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この記事について
*本記事は、安息日学校ガイド2005年4期『エフェソの信徒への手紙—イエスによる新しい関係の福音書』からの抜粋です。
第1課 エフェソ教会
第1課 エフェソ教会
幸いなことに、エフェソの教会はパウロの奉仕にあずかりました。パウロがあなたの教会の牧師であると想像してみてください。何と幸いなことでしょう。
エフェソの教会はパウロを必要としていました。この教会には多くの敵がいました。その中には野獣のように凶暴なものもいました(Ⅰコリ15:32)。パウロがエフェソの教会と親密にしていたのはそのためです。エフェソにおける彼の働きは長く、困難なものでしたが、ほかの牧師もうらやむほどの満足感をもって、彼はそこを去りました。「わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです」(使徒20:27)。
エフェソの教会とかかわった人たちの中には、ほかにもアキラとプリスキラ、アポロ、テモテ、使徒ヨハネがいます。これらはみな、1世紀の中心的な教会の一つであったエフェソの教会を建設するうえで重要な役割を果たした人たちです。今回は、初期キリスト教におけるこの魅力的で、教訓に満ちた時代について学びます。
イエス対アルテミス(使徒言行録19章23節~29節)
小アジアの西端にあって、エーゲ海に開けたエフェソは1~2世紀に最も繁栄しました。ローマ帝国第4の都市、また小アジアの首都であったエフェソは豊かな富と哲学とローマ法を誇っていました。
この町の最大の魅力は、「アジア州全体、全世界」(使徒19:27)から豊穣の女神として崇められるディアナの神殿があることでした。ギリシア人にはアルテミス、ローマ人にはディアナとして知られるこの女神には、魔術や占星術を行う信奉者の集団が従っていて、町はこの女神を礼拝する人々や旅行者で賑わっていました。大理石で造られ、内側を純金で覆われたその神殿は、周囲が130メートル×70メートルもあり、内陣の中心にアルテミスの像が安置されていました。パウロの時代には、この神殿は世界の七不思議の一つに数えられ、エフェソの交易、産業、経済は、アルテミスを礼拝するために集まって来る多くの人々に依存していました。
パウロは、この豊穣の神を崇める人々であふれる町にやってきて、「手で造ったものなどは神ではない」(使徒19:26)と宣言したのでした。彼のメッセージは人々の価値観に真っ向から挑戦するものでした。
問1
使徒言行録19:23~29を読んでください。エフェソの住民が真理に反対した真の理由は何でしたか。
キリストとアルテミスとの戦いは、キリストとサタンとの戦いと同じくらい古いものです。この戦いは必ずしも、何が善で、何が悪であるか、まただれが幸福をもたらし、だれが不幸をもたらすかをめぐるものではありません。この戦いは、永遠のものに対する一時的なもの、霊的なものに対する感覚的なもの、罪からの救いに対する人生の快楽をめぐるものです。
エフェソにおいて、パウロと銀細工師のデメトリオが、宗教の名において戦っています。ここで忘れてはならない重要な問題は、私たちも至るところにある「エフェソ」と戦っているということです。これには、自分の心も含まれます。
アキラとプリスキラ
パウロの最初のエフェソ訪問は短期間のものでした。彼は第二次宣教旅行の終わりに、コリントからアンティオキアに帰る途中、エルサレムに向かう前に、エフェソに立ち寄っています。パウロはコリントにいたとき、アキラとプリスキラに会っています。3人には多くの共通点がありました。彼らはイエスをメシアとして受け入れたユダヤ人でした。パウロは伝道のため、夫妻は仕事のためにあちこちを旅行していました。夫妻はローマから、パウロは多くの町々から追い出された避難民でした。それに、彼らはみなテント造りを職業としていました。
必要によって鍛えられ、イエスへの愛によって新たに生まれ、福音宣教を使命としていた3人は一致協力して働きました。コリントで伝道した後、彼らはエフェソに向かいます(使徒18:19)。そこで、パウロは(いつものように)会堂に入り、ユダヤ人に最初の説教をしています。聴衆は彼の説教に心を打たれ、もっと滞在するように頼みますが、パウロは「神の御心ならば、また戻って来ます」(21節)と言って、断ります。エフェソが重要な伝道の中心になりそうだと考えた使徒パウロは、そこにアキラとプリスキラを残していきます。2人の忠実な信徒はエフェソの教会を組織する上で重要な役割を果たしました。後に、エフェソから『コリントの信徒への手紙Ⅰ』を書いたとき(紀元57年ごろ)、パウロはアキラとプリスキラ(プリスカ)および彼らの家の教会からの挨拶をコリントの教会に送っています(Ⅰコリ16:19)。これらの信徒夫妻とエフェソの教会は信徒伝道、特にチーム伝道に関して有意義な模範を私たちに残しています。
