても先生の公平さと正しさを確信できるような、良心的で矛盾のない教師となり得るでしょうか? 説教者として、たとえ罪に対して語っても会衆はそれを彼の言葉としてではなく、神の御言葉として聴くような人となり得るでしょうか? 透明性と正直さは常にクリスチャンの特徴でなければなりません。

第2に、「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」(エフェソ4の25)。ある人々は、怒りはすべて罪であると考えるかもしれませんが、キリスト教倫理では、義憤はあり得るという立場を取っています。怒りそれ自体は悪くはありません。怒りが良いか悪いかは、その動機と目的に依ります。

このような義憤の尊い実例は、主の働きの中に見受けられます。手の萎えた人をイエスが癒すかどうかを群衆が興味を持って見守っていた時、「イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、……」(マルコ3の5)とあります。そして主は、その人をお癒しになりました。神殿が欺きと自己満足の市場と化していた時、聖なる威厳を持ってイエスは、両替え人や商人たちを追い出しました(ヨハネ2の15)。これは正しい怒りで、その怒りは人物にではなく、行為に向けられています。

宗教が偽善のマントを着、貧困と不正が人から人間性を奪い、尊厳のない義務だけが横行し、希望がなく、愛のない宗教が存在する場所ではどこでも、クリスチャンたる者はたとえ怒ってでも、関心を示さなければなりません。ガラテヤにおける異端に対してパウロが怒らず、免罪符の発行に対するルターの反抗がなく、子供の労働に対するウイルバーフォースの怒りがなく、寡婦殉死という悪弊に対するキャーレィの激しい怒りがなく、奴隷制度に対するリンカーンの怒りがなかったならば、今日世界はどのようになっていたでしょうか?

そうです。義憤はクリスチャンの生き方において大いに必要です。しかし、それを人間関係における厳しさや、憎しみや、敵意等に変えてはなりません。従ってパウロの次の勧告は適切です。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません」(エフェソ4の26、27)。

自己保存のため、他者を卑しくするため、利己的な復讐のため、虐待や相手の人間性や尊厳を打ち砕くため(例えば、伴侶に対する虐待)の怒りは罪であって、クリスチャンの新しい生き方の中に入れてはなりません。怒りが自制を失うと罪になります。正当な怒りでも、復讐の怒りでも、クリスチャンは怒ることによって罪を犯してはなりません。「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」が、使徒の勧告です。

リンカーンの陸軍長官、エドワード・スタントンがある時、えこひいきをしているといって一人の陸軍少将から非難されました。彼は顔色を変えて怒り、リンカーンに不平を言いました。大統領は、話を聴いて、スタントンに少将宛てに厳しい手紙を書くように勧めました。スタントンは思いつく限り激しい言葉で書きました。彼はその手紙を大統領に見せたところ、大統領はその手紙を読んで、「さあこれから君はどうする?」と尋ねました。スタントンは、この奇妙な質問に面喰らって、「もちろん、これを郵送します」と言いました。

その時リンカーンは、「駄目だ。それをしてはいけない。それをストーブの中に捨てなさい。誰かがわたしを怒らせた時にわたしがしていることはそれだ。わたしは自分の感情をすべて書き連ね、それを読んでわたしの怒りを静めるのだ。それからわたしはその手紙を燃やし、新しい手紙を書く」と答えました。これは、日が暮れる前に怒りを処理する良い方法であるかもしれません。

第3に、「今からは盗んではいけません。むしろ……労苦して収入を得」(4の28)なさい。盗みは、正常な社会ではどこでも受け入れられません。使徒は、それから離れることをクリスチャンの義務としました。彼は、盗んではいけない、と言います。他人の持ち物を盗んではいけません。他人の品性を盗んではいけません。空しいうわさ話によって、隣人の名誉を盗んではいけません。雇用主の時間と産物を盗んではいけません。他人のアイデアを盗んではいけません。このコンピューター時代には、この勧告は、プログラムや音楽やデザイン等を盗んではいけません、ということになるでしょう。

それゆえに、クリスチャンの倫理は包括的です。それは、具体的なことと普遍的なこと、金銭的なことと関係的なこと、文字に書かれた言葉と語られた言葉、生き方と関係づくり、働きと礼拝、与えることと受けること等を含みます。生活のいかなる分野にも、盗みを持ち込んではなりません。なぜならわれわれは、完全な調和の中に生きるようにと招かれているからです。

使徒の勧告は、「盗んではならない」という否定を超えています。すなわち彼は、「労苦」せよ、と付け加えているのです。熱心に、正直に、勤勉に働け、ということです。パウロの新しい人は、プロテスタントの勤労の倫理の実践者であるばかりではなく、正直と誠実を新しいクリスチャン生活の基本的な美徳とし、人間関係の重要な原則としている人なのです。

パウロの労働哲学には、われわれも学ぶべき幾つかの教訓があります。キリストにある新しい人は、「労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるように」(4の28)すべきです。貴重な目的のために正直になされるすべての労働は、勤勉に果たされなければなりません。イエスは大工でした。パウロはテント職人でした。ペトロ、ヨハネ、ヤコブは漁師でした。マタイは徴税人でした。アモスはイチジクの実を集める人でした。モーセは羊飼いでした。正直な労働には意味と威厳があります。

