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聖書記者たちは、人間が罪深いという現実を知っていました。知らないわけがありません。この世は罪のにおいであふれています。加えて、彼らは自分自身の罪深さも知っていました(Iテモ1:15参照)。それがどれほど深刻であるかも知っていました。結局のところ、罪の問題を解決するために必要だったもの(イエス・キリストの十字架)に目を向けてください。それほど罪の現実は深く、広範囲にわたります。しかし聖書記者たちは、私たちの人生を変え、私たちを新しい人にするキリストの力もよく知っていました。
今週、ペトロはこの路線の話——クリスチャンが神に献身し、バプテスマを受けたあとに、キリストにあって送る新しい人生に関する話——を続けます。実際、その変化は大きいので、ほかの人がそれに気づくでしょう。ペトロは、このような変化が常に簡単なものだとは言っていません。確かに彼は、私たちに約束されているその勝利を得るためには、肉において苦しむ必要があると語っています(Iペト4:1)。
ペトロは、聖書の中に行き渡っている一つの主題、つまりイエスを信じる者たちの人生における愛の現実という主題を続けています。「愛は多くの罪を覆う」(Iペト4:8)と、彼は書いています。私たちが愛し、赦すとき、私たちは、イエスが私たちのためにすでになさり、今もなさることを再現しています。
「心を一つに」
Iペトロ3:8〜12を読んでください。ペトロは、みんなが「心を一つに」(ギリシア語で「ホモフロネス」)するように、と語りだします。彼は、だれもがまったく同じことを考え、行い、信じるという意味の画一性について述べているのではありません。彼の考え方を最もよく示している例は、Iコリント12:1〜26の中にあります。パウロはその箇所で、体がさまざまな部分でできていることを指摘しています。手や目などがあるのに、それぞれの部分が集まって全身を作り上げています。同様に、教会も異なる霊的な賜物を持つ個人によってできています。彼らは結束した共同体を形成するために協力して働くのです。
当然、そのように一致団結することは、必ずしも容易ではありません。悲しいかな、キリスト教会の歴史は、このことを頻繁に示してきました。それゆえ、ペトロは信者たちに、考えが一致しないことを戒めています。それから彼は、彼らがいかにしてこの一致というキリスト教の理想を示すことができるかを語っています。
例えば、クリスチャンは同情し合って行動すべきです(Iペト3:8)。同情とは、あるクリスチャンが苦しむとき、ほかのクリスチャンがともに苦しむこと、別のクリスチャンが喜ぶとき、ほかのクリスチャンがともに喜ぶことを意味します(Iコリ12:26と比較)。同情は、私たちがほかの人の視点を理解できるようにさせます。それは一致に至る重要な一つの段階です。ペトロは次に、私たちは「愛し合う」(同3:8、英訳)ようにと言います。イエス御自身が、彼の真の弟子たちを見分ける方法は、彼らが愛し合っていることによってである、と言われました(ヨハ13:35)。さらにペトロは、クリスチャンは憐れみ深くあるように、と言います(Iペト3:8)。彼らは互いの問題や失敗に同情を寄せるのです。
「自己を十字架につけなさい。あなた自身よりも、ほかの人を高く評価しなさい。そうすれば、あなたはキリストと一体になるだろう。全天の前に、教会とこの世の前に、あなたが神の息子、娘であるという明白な証拠を、あなたは示すことになる。神は、あなたが示した模範によって栄光をお受けになるのである」(『教会への証』第9巻188ページ、英文)。
肉において苦しむ
イエスは私たちの罪のために亡くなられ、私たちの救いの希望は彼の中に、彼の義の中にのみあります。私たちはその義によって覆われ、神の目に義と認められるようなるからです。あなたが「神の前に全く罪を犯したことのない者として受け入れられる」(『キリストへの道』改訂版93ページ)のは、イエスのゆえです。
しかし神の恵みは、私たちの罪が赦されたという断言や宣言だけで終わるのではありません。神は罪に勝つ力をも与えてくださいます。
Iペトロ3:18、21、4:1、2とともに、ローマ6:1〜11を読んでください。Iペトロ3:18で用いられている一つの小さなギリシア語は、イエスの犠牲の包括的な性質を強調しています。それは「ハパクス」という言葉で、「一度限り」という意味です。ペトロは、イエスの苦しみと、私たちのための彼の死の包括的な性質を強調するためにこの言葉を用いています。
Iペトロ4:1の「このように」(口語訳)という言葉は、3:18〜22で言われたばかりのことと、4:1、2とを結びつけています。ペトロがそれらの前の聖句において指摘したのは、キリストが私たちの罪のために苦しまれたということ、それは、キリストが私たちを神のもとへ導き(同3:18)、「洗礼(が)、今や……あなたがたをも救う」(同3:21)ためだということです。
