序章(はじめに)
「それでは、これから謙遜の儀式のために分かれましょう」
そう言って牧師は発表を終わりました。洗足式を行うために、いつものように男性は右側、女性は左側に分かれ、礼拝者たちはそれぞれのパートナーを選び、たらいの所に行きました。教会の後ろにいた一人の男性にわたしの目がとまりました。彼は礼拝に遅れて来て、床に座り、説教を熱心に聴いていましたが、イエスを受け入れた人は誰でも、アドベンチストが行う聖餐式に参加できるという招待を真剣に受けとめました。しかし彼はこの教会では新参者でした。誰も知っている人はいません。彼は聖餐式の準備のために、彼をパートナーとして招いてくれる人が現れるのを心待ちにしていました。彼は貧しそうで、友だちもなく、異なるカーストの中にいる人の様でした。彼の地位は、自分にも絶望的に思えたし、カースト制が依然社会を規定している国家の中の、その小さな町の教会で、聖徒たちを困惑させているようでした。
わたしは、この訪問者の顔に刻み込まれた苦悩を注意して見ていました。わたしは、福音の普遍性の光が、夜明けの最初の光のように射し込むのを祈りながら待っていました。聖徒の中の誰が、この部外者の男性のパートナーになる、と申し出るでしょうか? 長老たちは、雑事をまとめるのに忙しい様子でした。執事たちも、教会の外にある唯一の蛇口から水を汲んでくるのに忙しい様子でした。他の人たちも自分のことで精一杯で、この訪問者のことにかまっておれないかのようでした。結局のところ、レビ人と祭司は、非常に忙しい人たちで、小事に煩わされるべきではないのです。
突然、この訪問者にパートナーが付きました。ラビ・アナンダンがパートナーとなったのです。ラビは、冷たいコンクリートの床の上にひざまずき、彼の相手の汚れた素足を両手で優しく持ち上げ、綺麗な冷たい水で洗いました。水はたちまち泥で茶色に変わりました。1か月前ならば、ラビはこのようなことは決してしなかったことでしょう。彼はこの男の影さえも、自分の近くに来ることを許さなかったことでしょう。彼に触ることは、触れてはならない者に触れることでしたし、触れてはならない者に触ることは、宗教的な不浄の行為であり、社会的反発を招く行動でした。
ラビに障害を取り除かせ、抱擁の手を差し伸べさせたものは一体何だったのでしょうか? ラビは既に、イエスを受け入れ、救いの喜びを見いだしていました。彼はその喜びの一部は、イエスを知ることであることを学びました。もう一つの喜びは、他者を自分と同じ仲間の人間として受け入れ、こうして神の家族の経験を持つことでした。新約聖書を研究し続けるうちに、ラビは、パウロのエフェソの信徒への手紙の中にある「取り壊された壁」の思想に大変感動しました。彼は、イエス・キリストにおいてすべての「隔ての壁」が取り壊され、新しい人が神の栄光のために現れる、ということを学びました。新しい確信が彼をとらえました。もし彼がキリストの新しい人の一部になりたければ、イエスに全く従い、彼の生活の中にあるこれらの壁が取り除かれるようにしなければなりませんでした。
壁か、それともイエスか? 二者択一が迫られ、両者を共有することはできませんでした。ラビは、彼がかつては誇っていた壁よりも、イエスを選びました。そして今、主の食卓において、ラビは古い伝統のカーストの壁と偏見を乗り越え、彼が新しく見いだした信仰を確認したのでした。この信仰による勇気を持って、彼は内にある壁を粉砕し、触れてはならないものに触るために手を伸ばしたのでした。
