この記事のテーマ
ある安息日のこと、教会が終わり、車に乗ったコニーとロイが、家へと続く私道に入った時でした。突然、一羽のチャボが狂ったように庭を横切って、車の前に飛び出したのです。きっと何かあったに違いありません。安全な檻の中にいるはずのペットの鳥たちが、外に出ているのですから。調べてみると、悲劇は進行中でした。隣家から逃げ出した子犬のベートーベンの口に、デイジーがくわえられています。デイジーは、ふわふわの白い尾羽の美しいめんどりです。コニーはデイジーを子犬から取り返しましたが、すでに手遅れでした。コニーの可愛いペットは首をかみ砕かれ、腕の中で息絶えました。彼女は死んだデイジーを抱えたまま座り込み、声をあげて泣くばかりでした。
この事件は、他のペットたちも混乱に陥れました。背の高い白いアヒルのワドルスワースは、死んだデイジーを抱いているコニーを見て、彼女がデイジーを殺したのだと勘違いしました。それから数週間というもの、ワドルスワースはコニーを見るたびに、その頑丈なくちばしで激しく彼女をかむのでした。このように、友と敵を見分けることは、時に難しいものです。
今回は、同じような問題に直面したユダの王について学び、彼がなぜ誤った選択をしたのかを考えます。
北の脅威(イザ7:1~9)
問1
アハズ王は、その治世の初めに、どんな危機に直面しましたか(王下15:37、38、16:5、6、イザ7:1、2)。
北イスラエル王国(エフライム)とシリア(アラム)が団結して南の小国ユダを攻めたのは、ユダ王国がエドム人とペリシテ人の攻撃によって弱体化していた時でした。過去にも、ユダがイスラエルと戦火を交えたことがありました。その時、イスラエルとシリアの同盟は、アッシリアの圧倒的な脅威に脅かされていました。イスラエルとシリアは、拡大し迫り来るアッシリアのティグラト・ピレセル3世(王下15:19では「プル」)の強大な軍隊に対抗するために、ユダを彼らの連合に引き込もうと考えました。この最大の危機を前に、イスラエルとシリアは長年にわたる両国間の抗争を休止しました。彼らがユダを征服し、この国の操り人形のような王を送り込むことができれば(イザ7:5、6)、その資源と人材を活用できるからでした。
問2
この危機に直面した時、アハズ王はどのような解決策に打って出ましたか(王下16:7~9、代下28:16)。
アハズ王は、神だけが国と自身を救うことのできる唯一の友であることを忘れて、彼の敵の敵であるティグラト・ピレセル3世を友に選びます。アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世は、シリアとイスラエルの連合軍に対する救援要請に喜んで応じます。アハズ王から多くの賄賂を受け取ると同時に、シリアを攻める絶好の口実を得て、直ちにそれを実行に移しました(王下16:9)。シリアとイスラエルの連合は崩壊し、アハズ王はユダ王国を救ったかのように見えました。
アハズ王のこの行動は、驚くには当たりません。彼は、歴代のユダの王の中でも最悪の王の1人だったからです(王下16:3、4、代下28:2~4参照)。
妨害の企て(イザ7:3~9)
アハズ王が、イスラエルとシリアの脅威に対処するために、政治的な選択を検討していた時、アハズ王の知らない神の摂理がありました。
問3
主はなぜ、イザヤに息子のシェアル・ヤシュブを連れて行くように言われたのでしょうか(イザ7:3)。
アハズ王は、イザヤから「残りの民は帰る」という名の息子を紹介されて、ドキッとしたことでしょう。だれの残りの民で、どこから帰るというのでしょうか。その息子の父は預言者なので、その名は捕囚になろうとしている民についての、神からの不吉な預言のように響いたことでしょう。あるいは、この名は「悔い改め」の意味で、神に帰ることを意味したはずです(「帰る」は悔い改めも意味します)。アハズに対する神のメッセージは、「あなたが決める通りになる。あなたの罪から離れなさい。そうしなければ捕囚となる。そして残りの民は捕囚から帰る。決めるのはあなたである」というものでした。
問4
神のメッセージは、アハズ王の置かれた状況をどのように述べていますか(イザ7:4~9)。