問2
使徒言行録18:2、3、18、19、ローマ16:3、4、Iコリント16:19を読んでください。これらの聖句からクリスチャンの生活と働きに欠かせないどんな特徴について学ぶことができますか。
アキラとプリスキラはエフェソの教会にとってだけでなく、初期の宣教運動にとっても祝福となりました。彼らがアポロを完全な真理の知識に導き(使徒18:26)、その結果、初代教会はこの雄弁で、学識豊かで、恐れを知らない伝道者を得たからです。
エフェソでのアポロ(使徒言行録18章24節~28節)
問3
ここに、ギリシアの神と同じ名前を持つユダヤ人が出てきます。このことは何を暗示しますか。ダニ1:7参照
パウロがエフェソで本格的な伝道を始める前から、ローマ帝国第2の都市であるアレクサンドリア出身の雄弁家アポロはそこで伝道していました。ギリシア文化の中心地で育った彼は、哲学と修辞学に精通し、聖書もよく知っていました(使徒18:24)。しかし、確信の伴わない知識は意味がありません。また、伝える熱意の伴わない確信も意味がありません。
問4
使徒言行録18:24~28を読んでください。アポロを力強い伝道者としたものは何でしたか。
アキラとプリスキラはアポロの説教に一つの弱点を発見しました。アポロはイエスのバプテスマでなく、「ヨハネのバプテスマしか」(使徒18:25)知りませんでした。バプテスマのヨハネ自身、その違いを知っていました。一方は水によるバプテスマであり、もう一方は「聖霊と火」(マタ3:11)によるバプテスマでした。バプテスマの儀式にあずかるだけでは不十分です。儀式には救いの力はありません。儀式は、より深いもの、より大いなるものの象徴に過ぎません。ヨハネは罪の悔い改めについて語っていますが、それは第1段階に過ぎません。福音は私たちに悔い改めて、イエス、つまりイエスの死と復活を信じるように、そして聖霊のバプテスマによって造り変えられるように求めています。アポロはこのことを知りませんでした。そこで、アキラとプリスキラは、「彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した」のでした(使徒18:26)。
このように、エフェソの教会は聖書を擁護する素晴らしい学者を迎えたばかりでなく、この学者が真のキリストの弟子となる道を備えたのでした。
エフェソでのパウロ(使徒言行録19章1節―20節)
第3次宣教旅行の折、パウロは約束どおりエフェソに戻り(使徒18:21)、そこに約3年滞在して伝道し、教会を強化しました。「アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」(使徒19:10)。「ユダヤ人であれギリシア人であれ」という言葉に注目してください。エフェソの教会には、さまざまな人がいました。『エフェソの信徒への手紙』が一致と関係の喜びと祝いをテーマにしているのはそのためです。
エフェソにおけるパウロの働きは順調でした。すでにそこにいた何人かの信徒が完全な真理に導かれていました。アポロの場合と同様、これらの信徒はヨハネのバプテスマしか知らず、イエスのバプテスマのことも、「聖霊があるかどうか」(使徒19:2)さえも知りませんでした。偉大な教師パウロはすぐに彼らに真理を教え、彼らは喜んで受け入れました。
問5
しかしながら、パウロの働きは反対に直面します。どんなに偉大な伝道者でも、すべての人には受け入れられないのです。彼はどのように反対に対処しましたか。そうしたのはなぜですか。
一部のかたくなな人々を除いて(使徒19:9)、アジア州の人々は、ギリシア人もユダヤ人も、みな主の言葉を聞きました。パウロは2年間にわたって毎日教え、論じ、神は彼を通して「目覚ましい奇跡」(11節)を行われました。
パウロの伝道といやしの働きは驚くべき結果をもたらしました。多くの人が信じ、罪を告白し、それまで行っていた魔術や呪術をやめました。オカルト社会は崩壊し、何億円もの価値のある魔術の書物が焼き捨てられました(使徒19:18、19)。「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった(」20節)。ところが、「主イエスの名」が「大いにあがめられる」(17節)ようになると、人々の間に、「偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、……この女神の御威光さえも失われてしまう」(27節)という恐れが生じます。
パウロの徹底した宣教(使徒言行録20章17節~38節)
