この記事のテーマ
ネブラスカ州リンカーンに住むユダヤ教徒である聖歌隊の独唱者夫妻が、卑猥な嫌がらせの電話に悩まされていました。それはアメリカの憎悪(ヘイト)グループであるクー・クラックス・クランのリーダーの1人からの電話であることがわかりました。相手がわかったので、彼を警察に突き出すこともできましたが、彼らはもっと過激な手段に訴えることにしました。犯人の足が不自由であることを知った夫妻は、鶏肉料理を持って、彼の家を訪ねたのです。思いもよらない出来事に、彼は腰を抜かすほど驚きました。こうして、夫妻の愛が彼の憎しみを溶かしました。夫妻が訪問を続けるうちに、いつしか彼らの間に友情が芽生え、彼はユダヤ教徒になりたいとさえ思うようになったのでした。
「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え……」(イザ58:6、7)。皮肉なことに、リンカーンに住む夫妻は、自分たちは食べず、飢えた「虐げる者」に自分たちのパンを分け与えることによって、彼を縛っていた不当な偏見の縄目から彼を解放したのでした。
今回は、預言者イザヤが描いているこの重要な霊的原則について、さらに学びます。
ただで買い求めよ(イザ55:1~7)
問1
「さあ、かわいている者は/みな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ」(イザ55:1、口語訳)。この聖句には、どんな矛盾が見られますか。
あなたは食べ物を持って、大都市の街角で、空腹の人やホームレスの人々に向かって、次のように呼びかけているとします。「さあ、お金のない人は来て、買って、食べてください」。しかし、お金がない人たちがどうして買えるでしょうか。
そこで、イザヤがしたように、この呼びかけに「来て、お金を出さずに、ただで……買い求めてください」(イザ55:1、口語訳)という言葉を付け加えると、その意味がはっきりします。イザヤは人々に、遠慮せずに赦しを受け入れるように訴えます(同7節)。しかし、「買い求めよ」という言葉は、神が人間の必要と求めに応えてお与えになるものは価値のあるものであり、それを受けるためには、(何かそれに見合うものとの)取引が求められることを強調しています。神は、その民との回復された契約関係を前提として、無償で人に赦しをお与えになりますが、それは神にとっては無償ではありません。神はこの赦しを、主の僕の悲惨な、血による代価をもって買われました。この赦しが私たちにとって無償であるために、神は驚異的とも言える代価を支払われたのです。
問2
私たちの救いの代価は、何ですか(1ペト1:18、19参照)。
問3
イザヤの救いの理解は、新約聖書のそれと比較して、どのように似ていますか(エフェ2:8、9)。
イザヤが描写している旧約聖書の福音のエッセンスは、新約聖書のそれと同じです。神がアダムとエバに救世主の到来を約束されて以来(創3:15)、救いへの道はたった一つです。私たちは、「恵みにより、信仰によって救われ」たのです(エフェ2:8)。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ロマ6:23)。だからこそ人々は、イエスと、イエスが彼らのために十字架で完成された救いについて知る必要があるのです。
高い思い、高い道(イザ55:6~13
問4
なぜ神は、その思いと道が私たちのそれを「天が地を高く超えているように」高く超えていると言われるのでしょうか(イザ55:8、9)。
神の創造された宇宙の最も単純な物でさえ、人間の知性では、その神秘の片鱗さえ測り知ることはできないとすれば、神の神秘という道の入り口に立った人間がその先を全く見通せないとしても、何ら不思議ではありません。神のこの無限の優越性を知るとき、私たちはただへりくだって、神の助けをいただくしかありません(イザ57:15参照)。
問5
イザヤ55:6~9を読んでください。神はどんな文脈の中で、ご自分の思いと道が人間の想像を超えて高いと言われたでしょうか。私たちにはなぜ、それらが想像できないのでしょうか。