第4に、新しい人は正しく語ります。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(4の29)。言葉は強力な道具です。それは人を建てもするし、壊しもします。言葉は、励ましの輪を広げることができるし、また悪意とうわさ話の悪徳の道具ともなることができます。使徒は、キリストにある新しい人は舌を制し、人を造り上げるのに役立つ言葉を語るべきだと勧めています。クリスチャンは言葉において、うわさ話や中傷等に入り込む余地を与えてはなりません(ヤコブ5の12)。言葉は人の徳を高め、上品なものでなければなりません。罪人には恵みが与えられ、孤独な人に愛が、苦しむ人に平安が与えられるような言葉でなければなりません。

「言っておくが」とイエスは次のように警告されました。「人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」(マタイ12の36、37)。

国際ロータリークラブには、そのすべての会員が言葉の手引として受け入れるべき次の四つのテストがあります。「それは真実であるか? それはすべての関係者にとって公平であるか? それは善意とより親密な交わりを樹立するだろうか? それは関係者すべてにとって有益だろうか?」実に素晴らしい原則です! メシア預言の中に、イザヤは次の言葉を含めています。「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え 疲れた人を励ますように 言葉を呼び覚ましてくださる」(イザヤ50の4)。

新しい生き方――新しい支配の下に(エフェソ4の30~32)

キリストにある生き方は、「聖霊により、贖いの日に対して保証されている」(エフェソ4の30)者として、聖霊の導きと支配の下に生きる生き方です。聖霊は新しい生き方の導き手です。聖霊は教師であり、弁護者であり、第3位の神であり、キリストをわれわれの内に住まわせてくださるお方です(ヨハネ14の16~26)。

エフェソにいるクリスチャンたちへの最初の訪問の折に、パウロは、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。彼らは驚くべき応答をしたのです。「聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」。彼らに聖霊について教えた後に、使徒は彼らに洗礼を授け、彼らの上に彼の手を置くと、「聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたり」(使徒言行録19の6)しました。

この経験は、エフェソの教会に絶大な影響を与えたに違いありません。使徒はこの書簡の中で、聖霊及び教会生活における聖霊の役割について、すくなくとも13回語っています。その幾つかを見てみると、エフェソの信徒への手紙2章18節は、異邦人とユダヤ人は共に聖霊の働きを通して神のもとに近づくことができると述べています。3章16節は、クリスチャンの内なる人に力を与える聖霊の内住について語っています。5章9節は、聖霊の実について述べており、6章17節は、神の言葉が霊の剣であると定義しています。

エフェソの信徒への手紙4章30節でパウロは、聖霊が贖いの日に対してわれわれを保証するお方であると述べています。使徒は聖霊のこの特別な働きについて既に語っていました。「あなたがたもまた……信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり」(エフェソ1の13、14)。この聖句の中に、われわれは現在の確信と将来の希望を持っています。その確信とは、われわれが御子の血によって贖われ、神の財産としての証印を押されているという確信です。神の御手からわれわれを奪い去るものは何もありません。われわれが失われる唯一の方法は、われわれ自身の決断によるのです。未来への希望は、万物が神のもとに一つに結ばれ、共に集められるその日に、われわれは安全で確実なわれわれの場所を見つけるという保証を聖霊がお与えになるというこの表明文の中にあります。

パウロは、クリスチャン及び会衆の生き方における聖霊の役割の重要性を、明らかに強調しています。従って彼は、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(4の30)と訴えているのです。これは恐らくクリスチャンの最も重要な霊的責任の一つでしょう。しかし、われわれがどのようにしたら聖霊を悲しませることになるのでしょうか?

この聖句の直接の文脈がその答を与えています。共同体に対するこれらの罪――偽り、盗み、怒り、憤り、無慈悲、悪意、親切と赦しの欠如――がキリストの体に住んでおられる聖霊を悲しませるのです。エフェソの信徒への手紙には、聖霊を悲しませる他の方法についても記されています。われわれが神の子らしく生きないとき(1の13)。神の住まいであるわれわれの体を汚すとき(2の22)。教会の一致を阻むとき(3の5)。古い人の生き方に帰るとき(5の17)。われわれのライフスタイルによってサタンが働く場を与えるとき(4の25~30)。ジョン・マッカーサーは、次のように述べています。「すべての罪は神に苦痛を与える。しかし神の子らの中にある罪は神の心を砕く。神の子らが、古い人の生き方を、新しい人の生き方に変えようとしないときに、神は悲しまれる。クリスチャンが真理を語らず偽りを語り、正しい怒りではなく不当に怒り、分け与えないで盗み、人の徳を高める優しい言葉ではなく、邪悪な言葉を語るのを見るときに、神の聖霊は、あたかも泣いておられるかのごとく悲しまれるのである」4

「神の聖霊を悲しませてはいけません」という勧告のすぐ後に、「捨てよ、身に着けよ」というもう一つの勧告が続きます。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」。次いで、互いに親切、憐れみの心を身に着けて、「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(エフェソ4の31、32)。

