この記事のテーマ
新約聖書に関して驚くことの一つは、非常に限られた文章量の中に、どれほど多くの真理が目白押しかという点です。IIペトロ1:1〜15を学ぶ今週の研究を例に取り上げましょう。この15節の中で、ペトロは信仰による義について教え、次に、自分をイエスにささげた人たちの人生の中に神の力がなしえることを取り上げます。そして彼は、私たちが「神の性質にあずかる者」(IIペト1:4、口語訳)になり、この世の情欲と退廃を免れることができるというすばらしい真理について語ります。そのうえ、私たちはクリスチャンの徳の目録のようなものを手に入れることができるだけでなく、ペトロはそれらを特定の順序で述べています。一つの徳のあとに別の徳、そのあとにさらに別の徳というように続き、それらは最終的に最も重要な徳で頂点に達します。
ペトロはまた、キリストにあるということ、以前の罪から「清められた」(IIペト1:9)ということが何を意味するのかについて書き、続いて、救いの確信という考え、主の「永遠の御国」(同1:11)における永遠の命の約束さえ持ち込んでいます。
そして最後には、死者の状態という重要な話題に関する短い説教もしています。わずか15節の中に、なんと多くの豊かで深い真理が含まれていることでしょう!
尊い信仰
IIペトロ1:1〜4を読んでください。この手紙は、「わたしたちと同じ尊い信仰を受けた人たちへ」(IIペト1:1)宛てたものだと、ペトロは冒頭で述べています。「尊い」と訳されている言葉は、「同じ価値の」とか、「同じ特権の」といった意味です。彼は、彼らがこの尊い信仰を「受けた」と言っています。彼らがそれを「獲得した」とか、彼らがそれを「得るに値していた」と言わずに、それを神からの賜物として「受けた」と述べています。パウロが、「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェ2:8)と書いているとおりです。その信仰が尊いのは、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(ヘブ11:6、口語訳)からであり、私たちは信仰によって多くのすばらしい約束を握っているからです。
ペトロは、イエスの「神の力」(IIペト1:3)が命と信心に関わるすべてのものを私たちに与えた、と強調しています。神の力によってのみ、私たちは存在し、神の力によってのみ、私たちは聖さを獲得することができるのです。そしてこの神の力は、「ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識」(同口語訳、さらにヨハ17:3も参照)を通じて私たちに与えられます。
私たちは神を愛すように呼びかけられていますが、知らない神を、どうしたら愛すことができるのでしょうか。私たちが神を知るようになるのは、イエス、聖書、被造世界、信仰と服従の実生活の体験などを通してです。私たちが神と神の現実性を知るのは、神が私たちの生活の中でなさることを体験するときです。
次にペトロは、さらに信じがたいことを言います。私たちには、「尊くすばらしい約束」(IIペト1:4)も与えられており、それには、「神の本性」(同)にあずかる者となることが含まれていると……。もともと人間は神のかたちにかたどって創造されましたが、すでにそのかたちは大きく損なわれ、退化しています。私たちが生まれ変わるとき、私たちはイエスによって新しい命を持ち、そのイエスが神のかたちを私たちの中に回復するために働いてくださるのです。しかし、もし私たちがこのような変化を起こしたいと望むのなら、この世の退廃や情欲から逃れなければなりません。
愛——クリスチャンの徳の目標
IIペトロ1:5〜7を読んでください。徳を列挙することは、古代世界の哲学者たちの間ではよく見られることでした。そのようなリストは、しばしば「徳の目録」と呼ばれ、新約聖書の中にもいくつか例があります(ロマ5:3〜5、ヤコ1:3、4、ガラ5:22、23)。かなりの確率で、ペトロの読者はこういったリストに慣れ親しんでいたはずですが、哲学者が列挙する徳とペトロが列挙している徳との間には、興味深い違いがあります。ペトロがこれらの徳を意図的な順序で並べ、それぞれの徳は先行する徳を土台にしており、最終的に愛において頂点に達している点に注目してください!
