【ペトロの手紙1・2】預言と聖書【1章解説】#10

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ペトロの手紙を学び続けるにつれ、一つの点が際立ってきます。それは、ペトロが自ら書いていることにどれほど自信と確信を持っているか、という点です。同じことがパウロにも見られます。イエス・キリストとその十字架について宣べ伝えていることに対する明確で確固たる信念です。

今回の聖句(IIペト1:16〜21)の中に、私たちはペトロのこの確信をさらに見るでしょう。彼は、なぜそのような確信を持っているのか、理由さえ述べています。彼は、「巧みな作り話」(IIペト1:16)——例えば、当時の異教を成り立たせていたような作り話——を信じているのではない、と言っています。そうではなく、ペトロは二つの理由によって、彼が信じたことに確信を持っていたのです。

第一の理由は、彼が「わたしたちの主イエス・キリスト」(IIペト1:16)の目撃者であったこと。第二の理由は、(ほとんどの人は目撃者になれないので)こちらのほうが重要なのですが、「確かな預言のみことば」(同1:19、新改訳)です。ペトロは再び聖書に戻り、イエスをはっきり確認するために聖書を、とりわけイエスについて述べている預言の箇所を挙げています。それらは、イエスが御自分について述べられたのと同じ箇所です(マタ26:54、ルカ24:27)。ですから、もしイエスとペトロが聖書をこれほど重要視したのであれば、私たちもそうすべきです。

旧約聖書におけるイエス

二つの書簡を通してずっと、ペトロは確信を持って書いています。彼は、自分が何について語っているのか、よくわかっていました。なぜなら彼は、自分が語っている人のことを知っていたからです。そして、その一つの理由は、イエスが旧約聖書の預言者たちによって指し示された方だ、と彼が知っていたことです。ペトロが「肉となっ(た)」(ヨハ1:14)言を知る助けとなったのは、書かれた御言葉に対する彼の信頼でした。

Iペトロ1:10〜12においてペトロは、読者の目を旧約聖書に、いにしえの預言者たちと彼らがイエスについて教えたことに向けています。ペトロによれば、聖霊は旧約聖書の中でイエスについて二つの重要な真理を明らかになさいました。「キリストの苦難」と「それに続く栄光」(Iペト1:11)です。これら二つの要素が、旧約聖書全体を通して見られます。

次の聖句を読んでください(詩編22編、イザヤ53:1〜12、ゼカリヤ12:10、13:7、エレミヤ33:14、15、ダニエル7:13、14)。Iペトロ1:10〜12において、ペトロは読者に、彼らが救済史の中で非常に特別な位置を占めていると断言しています。彼らには、いにしえの預言者たちに示されたことよりもずっと多くのことが示されたからです。預言者たちは確かに当時の人々に語りましたが、彼らのメッセージの重要な部分は、イエスが到来されるまで成就しませんでした。

預言者たちが預言したことの中のあるものは、ペトロの読者が生きていた時代になって初めて成就しました。この読者たちは、「天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たち」(Iペト1:12)から、天使たちさえも知りたいと願っていた真理を聞くことができました。福音が告げ知らされたので、彼らは、いにしえの預言者が知っていたよりもずっと詳しく、救い主の苦しみとへりくだりの現実と性質を知ったのです。言うまでもなく、私たちと同様に、彼らも「それに続く栄光」(同1:11)を待たなければなりません。それらの預言の前半が成就したので、私たちは後半の成就も確信することができます。

威光の目撃者たち

問1

IIペトロ1:16〜18を読んでください。イエスを信じるための証拠として、ペトロはほかにどんなものを持っていると述べていますか。

預言の言葉に加えて、ペトロは、彼が宣べ伝えたことの多くの目撃者でした。キリスト教は「巧みな作り話」(IIペト1:16)に基づいているのではなく、歴史の中で実際に起こった出来事、ペトロ自身が目撃した出来事に基づいていると、彼は言います。

福音書の中で、ペトロはイエスの人生と働きにおける重要な出来事の多くに立ち会っています。イエスがそこにおられたのは、説教や教えや奇跡のためでした。初期の魚の奇跡(ルカ5:4〜6)から復活後のイエスにガリラヤで会うこと(ヨハ21:15)に至るまで、ペトロは起こったことの大半を目撃しました。

