この記事のテーマ
ペトロの手紙は、当時の難しい社会問題のいくつかにも真正面から取り組んでいます。例えば、クリスチャンは抑圧的で腐敗した政府と——彼らのほとんどが当時体験していた異教のローマ帝国のような政府と——いかに共存すべきか、といった問題です。ペトロは読者に何と言っていますか。彼の言葉は、今日の私たちにとってどういう意味があるでしょうか。
クリスチャンの奴隷は、彼らの主人から厳しく不正に扱われるとき、いかに応じるべきでしょうか。現代の雇用主対被雇用者の関係は、1世紀の主人対奴隷の関係とは異なりますが、ペトロが語っていることは、理不尽な上司に対応しなければならない人々の心に、間違いなく響くでしょう。とても興味深いことに、クリスチャンがひどい扱いを受けたときにいかにふるまうべきかの模範として、ペトロはイエスと、同様のことに対するイエスのふるまいを挙げています(Iペト2:21〜24)。夫と妻は、とりわけ信仰心のような基本的な事柄において意見が異なるとき、いかに接しうるでしょうか。
最後に、実際問題として、社会的、政治的秩序が明らかに腐敗していて、キリスト教信仰に反するとき、クリスチャンはその社会秩序といかに関係しうるでしょうか。
教会と国家
聖書はずいぶん前に書かれたものですが、それにもかかわらず、クリスチャンと政府の関係といったような、今日的にも有意義な問題に触れています。
時として、その関係は明瞭です。黙示録13章は、政治権力に従うことが神に背くことを意味する時代について述べています。そのような場合、私たちが選びうる道は明らかです(木曜日の研究参照)。
Iペトロ2:13〜17を読んでください。ローマ帝国の悪は、その領土内に住む人たちによく知られていました。この帝国は、冷酷な軍隊を用いながら、野心的な男たちの多少気まぐれな意志に基づいて大きくなってきました。暴力によるあらゆる抵抗に遭遇しました。組織的な拷問と十字架刑による死が、この帝国が罰する者たちに与えたわずか二つの恐怖でした。ローマ政府は、縁故主義と腐敗によってむしばまれていました。支配層のエリートたちは、まったく傲慢かつ冷酷に権力を行使しました。こういったことにもかかわらず、ペトロは読者に、帝国内において人間が立てたすべての制度の権威を、皇帝から総督に至るまで認めなさい、と勧めています(Iペト2:13、14)。
ペトロは、皇帝や総督たちが悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめると論じています(Iペト2:14)。そうすることで、彼らは社会を形作るうえで重要な役割を果たします。
実際、数々の欠点にもかかわらず、ローマ帝国は安定をもたらしました。戦争をなくしました。過酷な正義ながらも、法の支配に基づく正義を広めました。道路を建設し、軍事上の必要を支えるための通貨制度を確立しました。そうすることによってローマは、人口が増え、たいていの場合繁栄できるような環境を生み出しました。このような観点から見れば、政府に関するペトロの言葉も合点がいきます。完璧な政府などありませんし、ペトロや、彼が手紙を書き送った先の教会を治めている政府も完璧ではありません。それゆえ、私たちがペトロから学べることは、クリスチャンは、たとえ彼らがそのもとで暮らしている政府が完璧には程遠いにしても、可能な限り国法に従いながら、善良な市民であろうとする必要があるということです。
主人と奴隷
Iペトロ2:18〜23を読んでください。この聖句を注意深く読むと、この箇所は、奴隷制度の承認ではなく、ある時点で変えようのない困難な状況をどう考えるかということに関する霊的勧告を与えていることがわかります。
Iペトロ2:18で「召し使い」とか「僕」と訳されているギリシア語(「オイケテース」)は、特に家事をする奴隷に用いられる言葉です。奴隷をあらわすもっと一般的な「ドゥーロス」という言葉はエフェソ6:5で使われており、この聖句も同じような助言を奴隷たちに与えています。
高度に階層化されたローマ帝国において、奴隷は、主人の完全な支配下にある法的な所有物とみなされ、主人たちは奴隷を大事にも残酷にも扱うことができました。奴隷の出どころはさまざまで、敗軍の兵士、奴隷の子ども、借金を返すために売られた者たちなどでした。中には大きな責任をゆだねられる奴隷もいました。主人の大規模な不動産を管理する者もいれば、主人の財産や事業を管理する者、主人の子どもたちを教育する者さえいました。
奴隷の自由はお金で買うことができ、そのような場合、奴隷は「贖われた」と表現されました。パウロはこの言葉を使って、イエスが私たちのために成し遂げてくださったことをあらわしています(エフェ1:7、ロマ3:24、コロ1:14)。