ペトロが用いているそれぞれの徳には、重要な意味があります。
「信仰」——ここでの信仰とは、救いを人にもたらすイエスに対する信心にほかなりません(ガラ3:11、ヘブ10:38参照)。
「徳」——徳(ギリシア語で「アレーテー」)、つまりあらゆる種類の善良さは、古代思想家の間でさえ歓迎されました。確かに、信仰は不可欠です。しかし、それは変えられた生き方、徳があらわれている生き方につながる必要があります。
「知識」——ペトロはイエス・キリストとの救いの関係によってもたらされる知識について語っています。
「自制」——成熟したクリスチャンは、衝動を、とりわけ過度になる衝動を抑えることができます。
「忍耐」——忍耐とは、とりわけ試練や迫害に遭遇した際に耐えることです。
「信心」——異教世界では、「信心」と訳されているこの言葉は、異教の神への信仰から生じる道徳的な行動を意味します。新約聖書の中では、唯一なる真の神に対する信仰から生じる道徳的な行動という概念を持っています(Iテモ2:2)。
「兄弟愛」——クリスチャンは家族同然であり、信心は、教会員が互いに親切である共同体をもたらします。
「愛」——ペトロのリストは、愛において頂点に達しています。彼の言葉はパウロの言葉のようにも聞こえます。(Iコリ13:13)。
あるべき姿になりなさい
クリスチャンとして私たちが熱心に求めるべきもののリストを与えたあと、次にペトロは、その結果がどうなるかについて明言しています。
IIペトロ1:8〜11を読んでください。ペトロは読者に、イエスによって可能となる新しい現実に従って生きなさい、と勧めています。信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛といった特徴が彼らに「備わり、ますます豊かになる」(IIペト1:8)ためです。
問題は、すべてのクリスチャンがこの新しい現実に従って生きるわけではないという点です。中には、私たちの主イエス・キリストを知っても、役に立たず、実を結ばない人がいます(IIペト1:8)。そのような人たちは、彼らが「以前の罪」(同1:9)から清められたことを忘れているのです。彼らはキリストにおいて、赦し、清め、神の本性にあずかる権利を得ました。ですから、彼らは「召されていること、選ばれていることを確かなものとするように、いっそう努め」(同1:10)なければなりません。かつてのように生きることや、「実を結ばない」クリスチャンでいることに、弁解の余地はありません
「私たちは、信仰については多くのことを聞きますが、行いについてもっと多くのことを聞く必要があります。多くの人は、気楽で融通のきく、十字架のない宗教によって自分を欺いています」(エレン・G・ホワイト『信仰と行い』56ページ)。
問1
ローマ6:11を読んでください。パウロはここで、きょうの聖句の中でペトロが書いた内容を反映するどんなことを言っていますか。
ある意味で、ペトロもパウロも、「あるべき姿になりなさい」と言っているのです。私たちは罪から清められ、キリストによって新しく造られた者、神の本性にあずかる者です。だから私たちは、私たちに命じられているような人生を送ることができます。私たちは「キリストのように」ならなければなりません。それが、「クリスチャン」であるということなのです。
仮の宿を脱ぎ捨てる
「わたしは、自分がこの体を仮の宿としている間、あなたがたにこれらのことを思い出させて、奮起させるべきだと考えています。わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです」(IIペト1:13、14)。
1956年、ルター派の新約聖書学者オスカー・クルマンは、『霊魂の不滅か死者の復活か——新約聖書の証言』という短い研究論文を書き、復活という概念と霊魂の不滅という概念はまったく相いれない、と論じました。さらに、新約聖書は死者の復活をまったく支持しているとも書きました。彼はのちに、「私の出版物で、これほどの歓迎とこれほどの激しい反対を受けたものはほかになかった」と記しています。
Iコリント15:12〜57を読んでください。死や復活について新約聖書が述べていることに関する1つの研究は、クルマンが正しいと、ほとんどの新約聖書学者を納得させました。新約聖書は確かに、肉体の死のあとに残る霊魂の不滅という考えではなく、復活という考えを当然のものとみなしています。例えば、Iテサロニケ4:16〜18においてパウロは、愛する者と死別した人たちが、再臨のときにイエスが死者を復活させられるということを知って慰められるように、と励ましています。