宇宙のすべての偉大な神秘の中で最も大いなる神秘は、疑いなく救いの計画です。私たちは、この神秘の理解という道の初めの数歩を踏み出しているにすぎません(エフェ6:19参照)。宇宙の創造主が身をかがめて人性を身にまとわれ、骨折りと苦しみの生涯を送られたこと。そうすることによってのみ、私たちのために罪の犠牲として死ぬことがおできになったこと。そして、それらすべては、私たちを赦し、私たちに憐れみを示すためであったこと──これらは、神によって造られた者たちの心を、あらゆる時代を通じて永遠に捉えて放さない真理です。
「贖いという主題は、天使たちも垣間見たいと望む主題である。それは、永遠の時を超えて休みなく、贖われた者たちの学ぶ科学、そして歌う歌となるであろう。だとすれば、それはこの世にあっても、今から注意深く考察し、学ぶ価値のある主題ではないだろうか。……
この主題の学びに終わりはない。キリストの受肉、その贖いのための犠牲、執り成しの働きに関する研究は、時が続くかぎり勤勉な研究者の心を捉えてやまないだろう。永遠の年月を数えながら天をながめて彼は叫ぶだろう。『神の神秘のなんと偉大なことか』」(『私の今日のいのち』360ページ、英文)。
偽りの断食(イザ58:1~8)
問6
イザヤ58:3にある「断食」は、何を意味しているのでしょうか。
イザヤ58:3にある「断食」は、「贖罪日の断食」を意味します(レビ16:29、31、23:27~32)。それは、レビ記の語法と同じように、イザヤ58:3でも「苦行」という表現と合わせて出て来ることからも明らかです。苦行(口語訳では「身を悩ます」)とは、断食を含むさまざまな自己否定を意味していました(詩35:13、ダニ10:2、3、12と比較)。
イザヤ58章を「贖罪日」という背景を念頭に置いて読むと、「声をあげよ、角笛のように」(1節)という神のご命令も理解できます。「ショファール」と呼ばれたこの種の角笛は、贖罪日の10日前に、この日の記念、または合図として吹き鳴らされました(レビ23:24)。さらに、50年目の贖罪日にも、ヨベルの年の解放の始まりを宣言するために、角笛が吹き鳴らされました(レビ25:9、10、イザ27:13と比較)。
問7
イザヤ58:3~7を読んでください。主は、彼らの断食の誤りについて、どのように訴えておられますか。
イスラエルの民は、主が自分たちの「信仰深さ」を喜んでくださると期待したようですが、当然、彼らの断食は、その本来の意味とは全く裏腹のものでした。贖罪日に行われる自己否定の行為は、神に対する感謝と忠誠心を表すためでした。大祭司はこの日に、聖所を清めるために神のみ前に出るのであり、それはすでに赦されている罪から彼らを清めるためでした(レビ16章を4章と比較)。その行為は、裁きの日に彼らを救ってくださった神に対する感謝と謝恩のしるしとして行われるべきであり、彼らの「信心深さ」や「献身」を神に認めていただくためではないのです。結局のところ、神の聖所を汚していたのは、主の民のそのような罪だったのです。汚された聖所は、血をもって清められなければなりません。そして、その血は彼らがした行い〔罪〕のために流されるのでした。
真の断食(イザ58:1~12)
神の民に、主が彼らの王であることを思い起こさせる角笛が鳴って10日後、民の自己否定の行為によって、彼らの王なる神への忠誠が確認される、まさにその贖罪日の当日、預言者は角笛のような声をあげて、彼らの背きを宣言するのでした(イザ58:1)。
問8
イザヤ58:6~12にある真の自己否定の行為とは、何ですか。結局のところ、自分の食事を数回抜くことと、自分の時間とお金を使って近所のホームレスに食事を提供することとでは、どちらが難しいですか。二つの行為の背後にある原則は、何でしょうか。このような行為は、どのようにして真の宗教の一部となりますか。
