【エフェソの信徒への手紙】手紙の主題【1章解説】#2

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この記事のテーマ

祝賀の手紙

前回の研究で学んだ通り、第3次宣教旅行が終わりに近づき、エルサレムへの帰途に着こうとするとき、パウロはエフェソの信徒に、「あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがない」(使徒20:25)と言っています。その言葉の通り、彼はまもなくエルサレムで捕らえられ、最後にはローマで投獄されます。宣教の最前線を離れ、皇帝の牢獄に閉じ込められた状況で、彼は異邦人への使徒としての自分の生涯を振り返ります(エフェ3:8)。

獄中の孤独の中で、老齢の使徒は『フィリピ』『コロサイ』『フィレモン』『エフェソ』といった獄中書簡を書くことによって、イエスにある驚くべき交わりを喜びます。

『エフェソの信徒への手紙』は教理上の、あるいは社会的な特定の問題を扱っているわけではありません。それはキリストにある交わりと関係、一致を喜び祝っています。それはまた、神がキリストを通して御自分の教会に成し遂げてくださったことへの感謝と賛美の表明です。

著者パウロ

「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ」(エフェ1:1)。

『エフェソの信徒への手紙』の冒頭で、パウロは自分自身を「使徒」と呼んでいます。この言葉は大使、使節、使者を意味しています。これは伝えるべきメッセージを持ったパウロの生涯と働きにふさわしい称号です。

四福音書においては、「使徒」という言葉はもっぱらイエスによって召され、遣わされた12使徒に対して用いられています(マタ10:2~4、マコ3:14~19、ルカ6:13~16参照)。パウロはこの12使徒の一人ではありませんが、『エフェソの信徒への手紙』のこの部分やその他の個所で何度も自分自身を使徒と呼んでいます。自分の召命を確信していたからです。

問1

パウロは自分の使徒としての権威をどのように弁護していますか。その理由は何ですか。ガラ1:1    、ガラ1:11~17、Iコリ9:1、2、使徒26:9~20

パウロは自分が使徒として召されたことを全く疑っていませんでした。ダマスコ途上の経験が彼に決定的な影響を与えており、彼が召命を受け、異邦人への特別な器として選ばれたのもイエスとのこの出会いにおいてでした(使徒9:15、22:21)。このとき以来、彼は自分自身のものではなく、イエスに属するものとなりました。彼がイエス・キリストの使徒、大使、使者となることは神の御旨でした。パウロも喜んでこの召命を受け入れました。このとき以来、彼の生き方は以前のそれとは大きく変わりました。教会も世界も大きく変わりました。

受取人:エフェソの聖なる者たち

この手紙は「、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たち」(エフェ1:1)に宛てて書かれています。初期の教会はほぼ一様に、エフェソの教会宛てに書かれたと考えています。しかし、重要な古い写本には「エフェソにいる」という語句のないものがいくつかあるために、この手紙がもともとエフェソの信徒宛てに書かれたか否かが問題になります。保守的な学者は一般的に、この手紙がアジア州の諸教会に回覧する手紙としてエフェソの教会宛てに書かれたと考えます。パウロがエフェソの人々や問題に言及せず、むしろ宇宙的観点からキリストの働きを賞賛し「、天」での神の御業と十字架上のキリストの御業、さらには「支配と権威」(エフェ6:12)に対する教会の戦いに言及しているのはそのためです。

問2

「聖なる者たち」という言葉は、新約聖書の中で61回用いられていますが、そのうちの39回がパウロの手紙の中に出てきます。次の聖句の中で「聖なる者たち」という言葉はどんな意味で用いられていますか。黙14:12、Iコリ1:2、エフェ4:12、エフェ5:3、コロ1:26  

「聖なる者たち」は霊的エリートではなく、むしろすべての信者をさしています。それは字義的には「聖別された」を意味します。したがって、ここではキリストに「忠実な者」としてキリスト・イエスにおいて聖別されたという意味です。聖なる者とは罪のない、道徳的に完全な者と一般的に考えられていますが、これは新約聖書の用法ではありません。聖なる者たちは「神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける」とありますが(黙14:12)、ここで強調されているのは道徳的な完全さではなく、むしろイエスに対する忠誠です。聖なる者とは神の恵みによって救われた罪人のことです。

