第一二章 神だけがお救いくださることができる
旧約聖書の世界における「義」とは、極めて実践的で具体的なものでした。それは決して不鮮明なものではなく、哲学的もしくは霊的な抽象事項でもなく、人の生きざまそのものでした。預言者たちが神の民を義に向かうように呼びかけた時、彼らはイスラエルが社会の一員としていかに生きるべきか、他人に対していかに振舞うべきかについて語ったのでした。義は、倫理的、祭儀的聖潔ばかりでなく、経済的、社会的正義をも含む事柄でした。事実、旧約聖書におけるこのような義を、ある意味において「ソーシャル・ゴスペル(社会的福音)」と呼ぶこともできます。罪とは他人をだまし、虐待することであり、文化的に容認されている関係を破壊する行為でした。
われわれはこれまでに、神が他者を食い物にする人々からの礼拝や断食を拒まれることについて、どのようにお告げになったかを見てきました(イザヤ五八章)。ユダ王国では社会闘争があらゆる場所で渦巻いていました。富める者たちは、権力や社会的に優位な地位を利用して、優勢でした。イザヤ五九章において主は、罪とはまさに不義のことであり、同じ仲間である人間に対し悪事を行う者たちを必ず罰する、とお告げになりました。しかし主は神の民の状況に言及なさる前に、ご自身のことを彼らに思い起こさせておられます。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない」(イザヤ五九ノ一)。
神の宣言は、イザヤ書全体を通じて神の民の心の中心に占められていた一つの疑問、即ち、「なぜわれわれの救いはまだやって来ないのか」という質問への応答としてなされたものです。神は彼らの祈りに答えることがおできにならないのか、礼拝の値うちのないお方なのか? 神は神の民を救う力を持っておられる。それは疑う余地もない。神が繰り返しイスラエルに思い出させられたように、神は創造者であられる。しかし神の民の状況の故に、今は彼らに答えることがおできにならない。主は彼らに次のようにおっしゃるのです。「お前たちの悪が 神とお前たちとの間を隔て お前たちの罪が神の御顔を隠させ お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(二節)。彼らの罪の騒音が彼らの訴えの声をかき消しているのです。
神は彼らの悪を列挙し始められます(五八章にある悪を反映している)。先ず、彼らの手には血がついています(三節)。一人の注解者は、この血は貧しい人々に対する経済的圧迫を表していると述べています。1しかし七節によると、明らかに実際の殺人を示しているようです。しかし、たとえそうであっても、彼ら自身で支えきれない程の不可能な経済状況の中に他人を追い込むことは、ナイフや毒と同じように確実に彼らを殺すことになるのです。主の民は偽りを語り、中傷し(三節)、特に弁護する者もない人に対する不正な告訴によって、正義や法的秩序をゆがめます(四節)。五節下句は、彼らを罪と悪によってはらんだ者として描いています。彼らが命を産み出さず、死をつくり出すからです。
五、六節には象徴的に、彼らは毒蛇の卵をかえし、裸を覆うことができないような、もろい蜘蛛の糸で織物を織っています。社会は崩壊し、誰も互いに信頼できず、山賊のために旅することも危険です(七節)。この文章には、字義通りの事実と比喩的真理の両者が描かれているのかもしれません。通商路での犯罪はすべての人々に影響しました。交易の低下は、経済的不況と更なる貧困を生み出し、恵まれない人々への圧迫が激しくなります。自分の利益のために正義をゆがめる人々は、苦難と圧迫に導く曲がった道を作っています。社会は複雑に編み込まれた織物のようなものです。もしそれがすり切れて、わずかの特権階級の利益に向けば、大多数の人々は苦しみます。
社会には正義がないばかりか、平和もありません(八節)。ヘブライ思想では、平和(シャローム)とは暴虐が存在しないことだけではありませんでした。それはもっと積極的な状況のことでした。シャロームとは、「魂と心(soul and mind)とが調和のとれた状態にあり、機能と能力の成長を促すものである」2それは、全人性、健康、個人の福祉を言外に含む言葉です。これらすべてのものがイスラエルの社会から消え失せた、と神の言葉は告げるのです。預言者は、神の言葉が誰に向けられたかは特定していませんが、問題に対して責任があると預言者が考えていた、權力と富を持つ人々を指していたと思われます。3
このような状況を作り出した張本人たちについて、彼らが造った道は曲がっていると、主の言葉は告げます(八節)。これは主のために道をまっすぐにする(イザヤ四〇ノ三、四二ノ一六、四五ノ二も参照)というイザヤ書の主題の逆行を暗示しています。
