エフェソの信徒への手紙 -EPHESIANS-【解説】#1

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第2章 エフェソの信徒への手紙の主題

あなたがたは、「二度とわたしの顔を見ることがない」(使徒言行録20の25)。これらの悲しい言葉を残して使徒パウロは、ミレトスに集まったエフェソの長老たちと別れました。これらの言葉はいかに預言的であったことでしょう。パウロはエルサレムで捕らえられ、後にローマで獄に入れられました。彼の公の働きが止められると共に、使徒はカイザルの牢獄に座す身となりました。彼は人生の暗雲に気を病む人ではありませんでした。彼は牢獄の静けさを生かして、ダマスコからローマに至る長い道程を熟考するために用いました。

使徒は牢獄という負債を、歴史上重要な財産とし、未来の世代への遺産に変えたのでした。彼は「獄中書簡」と呼ばれる、四つの重要な手紙を書くために時間を用いました。このそれぞれの書簡は独特なメッセージを伝えています。フィレモンへの手紙には、ローマへ逃亡してきたフィレモンの奴隷で、後にパウロによって改心させられたオネシモについての非常に微妙な事柄が書かれています。オネシモを「わたしの子」と呼んで、パウロはフィレモンに対しオネシモを一人の兄弟として受け入れるようにと訴えています。死罪に値する一人の逃亡した奴隷は、クリスチャン家庭の共労者の一員となったのです。キリストの福音の力とは、このようなものなのです。

使徒はコロサイの信徒への手紙によって、キリストの神性と受肉という、言わばキリスト教信仰の基礎となる教えそのものを疑った異端から信徒を救いました。彼はまたフィリピの信徒に、クリスチャンの兄弟愛にある喜びの書簡を書きました。

彼は3年間過ごした教会のことも忘れはしませんでした。エフェソの信徒への手紙を、教会論、世界観、キリスト論、恵みのみによる救済論等の見地から読むこともできます。しかし、この書簡の主要な強調点は、和解者なるキリスト――神と人類を和解に導いたお方、人と人との間にあるあらゆるもろい障壁を取り壊し、創造の折に計画された一致をもたらしたお方――にあります。

著者――使徒パウロ

著者自身が自らを、「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロ」(エフェソ1の1)と紹介しています。「使徒」という称号は、本来福音書の中で十二弟子に与えられていますが、パウロもこの称号を主張しています。彼の主張は、自己の真正さを証明するためになされたものではなく、絶対的に不思議なことから生じたものでした。彼は甦られたイエスが、ダマスコへの途上で実際に彼に個人的に出会われ、彼を異邦人への使徒になるようにとお召しになられたことを確信していました(使徒言行録9の15)。これはペトロや他の使徒たちも、自ら事実として認めていたことでした(ガラテヤ2の8~10)。このような召命における彼の不思議は、ファリサイ人の中のファリサイ人、初代教会を破壊するために自らを全く捧げ、多くのクリスチャンの血を流してきた手を持つ人物が(使徒言行録8の1、9の1、2)、なぜイエス・キリストの使徒として召されたか、という不思議です。その答は、神の恵みです。

人間の天才も神の恵みの働きを説明することはできません。神がお召しになられる時、誰が公然と反抗するでしょうか? イエスはパウロを異邦人への使徒にお召しになられました。彼はその召命とその責任との源泉を、敢えて疑うようなことは1度たりともありませんでした。パウロの使徒職の真正さに疑問を抱いた人々が、特にコリントの教会に幾人かはいましたが、使徒自身は、彼の権威を精力的に擁護しました。ダマスコ途上における彼の召命は、ガリラヤ湖畔でのペトロ、ヤコブ、ヨハネらの召命、あるいは徴税所におけるマタイの召命が真実であると同じように、真実でした。使徒がローマ帝国全体に伝道の働きを成功させた原動力は、実に神の恵みと御目的によって与えられたこの召命にあったのでした。しかしその召命そのものは、彼の方から求めたものでも、また他の人が彼に与えたものでもありませんでした。彼が確信していたことは、彼の使徒職が、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって」(ガラテヤ1の1)与えられたものであるということでした。