使徒パウロはエフェソで3年働いた後、マケドニア、ギリシア、トロアスで伝道し、それからエルサレムに帰ろうと考えました。パウロは別れの挨拶をするためにエフェソ教会の長老たちをエフェソから約50キロ離れたミレトスに呼び寄せます。パウロが組織し、訪問した教会の中でも、エフェソの教会は最も親しみ深く、特別な教会でした。彼がこの教会に対して抱いていた深い愛と献身の情は、使徒言行録20:18~35にある告別説教の中によく表されています。
問6
以下にまとめられたパウロの宣教の働きから、あなたはどんな点に感動し、また何を学びますか。それはあなたの信仰生活をどのように強め、高めてくれますか。
- パウロは自分の教えを自ら実践していました(使徒20:18)。
- 彼は心からの誠意をもって働きました(19節)。
- 彼は公的にも私的にも真理を語りました(20節)。
- 彼はユダヤ人にもギリシア人にも、イエスに対する信仰という共通のメッセージを説きました(21節)。
- 彼は自分のことよりも宣教を優先しました(24~26節)。
- 彼は神の勧告を余すところなく伝えました(27節)。
- 彼は伝道の責任を委任し、伝道に伴う危険について警告しました(28~31節)。
- 彼は教会がキリスト御自身の血によって贖われたことを信じていました(28節)。
- 彼は自活の重要性を認めていました(33~35節)。
パウロは有能な長老たちに管理をゆだねて、エフェソの教会を離れます(使徒20:17)。彼はまたテモテを伝道者に任命し、エフェソの信徒に「異なる教えを説いたり、作り話や切りのない系図に心を奪われたりしないようにと」教えるように命じます(Ⅰテモ1:3、4)。
エフェソの教会はまた、愛された弟子ヨハネの奉仕と勧告を受ける特権にあずかりました(『各時代の希望』上巻232ページ参照)。老齢の弟子ヨハネの存在そのものが、エフェソの教会にとって大きな力と喜びの源となったはずです。
まとめ
「アポロは彼ら[アキラとプリスキラ]の教えを通して聖書をはっきりと理解し、キリスト教会の最も有能な擁護者のひとりとなった。こうして、練達した学者であり優れた雄弁家であるアポロは、テント造りを職業とするクリスチャン夫婦の教えから、より完全に主の道について学んだのであった」(『SDA聖書注解』第6巻1063ページ、エレン・G・ホワイト注)。
「今日の降神術の霊媒、透視者、占い師たちは、異教の時代の魔術師たちに当たる。……われわれの目からおおいが取り去られるならば、悪天使たちが人類を欺き滅ぼすために、あらゆる手段を用いているのが見えるであろう」(『患難から栄光へ』上巻313ページ)。
パウロは、エフェソの教会を離れる時、「今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」と告げました(使徒20:32)。パウロはそれまでに、神の「恵みの言葉」をありのまま伝えていました。宣教者の役割は、それ以上でもそれ以下でもありません。受け入れるか受け入れないかは聞く人の責任です。そのことを知っていたパウロは、「だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません」(20:26)と言うことができました。しかし彼は、エフェソのクリスチャンたちを見捨てたわけではありません。人々も涙を流していますが、使徒自身、愛する聖徒たちとの別れはつらかったと思います。その時、彼は、人々を神にゆだねました。彼は、イエスの次のような声を聞いたことでしょう。「パウロよ、あなたは、もうこれ以上エフェソの聖徒たちと共にいることはできない。彼らのことは、わたしに任せなさい。わたしは世の終りまでいつも彼らと共にいる。安心して行くがよい」。パウロはその言葉に感謝し、「主よ、彼らをよろしくお願い致します!」と応えたのです。
第2課 手紙の主題
第2課 手紙の主題
祝賀の手紙
前回の研究で学んだ通り、第3次宣教旅行が終わりに近づき、エルサレムへの帰途に着こうとするとき、パウロはエフェソの信徒に、「あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがない」(使徒20:25)と言っています。その言葉の通り、彼はまもなくエルサレムで捕らえられ、最後にはローマで投獄されます。宣教の最前線を離れ、皇帝の牢獄に閉じ込められた状況で、彼は異邦人への使徒としての自分の生涯を振り返ります(エフェ3:8)。
獄中の孤独の中で、老齢の使徒は『フィリピ』『コロサイ』『フィレモン』『エフェソ』といった獄中書簡を書くことによって、イエスにある驚くべき交わりを喜びます。
