イザヤ書における神と救い【イザヤ書解説ー悲しみの人#5】

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第一三章 将来の回復

イザヤ書全体を通じて、神がいつ、どのようにイスラエルを究極的に救われるか、という彼らが問いかける質問に対し、神が絶えず応えてこられたことをわれわれはこれまでに見てきました。イザヤ六二ノ一~六三ノ六は、その救いが段々と近づいている様子を描いています。国々はシオンがもはや荒廃しておらず、「ヘファジバー『望まれるもの』」(イザヤ六二ノ四)という象徴的な新しい名を受けていることに注目します。主は、特に「エドム」によって代表されるシオンの敵どもを撃ち破られます(六三ノ一~六)。エドムはユダの弱点を付き、国土を襲撃し、強奪しました。イザヤ六三ノ七~六四ノ一一で、神の民は、神がこれまで彼らにしてくださったみ業を列挙しながら(六三ノ七~一四)、神に祈ります。そして神が彼らの父であり、贖い主であること(六三ノ一六、六四ノ七)を思い出してくださるようにと願うのです。神が彼らを見捨てられたという恐れに満たされて(六三ノ一九)、彼らは神に介入してくださるようにと願い(六四ノ一、二)、彼らの悪を認めます(六節)。

六五章と六六章において神は遂に、救いと回復の質問に対する神の完全な解答をお与えになります。まったく神に自分を委ねる人々のみを、神は救うことがおできになることを神は説明なさいます。他のすべての人々を神は必ず罰し、イザヤ書六五章に神は、「常にわたしを怒らせ、わたしに逆らう」(六五ノ三)人々の実例を列挙します。実在していない神々に対する礼拝の他に、ある者は死者の助けを求め(四節)、ある者は物事を悪用し、思いのままに勝手に人間の歴史を作ります。一一節で神は、「禍福の神に食卓を調え 運命の神に混ぜ合わせた酒を注ぐ者」を断罪なさいます。イザヤ書全体を通して、神がいかに世界の創造者であるばかりか、歴史の創造者でもあることを、神は強調なさいました。「運命の神」を拝むことは、神が歴史の出来事の支配者であられる事実を露骨に拒否することになるのです。1

主は、歴史への介入、及び輝きに満ちた新たなる創造の二つのみ業によってイスラエルを救い、回復なさいます。われわれが今から見ようとしていることは新しい創造についてです。しかしそれは神が打ち立てようと願っておられる神の特別な歴史――終末の諸事件のシナリオ――の結末なのです。

イザヤ書の終末観

イザヤ書は、神がいかにイスラエルを回復したいと願っておられたか、更に、神の民が地上のすべての国民を含むまで広がっていくかについて、数多く具体的に提示しています。われわれは先の章、特に一二章でこれらの幾つかの約束を見てきました。もう一つの課題は、神の裁きについてです。イザヤ書の前半に散見されるイスラエルとユダに対する裁きについての多くの警告2の他に、預言者は地上の国々に対する神の裁きの宣告も記しています。3「地は全く裸にされ、強奪に遭う」(イザヤ二四ノ三)。「主はすべての国に向かって憤りを発し……主は絶滅することを定め 彼らを屠るために渡された。……天の全軍は衰え 天は巻物のように巻き上げられる」(三四ノ二~四)。

神は地の全域に死と破壊を広げますが、完全には滅ぼされません。多くの国々は生き残り、(既に見たように)神のお導きのうちに、離散した神の残りの者たちをパレスチナに帰還する手助けをします。捕囚の民がユダやイスラエルに回復されるという主題は、イザヤ書全体に織り成されています。

神が捕われ人たちを約束の地に導き帰された後に、神はその地を造り変えられるのです。一時パレスチナの国土の約六〇パーセントは森林で覆われていました。ところが人口の増加に伴い、その大部分が耕作され失せてしまいました。更に繰り返しなされた軍隊の侵略により、地は荒らされました。敵の軍隊は、膨大な数の樹木を伐採し、それらを用いて強奪用の機械や防壁を建設したのです。また略奪して廻る軍隊は、食糧源を減少させることによって住民の力を削ぐために、果樹園を荒らし、ぶどう園を破壊するという常套手段を用いました。通常の農業活動が中断されたり、農夫たちが強制退去させられたりしたために、農業台地の土壌は徐々に破壊されたり、茨やその他の雑草が繁茂するようになりました。このような襲撃によってパレスチナの微妙な生態系が駄目になったのです。しかし神は今やシオンについて、「荒れ野をエデンの園とし 荒れ地を主の園とされる」(五一ノ三)と約束なさるのです。