神が人を召される時、それに対する応答は、「はい」か、「いいえ」だけです。神は絶対的な受容を求められます。生半可な返答は駄目です。ウルにおけるアブラハム、燃える柴の側のモーセ、脱穀場でのギデオン、異国でのエステル、漁場でのペトロ、ダマスコ途上のパウロ――各自はそれぞれの召命を受けました。彼が召されたその瞬間から、パウロは自らを異邦人への使徒であるばかりではなく、「キリスト・イエスの僕」(ローマ1の1)だと考えました。

手紙の受け手

パウロは彼の手紙の受け手が、どのような人たちであったかを示す3つの言葉を用いています。「エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ」(エペソ1の1 口語訳)。

最初に、「聖徒たち」という言葉です。パウロはこの言葉を彼の書簡の中で度々用いています。この言葉は新約聖書の中で61回使われていますが、39回はパウロの書簡の中にあります。教会史と伝統は、「聖徒」という言葉が、あたかも教会内の非常に清潔な選り抜きの僅かの人を指すかのごとく、この言葉の周りに一種独特な雰囲気を創造しました。ローマカトリック教会は、ある人が「聖徒」(「聖者」)と呼ばれるための教会のすべての手続きを創作しました。それは、その人が死んだ後、教会がその人の生涯の活動を調べ、働きの神聖さ、行った奇跡、普通の人々の神への祈りに耳を傾け、それを言い換え、うまく答を引き出す能力等の調査項目を精査した後に与えられるものでした。しかし、「聖徒」についての聖書の概念には、そのような美化する手続きは一切含まれてはいません。

「聖徒」と訳されている、新約聖書で最も普通に使われている言葉は、「ハギオス」です。この言葉は、「『イエスに対する信仰を守り続ける』(黙示録14の12)ために聖別する」という意味です。「聖徒」という概念は、道徳的完全さと何の関係もありませんし、その人の品性の結果でもありません。「聖徒」の重要な定義は、イエス・キリストによって救われた罪人であるということです。「聖徒」は必ずしも善良な人ではなく、信仰によって神の善意を経験した人です。この言葉そのものに永続的な肩書きがつけられているのではなく、人がキリストの内に留まり続ける限り、その人は神の聖徒の一人であるという可能性がこめられている言葉です。

パウロが用いている第2の句は、「エフェソ(エペソ)にいる」人々です。初代教会はほとんどすべてが、この書簡は、エフェソにいる聖徒たちに宛てられたものであると受け入れていました。しかし幾つかの重要な古代の写本が「エフェソにいる」という句を省いていて、そのためにこの書簡が、果たしてエフェソの信徒に宛てて書かれたものであるかどうかという問題が生じたのです。保守的な学者たちは、概ねエフェソがこの書簡の宛先であることを受け入れていますが、同時に、この書簡はおそらく周辺の教会にも回覧されるべき回覧用書簡(カトリックの「回勅」に当る――訳者註)として計画されたものだとも考えています。この書簡では、特定の神学的また倫理的問題が取り扱われてはいないので、使徒は、彼が他の書簡では取り扱わなかった問題を描くために、すなわち、キリストの働きを宇宙的見地の中に置き、イエス・キリストは宇宙の主であることを全世界に、そして未来の世代に向かって示すために、時間をとったのかもしれません。

このことを示すのに、エフェソほど良い場所が他にあったでしょうか。エフェソ市は、あのディアナが木星から飛び下りてきたので、すべてのものの礼拝と賛美を受けるに相応しい、と信じてきた町でした! この偽りの教義とは対照的に、パウロはエフェソの人々に――そして彼らを通して、すべてのキリスト教の世界に――イエス・キリストは惑星から飛び下りてきたお方ではなく、「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」(エフェソ1の10)ために、父なる神の住まいである「天上」(エペソ1の3 口語訳)からおりて来られたお方であることを示そうと願いました。従ってこの書簡の宛先は「エフェソにいる聖徒たち」です。

