この記事のテーマ
イスラエルは主を求めて生きるように召されました。イスラエルはどのように答え、どのような罪に陥ったでしょうか。こうした反逆にも神が憐れみたもうたことを学びましょう。
アリストテレスは、「すべての人は生まれながらにして知ることを欲する」と言いました。問題は「何を知るか」です。今日の世界にはさまざまな情報や知識があふれています。しかし、すべての情報や知識が善であるとは限らず、悪となる情報や知識もあります。大量殺人が可能となった20世紀の知識と歴史を見れば明らかです。
知識と情報の量が信じられぬ速さで増加していることは確かです。私たちはひと昔前の人々と比べると、はるかに多くのことを知っています。もし世界がこのまま続くなら、次の世代は私たちよりもずっと多くのことを知るようになるでしょう。
しかし私たちは本当に重要なことを知っているでしょうか。何が永遠に続くものであるかを知っているでしょうか。今週は一時的なものではなく、永遠に続く、しかも私たちに永遠の命を与えてくれる知識を求めるようにという神の招きについて学びます(ヨハ17:3)。
わたしを求めて、生きよ(アモ5:1~4)
この言葉は世に対する神のメッセージの本質を表しています。主を求めて、生きる――これ以外に命を受ける方法はありません。
問1
次の聖句にある共通点は何でしょう。ヨハ14:6、コロ3:4、Ⅱテモ1:1、Ⅰヨハ5:11
「私たちの命はイエスから来ます。イエスのうちには、本来の、借り物ではない、他に由来するものではない命があります。イエスのうちには、命の源泉があります。私たちの命は与えられ、賦与(ふよ) 者によって再び引き取られるものです。もし私たちの命がキリストと共に神のうちに隠されているとするなら、キリストがお現れになるとき、私たちもまた彼と共に栄光のうちに現れるでしょう。私たちはこの世にある間、神から与えられたすべての能力を、清められた奉仕を通して神にささげるのです」(『医療伝道』7ページ)。
最終的には命か死かという二つの選択肢しか私たちにはありません。すべての人間は、永遠に生きる人と死による消滅に分けられます。そこには中間の位置、妥協の余地、均衡の保持というものはありません。だれであろうと、どこに住んでいようと、どんな状況にあろうと、すべての人はどちらかを選ばなければなりません。しかし、永遠の命はキリストによる神のうちにしかないために、主はエデンの時代から私たちに主を選ぶように、また「主を求めよ、そして生きよ」(アモ5:6)と言われるのです。それ以外に命を受ける方法がないからです。
すばるの創造者(アモ5:8)
すばるとオリオンを造り
闇を朝に変え
昼を暗い夜にし
海の水を呼び集めて地の面 (おもて)に 注がれる方。
その御名は主。
アモスは熱意をもってイスラエルに、主に立ち帰り、「主を求める」ように訴えていますが(6節)、それは主が「すばる……を造り」、「海の水を呼び集め」たもう創造主であられるからです(8節)。ヘブライの預言者たちは、聖書全体を通じて、しばしば創造主としての主に言及し、民に対して偶像崇拝や創造主以外の被造物礼拝を捨てるように訴えてきました(イザ40:28、37:16、44:24参照)。事実、創世記から黙示録に至るまで、聖書は私たちの起源をはっきりと示しています。「万物は言に(ことば) よって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハ1:3)。
問1
“創造主である神”と“神にのみ命がある”との基本的な二つの教え、思想はどれほど私たちに重要でしょうか。
命は神のうちにのみ存在します。神だけが創造者であられるからです。神は命を創造されました。命は神だけから来ます。したがって、人類が罪によって創造主から離れたとき、人類は唯一の命の源から離れてしまったのです。「知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています」(エフェ 4:18)。
福音の本質、救いの本質は、命の与え主である創造主とつながっていることと関係があります。神以外のものを拝むことが偽りの礼拝となるのはそのためです。創造主なる神のうちにのみ命があります。アモスは、神が創造者であることを明示することによって、この真理を教えているのです。
悔い改めの勧告(ホセ10:12、13)
神は背信したイスラエルに主を求めることの恵みを強調しておられます。もし彼らが神に立ち帰るなら、生きることができます。神の条件を受け入れるなら裁きを免れることができます。
問1
悔い改めよとの神の訴えに多くの人々はどう応えるでしょうか。
「この招きの言葉を聞いた人々の大部分は、それによって利益を受けることを拒んだ。神の使者たちの言葉は、悔い改めない人々の邪悪な欲望とは非常に異なっていたので、ベテルの偶像礼拝の祭司は、イスラエルの王に使者をつかわして、『イスラエルの家のただ中で、アモスはあなたにそむきました。この地は彼のもろもろの言葉に耐えることができません』と言ったほどであった(アモ7:10)」(『国と指導者』上巻 252ページ)。
問2
神の悔い改めへの招きにはどんなことが含まれていますか。ホセ10:12
主は神を信じるように求めています。ただ言葉で神をあがめ、賛美するように求めておられるのではありません。神は具体的な行動を要求しておられます。「恵みの業をもたらす種を蒔け/愛の実りを刈り入れよ」とあります。主が関心を示されるのは宗教的な形式だけでなく、ホセアもアモスも人間相互の関係を問題としています。
「お前たちの咎がどれほど多いか……わたしは知っている」(アモ5:10~13)
偽りの礼拝と憐れみの欠如に対するアモスの非難は、イスラエルの社会的不正に対する非難へと変わっていきます。アモス書の大部分は詩文体で書かれていますが、これは預言者アモスの牧者という身分を考えると興味深いことです。アモス書5:10では「交差対句(ついく) 法」という詩の手法が用いられています。これは特定の思想をA、B、B、Aの順序で表現する方法です。ある思想に勢いと優美さを与えるこの手法は、邦訳聖書では用いられていませんが、ヘブライ語聖書では次のようになっています。