キリストにあるこの新しい経験、この抱擁、この一致こそ、エフェソの信徒への手紙を「新しい関係の福音」たらしめる事柄なのです。神学者や注解者たちは共に、この手紙の中に、混沌とした世界の中で神の秩序を、分裂した世界の中で一致した神の共同体を、敵意の真只中で神の究極の和解のメッセージを、そして不和と混乱の悪魔の勢力に打ち勝つ神の勝利を見るのです。エフェソの信徒への手紙は、ジョン・カルヴァンが親しんだ手紙でした。ウイリアム・バークレーは、これを「書簡の女王」と呼んでいます。チャールス・ドッドは、この中に「パウロ主義の冠」を見ています。エドガー・グッドスピードはこれに、「救いの真価についての狂想曲」を発見します。
われわれはこの書簡をその神学、教会論、叉はキリスト教社会学のために研究することができますが、一つの事から逃れることはできません。それは、神がキリストにおいて完成された、新しい創造と大争闘における最後の勝利についてのパウロが抱いている確信です。「天地創造の前に」(エフェソ1の4)神がわれわれをお選びになられたことから始まり、「悪の諸霊」に対する戦いに至るまで、この書簡は恵み、祈り、そして信仰の力を鳴り響かせています。
この祈りの霊を持って、われわれはこの「新しい関係の書簡」を研究し始めなければなりません。この書簡を研究するに当り、ラビを動かし、かつては触れてはならないものであったことに彼の手を伸ばし触れさせた、その力の神秘とご威光をわれわれも理解することができますように。人生を造りかえる力をわれわれ自身が経験し、それによって、われわれもまたキリストにあって、キリストによる新しい創造の真の一員となり、罪が赦され、神と和解し、そしてすべての隔ての壁が永久に取り除かれて、互いに交わりを持つことができますように、とお祈りいたします。
第1章 エフェソの教会
パウロの時代、エフェソはローマ、アレキサンドリア、ピシデアのアンティオキアに次いで、ローマ帝国の第4番目に大きな都市だと考えられていました。エーゲ海に向かって流れているカイスター川の川岸に位置していて、ローマからオリエントに通じる主要道路上にあり、エフェソはかつては繁栄した港でした。この戦略的位置はエフェソを、西アジアの商業、政治、銀行、そして宗教の中心地、更にギリシア人、ローマ人、そしてユダヤ人の大きな共同体の家郷の都市としたのでした。しかしこの都市の最大の魅力は、都市にあるギリシア哲学でも、ローマ法学でも、経済的繁栄でもなく、その宗教でした。
この都市の宗教は、当時「アジア州全体、全世界があがめる」(使徒言行録19の27)、豊穣の女神、ディアナ信仰を中心としていました。ローマ人には「アルテミス」、ギリシア人には「ディアナ」として知られているこの女神は、エフェソを小アジアにおける最大の旅行者集客の都市にしました。女神への礼拝と神殿の物理的威光は、この都市の富の最大の源泉でした。流行の最盛時代、ディアナの神殿は、世界の七不思議の一つとみなされていました。強固な大理石で建てられ、金で縁どられたこの神殿は、壮大な構造でした。神殿は、縦、横が425×220フィートあり、等身大の彫像で飾られていて、66フィートの高さの127本の支柱から成り立っていました。まさに芸術の粋を集めたものでした。豊穣の女神、ディアナは、偶像崇拝の最大の宝石でした。
豊穣の神への礼拝に熱中していたこの都市に入って(使徒言行録19の25)、パウロは「手で造ったものなどは神ではない」(26節)と説きました。使徒のメッセージは、エフェソの人々の信仰体系と生活基盤を根底からゆるがせたのでした。
キリストかそれともディアナか?
キリストかディアナか?
この質問は、キリスト対サタンの大争闘と同じくらい古いものです。一方は創造者であり、もう片方は、被造物です。創造者と被造物の間のいずれに対し、われわれは忠誠を尽くすでしょうか?
