【アモス書】過ぎ越すか、中を通るか【5章解説】#6

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この記事のテーマ

出エジプトとアモスの時代との共通点、差異は何でしょう。「主の日」とは喜びの日でしょうか。悲しみの日でしょうか。神はどのような犠牲、賛美、集会を喜ばれないのでしょうか。

今週の研究で神は私たちに罪深い生き方をやめて、神に従うように求めておられます。イエスは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタ16:24~26)。

イエスか、この世か、救いか滅びか……これは当時の人々、また現代の私たちに対するアモスのメッセージです。これがすべての人に訴える争点です。アモスの言葉を聞いた人々はもちろんのこと、現代に生きる私たち一人ひとりも何らかの応答を迫られています。

過ぎ越すか、中を通るか

アモス書における最も注目すべき警告の一つは、イスラエル人に対する主の次の言葉です。「わたしがお前たちの中を通るからだ」(アモ5:17)。これは理解しにくい言葉です。なぜなら、ここにはエジプト人に対する裁きを表す出エジプト記 12:12の言葉(「巡り」、英語では「中を通る」)と同じ言葉が用いられているからです。つまり、主はエジプト人に対して行ったのと同じことをイスラエル人に対しても行うと言われるのです。

問1

アモス書 5:17と出エジプト記 12:12、13を読みましょう。出エジプトを思い起こさせる語句がありますか。

出エジプトにおいて、へブライ人をエジプト人の運命から救ったのは血でした。「血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない」(出エ12:13、強調付加)。

「過ぎ越す」を意味するヘブライ語の動詞“パサク”(英語の“Passover”はここから来ている)は、出エジプト記 12:12やアモス書 5:17に用いられている動詞「巡る」あるいは「中を通る」とは全く異なるものです。「過ぎ越す」と「中を通る」(巡る)は全く反対のことを意味しています。一方は神の救いに、他方は滅びにつながります。

出エジプトで生死を分けたのは“血”でした。“血”に救いがあると新約に書かれています(ヘブ9:22、Ⅰヨハ1:7、黙示7:14)。

今日、主は私たちに「滅ぼす者」(出12:23)を避けるために家の入り口の柱に血を塗るように要求されません。しかし争点はエジプト時代やアモスの時代と全く同様に、現実に、重要なものであることには変わりありません。善悪の大争闘の性質からするなら、私たちの罪に対する神の報いは私たちの「中を通る」か「過ぎ越す」かのどちらかです。何が決定的な違いをもたらすのでしょうか。出エジプトの時代であれ、アモスの時代であれ、現代であれ、決定的な要素はイエスの血です。私たちはイエスの血をどのように見なしているでしょうか。

主の日(アモ5:18~20)

「災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない」(アモ5:18)。

18節に皮肉が込められていることに注意してください。イスラエル人は罪と自己欺瞞(ぎまん) に目がくらんでいたので、「主の日」には何か良いことがあると考えていました。彼らがこの日を待ち望んでいたのはそのためです。しかし、それは光ではなく闇の日、人が獅子(しし) を逃れても熊に会う日であると、主は警告しておられます(19節)。つまり、それは決して喜ばしい日ではないということです。もちろん、一部の人々にとっての話ですが……。

問1

聖書の中の「主の日」という言葉に注目してみましょう。ヨエ3:1~ 5 、使徒2:20、21

これらの聖句は、主の日が滅び、裁き、刑罰の時であると述べています。しかし、同時に、クリスチャンは「主の日」を喜ばしいものと理解しています。主が再臨される日であるからです。これ以上に喜ばしい日はありません。

この逆説の意味は明らかです。主の日はある人々にとっては恐怖の時ですが、他の人々にとっては解放と救いの時です。決定的な違いをもたらす要因が、上に挙げた聖句の中に暗示されています。

空虚な儀式(アモ5:21~23)