A彼らは憎む
B町の門で訴えを公平に扱う者を
B’真実を語る者を
A’彼らは嫌う
アモスは悪を責め、真実を擁護した士師に対する民の態度について語っています。士師はイスラエルの町々の門で法廷を開き、人々の必要に応じて裁きを行いました。
アモスは11、12節でもイスラエルの民を非難しています。彼らが不公平な税と裁きに苦しんでいた貧しい人々を虐待していたからです。その罪があまりにもひどかったので、主は「その罪がどれほど重いか」と言われるのです。罪だけでも悪いのに、「重い罪」と言われていることに注意してください。主が「これは悪い時代だ」(アモ5:13)と言われるのも不思議ではありません。
問1
罪の最終的な罰とはなんですか。
この世界には多くの不正行為、抑圧、不公平があります。私たちの周りにも、アモスの時代と同じ不正があふれています。教会の中にも悪の原理が入り込んできています。私たちは心の中で正義、平等、回復を求めて叫びますが、今は実現しそうにありません。アモスは不義や不正が起こらないと約束しているわけではありません。彼は人々がいつか悪の報いを受けると語りました。
悪を憎み、善を愛する(アモ5:14、15)
「善を求めよ、悪を求めるな/お前たちが生きることができるために。/そうすれば、お前たちが言うように/万軍の神なる主は/お前たちと共にいてくださるだろう」(アモ5:14)。
アモスはここで何を言っているのでしょうか。自らの罪と不義に目がくらみ、憐れみのメッセージをかたくなに拒んでいたこれらの民は、それでも「万軍の神なる主」(15節)が自分たちと共にいてくださると考えていたのでしょうか。おそらく、そうでしょう。たしかに彼らはアブラハム、イサク、ヤコブの子らでした。シナイにおける律法、約束、契約を受け継ぎ、創造者なる、まことの神に従う者たちでした。周りの異教の民と区別されるべき者たちでした。
問1
14節にある原則は今日の教会にどのように適用できるでしょうか。
神はイスラエルに対して、悪を退け、善を求めるように、悪を憎み、善を愛するように仰せになりました。このことは善悪の区別を知るときにのみできることです。良心が罪によってかたくなになっている場合は容易ではありません。フランスの思想家、ジャン・ジャック・ルソーは言いました。「良心!良心!神的な本能、不滅なる天の声。無知で有限なる被造物のための不滅なる導き手」。
問2
「良心」は自分の誤りなき導き手でしょうか。善悪を知り、見分ける信頼すべき唯一のガイドは何でしょうか。Ⅱテモ3:16
善と悪の違いを理解するなら、一方を愛し、他方を憎むようになります。それは私たちのうちに働いておられる聖霊の力によってのみ可能です(ヨハ16:13参照)。私たちは善を愛するばかりでなく、悪を憎むようにも教えられています。善を愛し、同時に悪を愛するということはありえません。心から神を愛する人は罪を憎みます。
まとめ
私どもの命は神に依存しています。生ける者は命の源につながっているべきです。神はイスラエルに悔い改め、立ち帰って生き、他者を圧迫することを含めてすべての罪を捨てるように求めています。不義が地に満ちていようと、神は正義をもたらすことを約束されました。今、世にある私たちは善を愛し、悪を憎むことです。これはアモスの時代も、現代も変わりありません。
「踏みにじられた律法を高く掲げ、世の罪を取り除く神の子羊を世に示す教会を、神は地上に持っておられます。……現在、城壁の破れ目に立ち、防壁を据え直し、古い廃墟(はいきょ) を築き直している教会は世に一つしかありません。……神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける残りの民の特徴を持つ唯一の民に反対することのないように留意すべきです。……真理を教え、神の律法を擁護することにおいてだれにも劣らない、むしろすべての者にまさる、一つの特異な民、一つの教会を、神は地上に持っておられます。……もしセブンスデー・アドベンチスト教会がバビロンであると教えているなら、あなたは間違っています」(『牧師へのあかし』50、58、59ページ)。
ミニガイド
アモス5章になると預言者はこれまでのトーンを変えて、攻撃的な厳しさから哀切の情をこめて哀歌を語ります。おとめイスラエルの悲惨な滅亡を述べるアモスは、どこかエルサレム滅亡を悲しむキリストの言葉に似ています。
「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁(ほうるい) を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである』」(ルカ19:41~44)。
「わたしを求めよ、そして生きよ」(4節)、「主を求めよ、そして生きよ」(6節)、「善を求めよ。悪を求めるな。お前たちが生きることができるために」(14節)はアモスのメッセージの中心基調です。もしイスラエルが神のみを求めるなら、不可避と思われる運命の悲劇は起こらないはずでした。罪人が神に帰ることほど、神の喜ばれることはありません。神が私たちに愛と憐れみを示し、また時に警告と刑罰をもって諌(いさ) めたもうのは、神に帰るという結果を望まれるからです。
アモスは悪を求めるイスラエルに「善を求めよ」と熱心に訴えました。彼は同時に、まず悪を棄てない限り善を求めることができないことも語ったのでした(イザ1:16、17)。私たちに対する神の愛の叫びです。「『イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」(エゼ18:31、32)。
「ヨセフの残りの者」(15節)5:3を見ると圧倒的多数が刑罰を受けますが、千人のうち百人が生き残ると書かれています。イスラエルは全滅ではなく、必ず生き残るイスラエルがいると神は言われました。アモスは悔い改めて神に帰る民を保証する神の言葉を取り次いだのでした。(SDA聖書注解アモス書より)
*本記事は、安息日学校ガイド2001年4期『アモス書 主を求めて、生きよ』からの抜粋です。