イザヤ五九ノ九~一四節は、しばしば詩編に登場する文体で綴られた「民の哀歌」です。神の民は正義を欠いたと、不特定多数を示す「われわれ」は認めています。彼らは異邦人と同じように暗闇に閉ざされ、光を必要としています(九節)。明らかにこれらの節の話し手である神の民は、世界の他の民と同じく、「民の光」――神の僕――を必要としています。これこそ人類のいかなる問題をも解決する唯一のものです。神の民は、彼らの背きと悪、正義の欠落を認めています(一二~一四節)。事実、イスラエルの社会は、悪を避ける者さえも滅ぼそうとする程ねじ曲がっていたのでした(一五節)。
戦士なる神
これは人間の手によっては癒し得ない状況です。主がはっきりと見られたように、神による解決が必要です(一五、一六節)。執り成す人が一人もいない事実に「驚かれた」主は、「ご自身の御腕」によって勝利をもたらされます(一六節)。「御腕」という言葉は、読者をイザヤ五二ノ一〇及び五三ノ一の主の「御腕」についての宣言に引き戻します。神の民に対する裁きの宣言に代わり(イザヤ五九ノ九~一五で彼らは自らの有罪を認めています)、主は彼らの救いを公表なさいます(一六~二〇節)。
主は戦いのために自ら武装なさいます。
「主は恵みの御業を鎧としてまとい
救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい
熱情を上着として身を包まれた」(一七節)。
今や神ご自身が戦士となられたのです。既に見たように、古代の人々は、彼らの神々が彼らのために戦ってくださると信じていました。もし彼らが勝てば、それはとりもなおさず彼らの神々が敵の神々を撃ち破ったからでした。しかしここにおいてイスラエルの神が神の民のために実際に戦われるのです。
神は神の武具を身にまとわれます。これらの武具は何を表しているのでしょうか?4神が身に着けられる特に二つのものは、現代人には理解しにくい事柄です。「報復の衣」と「熱情」を「上着」とすることです(一七節)。「『報復』という言葉は、現代の読者に誤解を与える言葉である。この原語『ナクァム』は、恐れ、または好意を持たずになされる『擁護』を意味する(イザヤ三五ノ四参照)。なぜなら神の行為は破壊と救済とが一体となってなされるからである(ルカ一八ノ七参照)。『熱情』とは、われわれが『熱意』と呼んでいるもので、目的のために集中することである。その意味は、イエスが神殿を清められた出来事に関して、イエスの弟子たちが詩編六九ノ一〇を引用して述べた、ヨハネ二ノ一七の『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』という聖句によってよく言い表されている。」5
主はご自身の反逆する民を救い、造り変え、彼らに正義と真理をもたらすことがおできになります。主が「激しい流れのように臨み 主の霊がその上を吹く」(イザヤ五九ノ一九)ようにおいでになる時、主の力が世界中にあふれ出ます。主は激しく吹く風であり、霊であり(ヘブライ語では両者は同じ言葉)、ちょうど創造の時に聖霊が新しい世界を存在させられたように、シオンのために新しい歴史を創造することがおできになります(一九節)。主は罪を悔いる者を救われるのです。
神がかつて歴史の中に介入なさり、イスラエルをエジプトの奴隷から救出され、シナイで彼らと契約を結ばれたように、神は再び介入なさり、神の契約を更新なさるのです(二一節)。しかも神はそれ以外のこともなさいます。昔モーセは、「主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよい」(民数記一一ノ二九)と切望しました。それを神は今や実現なさろうとしておられたのです。神がイスラエルを回復なさる時、神はご自身の霊を神の民に満たされるのです。神がその民に与えられる霊感の言葉をもって、今度は彼らが新しい世代に向かって教えるのです。
光が輝き始めた
イザヤ五九ノ九は光の必要について語っています。救いの使者は、今やその光の到来を宣言します(イザヤ六〇ノ一~三)。多くの注解者たちは、この使者はこれより以前に出現した僕であると考えています。六〇章、六一章が神の民の未来に臨む祝福の主題に向かう時、光が輝き始めた(一節)のです。神は彼らのもとに来られ、神の栄光が彼らを通して輝き出たのです。イエスがお語りになれたように、神の民は世に輝く灯火とならねばならないし、また必ずそのようになるのです(マタイ五ノ一四~一六)。光はまずシオンから出発し、世界を覆っている暗闇を次々と消しながら、世界中に広がります。主の栄光がエルサレムから輝き出ると、それは他の人々を引き寄せ、主のもとに導くのです。イザヤ二章と平行的な書き方で、六〇章は地上の民がいかにシオンに向かって群がって来るかについて告げています。「国々はあなたを照らす光に向かい 王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」(イザヤ六〇ノ三)。