サタンの巧妙さは、ディアナを多くの形や姿に造り上げたことです。われわれはそれらのものに人生の旅路のあらゆる場で出会います。われわれはそれらと家庭の中で出会います。そこでは、しばしば結婚の神聖さがさげすまれ、神のみ言葉がないがしろにされ、子供たちは自分勝手な道に放任され、キリスト中心が自己称揚に置き代えられています。われわれはそれらをわれわれの学校の中で見かけます。そこでは、教育が目指すものが、人道主義的価値観を抱き、生きる人物を理想像とし、信仰と愛と希望が各人の主観的な思いつきに過ぎないとみなすような多元主義的感覚を育て、人生の目標が自己の可能性を信じて、大志を抱くような人生に導くことなのです。われわれはディアナと、仕事の中で、政治の中で、社会の倫理的慣習の中で出会います。そこでは、成功がその人の価値や基準を決めるものであり、偽りがもはや偽りではなく、苦し紛れに語られた、前後関係のない言葉に過ぎないとみなされ、第7条の掟の違反行為が、相手の同意のもとになされたかどうかという観点から考えられなければならないものとなるのです。
従って、ディアナは偶像だけに限られるものではありません。創造なさり、キリストによって御自身を特別に啓示なされた神と争い、その代替えとなるすべてのものは、人生に大きな影響を与える福音の邪魔をするディアナなのです。他の宗教体系の中にディアナを探す必要はありません。それは人間の内部に存在し、人間の心から遠い所にいるものではないのです。これらすべてのディアナに対抗するために、イエス・キリストの福音が立ちはだかっているのであり、パウロはその福音をエフェソにおいて紹介したのです。彼は新約聖書の時代の最も素晴らしい教会の一つに、その土台を据えたのでした。
エフェソ――教会のはじまり
パウロのエフェソへの最初の訪問は短いものでした。彼の第2次伝道旅行の終わりにさしかかった時、コリントからエルサレムに向かう途中で、使徒は、イエスの良き知らせを語るあらゆる機会を失わないために、港湾都市のエフェソに立ち寄り(使徒言行録18の19)、ユダヤの会堂においてユダヤ人たちに福音を説きました。彼は気持よく聞き入れてくれる雰囲気をそこで感じました。
彼の聴衆は感動して、パウロにもうしばらく滞在するように願いましたが、パウロは迫っていた祭のときにはエルサレムにいるという約束があったために、それを断りました。しかし使徒は、エフェソが小アジア全体にとってキリストの福音の理想的な基地となる大きな可能性を感じていたに違いありません。彼は、彼が始めたばかりの働きを育てるために、アキラとプリスキラをそこに残し、「神の御心ならば」また戻ってくると約束しました。
「エフェソ」とは「望ましい」という意味です。パウロと彼の一行がこの都市に到着する以前は、エフェソはディアナ礼拝にとって望ましい場所でした。そこは罪とさまざまな罪の誘惑にとって、望ましい場所でした。しかし福音が入ってからは、その都市は完全に異なる理由で望ましい場所に変わろうとしていました。ディアナ神の上に築かれていた信仰体系が、「天の場所」に住んでおられ、今やイエス・キリストを通して御自身を啓示された創造の神と、対決させられようとしていました。民族、言語、文化、経済的地位の分裂に悩んでいた都市が、一致と連帯の不思議を経験しようとしていたのです。
キリストがおられるところには、常に変化が存在します。偽りから真理へ、迷信から現実へ、汚れ歪んだ生き方から清く正しい生活への招きへ、分裂から一致への変化です。この変化によって、エフェソは本当に望ましい都市となり、昇天されたイエスがヨハネを通して、「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず」(黙示録2の2)とおっしゃった教会を生み出したのです。
パウロによる改宗者であり、彼と同じテント作りの職人で、ローマでの迫害から逃れてきた、アキラとプリスキラは、エフェソにおける信者の小さな群れの最初の働き人になりました。彼らの生涯と働きは、教会を育成するための神の御計画の実例となっています。すべての会衆が按手礼を受けた選任牧師を擁すべきであるというのは、神が意図なさることではありません。神の御計画は、福音を受け入れたすべての人が良き知らせの宣伝者となり、養育者となるということです。