第3は、「キリスト・イエスにあって忠実な」という句です。聖徒とは、二つの住所を持つクリスチャンです。一つの住所は、この地にあり(ここでは、エフェソ)、一時的な場所です。もう一つは、「キリスト・イエスにある」場所で、永遠の場所です。最初のものは、時とともに変わるかもしれませんが、第2のものは、決して変わりません。この第2のものに忠誠を尽くすことが聖徒としてのわれわれの肩書きを決めるのです。

何がクリスチャンを忠実な者にするのでしょうか? その人が正直であり、善良であり、他者との関係が立派だからでしょうか? クリスチャンは皆その通りでなければなりませんが、それ以上の者なのです。堅固で不動の信仰の錨がなくては、誰一人としてクリスチャンではあり得ないのです。この信仰は何よりもまず、イエス・キリストの人格と働きに根づくものでなければなりません。キリストの十字架と復活とを信じないで、どうして忠実な聖徒であり得るでしょうか? キリストの御要求に全く献身し、キリストのように生活し、キリストのように話し、キリストのように歩き、キリストのように関わることなしに、どうしてキリストに忠実な者となりうるでしょうか?

キリストに対する絶対的忠誠の必要は、強調されなければなりません。なぜならば、われわれは余りにも多くの人々がキリストの御名を空しく唱えている世界に生きているからです。いわゆる「ライス[お米]クリスチャン」と呼ばれる人々がいます。この人々は、経済的な利益を受けるために、この尊い御名を唱えます。「ラダー[はしご]クリスチャン」もいます。この人々は、社会的な勢力を増すために教会を抱き込みます。「スプリンクルド[スプリンクラーを備えた]クリスチャン」もいます。洗礼のときに水しぶきを浴び、結婚式で紙吹雪をかぶり、死ぬ時には灰となるのです。このような人にとっては、キリスト教は万事首尾よくことが運んでいる時にのみ役立つものなのです。これらすべてに反し、十字架のキリストは、信じる者、忠実な者、信頼する者にキリストのもとに来て、キリストのもとに留まるようにと命じておられるのです。

聖徒たちへのパウロの前祷

キリストにあって忠実な聖徒であることの利益は何でしょうか? パウロは書簡の本文に入る前に、この質問に対する簡単な答を与えています。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(2節)。恵みと平和は、彼の書簡の中でパウロが挨拶で習慣的に用いている言葉です(ローマ1の7、コリント一 1の3、コリント二 1の2、ガラテヤ1の3等)。相手の健康と繁栄を願う挨拶の言葉(使徒言行録23の26)で、恵みを表す伝統的なギリシア語、「カイレイン」の代わりに、パウロは、クリスチャンの信仰において新しい意味を持ち始めていた「カリス」という言葉を用いています。恵みとは、罪人への神の不相応な好意です。恵みによって神は罪からの救いをわれわれに提供なさいます。それは、贖われた家族に属する結果起こってくる溢れるばかりの救いの喜びであり、すべてのクリスチャンの挨拶と交わりの基礎をなすものです。

パウロは読者への挨拶に「平和」を加えています。パウロが願った「平和」は、キリストが罪からの贖いによって、信者と神との間に築く新しい関係の結実です。キリストの死と復活が神と罪人との間に平和をもたらし、人間同士の間の壊れた関係を癒します。罪の支配が十字架で取り除かれたので、われわれは垂直方向にも、水平方向にも平和を持っているのです(ローマ5の1)。

クリスチャンの平和の概念は、外面的な慰めや状況に依存してはいません。それは内面的、関係的なものです。それは罪の中心となる問題に直接関係しています。わたしは神との平和を持っているでしょうか? これが最初の質問です。第2は当然続く質問です。わたしは隣人との平和を持っているでしょうか?