また、エフェソの聖なる者たちは「キリスト・イエスを信ずる人たち」です。キリストを受け入れた人たちはみな、エフェソとキリスト、この世と来るべき世に二つの住所を持っています。

恵みと平和

「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(エフェ1:2)。

パウロはほとんどの手紙の中で「恵みと平和」という表現を習慣的な挨拶の文句として用いています(ロマ1:7、Ⅰコリ1:3、Ⅱコリ1:2、ガラ1:3、フィリ1:2、コロ1:2、ほか)。ここで用いられている「恵み」という言葉は、健康と繁栄を祈るために一般的に用いられるギリシア語の挨拶とは異なるものです。パウロは健康と幸福を祈る言葉の代わりに、「恵み」という言葉をもって読者に挨拶しています。この言葉は罪人に対する神の無償の恵みを強調するものとしてキリスト教信仰の中に新しい意味を獲得し始めていました。人が罪から救われるのは神の自発的な行為と愛によってのみです。パウロは後にこの思想を強調して次のように言っています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェ2:8)。

恵みに加えて、パウロは読者のために「平和」を祈り求めています。

問3

キリストの死と復活は「平和」の思想に新しい意味をもたらし、人間と神、また人間相互の間に新しい経験と関係への道を開きました。ヨハネ14:27、ローマ5:1、エフェソ2:14、15、6:15を読んでください。あなたはここに表されている平和の思想をどのように理解しますか。

恵みと平和は共に「わたしたちの父である神と主イエス・キリスト」から来ます(エフェ1:2)。この聖句はキリストと父なる神を同等の地位に置くことによって、イエスの神性を認めています。もしイエスがおられなかったなら、神の恵みは人類に現されていなかったでしょうし、神と罪人との間の平和もありえなかったでしょう。したがって、『エフェソの信徒への手紙』の焦点は、神が「キリストにおいて」成し遂げてくださったことにあります。キリストは私たちの贖いです。私たちはキリストの恵みのゆえに救われました。キリストは私たちの平和です。キリストは主に対する私たちの新しい関係の基礎です。

手紙の主題:一致

「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(エフェ1:8~10)。

問4

上記の聖句を読み、基本的なテーマである一致に注目してください。主はだれを一つにされますか。ルシファーと人類の堕落を含む大争闘を理解することは、この一致の必要性を理解するうえでどんな助けになりますか。黙12:7、イザ14:12、コロ1:20、21参照。

パウロはこれらの聖句の中で、一致を手紙の中心テーマに据えています。「パウロはユダヤ人と異邦人、アジア人とヨーロッパ人、奴隷と自由人からなる教会……に宛てて書いていた。これらはみな分裂した世界の象徴であって、キリストにある一致に回復されるべきものであった。それは、個人、家族、教会の一致、また……神の宇宙の一致を必要とする」(『SDA聖書注解』第6巻995ページ、エレン・G・ホワイト注)。

一致に対するパウロの考えは二つの次元からなっています。一つは、教会に関連したもので、ユダヤ人と異邦人が一つの体にまとめられることです。もう一つは、普遍的なもので、天上と地上のあらゆるものがキリストにあって完全な一致に向かうことです。

人類と宇宙におけるこの一致の源、動機、手段は、人間の必要や能力、あるいは自然界におけるいかなる進化や歴史の過程、また機械的な作用によるものでもありません。『エフェソの信徒への手紙』は、より高い、より確かな道を指し示しています。それは神の御心のうちにある究極的な宇宙の一致について語っています。万物は「、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心」(エフェ1:9)に従って動いています。

