この記事のテーマ
エズラとネヘミヤは、イスラエル人でない民族との結婚が普通になっていた共同体の中で指導者になりました。いずれの指導者もこのことを強く懸念しました。この民を神との密接な関係へと導き入れたかったからです。彼らは、神を信じない人や偶像礼拝者がイスラエルの民に否定的な影響を及ぼしうることを知っていました。なぜなら、彼らは歴史を通じてそのひどい結果を目にしてきたからです。カナンの宗教はイスラエル中に広まり、バアルやアシェラがあらゆる高い丘の上で拝まれるまでになっていました。さらに、イスラエル人の家庭に及ぼした異教の伴侶たちの影響は有害でした。バラムはモアブ人に、彼らの女たちをイスラエルの人々のところへ送るように助言しました。イスラエルの男たちがモアブの女を好きになれば、彼らは神に背を向けると確信してのことです。伴侶たちが影響を及ぼし合っただけでなく、彼らの子どもたちの信仰が影響を受けました。
エズラとネヘミヤは、イスラエルの異民族との結婚状況をどのように処理するでしょうか。彼らはそれを放っておくのでしょうか、それとも立ち向かうのでしょうか。私たちは今回、この問題に対する2人の指導者の取り組み方について考えます。
ネヘミヤの反応
問1
ネヘミヤ13:23~25を読んでください。ここでどのようなことが起きましたか。この状況に対するネヘミヤの反応を、私たちはいかに説明したらよいのでしょうか。
この子どもたちはアラム語(捕囚時代に使われていた言語)やヘブライ語を話さず、聖書の教えを理解できませんでした。これは大きな問題でした。なぜなら、神の啓示の知識がゆがめられたり、消え去ったりする可能性があったからです。書記官や祭司たちは、人々に説教をはっきり伝えるためにたいていアラム語でトーラーを説明しました。しかし母親たちは、アンモン、アシュドド、モアブの出身であり、また彼女たちが子どもたちの世話をおもにしていたので、子どもたちが父親の言語を話せなかったのも驚くに当たりません。私たちが話す言語は、私たちのものの考え方に関する情報を与えてくれます。なぜなら、私たちはその文化の語彙を用いるからです。聖書の言語を失うことは、彼らの特別な自己認識を失うことを意味したでしょう。それゆえ、ネヘミヤにとって、家族が神の言葉との関わりを失いつつあること、そして結果的に、ヘブライ人の主、生ける神との関係を失うことは、思いも寄らないことでした。
ネヘミヤの行動は、当時規定されていた罰の一環として公の場で辱めを行ったものである可能性が高いと、聖書学者たちは指摘しています。ネヘミヤが彼らを責め、呪ったと書かれているからといって、私たちは、彼が汚い言葉や罵りの言葉を使ったと考えるべきではありません。むしろ彼は、契約の呪いを彼らに話していたのです。申命記28章は、契約を破った者たちに起こるであろう呪いを概説しています。人々の誤った行為とまずい選択の結果を自覚させるために、ネヘミヤが聖書のその言葉を選んだ可能性は極めて高いのです。
さらに聖書には、ネヘミヤは「幾人かを打ち、その毛を引き抜(いた)」(ネヘ13:25)と書かれていますが、私たちは、彼が激怒し、怒りに任せて反応したと考えるべきではなく、打つことが公の場での規定された罰の形式であったことに注目すべきです。この種の行動は、「幾人か」にだけ用いられましたが、「幾人か」とは、このような間違った行動を引き起こしたり、促したりした指導者たちを意味します。これらの行動は、公の場での辱めの方法となるべきものでした。ネヘミヤは、人々が自分たちの選択の重大さとその後に起きる結果をしっかり理解できるようにしたいと思ったのです。
ネヘミヤの叱責
問2
ネヘミヤ13:26、27を読んでください。これは、正しい道からそれる危険を私たちに伝えるうえで聖書の歴史がいかに重要かということついて、何を教えていますか。
ソロモンは自らの選択によって罪の中へ深く引きずり込まれました。彼はイスラエルの王に与えられた神の命令に背くことで身を滅ぼした、と言ったほうが正確かもしれません──「王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない」(申17:17)。ソロモンの人生は反面教師として用いられます。彼は単に複数の妻と結婚したというだけでなく、ネヘミヤが指摘するように、重大なことに、神の礼拝者でない女たちを選んだのでした。
問3
民が異教徒と結婚したことをネヘミヤが叱責したのは、なぜ正しかったのですか(創6:1~4、24:3、4、28:1、2、申7:3、4、Ⅱコリント6:14)。