IIペトロ1:17、18を読んでください。ペトロは、彼が目撃した一つの具体的な出来事、イエスの変貌を強調しています。イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、祈るために山へ登られました(ルカ9:28)。そこにいる間に、イエスは彼らの目の前で姿を変えられました。彼の顔は輝き、その服は光のように白くなりました(マタ17:2、ルカ9:29)。そこへモーセとエリヤが加わり、さらに天から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタ17:5)という声が聞こえたのでした。

ペトロはイエスと一緒にいた頃に多くのことを目撃しましたが、この出来事が際立っていたのです。その出来事は、イエスが神の御子であること、地上における彼の時間は神の御計画に基づいて費やされたこと、そして彼が父なる神と非常に特別な関係をお持ちであったことを明らかにしています。ペトロがそれまでに見た、またこれから見ることになるあらゆる出来事の中でも、(「天から響いてきたこの声」〔IIペト1:18〕を含む)この出来事は、彼が特に手紙の中で強調したものでした。

心の中の明けの明星

IIペトロ1:19を注意深く読んでください。聖書の多くの箇所で見られるように(創1:4、ヨハ1:5、イザ5:20、エフェ5:8)、ここでも光と闇が区別されています。ペトロにとって、神の御言葉は「暗い所」(「むさ苦しい所」「汚い所」とも訳せる)のともし火のように輝いていました。それゆえ、私たちはその光に注意を払い、「夜が明け、明けの明星が〔私たち〕の心の中に昇るときまで」それに従う必要があると、ペトロははっきり述べています。私たちは堕落した存在であり、罪に堕ちた暗い世界の中に生きています。私たちは、この暗闇の中から光へと私たちを導き出される神の超自然的な力が必要であり、その光がイエスです。

ペトロは読者にゴールを指し示しています。ある人たちは、「夜が明け……るときまで」という表現がキリストの再臨を指すと考えています。確かに、それは私たちの究極の希望ですが、「明けの明星があなたがたの心の中に昇る」というのは、もっと即時の、もっと個人的なことのように思えます。「明けの明星」はイエスを指しています(黙2:28、22:16)。イエスが心の中に昇るというのは、イエスを知ること、彼をしっかり捉えること、個人の生活において生けるキリストを実際に体験することと関係しているようです。イエスは単なる教理上の真理であってはなりません。彼は私たちの存在の中心、私たちの希望と信仰の源であるべきです。それゆえにペトロは、神の御言葉を学ぶことと、イエス(明けの明星)と救いの関係を持つこととを、はっきり結びつけています。

そして言うまでもなく、私たちは自分の中で輝く光をほかの人にも分け与えるでしょう。「地球全体は、神の真理の輝きによって照らされるために存在している。その光は、すべての土地、すべての人を照らすために存在している。その光が輝き出るのは、それを受け取った者たちからである。明けの明星は私たちの上に昇った。だから、私たちはその光を暗闇の中にいる人々の進路に照らすために存在している」(エレン・G・ホワイト『クリスチャン経験と教え』220ページ、英文)。

一層確かな預言の言葉

IIペトロ1:19〜21を読んでください。キリスト教は「巧みな作り話」(IIペト1:16)に基づいていないことを強調する際に、ペトロは2種類の証拠を挙げています。第一は目撃であり(同1:16〜18)、第二が聖書の預言(同1:19〜21)で、これは、彼が先に用いた論拠です(Iペト1:10〜12)。

ペトロはまた、「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではない」(IIペト1:20)とも述べています。こう言うことで、彼は、私たちが自分で聖書研究をするのを禁じているわけではありません。そのような禁止は、Iペトロ1:13で、「心を引き締め……なさい」(別の英訳聖書では、「行動できるように心の準備をしなさい」)と言っている人の考えとはかけ離れています。また、すでに与えられていた預言の意味を熱心に探求したことについて、いにしえの預言者たちを称賛した人が(Iペト1:10)、そんなことを言うはずもないでしょう。

では、ペトロは何が言いたいのでしょうか。新約聖書の教会は、ともに成長し、ともに学びました。クリスチャンは一つの大きな体の部分でした(Iコリ12:12〜14)。そこでペトロは、信徒の共同体から得られた洞察をどれも認めないような研究をここで牽制しています。他者と交わることによって、私たちは共同体として互いに成長することができます。聖霊は共同体とその中の個人とともに働かれます。洞察は、共有し、磨き、深めることができます。しかし、他者の意見を拒んで独りで研究する者は、とりわけ預言の解釈に関して、誤った解釈に至る可能性が高くなります。