「罪人よりもファリサイ派の人々の方が恐ろしいということを、私は知った」(ローレンス・ヴァンダポスト――南アフリカの作家)。

聖書全体を通じて、主は絶えず偽りの礼拝、偶像崇拝、異教の神々に従うことをイスラエルに禁じてこられました。それなのに、アモス書5章において、イスラエルの祭日や「祭りの献げ物」、つまり主ご自身が定められた祭り、犠牲、賛美、聖日を退けておられるのはなぜでしょうか。

大部分のイスラエル人は儀式を伝統的に守っていましたが、その意味するところを無視していました。こうした外面的な形式は偽善につながるだけでした。たとえば、感謝、善意、兄弟愛のしるしである動物の捧げ物も、もしその人がこれらの特質を表さなければ、何の意味もありません。神殿で捧げる音楽も、心がこもっていなければ、神の耳には騒音でしかありません。

ここで教えられていることは明らかです。どんな宗教的形式や儀式も、もしその人の心が新たにされ、神に献げられていなければ、神にとっては無意味で、不快なものであるということです。それどころか、きわめて危険でもあります。なぜなら、宗教的な儀式や慣例に従っている場合、自分は聖なる者、神の選民であり、過ちを犯すことがないと思い込んでしまうからです。

問1

イスラエルの空しい礼拝について他の預言者たちも書きました。イザ1:11~15、マラ1:6~8

神の求められるもの

「正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ」(アモ5:24)。

なんと力強く、率直な言葉でしょう。神は宗教的な形や儀式よりも、私たちの対人関係、慈善の精神、公正な態度に深い関心を寄せられます。神が求められるのは細く流れる小川のような正義ではなく、力強く、とうとうと流れる大河のような正義です。

問1

この義はどこから来ますか。その義をどのように得ることができますか。

「主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。/わが咎(とが) を償(つぐな)う ために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。/人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。/正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ6:7、8)。

問2

マタイ7:22を今日の勉強との関連で読みましょう。イエスは何とおっしゃいましたか。

宗教的であるとは難しいことではありません。マフィアから堕落した政治家まで、だれでも宗教的であることができます。しかし、愛情深く、寛大で、謙遜で、憐れみ深くあることは、決して容易なことではありません。堕落した人間は本質的に利己的で、自己中心的です。世にあるどんな公正な宗教や信仰、儀式、外面的な生活、また「焼き尽くす献げ物」「肥えた動物の献げ物」(アモ5:22)、「幾千の雄羊」(ミカ 6:7)も、決して人間の品性を善なるものに造り変えることはできません。信仰と服従によって神に捧げられた心だけが、神に喜ばれるものに造り変えられるのです。

「神として仰ぐ星」(アモ5:26)

「今、お前たちは王として仰ぐ偶像の御輿や(みこし) /神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている。/それはお前たちが勝手に造ったものだ。/わたしは、お前たちを捕囚として/ダマスコのかなたの地に連れ去らせると/主は言われる。/その御名は万軍の神」(アモ5:26、27)。

アモス書 5:26には、イスラエルと全世界の深刻な問題である偶像崇拝のことが具体的に描かれています(偶像ケワンについては不明)。偶像とは救いの神以外のものを崇(あが) めることです。

偶像崇拝(必ずしも彫像を必要とはしない)はあらゆるところに見られます。人間は、たとえ救いの意味を十分に知らないとしても、なお救いを渇望します。わかっているのは、自分が救われる必要があるということだけです。人間の心には「永遠」「意味」「安定」を求める渇望がありますが、私たちの周りにあるものは「一時的」「無意味」「不安定」ばかりです。熱力学の第2法則[エントロピー増大の法則]は、すべてのものが崩壊に向かっていると教えています。もしそれですべてが終わるとすれば、人間とはいったい何なのでしょう。