パウロは恵みと平和の源泉を共に、「父である神と主イエス・キリスト」(エフェソ1の2)に置いています。「父」はイエスが神を指す場合に好んで用いられた言葉でした。しかしどのような神でしょうか? 名前もない大きな力でしょうか? ギリシア哲学が誇っていた第一原理なのでしょうか? ヒンズー教が語る至高にして測りしれない「思想」なのでしょうか? 天上の雲に座し、この地上に起こることには全く無関心なお方なのでしょうか? 下界における律法と秩序に対し目を光らせている偉大な警察官でしょうか? 善と悪の平衡を保つために狡猾な手を使う厳格な裁判官でしょうか? 特別に美味しいものが一杯入っている包みを持って、自分の意のままに投げ与えている甘いおじいさんでしょうか?

「父」という言葉は、これらやその他の未成熟な神概念を直ちに打ち壊します。そのような神ではなく、神とは「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」です。パウロは、父なる神とイエスとのつながりを明らかにするようにと、われわれに求めています。この神は、現実のお方で、人格を持ち、優しく、人が近づくことができるお方です。

神の父性は、われわれに真の愛の概念を直ちに与えてくれます。神の愛はわれわれを創造されたばかりではなく、罪からわれわれを救われるためにわれわれを探し求められたのです。神の愛を描くために、新約聖書は「アガペー」という言葉を用いて、犠牲的で、積極的で、人間には不相応な愛を表現しました。神の愛は変わることも、揺れ動くこともありません。徹底的に頼ることのできる愛です。それは愛自身のために愛する愛です。それはわれわれが愛されるに相応しいからではなく、愛を必要としている存在であるがゆえに、われわれを愛するのです。この愛は人間の命に最高の尊厳を置きます。そうです。たとえわずか一人の罪人であったとしても、キリストはその一人の放蕩者のために命をお与えになられたことでしょう。神がわれわれの父であり、主イエス・キリストの父であることをわれわれが理解するようにと、パウロが求めているもう一つの理由がここにあるのです。

重要な主題

既に述べたように、エフェソの信徒への手紙は、この教会の特定な問題を取り扱ってはいません。その代わりに、使徒は「わたしたちの父である神と主イエス・キリスト」が人類のためにしてくださったことについて熟考しているのです。罪から人類を救い、和解によって創造を回復するという目的において、神とキリストが一つであるという位置付けをすることによって、パウロは父と御子との同等性を強調しています。キリストの神性は論じられる必要はありません。キリストは神であり、父なる神と等しく、共に永遠なるお方です。しかし、キリストは、ベツレヘムで生まれ、ナザレで育ち、地上で歩き働かれ、最後に十字架につけられ、再び甦られたイエスでもあるのです。

神なるキリストと、人間の肉体を持たれるイエスとは一つであり、同じお方であり、第2位の神です。キリスト教は、キリストの神性と人性という二つの支柱の上に存在しています。そのいずれを取り除いても、キリスト教の啓示は成り立ちません。神としてキリストは、人類に対する神の恵みと愛との化身であり表現です。人間として彼はアダムが失敗した場所を受け継ぎました。キリストはサタンを打ち破り、神の贖いの目的を果たされました。従って、この書簡の焦点は、神がキリストにおいてなさった事柄に向けられているのです。

「キリストにおいて」は、この書簡の最重要主題の一つであり、最初から紹介されています(エフェソ1の3)。この句とこの句の異なる表現(「彼において」「御子において」等々)は、パウロの書簡の中でおおよそ200回出てきますが、そのうち30回はエフェソの信徒への手紙に出ています。これは、神が新しい人類のために可能とされたすべての事柄が、キリストにおいて、そしてキリストにおいてのみ完成されたという事実を主張するために、使徒が好んで用いた表現です。