神の言葉は、イスラエルに向かって、捕囚の民が彼らのもとに帰還する様子を、目を上げて見よと命じます(四~九節)。彼らは抱かれて、進んできます(四節)。これは、古代において、個人的に示される最高の優しさの表現です。6特に神殿の奉仕において使用される品々によって表されているような国々の富が、エルサレムに向かってやって来ます(五~七節)。神の言葉は、当時裕福だとみなされていた民族や国民を幾つかの実例として挙げています。国々は強要されたからではなく、イスラエルを救い、造り変えられた神に対する畏敬と感謝の念をもってささげるのです。王たちは、彼らが目撃したことに感動したので、自国の民をイスラエルの神のもとに導くのです。神がシオンのためになされたことの故に、世界はこれらすべてのことをなすでしょう(九節)。一〇節に述べられている「異邦の人々」とは、僕や奴隷たちのことではなく、神の御業に献身して神の民の正式な一員となった人々のことです。(しかし、神を拒む国々は最後には滅びます〔一二節〕。)
非常に多くの巡礼者たちがエルサレムに出入りするので、町の門は開かれたままです。来訪者はいつでも歓迎されます。とにかく門を閉める必要がないのです。古代の人々は、敵の攻撃や犯罪者たちの襲撃を恐れて、町の門を閉めていました。しかし今やその危険はなくなりました。エルサレムは、その名の一部が示す通り「平和(シャローム)」の町そのものです。シオンは健全となり、目的は果たされました。黙示録はこの様子を用いて、新しいエルサレムの平和と安全を描写しています(黙示録二一ノ二五)。
イザヤ六〇ノ一四は、かつてイスラエルを苦しめた国々の子孫が、神の民の前に身をかがめると述べています。彼らは、「シオンの特権と喜びに入るためにそのようにするのである。恵みの勝利のみがそれを可能にする。なぜならば、このような従順さを生み出すのは、シオンの力によるのではなく、主がイスラエルの聖なるお方として、ご自身の町の中に現実的に住んでおられることを彼らが認めるからである」。7
かつて捨てられ、憎まれていた神の民を神は受け入れられ、彼らを誇とし、代々の喜びに造り変えられます(一五節)。神の言葉は、四節の様子に戻り、国々や王たちが彼らの乳母となって養うと述べます(一六節)。彼らは、神が果たして自分たちを救い、贖われたお方であろうかと、もはや疑いません。彼らははっきりとそのことが分かるのです(一六節)。主は、物質的、社会的に(一七節)、そして霊的に(一八節)シオンを造り変えられるのです。
古代近東地方の人々は、太陽や月を神々と考え、それらを拝みました。バビロン人は、特に彼らの月の神、「シン」を崇めました。創世記にある創造の記述は、それらを神聖なものとしないで、単なる被造物としてかたづけています。その箇所では、異教の神々の名を語るという誤解を与えないために、天体の名前さえ述べられていません(創世記一ノ一四~一八)。ところがイザヤ書における神の言葉は、光源としてさえ太陽や月の存在をまったく無視しています。シオンの民は太陽の光も月の輝きも必要としない。主が彼らの光であり、輝きの源となられるからです(一九、二〇節)。主は国々の光であるばかりでなく、神の民の光です。黙示録二一ノ二三は、この箇所の思想を適用しています。8
「苦難の僕」についての神の言葉は、彼が子孫を持つであろうと約束しています(イザヤ五三ノ一〇)。今やその僕なるお方は、子孫をお持ちになります。その子孫は主に従う者であり、若木となってとこしえに地を継ぐのです(イザヤ六〇ノ二一)。それは実現します。なぜなら主ご自身がそれを行われるからです(二二節)。
主の霊
イザヤ四二ノ一及び四九ノ一~五の概念の上に組み立てられたイザヤ六一章には、「主なる神の霊がわたしをとらえた」(六一ノ一、次の聖句も参照、同一一ノ二、四二ノ一)という第一人称の声による宣言がなされています。神の霊は、ちょうど創世記一章でなさったように、この宣言者に驚くべき偉大なことをするようにと強く訴えています。彼は神の霊を受けます。なぜなら「主はわたしに油を注」がれたからです(イザヤ六一ノ一)。「メシア」という言葉は、「油注がれた」というヘブライ語から派生しています。主はご自身が油注がれたお方――メシア――を遣わして、「貧しい人に良い知らせ(「福音」)を伝えさせ」、「打ち砕かれた心を包み、捕われ人には自由を、つながれている人には解放を告知」させました(一節)。宣言者は、メシアが傷付いた者に「包帯をし」、環境という牢獄に閉じ込められている人々を解放すると語ります。解放の様子は異邦人にまでも及びます。古代近東地方の王たちは王座に着いて最初の一、二年の期間に、負債のために投獄されていた人々を憐れんで、しばしば解放しました。先の僕の聖句の場合と同様、この箇所においても注解者たちは、この宣言者を一つの民としてのイスラエルと同一視したり、預言者自身を指す、とさえ述べていますが、これらの聖句には、人間を超え、人間よりも偉大なあるお方が示されていると思われる、別の用語も提示されています。