「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです」(Iペト4:1)というペトロの言葉を理解するのに最も役立つのは、バプテスマでしょう。クリスチャンはバプテスマによって、イエスの苦しみ、死、復活にあずかります。
「人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きる」(同4:2)選択をしました。これは、日々自己を主に明け渡すこと、「肉を欲情や欲望もろとも十字架につけ」(ガラ5:24)ることによって成し遂げられます。
パウロはローマ6:1〜11において、クリスチャンはバプテスマを受けたときイエスと一体になり、その死と復活にあずかると言っています。バプテスマにて、私たちは罪に死にました。今や私たちは、罪に対する死を私たちの生において現実のものとする必要があります。「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(ロマ6:11)というパウロの言葉は、クリスチャン生活の秘訣を明らかにしています。
生まれ変わる
キリストによって、私たちには新しい命、新しい始まりがあります。私たちは生まれ変わります。このことが何か意味を持つのであるとすれば、とりわけ大人になってからキリストを受け入れた者たちにとって、それは、彼らがこれまでとは違う人生を送ることを意味します。イエスと彼の救いの恵みのゆえに根本的に変えられる体験をした人たちの信じがたい物語を聞いたことのない人がいるでしょうか。
実際ペトロは、自己に死ぬことと、イエスにおいて新しい命を得ること(バプテスマを受けて彼の死と復活にあずかったこと)について語ったあと、次に人が経験するであろう変化について述べています。
問1
Iペトロ4:3〜6を読んでください。1人の人間の生活に、どのような変化が起きるでしょうか。ほかの人はその変化にどう反応しますか。
アルコールの乱用に関してペトロが用いている三つの言葉は、「泥酔」「酒宴」「暴飲」です。現代的な表現を使うなら、パーティーで大騒ぎする日々は終わった、ということです。それどころか、ペトロによれば、クリスチャンが経験する変化は非常に大きいので、そのクリスチャンの過去の人生を知る人々は、彼(または彼女)がそのような「乱行」に加わらなくなったことを「不審に思(う)」(Iペト4:4)のです。このように、説教をすることなく、不信心な人たちにあかしをする機会がそこにはあります。敬虔なクリスチャンの生活は、この世のあらゆる説教よりもずっとあかしになりうるのです。
聖書のほかの箇所(ヨハ5:29、IIコリ5:10、ヘブ9:27)と同様、ペトロはここで、いつの日か「肉における」(Iペト4:2)行為に対する裁きがあるだろう、とはっきり述べています。また彼は、「死んだ者にも福音が告げ知らされた」(同4:6)と語っていますが、それは、過去においても、今や死んでいる人々が生きていたときに神の救いの恵みを知る機会があったということです。それゆえに、神は彼らをも公正に裁くことがおできになるのです。
肉の罪
人々が過去に行っていた悪行で、イエスの信者になってからやめたことを列挙する中で、ペトロは「性的な罪」と呼ぶべきものも挙げています。
Iペトロ4:3を読み直してください。二つの言葉が、明らかに性的な意味を含んでいます——「好色」(原語は「肉欲にふけること」を意味する「アセルゲイア」)と「情欲」(原語は「激しい性欲」を意味する「エピスミア」)です。
しかし、クリスチャンが性生活に誤った印象を与えてしまうことは、あまりにも簡単です。聖書は性交を否定していません。それどころか、性交を創造し、大いなる祝福となるよう性生活を人類にお与えになったのは、神でした。性生活は、当初からエデンにありました。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(創2:24、25)。それは、子どもを育てる最良の背景を形成する生涯の誓いにおいて、夫と妻を結びつける重要な構成要素の一つとなるべきものでした。そして、この近しさと親密さは、神が御自分の民にも求めておられるものを反映するのです(エレ3章、エゼ16章、ホセ1〜3章参照)。
結婚している男女の間という正しい場所において、性生活は大きな祝福です。が、間違った場所、誤った状況において、それは世界で最も大きな破壊的力の一つになりえます。このような罪がすぐにもたらす破滅的な「結果」は、人間の予測を超えています。このすばらしい賜物の悪用によって台なしになった人生について知らない人が、私たちの間にいるでしょうか。
次の聖句には共通点があります(サム下11:4、Iコリ5:1、創19:5、Iコリ10:8)。言うまでもなく、こういった罪が引き起こした痛みや苦しみの物語を知るために、だれも聖書を必要としません。