シリアとイスラエルの脅威は去り、ユダは守られました。しかし、アハズ王は正しい決定を下すために、主と主の約束に信頼するべきでした。彼が確かにされるためには、信じる必要がありました(イザ7:9)。「信じる」と「確かにされる」という言葉は、同じヘブライ語の語源を持っており、「真理」(「信頼すべきもの」の意)と「アーメン」(「真実で信頼すべきものに賛同する」の意)も、同じ語源から派生した言葉です。アハズ王は、確かなものとされるために、主のみ言葉を確かにする必要がありました。信頼されるものとなるために、主に信頼する必要がありました。
新たな機会(イザ7:10~13)
アハズ王は、イザヤの信仰の求めに応えませんでした。そこで、憐れみに富む神は、王に新たな機会として、「深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」(イザ7:11)、主なる神にしるしを求めるように告げられます。これは、かつて人間に与えられた中で、最高の信仰への招きの一つです。
問5
アハズ王がしるしを求めなかったのは、なぜですか(イザ7:12)。
一見、アハズ王は敬虔で、礼儀をわきまえた答えをしたように思えます。彼は、何世紀も前に荒野を放浪したイスラエル人のように、神を試そうとはしませんでした(出17:2、申6:16)。しかし大きな違いは、神のほうからアハズに、ご自分を試すように招かれたことです(マラ3:10と比較)。神の忍耐を試すことではなく、神の圧倒的なほど寛大なお申し出に応えることこそが、神に喜んでいただけることなのです。しかし、アハズは、信頼する新たな機会を与えてくださった神の助けを受けようとしませんでした。彼は、自分の心の扉にかんぬきをかけ、釘を打ち、信仰を締め出したのでした。
問6
イザヤ7:13で、イザヤは何と言っていますか。
アハズは、神を試すことを拒むことによって、外面的には神を煩わせないようにしているようで、実はそのことが神を煩わせているのだ、とイザヤは指摘します。しかし、この節で最も難解な点は、イザヤがイザヤ7:11で、アハズ王に対して、主なる「あなたの神」にしるしを求めよ、と言っているのに対して、同13節では、はっきりと「わたしの神」をも……と言っていることです。アハズが天の申し出を拒んだ時、彼は主を「わたしの神」とすることを拒んだのです。この時、主はイザヤの神ではありましたが、アハズの神ではなくなったのでした。
「男の子」のしるし(イザ7:14)
「深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」(イザ7:11)しるしを求めよとの神の申し出は、アハズ王を動かしませんでした。そこで今度は、神ご自身がしるしを与えると仰せになりました(同14節)。私たちは、神の想像力のみが考え出すことのできる、息をのむような次元のしるしを思います(イザ55:9、1コリ2:11と比較)。
驚くべきことに、そのしるしとは「男の子」です。しかし、どのようにして若い未婚の女性が子どもを産み、その子を「インマヌエル」と呼ぶことが聖書の重要なしるしなのでしょうか。
問7
この女性は、そしてその子どもはだれですか。
旧約聖書における、しるしの成就の可能性を考えてみたいと思います。
(1)「おとめ」という言葉が結婚適齢期の若い女性を指すことから、このおとめはエルサレムに住んでいる既婚の女性であり、おそらくイザヤの妻であろうと考える意見も多くあります。
(2)「インマヌエル」が、次に王となるアハズの子ヒゼキヤを指すと考える意見もありますが、ヒゼキヤを「インマヌエル」と呼んでいる記述はありません。
(3)「インマヌエル」がどこか神秘的であること、またこの名前が一般的に「神われらと共にいます」と訳され、神のご臨在を表すことから、彼はイザヤ9章と11章に預言されている特別な「男の子」を示すと考えることができます。
(4)適齢期の未婚の女性から生まれた子は、正式の婚姻関係でない男女の間に生まれた非嫡出子ということになります(申22:20、21参照)。
これに対して、新約聖書は、イエスを無垢な「男の子」、「インマヌエル」であると確認しています(マタ1:21~23)。婚約中で未婚の処女から奇跡的に生まれたイエスは、神のみ子であり(イザ9:6、マタイ3:17)、エッサイの「株」・「根」です(イザ11:1、10、黙22:16)。アハズ王の時代に、将来の救い主を象徴する「インマヌエル」という名の人がいたかもしれません。それは、私たちの知る由もないことです。私たちが知らなければならないことは、私たちと共におられる神を示すために、「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ」られたという事実です(ガラ4:4、口語訳)。