『エフェソの信徒への手紙』は教理上の、あるいは社会的な特定の問題を扱っているわけではありません。それはキリストにある交わりと関係、一致を喜び祝っています。それはまた、神がキリストを通して御自分の教会に成し遂げてくださったことへの感謝と賛美の表明です。
著者パウロ
「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ」(エフェ1:1)。
『エフェソの信徒への手紙』の冒頭で、パウロは自分自身を「使徒」と呼んでいます。この言葉は大使、使節、使者を意味しています。これは伝えるべきメッセージを持ったパウロの生涯と働きにふさわしい称号です。
四福音書においては、「使徒」という言葉はもっぱらイエスによって召され、遣わされた12使徒に対して用いられています(マタ10:2~4、マコ3:14~19、ルカ6:13~16参照)。パウロはこの12使徒の一人ではありませんが、『エフェソの信徒への手紙』のこの部分やその他の個所で何度も自分自身を使徒と呼んでいます。自分の召命を確信していたからです。
問1
パウロは自分の使徒としての権威をどのように弁護していますか。その理由は何ですか。ガラ1:1 、ガラ1:11~17、Iコリ9:1、2、使徒26:9~20
パウロは自分が使徒として召されたことを全く疑っていませんでした。ダマスコ途上の経験が彼に決定的な影響を与えており、彼が召命を受け、異邦人への特別な器として選ばれたのもイエスとのこの出会いにおいてでした(使徒9:15、22:21)。このとき以来、彼は自分自身のものではなく、イエスに属するものとなりました。彼がイエス・キリストの使徒、大使、使者となることは神の御旨でした。パウロも喜んでこの召命を受け入れました。このとき以来、彼の生き方は以前のそれとは大きく変わりました。教会も世界も大きく変わりました。
受取人:エフェソの聖なる者たち
この手紙は「、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たち」(エフェ1:1)に宛てて書かれています。初期の教会はほぼ一様に、エフェソの教会宛てに書かれたと考えています。しかし、重要な古い写本には「エフェソにいる」という語句のないものがいくつかあるために、この手紙がもともとエフェソの信徒宛てに書かれたか否かが問題になります。保守的な学者は一般的に、この手紙がアジア州の諸教会に回覧する手紙としてエフェソの教会宛てに書かれたと考えます。パウロがエフェソの人々や問題に言及せず、むしろ宇宙的観点からキリストの働きを賞賛し「、天」での神の御業と十字架上のキリストの御業、さらには「支配と権威」(エフェ6:12)に対する教会の戦いに言及しているのはそのためです。
問2
「聖なる者たち」という言葉は、新約聖書の中で61回用いられていますが、そのうちの39回がパウロの手紙の中に出てきます。次の聖句の中で「聖なる者たち」という言葉はどんな意味で用いられていますか。黙14:12、Iコリ1:2、エフェ4:12、エフェ5:3、コロ1:26
「聖なる者たち」は霊的エリートではなく、むしろすべての信者をさしています。それは字義的には「聖別された」を意味します。したがって、ここではキリストに「忠実な者」としてキリスト・イエスにおいて聖別されたという意味です。聖なる者とは罪のない、道徳的に完全な者と一般的に考えられていますが、これは新約聖書の用法ではありません。聖なる者たちは「神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける」とありますが(黙14:12)、ここで強調されているのは道徳的な完全さではなく、むしろイエスに対する忠誠です。聖なる者とは神の恵みによって救われた罪人のことです。
また、エフェソの聖なる者たちは「キリスト・イエスを信ずる人たち」です。キリストを受け入れた人たちはみな、エフェソとキリスト、この世と来るべき世に二つの住所を持っています。
恵みと平和
「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(エフェ1:2)。
パウロはほとんどの手紙の中で「恵みと平和」という表現を習慣的な挨拶の文句として用いています(ロマ1:7、Ⅰコリ1:3、Ⅱコリ1:2、ガラ1:3、フィリ1:2、コロ1:2、ほか)。ここで用いられている「恵み」という言葉は、健康と繁栄を祈るために一般的に用いられるギリシア語の挨拶とは異なるものです。パウロは健康と幸福を祈る言葉の代わりに、「恵み」という言葉をもって読者に挨拶しています。この言葉は罪人に対する神の無償の恵みを強調するものとしてキリスト教信仰の中に新しい意味を獲得し始めていました。人が罪から救われるのは神の自発的な行為と愛によってのみです。パウロは後にこの思想を強調して次のように言っています。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェ2:8)。