異教徒と結婚してはならないという命令は、民族主義的なものではなく、偶像礼拝に関するものでした。聖書の登場人物は、イスラエル人でない人たちと結婚しています。モーセはミディアン人の女ツィポラと結婚しましたし、ボアズはモアブ人のルツと結婚しました。そうではなく、これらの命令における結婚の問題は、異宗教の人や信仰のない人との結婚に関係しているのです。問題は、エズラやネヘミヤの時代の人々が神を信じる人との結婚を選ばなかったことでした。旧約学者リチャード・M・デイビッドソンは、『ヤハウェの火』という本の中で、「エデンにおける結婚の計画は……霊的信仰やそのほかの重要な価値観において、2人の伴侶が相補的に一体であることを要求した」(316ページ、英文)と述べています。この物語に登場する異教徒の妻たちは、偶像礼拝を捨てることを選びませんでした。それゆえ、たぶんネヘミヤは、人々の選択に怒るよりも悲しんだのでしょう。彼にとって、このことは神への真の献身の欠如を示していたからです。
聖書は、私たちが常に神を土台とし、私たちの幸福が最大となるように意図された実践上の原則を与えています。同様に、釣り合いの取れた結婚をしなさいという命令は、より良い人生を私たちにもたらし、互いに神に献身することを促す助けとなるはずのものでした。
エズラの反応
問4
エズラ9章を読んでください。イスラエルの人々の、異民族間の結婚について耳にしたエズラは、どのような反応を示しました。エズラ9:1、2は、彼らが「離れようとはしません」と述べています。「離れる」という言葉は、次の聖句の中でも用いられています(レビ10:10、11:47、出26:33、創1:4、6、7、14、18)。この言葉が使われていることは、信者が信者でない人と結婚する問題について、どのようなことを示唆していますか。
人々は、異民族間の結婚という問題をエズラに持ちかけました。忌まわしいことに関わった民を挙げる際に用いられている言葉は、彼らにトーラーの知識があることを示していました。そのリストが聖書の記事からそのまま引用されたものだからです。興味深いことに、長たちは、民の霊的指導者である祭司やレビ人たちでさえこの罪を犯していたのに、エズラにこの情報を伝えたのでした。
「エズラはバビロン捕囚の原因を研究した時に、イスラエルの背信は主として、彼らが周囲の国々と入り混じったことにあることを学んだのである。彼は、もし彼らが周囲の諸国から離れているようにという神の命令に従っていたならば、多くの悲しい屈辱的な経験に遭わずにすんだことを悟った。ところが過去の教訓があるにもかかわらず、すぐれた人々が、背信を防ぐために与えられた律法を敢えて犯したことを知って、エズラの心は穏やかではなかった。彼は、ふたたび神の民に、彼らの故国に足がかりをお与えになった神の恵みを思うとともに、彼らの忘恩に対する宗教的憤りと悲しみに圧倒された」(『希望への光』616ページ、『国と指導者』下巻221、222ページ)。
「離れる」という言葉は、ものを対比するために用いられます。それどころか、正反対のものを意味します。人々はこの発言によって、偽りの宗教を避けなさいという神の命令を事前に了解していたこと、前もって知っていたことを認めたのです。彼らは、対照的な信仰を持つ伴侶と結婚することが結婚関係や子どもの育て方に影響を及ぼさないとだれにも言えないことを理解していました。状況がどれほど深刻になっているかに気づいたのでした。
行動するエズラ
問5
エズラ10章を読んでください。エズラと指導者たちは、異民族との結婚の問題といかに取り組みましたか。
会衆全体は一致して、外国人の妻を追放することを決定しました。驚くべきことに、エズラ10:15で名前を挙げられている4人を除いて、外国人の妻と結婚していた者たちでさえこの提案に同意したのです。ユダの人々は自分たちの伴侶を追放すると約束し、その提案を実行するのに3日かかりました。最終的に111人のユダの男たちが妻を追放しました(エズ10:18~43)。興味深いことに、最後の節は(同10:44)、このような異民族間の雑婚ですでに子どもをもうけた者たちがいたと記しています。子どもと一緒に母親たちを家庭から追放したことは理にかなっている、と私たちには思えませんし、正しいとも思えません。しかしそれは、神がユダの人々とやり直そうとしておられた特別な時であったこと、ある意味では、彼らが神とやり直そうとしていた時であったことを、私たちは覚えていなければなりません。完全に神に従うためには、荒療治が必要だったのです。
エズラ10:11の「離れる」に相当する言葉(ヘブライ語で「バダル」)や同10:19の「離縁する」に相当する言葉(同「ヤツア」)は、聖書のほかのどこにおいても離婚を意味するために用いられていません。エズラは、離婚を意味するために通常用いられていた言葉は知っていたでしょうに、それを使わないことを選びました。それゆえ、これらの結婚がトーラーの掟を犯していたとわかったあと、エズラがそれらを合法でないと考えたことは明らかです。言い換えれば、結婚が律法に反していたので無効にされたということです。その過程は、無効な結婚の解消でした。しかし、あの妻や子どもたちにどのようなことが起きたのか、この行動が共同体にどのような衝撃を与えたのかに関する情報を、私たちは与えられていません。当時の習慣に従えば、前夫たちは前妻や子どもたちの移動を手伝ったことでしょう。妻たちは通常、故郷の父親の家に戻ったことでしょう。