確かに人間も囚人を解放したり、苦しむ者を慰めたり、その他一~四節に描かれているような素晴らしい働きをすることができますが、五~七節の聖句は、イザヤ書の先の章の中で描かれている、主ご自身がなされた回復の約束を反映しています。ここに出て来る「僕」は、イスラエルの神と同じ方です。彼は神に代わって語ることができます。なぜなら彼は神の「御腕」であり、彼は神であられるからです。従って既に述べたように、神の御子、イエスはこの役割を引き受けることがおできになり、これと並行したイザヤ書の聖句は、地上におけるイエスの働きを列挙したものであり、要約したものです(ルカ四ノ一六~二一)。神の僕は、解放や慰めを与えるばかりでなく、世界を新しく造り変えられ、再び投獄されたり傷を受けたり、その他、人を悲しませるようなことが起こらないようにしてくださいます。彼の働きの結果、神の民は主が植えられた「正義の樫の木」となるのです(三節)。9
イスラエル全体は、祭司として奉仕する一定の人々を支援してきました。しかし、回復の期間は、すべてのイスラエルの民が全世界のために祭司の働きをすることができるように、国々が彼らの富を提供するのです(六節)。後にイエスは、キリストの教会を全人類のための祭司職に任命なさいます(一ペトロ二ノ五、黙示録一ノ六)。
イザヤ四九章の僕に関する聖句と同様に、神は神の民とご自身との間の契約を結ばれます(イザヤ六一ノ七~九)。神はその契約を神のご性質に基づいてお作りになります。神は正義の神であり、今やそのお方が、同じ神の正義を反映する民をお持ちになるのです。九~一一節には神のみ業の方針が描かれています。ある注解者たちは、この聖句を僕に適用し、他の者たちは神の民に適用しています。この聖句は両者への適用が可能ですが、イザヤは他の箇所でイスラエルを指すものとして用いています(イザヤ四九ノ一八)し、黙示録では、神の花嫁としての神の民を描くために用いています(黙示録二一ノ二)。しかしこの公約はすべて主の御業によって果たされるものなのです。
「大地が草の芽を萌えいでさせ
園が蒔かれた種を芽生えさせるように
主なる神はすべての民の前で
恵みと栄誉を芽生えさせてくださる」
(イザヤ六一ノ一一)。
参考文献
1. George.A.Knight, 「The New Israel: A Commentary on the Book of Isaiah 56-66」 (Grand Rapids: Wm.B.Eerdmans Pub.Co., 1985), p.34.
2. W.E.Vine, Merrill F.Unger, and William White, Jr. 「Vine’s Complete Expository Dictionary of Old and NewTestament Words」 (Nashvill: Thomas Nelson Publishers, 1966) p.174.
3. John L.Mckenzie, 「Second Isaiah: Introduction, Translation, and Notes」 (Garden city, N.Y.: Doubleday, 1968), p.172.
4. エフェソ6:10~17で、パウロはこの比喩をクリスチャンに適用している。
5. Knight, p.37.
6. エジプト人は絵画や彫刻で、彼らの王たちが女神たちから授乳されている様子を描いている。王たちが神の乳母を持っていることを示している。
7. J.A.Motyer, 「Isaiah: An Introduction and Commentary」, p.374.
8. この聖句を「科学的」見地から説こうとする者もいるが、それでは真の意味から逸れることになる。Knightは、神はここで比喩的に語っておられることを忘れるべきではないと述べ、更に、「恵み深い神の愛の計画については、いかなる人間の言葉によっても充分に描き尽くすことはできない」と記している(p.48)。
9. 最初の芽は、エッサイの芽である約束の義なる王である。真の義なるイスラエルを、神は新たに購われたイスラエルを形成するもう一つの義の芽となさるのである。