恵みに加えて、パウロは読者のために「平和」を祈り求めています。
問3
キリストの死と復活は「平和」の思想に新しい意味をもたらし、人間と神、また人間相互の間に新しい経験と関係への道を開きました。ヨハネ14:27、ローマ5:1、エフェソ2:14、15、6:15を読んでください。あなたはここに表されている平和の思想をどのように理解しますか。
恵みと平和は共に「わたしたちの父である神と主イエス・キリスト」から来ます(エフェ1:2)。この聖句はキリストと父なる神を同等の地位に置くことによって、イエスの神性を認めています。もしイエスがおられなかったなら、神の恵みは人類に現されていなかったでしょうし、神と罪人との間の平和もありえなかったでしょう。したがって、『エフェソの信徒への手紙』の焦点は、神が「キリストにおいて」成し遂げてくださったことにあります。キリストは私たちの贖いです。私たちはキリストの恵みのゆえに救われました。キリストは私たちの平和です。キリストは主に対する私たちの新しい関係の基礎です。
手紙の主題:一致
「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(エフェ1:8~10)。
問4
上記の聖句を読み、基本的なテーマである一致に注目してください。主はだれを一つにされますか。ルシファーと人類の堕落を含む大争闘を理解することは、この一致の必要性を理解するうえでどんな助けになりますか。黙12:7、イザ14:12、コロ1:20、21参照。
パウロはこれらの聖句の中で、一致を手紙の中心テーマに据えています。「パウロはユダヤ人と異邦人、アジア人とヨーロッパ人、奴隷と自由人からなる教会……に宛てて書いていた。これらはみな分裂した世界の象徴であって、キリストにある一致に回復されるべきものであった。それは、個人、家族、教会の一致、また……神の宇宙の一致を必要とする」(『SDA聖書注解』第6巻995ページ、エレン・G・ホワイト注)。
一致に対するパウロの考えは二つの次元からなっています。一つは、教会に関連したもので、ユダヤ人と異邦人が一つの体にまとめられることです。もう一つは、普遍的なもので、天上と地上のあらゆるものがキリストにあって完全な一致に向かうことです。
人類と宇宙におけるこの一致の源、動機、手段は、人間の必要や能力、あるいは自然界におけるいかなる進化や歴史の過程、また機械的な作用によるものでもありません。『エフェソの信徒への手紙』は、より高い、より確かな道を指し示しています。それは神の御心のうちにある究極的な宇宙の一致について語っています。万物は「、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心」(エフェ1:9)に従って動いています。
パウロはエフェソの信徒に、この宇宙的一致の複製が今、この地上においてキリスト教会の中に見られなければならない、と言っています。
鍵:「キリストにおいて」
「キリストにおいて」とその変化形はパウロの手紙の中で約200回出てきます。この言葉は『エフェソの信徒への手紙』を理解するうえで鍵となる言葉の一つです。神がキリストの生涯、死、復活を通して私たちと堕落した世界のために成し遂げてくださったことについてのパウロの深い理解を示しているからです。「キリストにおいて」は「キリストによって」、「キリストのもとに」と共に、この手紙の中で30回以上出てきます。これらの言葉のほとんどは、天地創造、歴史、贖い、回復における神の永遠の目的がキリストを「通して」成し遂げられたことを示すために用いられています。キリストは私たちが神から受けるあらゆるものを理解する鍵です。
このように、パウロはキリストの受肉の使命の重要性を認めるだけでなく、キリストを離れては、私たちには救いも、養子縁組も、罪の赦しも、神への接近も、神の愛の啓示も、教会も、宇宙の回復も、将来もないことをはっきりと断言しています。つまり、この手紙は、あらゆる点においてキリスト中心の手紙です。それはイエスへの賛歌です。イエスを離れては、私たちは「よそ者」であり「他国人」です(エフェ2:12、英語欽定訳)。
問5
次の聖句によれば、どんなことが「キリストにおいて」私たちのために成し遂げられましたか。エフェ3:11、12 エフェ1:7、エフェ1:10、11
私たちがクリスチャンとして持っているもの、また望み得るものはすべて、「キリストにおいて」のみ与えられます。キリストは私たちが自分では絶対にできないことを私たちのために成し遂げてくださいました。だから私たちはすべてをキリストに負っているのです。キリストを生活の中で第一とすべきなのです。自分の意思をキリストに服従させるべきなのです。キリストとキリストが私たちにしてくださることを拒むことは危険なのです。キリストを拒むことは命そのものを拒むことを意味するからです。
