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イザヤ59章、イザヤ59:15~21、イザヤ60:1、2、イザヤ61章、イザヤ61:2
「私たちはキリストの学校で学ばなければなりません。キリストの義のみが、私たちに恵みの契約の祝福に入る資格を与えるのです。私たちが長い間、それらの祝福を望み、手に入れようとしても受けることができないのは、私たちが、自分で何かそれらの祝福に価する行いをすることができると考えているからです。私たちは、イエスを生ける救い主として信じながらも、自分から目を離さないのです。自分の優れた資質や功績が私たちを救うと考えてはなりません。キリストの恵みこそが、私たちの唯一の救いの希望です。主は預言者を通して、次のように約束されます。『神に逆らうものはその道を離れ/悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば/豊かに赦してくださる。』(イザ55:7)私たちは、主の約束をありのままに信じなければなりませんが、信仰でなく感覚に頼ってはなりません。私たちが完全に神に信頼し、罪を赦す救い主なるイエスの功績を頼みとするとき、私たちは、望むすべての助けを受けるでしょう」(『信仰と行い』36ページ、英文)。
今回は、預言者イザヤの書に示されたこの偉大な真理について、さらに学びます。
罪の結果(イザ59章)
イザヤ58:3で、民は神に次のように尋ねています。「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか」
しかし、イザヤ59:1には、「わたしたちはなぜ救えない主の手に救いを求め、なぜ聞くことのできない主に叫ぶのか」といった別の疑問が暗示されています。これに対してイザヤは、神は救うことも、聞くこともおできになると答えます(イザ59:1)。神が救われず、聞かれないのは、全く別の問題なのです。
問1
イザヤ59:2は59:1の疑問にどのように答えていますか。
神はあえて、ご自分の民を「無視」することをお選びになります。そう神が望まれるからではなく、「むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て」ているからなのです(イザ59:2)。これは、神と人間の関係に及ぼす罪の結果を最も明確に述べた言葉の一つです。イザヤは、この人類歴史を貫く罪の問題について詳しく述べるために、残る59章をすべて費やします。罪は、私たちの神との関係を破壊し、その結果として、永遠の滅びへと導きます。なぜなら罪は、神を私たちから遠ざけるのではなく、私たちを神から遠ざけるからです。
問2
創世記3:8は、上記の原則について、どのような例を示していますか。
罪とは本来、神を拒むこと、神から離れて行くことです。罪の行為はそれ自体、神から離れて行くことであるだけでなく、その行為の結果がさらに罪人を主から離れさせるのです。罪が私たちを神から引き離すのであって、神が罪人を遠ざけられるのではありません(事実、聖書は初めから終わりまで、罪人を救おうとされる神の記録に他なりません)。罪が、私たちに神からの救いの申し出を拒ませるのです。このようなわけで、私たちの生活の中のどんな罪も大目に見ないことが、非常に重要なのです。
だれが赦されるのか(イザ59:15~21)
イザヤ59章は、罪の問題を容赦なく描いていますが、幸いなことに、聖書は同時に贖いの希望も提示しています。
問3
ローマ3:21~24は、私たちがどのように救われるのかについて、何を語っていますか。この事実は、裁きにおいて、どんな希望を与えてくれますか。
多くの人は、裁きにおいて問題なのは、だれが罪を犯したかだと考えます。しかし、それは問題ではありません。なぜなら、すべての人が罪を犯したからです。むしろ、だれが赦されるのかが問題なのです。神は「イエスを信じる者」を義とされるから、正しいのです(ロマ3:26)。主の裁きの判断基準は、だれがイエスを信じる信仰によって赦しを受け入れたか、そしてそれを受け入れ続けているかです。
さて、私たちが行いによって裁かれることは真実ですが、それは行いが私たちを救うという意味ではありません。もしそうなら、信仰は無意味です(ロマ4:14)。行いは、私たちが真の意味で救われているのかどうかを現わすものなのです(ヤコ2:18)。
問4
なぜ行いは、今現在も、そして主の裁きにおいても、私たちを救うことができないのでしょうか(ロマ3:20、23参照)。
〔神の目には、キリストの死によって贖いが完成した以上、〕良い行いや律法への服従が人を贖うには遅すぎるのです。罪の世にある律法の目的は、救うことではなく、罪を示すことです。