パウロはエフェソの信徒に、この宇宙的一致の複製が今、この地上においてキリスト教会の中に見られなければならない、と言っています。

鍵:「キリストにおいて」

「キリストにおいて」とその変化形はパウロの手紙の中で約200回出てきます。この言葉は『エフェソの信徒への手紙』を理解するうえで鍵となる言葉の一つです。神がキリストの生涯、死、復活を通して私たちと堕落した世界のために成し遂げてくださったことについてのパウロの深い理解を示しているからです。「キリストにおいて」は「キリストによって」、「キリストのもとに」と共に、この手紙の中で30回以上出てきます。これらの言葉のほとんどは、天地創造、歴史、贖い、回復における神の永遠の目的がキリストを「通して」成し遂げられたことを示すために用いられています。キリストは私たちが神から受けるあらゆるものを理解する鍵です。

このように、パウロはキリストの受肉の使命の重要性を認めるだけでなく、キリストを離れては、私たちには救いも、養子縁組も、罪の赦しも、神への接近も、神の愛の啓示も、教会も、宇宙の回復も、将来もないことをはっきりと断言しています。つまり、この手紙は、あらゆる点においてキリスト中心の手紙です。それはイエスへの賛歌です。イエスを離れては、私たちは「よそ者」であり「他国人」です(エフェ2:12、英語欽定訳)。

問5

次の聖句によれば、どんなことが「キリストにおいて」私たちのために成し遂げられましたか。エフェ3:11、12 エフェ1:7、エフェ1:10、11

私たちがクリスチャンとして持っているもの、また望み得るものはすべて、「キリストにおいて」のみ与えられます。キリストは私たちが自分では絶対にできないことを私たちのために成し遂げてくださいました。だから私たちはすべてをキリストに負っているのです。キリストを生活の中で第一とすべきなのです。自分の意思をキリストに服従させるべきなのです。キリストとキリストが私たちにしてくださることを拒むことは危険なのです。キリストを拒むことは命そのものを拒むことを意味するからです。

まとめ

使徒としてのパウロ

「パウロは……キリストの使徒としての自分の身分について、巧みに弁明した。彼は、自分が使徒として立てられたのは、『人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって』であると言った。彼は、人からではなくて、天の最高の権威者から任命を受けたのである。そして彼の地位は、エルサレム会議によって認められ、パウロは、異邦人間でのあらゆる働きにおいて、その決定に従ったのである」(『患難から栄光へ』下巻71、72ページ)。

一致

「人が強制や利己心によってではなく、愛によってむすばれるとき、彼らは人間の力にまさる力が働いていることを示すのである。この一致があるとき、それは神のみかたちが人のうちに回復され、新しい生命の原則がうえつけられた証拠である。それはまた超自然的な悪の力に抵抗するのに神の性質には力があるということ、神の恵みは生れつきの心に固有の利己心を征服するということを示している」(『各時代の希望』下巻167、168ページ)。

キリストの働き

「キリストのあがないの働きによって神の統治の正しいことが証明される。全能者は愛の神として知らされる。サタンの非難は反ばくされ、その性格が暴露される。反逆はふたたび起ることができない。罪は二度とこの宇宙にはいることができない。永遠にわたって、だれも背信の心配がない。愛の自己犠牲によって、天と地の住民は決してきれることのないきずなで創造主にむすびつけられる」(『各時代の希望』上巻12ページ)。

偉大な使徒パウロは、この手紙を「聖なる者たち」に書きました。しかし彼自身は、自分が大いなる者であるとは思っていませんでした。彼は自分を「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者」(エフェ3:8)と呼んでいます。ここで「最もつまらない」と訳されている言葉は、あるギリシャ語の辞書によれば、「最も小さい者より、もっと小さい」という意味だということです。実際、ある英語の聖書(NIV)は、”less than the least”(最も小さい者より小さい)と訳しています。「教会の中で最も小さく、一番つまらない存在の私に、神は恵みを注いでくださった」。このことが、パウロの喜びであり確信でした。このように自分を理解し、神の恵みを喜ぶ者たちの中にこそ、「真の一致」が実現すると信じます。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年4期『エフェソの信徒への手紙—イエスによる新しい関係の福音書』からの抜粋です。

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