アキラとプリスキラに加えて、エフェソの教会にはアポロの働きによる祝福もありました。彼はアレキサンドリア生れのユダヤ人で、洗礼者ヨハネのメッセージによって回心した人でした。ギリシア哲学を学び、雄弁で、聖書に詳しいアポロは、「主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていた」(使徒言行録18の25)のです。彼の弁説や哲学の知識は、彼を気どった俗物にはしませんでした。アポロは、謙遜な人で聖書に自分を従わせました。その謙遜な精神が、彼を導いて悔い改めへの招きを受け入れさせ、彼は洗礼者の弟子となったのでした。後に彼は巡回説教者となり、町から町へと入って行き、イエス・キリストがメシアであるとユダヤ人たちを説き伏せました。
アポロがエフェソに来て説いていた時、彼の聴衆の中にアキラとプリスキラがいたのです。2人はアポロが敬虔な人で、聖書の教えに従順で、メッセージを広めるために献身していることがわかりました。しかし彼らはアポロが、「ヨハネの洗礼しか」知らず、真理の全貌に気づいていないこともわかりました。アポロは聖霊の働きについても知りませんでした。
アキラとプリスキラは、アポロの中にこれからの教会のための、福音の力強い擁護者また宣教者となる姿を認め、彼を個人的に招き、「もっと正確に神の道を説明した」(26節)のです。その結果、「この教育を受けた雄弁家は、彼らの教えを感謝し、驚きと喜びをもって受け入れた。彼らの教えを通して、アポロは聖書のより明らかな知識を得、キリスト教会の最も有能な擁護者の一人となった」1のです。
この時以来アポロは、エフェソやコリント、その他のアジアの町々で福音の強力な擁護者、説教家となったので、パウロはアポロの働き人としての能力を認め、ペトロや彼自身と共にアポロも、福音の収穫のための忠実な、種を蒔く人、育てる人、刈り取る人の中に加えました(コリント一 1の12)。
このようにしてエフェソ教会は、その初期において、学びの中心地、伝道の拠点、信者の間に存在すべき一致と愛の主要な手本となりました。復活されたイエスは、「(この教会を)使徒の時代におけるキリスト教会全体の象徴としてお用いになった」2のでした。
エフェソにおけるパウロの働き
パウロは彼の第3次伝道旅行の際にエフェソに戻って来ました。この度は、彼はおよそ3年間、説教し、教え、開拓し、キリストの強力な拠点を築きました。その結果、「アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」(使徒言行録19の10)のでした。
「ユダヤ人であれ、ギリシア人であれ」です。彼の長い牧会伝道の最初から、パウロは彼の弟子たちに、イエス・キリストの福音には国境はないし、福音は誰をも特別扱いはしないということを知って欲しいと願っていました。キリストは、皮膚の色、民族、肩書き、性の違い、また罪が人生にもたらしたいかなる障壁となる要素であろうと、それらのものにかかわりなく、万民の救い主です。イエスはすべての人々の主です。このメッセージが、異邦人に宛てて書かれた使徒のすべての書簡、特にエフェソの信徒への手紙の中に鳴り響いています。
エフェソにおけるパウロの長期にわたる働きは、正しい調子――この都市の最初の信者たちに真理の全貌をもたらすこと――で始まりました。アポロの場合のように、これらの信者たちはヨハネの洗礼を受けてはいましたが、イエスの名による洗礼は受けておらず、「聖霊があるかどうか」さえ聞いたことがありませんでした(1~3節)。