ユダとイスラエルの民は今や一つの民となって、回復された家郷に住み、主の輝きを現し(四九ノ三)、神の力と神こそ真の唯一の神だという事実を証しし、賛美するのです(四三ノ一〇、二一、四四ノ八)。彼らは、「わたしはあなたを国々の光とし わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」という言葉の通りになります(四九ノ六、四二ノ六、七も参照)。主は神の民の中から代表を他の国々に遣わされます(六六ノ一九、四二ノ一二も参照)。神がご自身の民に対してなさっておられることを見て、異邦人たちは、神が神の民をいかに祝福なさったか(六一ノ九)、また彼らの神は実に唯一の真の神である(四五ノ一四)という事実を認めます。真理の光は、エルサレムから輝き出ます(二ノ三、六〇ノ三)。神は全人類に、「地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない」(四五ノ二二)とお招きになります。

地のあらゆる所から多くの人々がパレスチナに群がってやって来ます(一四ノ一、四五ノ一四、四九ノ一二、一八、二二、五六ノ六、七、六〇ノ三)。イスラエルに注がれた神の祝福は、神の選民についてこれまで一度も聞いたことのなかった国々の注目をひき、その結果彼らはエルサレムにやって来るのです(五五ノ五)。こうしてエルサレムの神殿は「すべての民の祈りの家」(五六ノ七)と呼ばれるようになります。彼らが見たものに感動し、彼ら自身も参加したいと願い、国々は彼らの富や労働力をエルサレムに運んで来ます(四五ノ一四、六〇ノ一~一一、六一ノ五、六)。神の民はこれらの資源を用いて、更に他の国々に向かいます。かつては神の敵であった人々も主を礼拝するようになり、神の民の一員となります(一九ノ一八~二四)。「時が来れば、ヤコブは根を下ろし イスラエルは芽を出し、花を咲かせ 地上をその実りで満たす」(二七ノ六)。こうして全世界は約束の地になるのです。

イザヤ書では、神が世界を徐々に造り変えられるということに注意したいと思います。そこには旧約聖書の他の預言書や、特に新約聖書に書かれているような、地上に大変動を与える闘争や、ハルマゲドンの大戦争などは提示されていません。4激しい闘争に最も近い描写がなされている箇所は、イザヤ書六、八、一三、一七、六〇、六六章などに暗示されている程度です。地を覆う大いなる暗黒についてしばしば語られている警告も、他の国々と同様、反逆する神の民に向けられています。イザヤ六六ノ一五、一六において、神は火と共に来られます。しかし神の民に対する脅威が静まった後は、静かな世界に変わります。例えば、エレミヤ二五章、エゼキエル三八章、ヨエル四章、ゼカリヤ一二章などに記されているような、エルサレムに対する明確な攻撃の描写は、イザヤ書には見ることができません。しかし、主がバビロンを滅ぼされることについては記されています(イザヤ一三章)。

輝きに満ちた新しい創造

イザヤ書の最後の部分に、ご自身の贖われた民のために神が創造しようと願っておられる世界の様子がより詳しく提示されています。預言者は回復された民とその世界を暗示する多くの言葉を残していますが、六五章、六六章では、神の新しい御手の業を示す回復が、二つの区分の中で提示されています。最初はイザヤ六五ノ一七~二五に表されています。

一七節は、神が「新しい天と新しい地を創造する」と宣言します。聖書は、「創造する」というヘブライ語を、神のみが主体的になさる業として用いています。創世記の最初の数章では、この語が九回用いられ、イザヤ四〇~六六章には、一九回用いられています(イザヤ四五章で六回、六五ノ一七、一八には三回)。5神の新しい創造はその民に劇的なインパクトを与えるものとなります。

神が、「初めからのことを思い起こす者はない」とおっしゃる時、救われた人々がある種の集団的記憶喪失症にかかることを表明されたのではありません。もし神が彼らの記憶や、彼らが過去において経験したすべてのことをまったくかき消されたならば、神の民は彼らの激動の歴史から何も学ばないことになってしまいます。罪がなすことを忘れてしまった人類は、ちょうどアダムとイブのように、再び罪に負けて傷付きやすい者となるでしょう。更にもし神が自由意思を取り去られるならば、贖われた者たちが経験したすべてのものが笑い物となってしまうでしょう。彼らの苦難が無為に帰してしまいます。しかしそのようなものではなく、彼らの「意識はまったく新しいものとなるであろう。……新しい創造は、新鮮な心で観察され、喜ばれるであろう」。6彼らの周囲にはかつて存在していたような、罪に傷つけられたことを思い出させるものは一つもないのです。確かに罪の結果の記憶は持っているでしょうが、それといつも対決するようなことはありません。

新しい世界は喜びと楽しみに満ちた世界です。イザヤ六五ノ一八、一九にこの状況を示す言葉が六回出て来ます。人間も神も共にその喜びを体験します。救われた者たちは新しい創造と彼らの神を喜び、神も彼らとエルサレムとを「喜び」となさいます。新しく創造された世界は、古い世界とは劇的に異なる世界です。古い世界と新しい世界とが互いに対比されています。