〔良い行いとは〕「愛によって働く信仰」(ガラ5:6、口語訳)なのです。つまり、聖霊によって私たちの心に注がれる神の愛が、イエスにある生きた信仰となって、私たちを行動させるのです(ヤコ2:26参照)。
行いは、〔内にあるものが〕外に現れたにすぎません。救いの信仰が、人間を通して現れたものなのです。したがって、真のクリスチャン経験は、主に対する日ごとの献身の中に現れるものであり、律法に対する服従となって現れるものです。裁きにおいて、神は行いを、神のように〔人の〕信仰の思いを読むことのできない被造物〔人間〕のための証拠として、お用いになります。しかし、回心した人にとっては、キリストと聖霊によって人生に力が与えられた、回心後の行いだけが裁きに関わるのです。回心前の罪の生活は、小羊の血によってすでに洗い清められているからです(ロマ6章参照)。
普遍的な訴え(イザ60:1、2)
問5
イザヤ60:1、2は、何について語っていますか。そこには、聖書を貫いて流れるどんな原則が見られますか。
イザヤ60:1、2には、捕囚の後にその民を救出される神のみ姿が、キリストによる究極的な救いの完成を指し示して輝く、神が闇の中から創造された光のイメージをもって描かれています。
問6
イザヤ60:3で、国々と王たちは、だれの光に向かって歩むのでしょうか。
3節の「あなた」は、ヘブライ語では女性単数形になっています(イザ60:1、2参照)。それは明らかに、前章の終わり近くに出てくる、女性として擬人化された「シオン」を指します(同59:20)。ですから、闇に覆われた地上の民は、シオンに向かうことになります。彼らは、彼女の上に輝き出る神の栄光の光に引き寄せられます(同60:2)。「シオンは、彼女のものである光の中に入るように、そして、同じ光に集まる諸国民を見張り、〔彼らが攻撃すれば〕反撃するように命じられる」(J・アレック・モウシャー『イザヤの預言:導入と解説』494ページ、英文)。〔この解説が示すように〕シオンはエルサレムを指しますが、エルサレムの物理的位置よりも、その民が強調されていることに注意してください。
問7
この預言は、アブラハムに対する神の契約の約束とどんな点で似ていますか(創12:2、3)。どちらも同じことを言ってはいないでしょうか。
神は、アブラハムとその子孫をお選びになるにあたって、普遍的な目的をお持ちでした。したがって、アブラハムとの神の契約は、最終的にはアブラハムを通して、全人類との契約となるのでした。
イザヤは、彼の民を彼らのいにしえからの普遍的な運命に引き戻そうとしました。真の神の代表者として、彼らは彼ら自身に対してだけでなく、世に対して責任を負っていたのです。彼らは、神を求める異邦人を受け入れるべきでした(イザ56:3~8参照)。それは、神の宮が「すべての民の祈りの家と呼ばれる」ためだからです(同7節)。
「主の恵みの年」(イザ61:2)
問8
イザヤ61:1で語っているのは、だれですか。
神の霊がこの油注がれた人の上にあるということは、彼は解放者の1人(amessiah)か、「救世主」(theMessiah)であることを意味します。彼は、「貧しい人に良い知らせを伝え……打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知」(イザ61:1)します。これは、だれについての描写でしょうか。イザヤ42:1~7と比較してください。そこには、「主の僕」が非常によく似た表現で描かれています。
イザヤ61:2は、「主の恵みの年」(口語訳)について語っています。ダビデの血を引く王、そして救い主として油注がれるメシアは、解放を宣言する時に、神の恵みの特別な年を宣言します。レビ記25:10と比較してください。神は、イスラエルの民に、聖なる50年目の年に解放を宣言するようにお命じになります。「それが、ヨベルの年である。あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」。それは、先祖の土地を奪われ、あるいは困難な時期を生き延びるために奴隷になった人たちが(レビ25:25~55)、再び自分の土地と自由を取り戻すことを意味します。なぜなら、ヨベルの年は、贖罪の日に角笛が吹き鳴らされることによって始まったからです(同9節)。このことについては、イザヤ58章に関連して、すでに触れた通りです。