イエスの名による洗礼について何がそれほど重要だったのでしょうか? 一つは、ヨハネの洗礼は、「自分の後から来る方、つまりイエスを信じる」(4節)ための準備段階となる、悔い改めへの招きでした。イエスのもとへと導かず、またイエスと矛盾する真理は、それがどのようなものであっても真理ではあり得ません。イエスは、そのいずれも正当で客観的に有効である、とある人々が考えているような、「真理に至る異なる通路」の中の選択肢の一つなのではありません。これほど聖書の主張からかけ離れている教えは他にありません。イエスはただ一人のお方です。イエスの主張は、独特なものです。イエスと競い得る者は一人もいません。イエスの御名によってバプテスマを受けることは、イエスの贖いを受け入れ、次のように言われたお方に対して変わらない忠誠を宣言することです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14の6)。バプテスマのヨハネもそうでした。ほかの預言者たちもそうです。ディアナもそうです。これらの「多くの神々、多くの主」もそうです。
中核となる最初の信者たちがイエスを主と受け入れた時、彼らは実際に、余すところなく受け入れる段階を踏んだのです。彼らはイエスの名によって洗礼を受けました。信者たちは聖霊を受け、「異言を話したり、預言をしたり」(使徒言行録19の6)しました。聖霊を受けたしるしは、すべての場合に皆同じではありません。聖霊を持っている証拠として、異言を話すことや預言をすることを挙げるのは、正しいことではありません。
聖書は聖霊によって祝福を受けている他のしるしを記録しています。神の掟に従って歩むこと(エゼキエル36の27)、神の神殿として自分自身を献げること(コリント一 3の16)、力に満たされたキリストの証人となること(使徒言行録1の8)、神の子供として正しく生きること(ローマ8の14~16)、すべての人間を神の子らとして受け入れること(使徒言行録10の19~20)、キリストの命を生きること(ローマ8の11)等々は、聖霊に満たされている幾つかのしるしです。つくり変えられた人生の奇跡に勝る奇跡はありません。従って、エフェソの信徒への手紙は、救われ、霊に満たされた生活、神と調和し、すべての人と一つになっている生き方の実際的な教訓を多く語っています。
エフェソの最初の教会には、わずか12人しかいませんでした(使徒言行録19の7)。幾人かの女性や子供たちがいたとしても、決して大きな教会だったとは言えません。しかし、主からの任命を自覚していた伝道者は、自分の働きの成功を洗礼を受けた人の数によって測ることはしませんし、またそのようにすべきではありません。伝道は、数合わせではなく、宣言の業です。
3か月の間パウロは、会堂でユダヤ人たちに、イエスは旧約聖書の預言の成就であり、イエスこそ本当のメシアであり、世界の救い主であることを示そうと、懸命に説きました。幾人かのユダヤ人たちは信じましたが、多くのユダヤ人たちはイエスの福音の包括性――ユダヤ人と共にギリシア人をも含む――を受け入れる備えはできていませんでした。そこでパウロは、会堂から手を引き学校へと向かわなければなりませんでした。ユダヤの会堂が福音の宣教を拒み、世俗の学びの場所が新しく入った真理を聴こうと歓迎するとは、何とも奇妙なことです。パウロはそこで2年も説き続けました。教会成長には忍耐と継続的な養育が必要です。ウイリス・ローリィーが1940年代にインド北東の丘陵地帯、ミゾラム州に着任した時には、その地域にはアドベンチストは他に一人もいませんでした。彼の妻ヘレンと彼は、最初の宣教師であり、彼らは自分たちの前に置かれた働きが、この地の丘やそこに住んでいる部族と同じように、骨の折れる厳しいものであることを知っていました。しかし彼らは、自分たちが最初に決意したことは、アドベンチストのメッセージを忠実に伝えることであると、堅く心に決めていました。
ミゾラムにはほとんど道らしい道はなく、健康や教育組織や安定した政治もほとんど見られませんでした。ローリィー夫妻は人々の中に住み、彼らと親しくなり、彼らが持っていた僅かのものを分け与え、こうして少しずつかれらの信仰について話し始めました。彼らは近くの村々を徒歩や馬の背に乗って訪問し、友だちをつくり、人々に感化を与えました。