イエスの受肉、死、そして復活がなければ、人類は無力のまま放置され、サタンと彼の悪の計画の餌食となっていたことでしょう。創造、歴史、贖罪、そして回復における神の永遠の目的はキリストにおいて、キリストを通して実現したのです。キリストは、われわれが神から頂くすべてのものを手に入れる鍵です。キリストのおかげでわれわれは神をわれわれの父と呼ぶことができるようになり、「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づ」(ヘブライ4の16)くことができるようになったのです。従ってこの書簡はあらゆる面において、キリスト中心の手紙であり、キリストに対する賛美と感謝の歌なのです。

この書簡の第2の主題は、贖いと回復です。これは、イエス・キリストの福音の中に、「信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」(ローマ1の16、17)という事実を見たパウロにとっては、何ら不思議なことではありません。

キリストにある信仰の共同体は、罪から救われ義に回復された、贖われた共同体です。更に、このような贖われた共同体は孤立してはいません。それは、イエス・キリストを通して神と和解した共同体として立っています(コリント二 5の16~18)。使徒は、和解と回復のこの神の計画が、「天地創造の前に」(エフェソ1の4)神の御心に発案されてから、終末的な「時が満ちるに及んで」(10節)最後に一つにまとめられる時までを描写しています。

神と人との和解の完成から、この書簡は第3の重要な主題である、「一つとなること」へと移行しています。エフェソの信徒への手紙は、宇宙が神の御心と御意志のうちに最後には一つとなる、と断言しています。すべてのものが「前もってキリストにおいてお決めになった神の御心」(9節)に従って動いて行くのです。

このことをパウロほどよく理解した人は他にいませんでした。彼は人間の区別の性質と原因を知っていました。彼は敬虔なユダヤ人であり、サンヒドリンの議員であり、ファリサイ人の中のファリサイ人でありました。彼はイスラエルが選ばれた民族であると、固く信じていました。当時のほとんどのユダヤ人と同じく、パウロはユダヤ人を異邦人から区別する境界線が何であるかを知り、それを実行していました。ローマの市民として、彼はローマ人を蛮族から区別する壁を知っていました。ギリシア哲学を熟知する人として、彼は自由な身分の人と奴隷とを決める境界線を知っていました。人間の間にある区別は、パウロにとって何ら新しいものではありませんでした。

しかし、ナザレのイエスがダマスコの途上でパウロと出会った時、彼が受けた最も重要な二つの啓示は、イエス・キリストが罪から救う神の道であるということと、この贖いの新しい世界には、国境も障壁も存在しないということでした。彼は異邦人への使徒となる召命を真剣に、全面的に受け入れました。そしてそれが彼の人生と働きに大きな影響を与えました。

パウロは恐らくこの真理の巨大さを把握した最初の弟子でした。バルナバの共労者として、彼はアンティオキアの教会で、区別の壁が崩壊する様を目撃しました。彼はユダヤ人も異邦人も、男も女も、ローマ人も蛮族の人も、皆が一つの大きな神の家族の一員となり、すべてのものが聖霊を受ける様子を見ました(使徒言行録11の20~30)。このような経験から、パウロはガラテヤの信徒たちへ、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3の26~28)と語りました。

エフェソの信徒への手紙の中でパウロは2種類の一致について語っています。最初は、キリストにある信者の一致があります。使徒は多民族の教会に宛てて書きました。教会員の中には、ユダヤ人と異邦人、アジア人とヨーロッパ人、奴隷と自由な身分の人など、区別された人類のあるゆる象徴が見られました。その中でも、最も顕著な区別は、恐らくユダヤ人と異邦人の間にある壁でした。この壁は両者間の社会的接触を許しませんでしたし、一方が他方より優れていることを主張しました。

パウロはエフェソの信徒への手紙第2章全体を用いて、十字架上のキリストの死が、いかにその壁を破壊したか、また、キリストが築いた新しい秩序が、いかに割礼を無効にし無益なものにしたかについて説明しました。