「神われらと共にいます」(イザ7:14)
「インマヌエル」という名前は、単なる抽象的な表現ではなく、「神われらと共にいます」という約束が成就されたことの確証です。
問8
神が私たちと共におられる約束は、私たちにとってなぜ重要なのでしょうか。
これほどの安心と慰めはありません。神は、その民に、耐えなければならない困難や苦痛は与えないとは、約束されていません。神は、「彼らと共にいる」と約束しておられるのです。詩編記者は言います。「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける」(詩23:4)。
「主は言われます。『水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず/炎はあなたに燃えつかない』(イザ43:2)。
バビロニア人がダニエルの3人の友だちを火の中に投げ込んだ時、主はどこにおられたのでしょうか。彼らと共におられたのです(ダニ3:23~25)。ヤコブが夜明けまで主と格闘した試練の時は、どこにおられたのでしょうか。それ以上近づけないほど近いところである、ヤコブの腕の中におられたのです(創32:24~30)。
主は、肉体を取った姿で地上におられなくなった今も、ご自分の民と共に、その経験を分かち合っておられるのです。群衆がステファノに詰め寄った時、主はどこにおられたのでしょうか。『神の右に立っておられ』たのです(使7:55)。しかし、主は天に昇られた時、『天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きに』なったのではなかったでしょうか(ヘブ1:3)。ステファノの苦難の時に、まさに石で撃ち殺されようとしていたその時に、なぜ主はただ立っておられたのでしょうか。モーリス・ヴェンデンが言ったように、『主はただ座ってそれを見ていることができなかった』からなのです」(ロイ・ゲイン『欠点だらけの神の英雄達』66ページ、1996年、英文)。
さらなる研究
「『その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。神われらと共にいますという意味である』(マタイ1:23)。『神の栄光を知る知識』は、『イエス・キリストの顔』にみられる(2コリント4:6)。永遠の昔から、主イエス・キリストは天父と一つであられた。キリストは、『神のみかたち』、神の偉大さと尊厳のみかたち、『神の栄光のかがやき』であられた。キリストがこの世にこられたのは、この栄光をあらわすためであった。神の愛の光をあらわすために、すなわち『われらと共にいます』神となるために、キリストは、罪のために暗くなったこの地上においでになった。だから、『その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』とイエスについて預言された」(『希望への光』675ページ、『各時代の希望』上巻1ページ)。
「もしアハズが、この言葉を天からのものとして受け入れたならば、ユダ王国は幸福だったことであろう。しかしアハズは、肉の腕に頼り、異邦人の助けを求めることにしたのである。彼は、自暴自棄に陥って、アッスリヤの王、テグラテピレセルに使者をつかわして言わせた。『わたしはあなたのしもべ、あなたの子です。スリヤの王とイスラエルの王がわたしを攻め囲んでいます。どうぞ上ってきて、彼らの手からわたしを救い出してください』(列王記下16:7)。この願いには王の家の倉と神殿の倉庫から、おびただしい贈り物が伴っていた」(『希望への光』513ページ、『国と指導者』上巻294ページ)。
まとめ
神は、不信仰な王アハズを難しい判断を迫る環境に置かれました。信じるか信じないか、それが彼に与えられた問題でした。主は、彼の想像力で理解できるしるしを与え、さらに信じる理由を求めることさえお許しになられたのに、彼はそれを拒み、主を信じる代わりにアッシリアの王を「友」に選んだのでした。
*本記事は、安息日学校ガイド2004年2期『イザヤ わが民を慰めよ』からの抜粋です。