だれでも宗教的にはなれます。だれでも決められた時間に、決められた形式に従って、決められた儀式を行うことさえできるかもしれません。しかし、主はそれ以上のことを求めておられます。イエスの生涯を考えてください。イエスは当時の宗教儀式に忠実でしたが、福音書記者はなぜ、イエスの儀式に対する忠実さではなく、貧しい人々のためのイエスの憐れみ、いやし、パンの奇跡、それを必要とする者たちへの赦しに、これほど多くの紙面を割いたのでしょうか。
主は、福音を世に伝える教会、福音を世に伝える民を求めておられます。人々をイエスにある真理に引きつけるものは何でしょうか。食べ物に関する律法に厳格に従うことでしょうか。それとも、空腹の人を喜んで助けることでしょうか。安息日を厳格に守ることでしょうか。それとも、自分の時間と労力を割いて困っている人々を助けることでしょうか。
問9
マタイ25:40とヤコブ1:27を読んでください。これらの聖句は、私たちに何を語っているでしょうか。
イザヤ58章で神は、恵まれない人々に仕える人には祝福があると言われます。それは、人々に仕えるとき、私たちの人生に超自然的な介入があるという約束でしょうか。それとも、利己心や貪欲を捨て、自分の利益をおいて他者に自分を与えることによって、自然に祝福を受けるということなのでしょうか。
私たちの時間(イザ58:13、14)
問10
ここでイザヤは、なぜ安息日について論じているのでしょうか。先の贖罪日と関係があるのでしょうか。
年ごとの贖罪日は、安息日でした。この特別な儀式的な安息日は、週ごとの安息日のように、どんな働きも禁じられていました(レビ23:27~32)。したがって、初期のアドベンチストも認めていたように、贖罪日における安息が夕暮れから夕暮れまで続くという規定(同32節)は、週ごとの安息日についても真実でなければならないことを私たちに告げています。同様に、イザヤ58:13、14は、基本的に儀式的な贖罪日としての安息日という文脈の中で書かれていますが、その内容は週ごとの安息日にも適用されます。
問11
イザヤ58:13を読んでください。安息日はなぜ、このような日として描写されているのでしょうか。どうしたら私たちもそのような安息日の経験に入ることができるでしょうか。
イザヤ58章は、自己否定、社会に奉仕する親切心、安息日という三つの主要な主題を扱っています。これらは互いに、どのように結びついているでしょうか。
第一に、三つとも、自分でなく神に心を向けること、神を第一にすること、そして私たちは神に依存する存在であることを認めることを含みます。第二に、人間はこれら三つすべてを通して、神がそうであられるように聖さを求めるのです(レビ19:2)。キリストは、おのれをむなしくして人間の姿になられ(フィリ2:8、口語訳)、自己犠牲の親切心〔愛〕を行動によって示し(ヨハ3:16)、そして創造週の終わりに、その働きを終えて安息日にお入りになったのです(創2:2、3、出20:11)。
さらなる研究
「克己がなければ、どんな人でも真の慈善を実行できない。ただ単純と克己と厳しい節約の生活によって、初めてキリストの代表者として示された働きを遂行できるのである。高慢や世的な野心を心から捨て、あらゆる働きの面で、キリストの生涯の中に示されている無我の原則が、実行されなければならない。わたしたちの家の壁や額や家具に『さすらえる貧しい者を、あなたの家に入れ』という文字が書かれ、たんすには神の書かれた『裸の時に着せ』という言葉が、読みとられなければならない。また、食堂では豊かな食物を載せた食卓に、『飢えた人にあなたのパンを裂き与え』と記されているのを見なければならない」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング新装版』134、135ページ)。
まとめ
イザヤ55章と58章で、イザヤは、彼らの思いと道を捨て、神に立ち帰るように訴えます。神の彼らの幸福のための思いは、彼らの思いをはるかに超えて高いからです。神は、神が憐れみをもって赦されたように、赦された者も憐れみ深くあることをお求めになります。それは贖罪の日と安息日の精神とも調和するものです。なぜなら、神の赦しという賜物は、それが真実に受け入れられるなら、心をつくり変えるからです。