初期のクリスチャンの多くが奴隷であったということを覚えておくことは重要です。そういうわけで彼らは、自分たちが変えることのできない制度の中に組み込まれていることを知っていました。不幸にも厳しくて理不尽な主人を持つ者たちは、とりわけ困難な状況の中にあり、よりよい主人を持つ者たちでさえ、苦しい状況に直面することがありました。奴隷であったすべてのクリスチャンに向けたペトロの指示は、新約聖書のほかの言葉と一致しています。キリストが服従し、耐えられたように、奴隷たちも服従し、耐えなければなりません(Iペト2:18〜20)。罪を犯して、その罰を苦しんでも、何ら誉れはありません。キリストの本当の精神は、不当にも苦しんでいるときにあらわされます。イエスと同様、そのようなときにクリスチャンは仕返しをしたり、脅したりせず、公正に裁かれる神に身をゆだねます(同1:23)。
妻と夫
Iペトロ3:1〜7を読んでください。この聖句においてペトロが扱っている問題を、注意深い読者が理解できるようになる重要な糸口が聖句の中に一つあります。1節でペトロは、「御言葉を信じない」夫について語っているのだ、と述べています。言い換えれば、クリスチャンの妻がクリスチャンでない夫と結婚しているとき(たとえ、信じない者の数が少なくても)、どのようなことが起きるかについて、ペトロは語っています。
クリスチャンの妻は、信仰を異にする夫と結婚生活を送る中で、多くの難しさを感じるでしょう。そのような状況において、どうすべきでしょうか。彼女は夫と離婚するべきでしょうか。ペトロは、ほかの箇所におけるパウロと同様(Iコリ7:12〜16参照)、クリスチャンの妻が信仰のない夫から去るように勧めてはいません。むしろ、信者でない夫を持つ妻は、模範的な生活を送る必要があると、ペトロは言います。
1世紀のローマ帝国において女性たちが手にできる役割は、たいてい個々の社会によって決定されました。例えば、ローマ人の妻は、ペトロが手紙を書いている先のほとんどの女性たちより、財産や法的救済策に関する法律のもとで多くの権利を手にしていました。しかし1世紀のある社会では、女性たちが政治や行政、ほとんどの宗教の指導に関わることはできませんでした。ペトロはクリスチャンの女性たちに、自分のいる状況において称賛に値する一連の基準を持つようにと勧めています。彼は畏敬の念と純潔さを勧めています(Iペト3:2)。彼はまた、クリスチャンの女性は、流行のヘアースタイルや宝石や高価な服で身を飾ることよりも、内面的な美しさに関心を持つべきと提言しています(同3:3〜5)。クリスチャンの女性は、最も親しい形で同居する者(つまり、彼女の夫)にキリスト教を魅力的に思わせるような態度でふるまうでしょう。
ペトロの言葉は夫たちによって、いかなる形であれ、妻を虐待する許可証と受け取られるべきではあません。彼が指摘しているように、夫たちは自分の妻に思いやりを示すことができます(Iペト3:7)。
ペトロは(信者でない男性と結婚しているクリスチャンの妻という)具体的な問題を扱っていますが、私たちはクリスチャンの結婚の理想についても垣間見ることができます。クリスチャンの夫婦は互いに支え合い、日々の活動を通して神を礼拝しながら、曇りのない誠実さをもった生き方をしましょう。
社会的関係
ローマ13:1〜7、エフェソ5:22〜33、Iコリント7:12〜16、ガラテヤ3:27、28を読んでください。パウロは、Iペトロ2:11〜3:7で提起された問題のいくつかを扱っています。彼が言っていることは、ペトロの手紙Iの中に見いだされることと非常に一致しています。例えば、ペトロと同じく、「上に立つ権威」(ロマ13:1)に従いなさいと、パウロは読者に勧めています。支配者は神によって任命され、悪を行う者には恐ろしい存在、善を行う者にはそうではありません(同13:3)。従ってクリスチャンは、「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(同13:7)と言われています。
パウロはまた、信者でない夫と結婚している女性は模範的な生き方をするなら、その結果として、彼女の夫が教会に加わるでしょう、と強調しています(Iコリ7:12〜16)。パウロにとってのクリスチャンの結婚の理想は相互依存的な結婚です。夫は、キリストが教会を愛してこられたように、自分の妻を愛さなければなりません(エフェ5:25)。さらに彼は、奴隷はキリストに従うように、この世の主人に従いなさい、と勧めています(同6:5)。