キリストがユダヤ人と異邦人との間にもたらしたこの新しい一致の真理は、人間の計画によっては起こり得ないし、理解もできないものでした。この真理は神の真理であり、神によって実現されたものでした。神は、十字架上のイエスを通して、人類を区別した割礼の律法を廃し、「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現」なさいました(エフェソ2の15)。パウロはこれを「秘められた計画」(3の3)と呼びました。言語、国籍、民族、性、その他のどのような区別の壁をも乗り越えて実現した信者の一致は、神の行為であり、この書簡の中心主題なのです。

エフェソの信徒への手紙の中でパウロが示したこの一致の教理の第2の側面は、それが宇宙的な規模を持つものであるということです。罪は人間の間に分裂をもたらしたばかりではなく、罪が侵入する以前の創造の秩序の中に存在していた、調和と一致をも引き裂きました。自然界そのものは、この宇宙的な憎悪と分裂の証人です。種と種の間の敵意、激しく噴火する火山、破壊的な地震や竜巻き、われわれの地球が辿ってきた道程を見て、堕落していない他世界に与えたに違いない悲しみ――これらすべてのものは、神が、「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」(エフェソ1の10)時に実現する、不調和が一致に対し道をゆずる「解放の日」の到来を叫び求めているのです。ウイリアム・バークレーは、このことに関して次のように注解しています。「エフェソ書の中心思想は、宇宙における不一致の自覚と、すべてのものがキリストにあって一つになる時にのみ一致することができるという確信である」1

一致の主題から、パウロはもう一つの宇宙的な主題の強調へと移っています。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(エフェソ6の12)。キリスト対サタンの間の大争闘の一部である、クリスチャンの戦いの現実は、使徒の心に重くのしかかっています。その現実とその危険性が彼の心をつかんでいます。彼はこの戦いを、信者の生活のあらゆる分野――家庭、職場、礼拝等の個人生活――に影響を及ぼすものとして見ています。使徒はクリスチャンに、その危険性を自覚するようにと警告しています

従って、神学的な土台においても、実際的適用においても、クリスチャンの生活が、この栄光ある書簡の中の使徒の喜びと関心の的でした。このような書簡をある人々は、「七つの教会に宛てて書かれたパウロの九つの書簡という峰々の中にそびえる……『全新約聖書のアルプス山脈』」2だと呼びました。

参考文献

1         William Barclay,The Letters to the Galatians and the Ephesians (Edinburgh: The Saint Andew Press, 1976),p.66.

2         The SDA Bible Commentary, vol.6,p. 995.

*本記事は、ジョン・M・ファウラー(John M. Fowler)著、山路明訳 2005年9月1日発行『エフェソの信徒への手紙』からの抜粋です。

著者紹介
ジョン・M・ファウラー博士はインドで生まれ、10代の頃に預言の声ラジオ放送を通してアドベンチストとなる。スパイサー・カレッジで神学学士を取得後、32年間、インドで牧師、教師、教会行政、編集に携わる。1990年、『ミニストリー』誌副編集長として世界総会に招聘される。1995年より世界総会教育部副部長。ニューヨーク・シラキュース大学よりジャーナリズム修士号、アンドルーズ大学より博士号を授与される。毎年、3週間伝道に従事する。教会誌および専門誌に300以上の記事を寄稿。『キリストとサタンの宇宙的争闘』ほか、数冊の著書がある。妻メリーとの間に2人の子供がいる。

翻訳者紹介
1933年福岡県生まれ。日本三育学院神学科、米国アンドリュース大学院(宗教学修士)各卒。
福岡、大阪、広島、盛岡、神戸、フレスノ(カリフォルニア州)、天沼、名古屋、宮崎、都城、隼人、ハシェンダ(ロサンゼルス)等で40余年の教会牧師。その間、教団安息日学校部・信徒伝道部長、牧師会長、預言の声代表、沖縄教区長歴任。 著書に『人生百話』『人は何に感動するか』『沈黙のすすめ』、翻訳書に『これで1844年調査審判がよくわかる』 『カウントダウン・シリーズ1-10』等がある。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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