キリストの似姿、これがクリスチャンの新しい生き方の鍵です。

キリストにある生き方は、「聖霊により、贖いの日に対して保証されている」(エフェソ4の30)者として、聖霊の導きと支配の下に生きる生き方です。聖霊は新しい生き方の導き手です。聖霊は教師であり、弁護者であり、第3位の神であり、キリストをわれわれの内に住まわせてくださるお方です(ヨハネ14の16~26)。

エフェソにいるクリスチャンたちへの最初の訪問の折に、パウロは、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。彼らは驚くべき応答をしたのです。「聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」。彼らに聖霊について教えた後に、使徒は彼らに洗礼を授け、彼らの上に彼の手を置くと、「聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたり」(使徒言行録19の6)しました。

この経験は、エフェソの教会に絶大な影響を与えたに違いありません。使徒はこの書簡の中で、聖霊及び教会生活における聖霊の役割について、すくなくとも13回語っています。その幾つかを見てみると、エフェソの信徒への手紙2章18節は、異邦人とユダヤ人は共に聖霊の働きを通して神のもとに近づくことができると述べています。3章16節は、クリスチャンの内なる人に力を与える聖霊の内住について語っています。5章9節は、聖霊の実について述べており、6章17節は、神の言葉が霊の剣であると定義しています。

エフェソの信徒への手紙4章30節でパウロは、聖霊が贖いの日に対してわれわれを保証するお方であると述べています。使徒は聖霊のこの特別な働きについて既に語っていました。「あなたがたもまた……信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり」(エフェソ1の13、14)。この聖句の中に、われわれは現在の確信と将来の希望を持っています。その確信とは、われわれが御子の血によって贖われ、神の財産としての証印を押されているという確信です。神の御手からわれわれを奪い去るものは何もありません。われわれが失われる唯一の方法は、われわれ自身の決断によるのです。未来への希望は、万物が神のもとに一つに結ばれ、共に集められるその日に、われわれは安全で確実なわれわれの場所を見つけるという保証を聖霊がお与えになるというこの表明文の中にあります。

パウロは、クリスチャン及び会衆の生き方における聖霊の役割の重要性を、明らかに強調しています。従って彼は、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(4の30)と訴えているのです。これは恐らくクリスチャンの最も重要な霊的責任の一つでしょう。しかし、われわれがどのようにしたら聖霊を悲しませることになるのでしょうか?

この聖句の直接の文脈がその答を与えています。共同体に対するこれらの罪――偽り、盗み、怒り、憤り、無慈悲、悪意、親切と赦しの欠如――がキリストの体に住んでおられる聖霊を悲しませるのです。エフェソの信徒への手紙には、聖霊を悲しませる他の方法についても記されています。われわれが神の子らしく生きないとき(1の13)。神の住まいであるわれわれの体を汚すとき(2の22)。教会の一致を阻むとき(3の5)。古い人の生き方に帰るとき(5の17)。われわれのライフスタイルによってサタンが働く場を与えるとき(4の25~30)。ジョン・マッカーサーは、次のように述べています。「すべての罪は神に苦痛を与える。しかし神の子らの中にある罪は神の心を砕く。神の子らが、古い人の生き方を、新しい人の生き方に変えようとしないときに、神は悲しまれる。クリスチャンが真理を語らず偽りを語り、正しい怒りではなく不当に怒り、分け与えないで盗み、人の徳を高める優しい言葉ではなく、邪悪な言葉を語るのを見るときに、神の聖霊は、あたかも泣いておられるかのごとく悲しまれるのである」4

「神の聖霊を悲しませてはいけません」という勧告のすぐ後に、「捨てよ、身に着けよ」というもう一つの勧告が続きます。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」。次いで、互いに親切、憐れみの心を身に着けて、「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(エフェソ4の31、32)。

キリストの似姿、これがクリスチャンの新しい生き方の鍵です。

参考文献

1 エレン・G・ホワイト著『各時代の希望』上巻、11頁

2 Stott, p. 180.

3 エレン・G・ホワイト著『各時代の希望』中巻、41頁

4 John MacArthur, Jr, The MacArthur New Testament Commentary: Ephesians (Chicago: The Moody Bible Institute,1986),p.189.

この記事は、ジョン・M・ファウラー(山地明・訳)『エフェソの信徒への手紙』からの抜粋です。

ジョン・M・ファウラー
インドで生まれ、10代の頃に預言の声ラジオ放送を通してアドベンチストとなる。スパイサー・カレッジで神学学士を取得後、32年間、インドで牧師、教師、教会行政、編集に携わる。1990年、『ミニストリー』誌副編集長として世界総会に招聘される。1995年より世界総会教育部副部長。ニューヨーク・シラキュース大学よりジャーナリズム修士号、アンドリュース大学より博士号を授与される。教会誌および専門誌に300以上の記事を寄稿。『キリストとサタンの宇宙的争闘』ほか、数冊の著書がある。妻メリーとの間に2人の子供がいる。

よかったらシェアしてね!
目次