〈古い世界にあるもの〉          〈新しい世界にあるもの〉
泣く声、叫ぶ声喜び楽しみ
若死にする者百歳も若者
年老いて長寿を満たさない者百歳になっても死なない者
建てた家に他国人が住む自ら家を建てて住む
自分が植えたものを他国人が食べるぶどうを植えてその実を食べる
無駄に労する一生は木の一生のようになる
生まれた子を死の恐怖に渡す子孫が祝福される
聞かれない祈り 祈る前に神は答えられる
暴力が絶えない神の聖なる山には害すること、滅ぼすことはどこにもない
参考文献7

預言的約束は、人々がよく知っている状況を用いてなされています。その約束は彼らが住んでいる世界の延長で、牧歌的世界を反映しています。「新しい世界が、すべて古い世界の言葉で描かれている。ただそこには古い世界の悲しみがないだけだ。その他の新しいものを描こうとする試みは一つもない」。8イザヤ書に提示されている筋書きの残りの部分では、回復が徐々に行われています。捕食動物の変化(イザヤ六五ノ二五)のような主要な変化は早い時期に起こります。(塵が蛇の食べ物であるというのは、創世記三ノ一四を暗示しています。)他の事柄には時間がかかります。例えば寿命が永くなることなど。百歳で死ぬ者が若死だといわれます(二〇節)。新しい創造の描写には、死がなくなったとはまだいわれていません。イザヤ二五ノ七、八には、死が滅ぼされることが預言されていますが、それは明らかにまだ未来の出来事です。9イザヤ書全体では、福音が一歩一歩地上に広まって行く様が示されています。ということは、イスラエルが地上に福音を伝えている期間に、すべての人間が、神を受け入れるか、それとも反対するかの明確な選択をするまでは、死はなくならないという意味です。その時が到来するまでは、究極的回復のしるしとして、寿命が永くされるのです。

何が神が望まれる礼拝であるか、それとも拒否なさる礼拝であるかについての論議の後に、神がシオンを擁護し、その敵を滅ぼされるという更なる約束が加えられます(六六ノ一~一七)。10次いで主は、イスラエルの捕囚からの帰還と世界への福音宣教という馴染み深い主題に戻られます(一八~二一節)。神は異邦人を選び、彼らのうちからも神の祭司とレビ人を立てることさえなさいます(二〇、二一節、イザヤ五六ノ六~八参照)。その時、新しい創造それ自体が永遠のものとなるように、神の民も永遠のものとなります。更にイスラエル及びすべての国々から贖われた民は共に、とこしえに主を礼拝するのです。「安息日ごとに すべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと主は言われる」。安息日は、遂に完全に形成された神の民の永遠の象徴となります(イザヤ書六六ノ二三)。

悲しいことにイスラエルは神の賜物を受け損じました。従ってイザヤ書にある多くの事柄は、「実現し得たはずのもの」に過ぎないものとなりました。神は世界を発展的に造り変えることがおできになりませんでした。神の民が彼らの反逆を続けたからです。彼らは捕囚から帰還した後、彼ら自身の殻に閉じこもり、世界に対する自分たちの使命感をほとんど失ってしまいました。しかし神は諦められませんでした。神は、イスラエルの失敗や彼らが神の期待に沿わなかったことなどばかりにこだわりませんでした。またより低い目標を決めようともなさいませんでした。神は人類に対するご自身の夢――以前のものに勝るより大きな夢――の実現のために別の方法を用いられるのです。

例えば新約聖書が言明していることは、イエスの再臨によって神が現実に世界を回復なさる時、神はわれわれの寿命を徐々に延ばされるのではありません。そうではなくて、神は瞬時に死を完全に滅ぼされるのです(一コリント一五ノ五四、五五、黙示録二一ノ四)。たとえ意固地な人間が一つの方法に失敗したとしても、主はもっと素晴らしい方法を備え、立ち上がられます。たとえ人間や悪魔が一体となって抵抗したとしても、神は無限の力をもって歴史の流れを創造し、再創造なさいます。この神の力こそ、神が唯一の真の神であられることの証拠なのです。

イザヤ書の筋書きはその通りに実現しませんでしたが、それでも聖書の他の著者たちが、イザヤよりも後代の預言者たちを通して啓示された神の新しい計画を描写する際、それを修辞的表現として役立てたのです。既に述べましたように、黙示録には(特に後半の章には)、イザヤ書を暗示したり反映したりしている数多くの聖句が含まれています。序論の中にその幾つかが書かれています。