まとめ
使徒としてのパウロ
「パウロは……キリストの使徒としての自分の身分について、巧みに弁明した。彼は、自分が使徒として立てられたのは、『人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって』であると言った。彼は、人からではなくて、天の最高の権威者から任命を受けたのである。そして彼の地位は、エルサレム会議によって認められ、パウロは、異邦人間でのあらゆる働きにおいて、その決定に従ったのである」(『患難から栄光へ』下巻71、72ページ)。
一致
「人が強制や利己心によってではなく、愛によってむすばれるとき、彼らは人間の力にまさる力が働いていることを示すのである。この一致があるとき、それは神のみかたちが人のうちに回復され、新しい生命の原則がうえつけられた証拠である。それはまた超自然的な悪の力に抵抗するのに神の性質には力があるということ、神の恵みは生れつきの心に固有の利己心を征服するということを示している」(『各時代の希望』下巻167、168ページ)。
キリストの働き
「キリストのあがないの働きによって神の統治の正しいことが証明される。全能者は愛の神として知らされる。サタンの非難は反ばくされ、その性格が暴露される。反逆はふたたび起ることができない。罪は二度とこの宇宙にはいることができない。永遠にわたって、だれも背信の心配がない。愛の自己犠牲によって、天と地の住民は決してきれることのないきずなで創造主にむすびつけられる」(『各時代の希望』上巻12ページ)。
偉大な使徒パウロは、この手紙を「聖なる者たち」に書きました。しかし彼自身は、自分が大いなる者であるとは思っていませんでした。彼は自分を「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者」(エフェ3:8)と呼んでいます。ここで「最もつまらない」と訳されている言葉は、あるギリシャ語の辞書によれば、「最も小さい者より、もっと小さい」という意味だということです。実際、ある英語の聖書(NIV)は、”less than the least”(最も小さい者より小さい)と訳しています。「教会の中で最も小さく、一番つまらない存在の私に、神は恵みを注いでくださった」。このことが、パウロの喜びであり確信でした。このように自分を理解し、神の恵みを喜ぶ者たちの中にこそ、「真の一致」が実現すると信じます。
第3課 神の御業
第3課 神の御技
賛美と嘆願
ギリシア語原文では、エフェソ1:3~14は一つの長い文章であり、パウロはその中でキリスト教神学の主要な点を紹介し、三位一体の神が地上における神の家族としての教会を創設されたと述べています。父なる神は、「天地創造の前に、……わたしたちを……キリストにおいてお選びになりました」(エフェ1:4)。私たちはキリストにおいて、「その血によって贖われ、罪を赦されました」(7節)。一方、聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための証印・保証となられます(13、14節)。
パウロも認めているように、神は歴史と時間の中で行動されますが、「天上に」住んでおられます。この言葉は『エフェソの信徒への手紙』に5回出てきます。私たちの祝福はそこから来ます(3節)。復活されたキリストはそこに座しておられます(20節)。私たちもそこに座ります(2:6)。神の目的はそこで教会によって知らされます(3:10)。私たちが戦う暗闇の権威はそこで生まれました(6:12)。
選ばれた者たち
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(エフェ1:4)。
パウロは教会の起源を神の思いの中にたどっています(エフェ1:4、5)。神の贖いの計画と贖われた者たちのための神の計画は偶発的なものではありません。それは天地創造の前から、時間の始まる前から計画されていたものです。神は御心のうちに一つの目的を持っておられました。それはキリストにあって私たちを選ぶことでした。私たちが存在する前から、神は私たちをキリストとの関係を通してご覧になっていました。それゆえに、神は私たちを御自分の子らとすることがおできになりました。したがって、私たちは自分の価値や功績によって救われるのではありません。私たちが神に何らかの影響を与えたのではありません。私たちは自分の努力によって神に近づくことはできませんでした。事実、私たちがまだ存在しなかったときに、神はすでに私たちを救おうと計画しておられました。私たちのなすべきことはキリストの与えてくださるものを受け入れることだけです。