しかし、私たちは慎重でもなければなりません。確かに、この手の罪は人々に激しい悪影響を与えることがありますが、社会はそれらを非難する傾向があるからです。しかし、罪は罪であって、キリストの死は性的な罪をも覆います。あなたはクリスチャンとして、とりわけこの慎重に扱うべき領域で、「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」(ルカ6:42)ように注意すべきです。
愛はすべてを覆う
ペトロの時代でさえ、クリスチャンはキリストの速やかな帰還と現在のこの世の終わりを期待しながら生きていました。Iペトロ4:7から、このことがわかります。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」。言い換えれば、終わりに備えなさい、ということです。実質的に「終わり」は、私たち1人ひとりに関する限り、死んだあとの一瞬にすぎません。私たちは死ぬときに目を閉じ、その後数千年が過ぎようと、数日しか過ぎまいと、次に私たちが目にするのは、キリストの再臨とこの世の終わりです。
ペトロによれば、「万物の終わりが迫ってい(る)」ので、クリスチャンの生き方が述べられています(Iペト4:7〜11参照)。思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈ることに加えて、クリスチャンは「心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」(同4:8)。
これはどういう意味でしょうか。愛はどのように罪を覆うのでしょうか。鍵は、ペトロが引用している箴言10:12の中にあります。「憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う」。私たちが互いに愛し合っているとき、私たちは、自分を傷つけ、怒らせる相手を、よりたやすく、より進んで赦すことができます。キリストはその愛によって私たちをお赦しになります。私たちも自分の愛によってほかの人を赦す必要があります。愛にあふれている場所では、小さな侮辱が、そして大きな侮辱さえもが、よりたやすく見逃され、赦されます。
確かにペトロは、イエスやパウロと同じ考えをあらわしていました。2人は、すべての律法が、神を心から愛し、隣人を自分のように愛すという義務に要約されると言っています(マタ22:34〜39、ロマ13:8〜10)。
ペトロはまた、クリスチャンは温かくもてなしなさい、と勧めています。再臨は近いかもしれませんが、それを理由に、クリスチャンは社会的関係から身を引くべきではありません。そして最後に、クリスチャンは語るとき、神の言葉を語っている者にふさわしい語り方をしなければなりません。言い換えれば、時が迫っているので、霊的真理を真剣に伝える必要があるということです。
さらなる研究
「長く耐え忍ぶ愛と親切は、無分別を大きく拡大したり赦されない違反に導いたりせず、他の人々の間違いの元を作ることはしません。聖書ははっきりと、間違いを犯した人には寛容と十分な考慮を持って接するように教えています。正しい方法に従うならば、見たところ強情な心はキリストに勝ち取ることができます。イエス様の愛は諸々の罪を覆っています。彼の優雅さは積極的な必要性がない限り、他人の間違いを決して公表することはありません」(『次世代につなぐ信仰——両親、教師、生徒への勧め』202ページ)。
例えば、姦通の現場で捕らえられた女性とイエスのことを考えてみてください(ヨハ8:1〜11)。通常、私たちはこれを、罪深い女性に対するイエスの憐れみの物語とみなしています。それは間違っていません。しかし、そこにはもっと深い要素もあるのです。この女性を連れて来た宗教指導者たちとの対決において、なぜイエスは「彼ら自身の生活の罪の秘密」(『希望への光』912ページ、『各時代の希望』中巻247ページ)を地面の上に、つまり言葉がすぐに消し去られてしまう場所に、書かれたのでしょうか。なぜイエスは彼らをあからさまに非難し、この女性の罪と同じくらい悪いか、あるいは一層悪い彼らの罪についてご存じのことを、みんなの前で公表されなかったのでしょうか。イエスはそうする代わりに、彼らの偽善と悪を知っていることを示されたものの、ほかの人たちにそれをさらそうとはなさいませんでした。おそらくそれは、これらの宗教指導者たちに働きかけ、御自分が彼らの意図を知っていることを示し、彼らに救われる機会を与えるイエスの独自のやり方だったのでしょう。罪を犯した人と私たちが向かい合う必要があるとき、これは実に有効な教訓です。
*本記事は、安息日学校ガイド2017年2期『「わたしの羊を飼いなさい」ーペトロの手紙I・Ⅱ』からの抜粋です。