新約聖書の時代には聖書の著者たちは、より多くの聖句で表現されていた事柄を提示するのに、しばしば短い言葉や文章を用いて表現しました。このような聖書の暗示法は、ちょうど大きな概念を簡単にまとめて表現する速記術のようなもので、新しい預言者は、進展して行く神の計画をこの術を用いて表現しました。黙示録には、イザヤ書の観点から見た終末の諸事件が描かれているのです。主は、聖書が既に宣言してきた事柄を反映するような、古くて新しい方法によって、ご自身の約束を実現なさるのです。神は首尾一貫、不変なお方であると同時に、また常に創造的なお方でもあるのです。

悪の陣営の滅亡

先に述べたように、イザヤ書後半にある最初の二つの区分(四〇~四八章及び四九~五七章)は、「神に逆らう者に平和はない」(四八ノ二二、五七ノ二一)という句の繰り返しで終わっています。神に背いたある者たちは神の赦しを受け入れ、もはや神に逆らう者ではなくなります。

さて、本書はその始まりと同じように突然終わります。神に逆らい悔い改めない者たちは、彼らの存在が終結することによって、皮肉な平和を経験します。神に対して反逆し続けるように決断した者たちを神は滅ぼされるのです。イザヤ六六ノ二四は、現代の読者に不快感を与えますが、この聖句は繰り替えされた悪は終わり、回復は永久なものとなったことをわれわれに確約しているのです。この聖句は、エルサレムの外でアッシリアの軍隊が経験したこと――「朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた」(イザヤ三七ノ三六)――を反映しています。アッシリアと同じように、神の民を攻撃するすべての者は彼らの神を侮る者であって、最後には滅びます。11

イザヤ六六ノ二四は、イザヤ書の冒頭によく似ています。一章はユダ、特にエルサレムの背きを告げました。しかし遂に反逆と背教は終結し、神の民は清められます。神に逆らう者たちは永久にいなくなり、彼らの運命は、正義がとこしえに支配する確信を贖われた人々に与えます。神の民は悪に対する恐怖を再び抱くことは決してありません。

イザヤによって告げられた「主こそ国々の神である」という良い知らせは、遂に完全に真実なものとなり、救われたすべての者は回復された平和で安全な地上に住みます。王たちはもはや二度と戦いに出ることはありません。まだ実現していないことは事実ですが、約束は確かです。なぜなら義なる王である「平和の君」が既においでになったからです。「悲しみの人」が、すべての悲しみを終わらせるための計画を既に始動させられたからです。イザヤ書の前半と後半の聖句が共に告げているように(イザヤ三五ノ一〇、五一ノ一一)、悲しみは神の民から失せ去り、彼らは喜び歌いつつ神のみもとに帰って行くのです。イエスは今、救いの最終段階の業を完結なさるために働いておられます。われわれはイエスを完全に信頼できます。なぜなら彼こそ全能の創造者であられるからです。

参考文献

1.        J.H.Walton, V.H.Matthews, and M.W.Chavalas, 「The IVP Bible Background Commentary: OldTestament」,p.641.641.; B.S.Childs, 「Isaiah」, p.536, 537.

2.        例えば、以下のイザヤ書の聖句を参照のこと。1:7, 8, 24, 25; 2:10-21; 3:25, 26; 5:25-30; 8; 5-8; 9:19-21; 22:1-8; 28:21, 29.

3.        イザヤ書には、特定の国々に対する神の託宣が数多く提示されている。特に、13~21章、23章、47章において。13章にはバビロンに対する「主の日」の審判の様子が描かれている。この審判は、24章と34章において更に拡大されている。

4.        ポーリンは、静かなものから過激なものまで、様々な終末時代の諸事件の聖書的シナリオについて論じている。イザヤを含む旧約聖書の後期預言者によって提示されたものについては、「What the Bible saysAbout the End-time」p.54-64を参照のこと。

5.        John D.W.Watts, 「Isaiah34-36」 p.353.

6.        J.A.Motyer, 「Isaiah: An Introduction and Commentary」, p.398

7.        Watts, 「Isaiah34-36」 p.354.

8.        D.Kidner, 「Isaiah」, p.669.

9.        Motyerは、「百歳で死ぬ者」という表現に言及して、これが比喩的に過ぎないと論じている(p.399)。

10.      17節にある異教的状況や、偽りの礼拝の描写は、1章の退廃した礼拝に対する反論を反映している。

11.      ユダヤ伝説では、イザヤ66章23節が24節の後に繰り返されている。それはイザヤ書を肯定的な調子で終わらせるためである(Jewish Study Bible, p.916)。Margaret Beckerは、この聖句の中の神に「背いた者」らは、堕落天使を暗示していると見ている(「Isaiah」, p.541)。

*本記事は、レビュー・アンド・ヘラルド出版社の書籍編集長ジェラルド・ウィーラー(英Gerald Wheeler)著、2004年3月15日発行『悲しみの人 イザヤ書における神と救い』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
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『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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