イザヤ61:2の「主の恵みの年」(口語訳)も一種のヨベルの年ですが、レビ記25章に規定された単なる恵みの年ではありません。この「恵みの年」は、王なるメシアによって宣言され、その時、彼は解放と回復の働きを通して、自身を世に現わすのです。このことは、古代メソポタミアの王たちの中に、その治世の初めに負債の免除を宣言することによって、社会的親切心を示した者がいたのと似ています。メシアの働きは、レビ記25章の律法の範囲をはるかに超えたものです。彼は、「捕らわれ人には自由」を宣言するだけでなく、打ち砕かれた心を包み、嘆いている人々を慰め、彼らに回復をもたらします(イザ61:1~11)。さらに、「主の恵みの年」に加えて、彼は「神の報復の日」を宣言するのです(同2節、口語訳)。
「神の報復の日」(イザ61:2)
問9
イザヤ61章に描かれたメシアは、すべての良い知らせの中で、なぜ神の報復を宣言しているのでしょうか。この預言は、いつ成就しますか。
ナザレにおられた時、イエスはメシアとしてイザヤ61章を、「主の恵みの年」のところまでお読みになり(イザ61:2、ルカ4:19、いずれも口語訳)、そこでやめて、次のように言われました。「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(ルカ4:21、口語訳)。つまり、イエスは意図的に、次に出て来る「神の報復の日」(イザ61:2、口語訳)という言葉をお読みにならなかったのです。捕らわれ人をサタンの暴虐から解放するために、メシアの良い知らせ、解放、そして慰めの働きはすでに始まっていましたが、報復の日はまだ来ていなかったのです。マタイ24章には(マコ13章、ルカ21章と比較)、イエスが弟子たちに、将来の天の裁きの到来を預言なさる場面が記されています。
実に、イザヤ61章の「神の報復の日」とは、「主の大いなる恐るべき日」(ヨエ3:4〔口語訳2:31〕、マラ3:23〔口語訳4:5〕)のことであり、その日にキリストは敵を打ち破り、虐げられた彼の残りの民に自由を与えることによって、惑星地球を不法から解放するために再びおいでになるのです(黙19章をダニ2:44、45と比較)。このように、キリストは「主の恵みの年」の始まりを宣言されましたが、再臨において、その恵みは頂点に達するのです。
問10
愛の神が報復を約束なさるという考えを、どのように調和させることができるでしょうか。報復は、愛の表明なのでしょうか。
イエスは、〔もし一方の頬を叩かれたなら、〕反対の頬を向けるように言われた(マタ5:39)一方で、正義には刑罰が伴うことも、非常に明確に宣言されています(同8:12)。パウロも、「悪をもって悪に報いることのないように」と教えていますが(1テサ5:15)、主が天から燃え盛る火の中を来られる時、「神を認めない者……に、報復」する、とも言っています(2テサ1:8、口語訳)。
〔人間との〕違いはもちろん、主のみが、無限の知恵と憐れみのうちに、完全かつ公正に正義と報復をもたらすことがおできになるという点です。
さらなる研究
参考資料として、『人類のあけぼの』第33章「シナイからカデシへ」、『各時代の希望』第24章「この人は大工の子ではないか」を読んでください。
「イエスは、ご自身についての預言の生きた解説者として、人々の前にお立ちになった。イエスはいま読まれたことばを説明するにあたって、メシヤはしいたげられる者を救う者、とりこを解放する者、苦しんでいる者をいやす者、盲人に視力を回復する者、世に真理の光をあらわす者であるとお語りになった。イエスの印象的な態度と、そのみことばのすばらしい意味とは、聴衆がこれまでかつて感じたことのなかった力をもって、彼らを感動させた。神の力の波があらゆる障壁をうちこわした。モーセのように、彼らは目に見えないお方を見た。彼らは、心が聖霊に動かされるままに、熱烈なアーメンと賛美とをもって主に答えた」(『希望への光』784、785ページ、『各時代の希望』上巻293ページ)。
「神の報復の日が来る。それは神の激しい怒りの日である。だれが主の再臨の日に立つことができるだろうか。人々は神の聖霊に対して心を頑なにした。しかし、良心という矢には歯が立たないものを、神の怒りの矢は刺し通すのである。神が罪人を裁くために立ち上がる日は近い。その日、偽りの牧者は神に背く者たちの盾となるだろうか。大勢の者たちと共に不服従の道に進んだ者は弁解できるだろうか。犯しやすい罪だから、とか、多くの者が犯すからという理由で、罪は帳消しにされるだろうか。不注意な者たちや無関心な者たちも、これらの問いについて考え、自らの立場を決めなければならない」(『信仰と行い』33ページ、英文)。
まとめ
神は、反逆者たちを取り去ることによって、そして人々を神から引き離してきた罪から離れる残りの者たちを回復することによって、不条理な社会を清められます。神のご臨在の祝福によって、諸国の民は神と神の民に引き寄せられ、一緒にメシアによって宣言され、もたらされる神の恵みの時を楽しむことができるのです。
*本記事は、安息日学校ガイド2004年2期『イザヤ わが民を慰めよ』からの抜粋です。