しかしそのうちに、ユダの男たちの中に、再び信仰の異なる女たちと結婚する者が出始め、おそらくは、追放した妻のところへ戻った者たちさえいました。解決策がいつしか消え去ってしまうのは、人間の性質と、神に対する私たちの献身が浮き沈みを繰り返すことが原因です。自分自身を強い信者だと考える者たちでさえ、神との歩みが欠けていたと評されてしかるべき時期、あまり神に献身していない時期を経てきたことを認めなければなりません。残念ながら、人間は神を第一にすることに苦しむのです。
今日の結婚
異民族間の雑婚という問題について、私たちがエズラ記やネヘミヤ記の中で見てきたことから、神が結婚を重視しておられること、また私たちも重視すべきことは明らかです。私たちはよく祈りつつ将来の結婚相手を検討し、決断を下す際には神を含め、神の原則に従って決定すべきです。そのことが、多くの悲しみや苦悩から私たちを守ってくれるからです。
問6
クリスチャンが信者でない伴侶を持つ場合に、パウロがこの問題をいかに扱っていたか、Ⅰコリント7:10~17を注意深く研究してください。私たちは今日、不釣り合いなくびきにつながれる結婚にどう対応するべきでしょうか。
信仰の異なる者同士の結婚をどうするべきかに関して、聖書には詳しい命令がありません。ですから、そうした伴侶から離れることが正しい解決方法だとか、エズラの記事に基づいて、そうすることを推奨する必要があるなどということは、まったく、この聖句の意図や原則に反します。エズラやネヘミヤの状況は、一度限りのことであり、「主の御旨」(エズ10:11)でした。なぜなら、イスラエルの未来とその全共同体の礼拝とが危機に瀕していたからです。彼らは生ける神の礼拝者としての自己認識を失いかけていました。
私たちは、エジプトのエレファンティネ島にあった(エズラやネヘミヤの同時代)ユダヤ人の居留地で、指導者たちが異教徒との結婚を認め、まもなくヤハウェと異教の女神アナトの二神を持つ混交宗教を生み出したことを知っています。加えて、メシアの家系が危険に面していました。それゆえ、この一回限りの出来事は、信者が信者でない人と結婚している場合に、結婚生活や家族の崩壊に対する処方箋とみなされるべきではありません。そうではなく、この記事は、結婚における釣り合いの取れたくびきの関係を神が重視していることを示しています。サタンは、神への献身を勧めない人と私たちが結婚することを喜びます。夫婦がともに同じ確信を持っていると、片方だけが忠実である場合よりも、神のための宣教活動をより強力に行うことを知っているからです。
聖書は明らかに、不釣り合いなくびきの結婚をやめるよう勧告していますが(Ⅱコリ6:14)、異なる選択をした人たちに及ぶ恵みに関する聖句も見いだすことができます。神は、信者でない人と結婚した人たちが御自分と伴侶に対して忠実であるように力づけてくださいます。神は、私たちが御旨に反する選択をするときでさえ、私たちをお見捨てになりませんし、私たちが助けを求めるとき、助けてくださいます。これは、私たちがしたいことを何でもし、それにもかかわらず、神に祝福を期待できるという意味ではありません。私たちが必要と謙遜な心をもって神のもとへ行くとき、神はいつも聞いてくださるということです。神の恵みがなければ、私たちの中のだれにも望みはありません。なぜなら、私たちはみな罪人だからです。
さらなる研究
参考資料として、『国と指導者』第57章「改革が始まる」を読んでください。
「神がお定めになった義務を勤勉に果たすことは、真の宗教の重要な一部分である。人間は時の情況を、神のみ心を達成する手段として捕らえなければならない。適当な時に直ちに決定的行動をとれば、輝かしい勝利を得ることができるが、遅延と怠慢は失敗に終わり、神のみ栄えを汚すことになる。もしも真理の運動の指導者が、熱を示さず、無関心で目標が定まっていないならば、教会は冷淡で怠惰で享楽的になる。しかしもし彼らが、神のみに仕えるという聖なる決意に満ちているならば、民は一致して、希望にあふれ、熱心になるのである。
神の言葉は、明確で著しい対照に満ちている。罪と聖とが併記されているから、それを見てわれわれは、一方を避けて他方を受け入れればよいのである。サンバラテとトビヤの憎しみと虚偽と裏切りを描写したページは、また、エズラとネヘミヤの気高さと献身と自己犠牲をも描写しているのである。われわれは自由に、どちらでもまねてよいのである。神の命令に背いた恐るべき結果が、服従に従う祝福と対照されている。われわれは一方の罰を受けるか、他方の祝福にあずかるかを、自分で決定しなければならないのである」(『希望への光』636ページ、『国と指導者』下巻276ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2019年4期『エズラ記とネヘミヤ記─忠実な指導者を通して神がなしうること』からの抜粋です。