「私たちの存在を支えるもの、あるいは私たちの知識の基礎となるものがなければなりません。そうでなければ、私たちを包み込む闇の勢力から逃れることができません」(リチャード・バーンスタイン『客観主義と相対主義を超えて』18ページ)。このように、至るところで、また様々な形で、人間は答えを求めています。そして、これこそ答えであると信じるものが、彼にとって礼拝の対象となります。これが彼の偶像にほかなりません。人々はどんなものを偶像にするのでしょうか。

まとめ

イスラエルに対する神のメッセージは前回と同じ内容です。「私は裁きの神であり、また赦しの神である。私はあなたの罪ととがとを罰し、またそれらを赦す神である。選ぶのはあなた自身!」と。

「神に対する深い信仰と献身がほとんど見られません。キリストの霊が心を占領するとき、人は神のための宣教師となります。偶像崇拝という最も悲しむべき罪が教会の中にあります。クリスチャンを自認する者と神に対するその全的な献身との仲を妨げるものは偶像です。偶像崇拝そのものが偶像崇拝の最も悲しむべき罪なのです」(『原稿集』第 12巻 330ページ)。

「最後の大いなる日は律法の勝利する日です。主は最後の大いなる業のために準備しておられます。主は世の不義を罰するために御座を立たれます。地はその血をあらわにし、もはやその死者を覆い隠すことはありません。この世の道徳的暗闇の中にあって光を掲げる者はだれでしょうか。世々にわたって蓄積され、人類を堕落させてきた悪は、十分に認識されていません。『あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない』と、神は命じておられます。ノアの時代と同様、今日のクリスチャンのうちにも偶像崇拝が見られます。しかし、神の命令に従うなら、人類家族は高められ、高尚にされ、賞揚されるのです」(『クレス文書』)。

ミニガイド

今回の学びは次の2つの部分から成り立っています。

前半(5:16~20)はイスラエルに臨む、来るべき裁きの描写

後半(5:21~27)は本質を伴わない形式的な宗教の空虚さ

「主の日」は、本来は神の介入によってイスラエルが戦いに大勝利を博する救いの実現の日、栄光と歓喜の日であって、周辺諸国が偶像礼拝を棄ててヤハウェの神を拝み、民は物質的にも富を手にし、繁栄して他国より優位に立つ未来のよき日を意味したものでした。アモスはこの期待とは逆に、イスラエルがアッシリアによって滅ぼされ、捕囚とされる屈辱の日であることを警告しました。預言者はその日が罪と悪による暗い闇の日、死と苦難の日であり、幸福な未来というのは幻想であることを伝えました。

宗教の外見的な行為を忠実に守ることは裁きの日に神の好意を受ける保証とはなりません。荘厳な礼拝の秩序、儀礼などはどれほど美しく見えても真の敬神と霊性の価値とはいえないのです。イスラエルの人々は年毎の祝祭や犠牲制度を几帳面に守り、合唱や楽器による賛美を捧げましたが、神は心からの悔い改めと誠実な告白のない礼拝を「憎み」「退ける」「喜ばない」「受け入れず」「顧みない」「聞かない」と仰せになります。

イエス時代のファリサイ派の人たちはマタイ23章でアモスと同じように形式的な宗教の誤りを非難されました。魂を求めて伝道に励み、什一献金を忠実に計算して捧げ、神の律法の要約を右腕に、また額に結んでいつでも神を思い、預言者たちの勧告を大事にしながら、イエスは「あなたたち偽善者は不幸だ」と厳しい非難をなさいました。

「正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ」(5:24)はイスラエルに求められた神の強い訴えです。パレスチナでは雨の降らない夏はほとんどの川は涸(か) れ谷となり、水の流れる川が少なく、流れてもちょろちょろといった程度の水量がふつうでした。正義が、また恵みが「洪水のように」「大河のように」とうとうと太く、音を立て、ほとばしるような奔流となるイスラエルの姿を神は求め、願われたのでした。

*本記事は、安息日学校ガイド2001年4期『アモス書 主を求めて、生きよ』からの抜粋です。

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