Iコリント15:12〜57では復活についてさらに詳しく述べており、まずパウロは、キリスト教信仰がイエスの復活に根差していると指摘することから論じ始めています。もしイエスが復活されなかったら、彼に対するいかなる信仰も無駄です。しかし、パウロは言います。キリストは、すでに眠りについた者たちの初穂として確かに復活された、と。そして、キリストが死者の中から復活されたことで、彼を信じて眠っている者たちもみな、死者の中から復活することができるのだ、と。
Iコリント15:35〜60において、パウロは復活の体について語っています。彼は、復活のときに私たちが受ける新しい体と私たちの現在の体を比較しています。私たちが現在持っている体は死にますが、私たちが復活のときに得る体は死にません。
要するに、新約聖書が死について語るとき、それは霊魂の不滅の観点からではなく、復活の観点から語っているということです。IIペトロ1:12〜14を読むうえで、この点を背景として知っておくことが重要です。
死に臨んでの信仰
IIペテロ1:12〜15(口語訳)を読んでください。この箇所は、この手紙が書かれた時期を明らかにしています。ペトロは、間もなく亡くなろうとしており、この手紙には彼の最後のメッセージ、最後のあかしが含まれています。
ペトロがほどなくして死ぬであろうことは、「私が地上の幕屋にいる間は……私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っている……」(IIペテ1:13、14、新改訳)という表現によって明らかです。彼は体を「幕屋」にたとえており、その体は、彼が亡くなるときに脱ぎ捨てるものです。実際に、ペトロが「幕屋を脱ぎ去る」と言うときに彼の体を意味していることは明らかなので、現代の聖書翻訳者たちは先の聖句を、「私がこの体の中にいる間は……私は自分の死が近いことを知っている……」(英訳聖書からの直訳)と訳す傾向があります。「幕屋を脱ぎ捨てる」とペトロが言うとき、その言葉の中に、彼の魂が独立した存在として生き残ることをうかがわせるようなものは一切ありません。
IIペトロ1:12〜15を読み直してください。この聖句は、ペトロの言葉にさらなる厳粛さを加えます。彼は、自分の人生が間もなく終わることを知りつつ、これを書いています。彼がそのことを知っているのは、記されているとおりに、「主イエス・キリストが示された」からです。しかし、恐れ、不安、不吉さは、まったく見当たりません。それどころか、彼は、あとに残す人々の幸福を重視しています。ペトロは、彼らが「いま持っている真理」(口語訳)を固く信じることを願い、忠実でありなさいと、(自分が生きている限り)彼らを諭そうとしています。
私たちはここに、ペトロの、主と交わった体験の現実と深さを見ることができます。確かに、彼は間もなく亡くなり、しかもその死は好ましいものにはなりませんが(ヨハ21:18、『患難から栄光へ』第52章の最後の数段落参照)、彼の無欲な関心は他者の利益なのです。ペトロは確かに、自分が教えた信仰を生き抜いた人でした。
さらなる研究
すでに触れたように、ペトロは間もなく死ぬことを知っていました。しかも(長年の間)、どのように死んでいくのかも知っていました。なぜなら、イエス御自身が彼に、「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハ21:18)と言われたからです。
彼の最期はどのようなものだったのでしょうか。「ペテロはユダヤ人であり外国人として、むちで打たれて十字架につけられる刑が宣告された。この恐ろしい死を目前にして、使徒は、イエスの裁判の時にイエスを拒んだ自分の大きな罪を思い出した。かつては十字架を認める準備のできていなかった彼は、今、福音のために命をささげることを喜び、ただ、主を拒んだことのある自分は、主と同じ死に方をするという大きな栄誉には値しないということしか思わなかった。ペテロはその罪を心から悔いて、キリストにより既にゆるされていた。羊と群れの小羊を養う高い使命が彼に与えられていたことがそれを示している。しかし彼は自分を決してゆるすことができなかった。最後の恐ろしい場面の苦しみを考えてさえも、彼のはげしい悲しみと後悔の念は軽くならなかった。最後の願いとして、彼は頭を下に向けて十字架に釘づけされるようにと執行人に頼んだ。この願いは聞き入れられて、この方法で偉大な使徒ペテロは死んだ」(『希望への光』1561ページ、『患難から栄光へ』下巻240ページ)。このようになるという見通しにもかかわらず、彼の関心は群れの霊的な幸福だったのです。
*本記事は、安息日学校ガイド2017年2期『「わたしの羊を飼いなさい」ーペトロの手紙I・Ⅱ』からの抜粋です。