続く数節を見ると、ペトロがこのような意見を述べるもっともな理由がわかります。彼が手紙を書いている先のクリスチャンたちの間に、偽預言者や偽教師があらわれようとしていたのです(IIペト2:1)。ペトロは彼らに、聖書の解釈は教会全体の指導に従いなさい、と強く勧めています。どれほど多くの人が、聖霊に導かれた信徒の共同体の勧告を聞き入れなかったために、熱狂や誤りの中に陥って行ったことでしょうか。それは当時も危険でしたが、今日でも依然として危険です。

生活の中における御言葉

すでに触れたように、ペトロは聖書をとても重視しています。IIペトロ1:19〜21は、私たちのクリスチャン経験にとって聖書が重要であることや、聖書が神の霊感を受けていることを力強く断言しています。彼の主張が明確に出ているのは、IIペトロ1:21です。聖書は、ほかの本のように人間の意志、人間の考えによって生まれたものではありません。聖書は、「人々が聖霊に導かれ」、聖霊の力によって生み出された本です。

IIテモテ3:15〜17を読んでください。これらの聖句は、IIペトロ1:19〜21の真理を補強しています。パウロは、テモテと教会が直面している危険について警告を与えたあと、聖書の重要性を大まかに短く述べています。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(IIテモ3:16)。

次の三つの点について考えてみましょう。

教理:教理とは教会の「教え」のことです。教理は、神の御言葉の中で重要とみなされるさまざまな主題に対する共同体の信仰内容をあらわしています。理想的には、それぞれの教理がキリスト中心であり、それぞれが私たちに、「神の御心」(ロマ12:2)と一致した生き方を知る助けとなる何かを教えているべきです。

導き:パウロはテモテに、聖書は「人を……戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(IIテモ3:16)と語っています。ペトロも、聖書の預言は暗い所で輝くともし火に似ていると言うことで(IIペト1:19)、同様の指摘をしています。言い換えれば、聖書は、私たちの生き方や善悪の判断において「導き」を与えるということです。聖霊の霊感を受けているので、聖書は啓示された神の御意志にほかなりません。

「救いに導く知恵」:パウロが、聖書は「救いに導く知恵」を私たちに与えると言うとき、彼は、聖書が私たちにイエスを指し示していると指摘しています。救いは、イエスが私たちの罪のために死んでくださったという信仰の上に成り立っているからです。

教え、道徳的導き、救いの知識——間違いなく、神の御言葉は、「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火」(IIペト1:19)に似ています。

さらなる研究

「聖書から真理を学び、その光に歩み、そして他人にも自分の模範に従うように励ますことは、すべて理性のある者の第一にして最高の義務である。われわれは日々熱心に聖書を研究し、すべての思想を熟考し、聖句と聖句を対照すべきである。われわれは神の前で自分で答えるのであるから、神の助けによって自分で自分の考えを定めなければならない。

聖書の中に最も明白に示されている真理が、学者たちによって疑いと暗黒に包まれてきた。彼らは、偉大な知恵を持っているように見せかけながら、聖書にはそこに用いられている言葉に現れていない神秘的で霊的な隠れた意味があると教える。これらの人々は偽教師である。イエスが『あなたがた……は、聖書も神の力も知らないからではないか』と言われたのは、こういう種類の人々に向かってであった(マルコ12:24)。聖書の言葉は、象徴や比喩が用いられていないかぎり、その明瞭な意味に従って解釈されるべきである。キリストは『神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教えが……わかるであろう』と約束された(ヨハネ7:17)。もし人々が、聖書をその書いてあるとおりに受け取りさえすれば、もし人々を誤らせ、その心を混乱させるような偽教師がいないならば、現在誤謬の中に迷っている幾千もの人々をキリストの囲いの中に導き、天使たちを喜ばせるような働きが成し遂げられるであろう」(『希望への光』1890、1891ページ、『各時代の大争闘』下巻365、366ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年2期『「わたしの羊を飼いなさい」ーペトロの手紙I・Ⅱ』からの抜粋です。

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