ヘレンは料理が上手でした。彼女の料理の腕前を最善に示すことができるような材料はありませんでしたが、彼女は手元にあるものは何でもうまく利用しました。これが地元の女性たちの心を動かしました。ウイリスは、何でも手助けができる腕と、人に同情できる広い心と、誰とでもすぐに友だちとなれる絶えることのないほほえみを持っていました。これらの才能を活かして、彼らは福音を土着させ、方言を学び、人々を教えました。
ウイリスは、その人が福音を詳しく知り、それを時間をかけて実践するようになるまでは誰にも洗礼を施しませんでした。改宗者にとっては、それは安息日を守るために仕事を捨てることであり、家族の必要に応える前に収入の10分の1を主のために聖別することであり、あらゆる形のタバコを永久に吸わないことを意味していました。そして何よりも最善を尽くし、あらゆる状況のもとで主を愛することを意味していました。
時には一人の人が洗礼の準備ができるまでに、ほとんど6か月かかりました。教会の成長はどちらかというと遅い状態でした。一時に大勢の人々が受浸することはありませんでした。信者たちは、教会とそのプログラムが自分たちのものだと感じていました。南アジア支部の強力な信徒主導型の伝道と育成プログラムは、教会の特徴であり、それが成熟への途上に置かれています。ミゾラムは、監査の必要がほとんどなく、政治力も最小限ですみ、聖書と預言の賜物の学びが、すべてのアドベンチスト家庭と教会の情熱的な関心事となっている一つの地域となりました。
その結果、60年後には、ミゾラムの教会は堅実な養育と強固な成長を記録したばかりではなく、一人当りの献金額が最も大きい割合いを示しています。結果としてこの伝道地は、この支部内での最初のカンファレンスとなりました。
パウロがエフェソに与えたものは、このような養育でした。使徒はこの市に3年間留まりましたが、その年月は決して安易なものではありませんでした。彼は福音がこの市を、十字架につけられ甦られたイエスと、命のないディアナとに二分するのを見ました。ある時には、パウロと彼の仲間の説教者たちに対抗して全市が暴動を起こしました。ディアナの礼拝者と祭司たちは彼らの女神よりも収入のことを心配していました。市の商人や職人組合は、もしディアナがイエスに置き換えられるならば、損失が大き過ぎることがわかったのでした。彼らは、市の資金流入額が暴落し、銀細工師や職人たちの失業率が上がるのを見たくはありませんでした。それよりも彼らはパウロやイエスを追い出したかったのでした(使徒言行録19の23~28)。
このような反対にもかかわらず、パウロは教え、説教し、「目覚ましい奇跡」を行いました(11節)。福音を信じた人々は、彼らの罪を告白し、魔術や占いの道から離れました。オカルトの世界は封じられたのでした。信者たちは市中に大かがり火を炊き、「銀貨五万枚にもなる」(19節)ディアナに捧げられた書物を焼き捨てました。最も重要なことは、こうして、「主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」(20節)ことでした。
強い教会
使徒パウロが築いたすべての教会の中で、エフェソの教会は、パウロにとって非常に近く、特別な存在であったようです。結局彼は、彼の最善かつ騒然たる年月の内、3年をこの教会の発展のためにささげたのでした。パウロは、第3次伝道旅行を終えて、エルサレムに帰る途中で、エフェソの長老たちと会いたいと願いました。彼の船による巡回は、エフェソから30マイルほど離れたミレトスに止まることになっていましたので、彼は送別の集会のために教会の長老たちをそこに呼び寄せました。使徒言行録20章17節から37節にある長老たちへの彼の送別の言葉を読むだけでも、エフェソ教会に対するパウロの愛と関心が理解できます。しかしこの送別の辞には、各時代の牧師、伝道者、教会長老に対する他の重要な教訓があります。
*牧師の生活は、その働きと同様に透明で開かれたものでなければならない(18節)。
*牧師の働きは、謙遜と誠実が特徴であるべきである(19節)。