つまりパウロは、法律によって定められた文化的境界の中で働こうとしていました。彼は、自分たちの文化に関して変えられることと変えられないことを理解していました。しかし、彼はまた、人間に対する社会の考え方を最終的に変えるものもキリスト教の中に見ていました。キリストが社会秩序を変えるためにいかなる種類の政治的改革も引き起こそうとなさらなかったように、ペトロも、パウロも、そうしようとはしませんでした。そうではなく、変化は敬虔な人々の影響力を社会に少しずつ与えることによって起こるのです。
問1
ガラテヤ3:27〜29を読んでください。これは明らかに神学的な発言ですが、(イエスが成し遂げてくださったことのゆえに)クリスチャンの相互の人間関係について、この聖句には説得力のあるどんな社会的な意味がありますか。
キリスト教と社会秩序
パウロも、ペトロも、人間の組織や政府が不完全であり、ときとして罪深いことを知っていました。また彼らは、政府や宗教指導者たちとの間で苦い経験を味わいました。しかしそれにもかかわらず、クリスチャンは人間の権威者に従いなさい、と勧めています(Iペト2:13〜17、ロマ13:1〜10)。クリスチャンは国民の義務として課せられる税金や労役に貢献しなさいと、彼らは言います。できる限り、クリスチャンは模範的な市民になる必要があります。
問2
使徒言行録5:27〜32を読んでください。ペトロとほかの使徒たちがこの出来事の中で実際に行ったことと、権威者に対してなすべきだ、とペトロが言う服従との間には(Iペト2:13〜17)、どのような関係がありますか。
キリスト教会の初期の成功は、ペトロとヨハネの逮捕につながりました(使徒4:1〜4)。2人は、議員、長老、律法学者たちによって尋問され、その後、説教することをやめなさい、という厳しい警告とともに釈放されます(同4:5〜23)。しかしほどなくして、彼らは再び逮捕され、なぜ権威者たちが命じたことに従わなかったのか、と問われました(同5:28)。するとペトロは、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(同5:29)と答えました。
ペトロは、言っていることとやっていることが違う偽善者ではありませんでした。神に従うか、人間に従うかが問題になったとき、その選択は明らかでした。その時点までは、たとえクリスチャンは社会的改革を起こそうと働きながらも、政府を支持し、政府に従うのです。しかし道徳的問題が争われるとき、クリスチャンはイエスの価値観や教えを反映するような社会的改革を合法的に推進することにこれまで関わってきましたし、これからも関わるでしょう。それがどのようになされるかは多くの要素によって決まりますが、忠実で誠実な市民であるというのは、クリスチャンが社会を改善できないとか、改善しようとすべきではないということを意味するわけではありません。
さらなる研究
参考資料として、『各時代の大争闘』第36章「差し迫った戦い」、第37章「ただ一つの防壁——聖書」、第39章「大いなる悩みの時」を読んでください。
アドベンチストは善良な市民であり、国の法律に従うようにと、エレン・G・ホワイトは提唱しました。彼女は、地元の日曜休業令に公然とはなはだしく背くべきではないとさえ、人々に言いました。つまり、神が命じられたように聖なる第七日安息日は守らなければならないが、日曜日の労働を禁じる法律を故意に破る必要はないということです。しかし、一つの事例について、アドベンチストはその法律に従わなくてよいと、彼女の立場ははっきりしていました。もし奴隷が主人のもとから逃れて来たなら、法律は、その奴隷を主人に戻すようにと求めていました。ホワイト夫人はその法律を激しく非難し、その結果にかかわらず、従わないように、とアドベンチストたちに語ったのです。
「人間の法律が神の言葉や律法と対立するとき、たとえどんな結果になろうとも、わたしたちは後者に従うべきです。わが国の法律は、奴隷をその主人に引き渡すようにと要求しています。わたしたちは従うべきではありません。すると、わたしたちはこの法律に違反した結果を負わねばなりません。奴隷はいかなる人の所有物でもありません。神が奴隷の正当な主人です。人間には、神が創造された作品を自分の手中に収め、自分のものだと主張する権利はありません」(『教会への証』第1巻分冊①211ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2017年2期『「わたしの羊を飼いなさい」ーペトロの手紙I・Ⅱ』からの抜粋です。