*牧師は真理を余すところなく教える教師でなければならない。信者に役に立つことは一つも控えてはならない(20節)。
*このような説教や教えは、キリスト中心――「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」――であり、すべての人々をキリストによる一致に結び付けるものでなければならない(21節)。
*このような説教や教えは、キリスト中心――「神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰」――であり、すべての人々をキリストによる一致に結び付けるものでなければならない(21節)。
*奉仕は自己の前に来なければならない(24~26節)。人生を測るパウロの基準は、イエスの働きのために、いかに、そしてどれほど費やされたかである(24節)。
*牧会伝道の働きは、ワンマンショーではない。パウロは責任の委譲を信じていた(28~31節)。
*教会の生活は、しばしば内外からの継続的な危機の中の生活である。牧師はこの事実を自覚すべきである。牧師の生活やメッセージは、絶えずこれらの危機を念頭にし、群れを励ますものでなければならない(29~31節)。
このような慰めに満ちた、感動的な言葉を与えた後に、パウロは長老たちと共に祈り、彼が非常に愛し、2度と再び帰ることのないこの教会を後にし、エルサレムに向かったのでした。立派なすべての伝道者が必ずするように、使徒は教会の管理を有能な指導者たちの世話のもとに置きました(28節)。後に使徒は、テモテをそこの牧師に任命し、エフェソの人々が、「異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないように(と)。このような作り話や系図は、信仰による神の救いの計画の実現よりも、むしろ無意味な詮索を引き起こします」(テモテ一 1の3、4)という特別な確認事項を委ねました。エフェソの教会はまた愛する弟子、ヨハネの働きと勧告を受ける特権にあずかりました。3
以上がエフェソの教会の誕生と成長でした。教会とエフェソ市がなくなってから長い年月が経ちますが、使徒パウロがそのために与えた愛と世話は、彼が愛する信者たちに書き送った書簡のかたちで残っているのです。この書簡は、使徒がイエスの名を携えるすべての人々に期待している統一された関係の象徴として存在しているのです。
参考文献
1 The SDA Bible Commentary (Washington,D.C.:Review and Herald Pub. Assn.,1956),vol. 6,p. 1063.
2 エレン・G・ホワイト著『患難から栄光へ』下巻、282頁
3 同上
*本記事は、ジョン・M・ファウラー(John M. Fowler)著、山路明訳 2005年9月1日発行『エフェソの信徒への手紙』からの抜粋です。
著者紹介
ジョン・M・ファウラー博士はインドで生まれ、10代の頃に預言の声ラジオ放送を通してアドベンチストとなる。スパイサー・カレッジで神学学士を取得後、32年間、インドで牧師、教師、教会行政、編集に携わる。1990年、『ミニストリー』誌副編集長として世界総会に招聘される。1995年より世界総会教育部副部長。ニューヨーク・シラキュース大学よりジャーナリズム修士号、アンドルーズ大学より博士号を授与される。毎年、3週間伝道に従事する。教会誌および専門誌に300以上の記事を寄稿。『キリストとサタンの宇宙的争闘』ほか、数冊の著書がある。妻メリーとの間に2人の子供がいる。
翻訳者紹介
1933年福岡県生まれ。日本三育学院神学科、米国アンドリュース大学院(宗教学修士)各卒。
福岡、大阪、広島、盛岡、神戸、フレスノ(カリフォルニア州)、天沼、名古屋、宮崎、都城、隼人、ハシェンダ(ロサンゼルス)等で40余年の教会牧師。その間、教団安息日学校部・信徒伝道部長、牧師会長、預言の声代表、沖縄教区長歴任。 著書に『人生百話』『人は何に感動するか』『沈黙のすすめ』、翻訳書に『これで1844年調査審判がよくわかる』 『カウントダウン・シリーズ1-10』等がある。