問1
次の各聖句は[神による]予定を理解する上でどんな助けになりますか。Iコリ2:7、エフェ1:4、5、3:11、Iペト1:20、黙13:8
神が前もって私たちを救いに定めておられるという考えをめぐって混乱している人が少なくありません。前もって滅びに定められている人たちがいることを暗示するからです。しかし、それは聖書の教えではありません。むしろ、神は永遠の目的に従って、あらかじめ救いの計画を用意しておられたのです。すべての人が救われるためです(Iテモ2:6、IIペト3:9)。すべての人を含む救いの計画そのものは世界の始まる前から決まっていました。私たち一人ひとりがその計画に対してどう応答するかは前もって決まっていたわけではありません。神が私たちの永遠の運命を前もって知っておられるということは、神が私たちの運命を前もって決定しておられるということと同じではありません。救いが私たちに提供されているのはキリストが私たちのためになさった御業のゆえです。それは私たちの創造以前から立てられていた計画です。唯一の問題は、私たちがどのように応答するかです。この計画について感謝と賛美の祈りを書いてみてください。
神の子となる(エフェソの信徒への手紙1章4節―6節)
問2
エフェソ1:4~6を読んでください。これらの聖句は、神が私たちのためにしてくださるどんな三つのことについて述べていますか。
- エフェ1:4
- エフェ1:5
- エフェ1:6
教会の起源は神の思いの中にあります。それは、神が世界を創造する前に救いの計画をお立てになったときにさかのぼります。しかし、教会を構成するのはだれでしょうか。神の家族を構成するのはだれでしょうか。パウロがすでにエフェソ1:4で部分的に述べているように、それは「聖なる者、汚れのない者」とされるためにキリストにおいて選ばれ、愛のうちに歩む者たちです。「キリストにおいて選ばれ」という表現は神による独断的な選びを意味するものではなく、神の救いを認めることを意味しています。救いは全世界に提供されていますが、救いが効力を持つのはそれを自分自身のものとして受け入れる者たちにとってだけです。救いと永遠の命はイエスにおける神の賜物としてすべての人に提供されています(ヨハ3:16、エフェ2:8、9)。しかし、「独り子を信じる者」だけが救われます。神はイエスにおける神の贖いを受け入れる者たちを、「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェ1:5)。繰り返しますが、神はある者たちを選び、ある者たちを拒絶されるのではありません。むしろ、キリストの救いを受け入れた者たちは初めから彼らのために計画されていたことを成就したに過ぎません。
問3
パウロは養子縁組みの思想によって、神の救いを説明しようとしています(5節)が、それはなぜだと思いますか。ロマ8:15、16、ガラ3:26~29、4:5
神の教会は養子で構成されています。生まれながらの子は自らの罪と選択によって神に反逆しているため、神の家族に属していませんが、前もって定められた神の計画を受け入れるとき、彼らは神の家族に組み入れられます。彼らの関係は今や家族関係となり、愛に根ざした関係となります。
キリストにおける贖い(エフェソの信徒への手紙1章7節、8節)
問4
エフェソ1:7、8によれば、私たちは何を通して贖われますか。
問5
血によらないで救われる人がいますか。ヘブ9:22
贖いとは代価を払って奴隷を解放することを意味します。聖書においては、贖いとは神がキリストによって私たちを罪の束縛から救ってくださることを意味します。キリストが十字架の上で私たちの罪のために血を流してくださったことによって、私たちは罪を赦され、神の家族に組み入れられるようになりました(ガラ4:4~6、エフェ1:7、8)。キリストなくしては、これらはどれも不可能でした。
罪の赦しは私たちにとっては無償です。実際のところ、私たちは赦しに値段をつけることも、それを買うこともできません。しかし、神にとっては赦しはイエスの血という計り知れない代価を要求しました。罪はその性質上、死をもたらします。罪人が死を免れるためには、身代わりの死が必要でした。旧約の犠牲制度においては、神は動物の血を流すことを条件に赦しをお与えになりました。この犠牲制度全体は、「神の小羊」なるキリストが世の罪を取り除かれる日を予期していました(ヨハ1:29)。イエスは十字架の上で私たちの罪のための刑罰をお受けになりました。イエスの流された血が罪の赦しを可能とするのです(ロマ5:8、9、エフェ2:13、コロ1:20)。
私たちが贖われ、神の子とされるのはキリストの十字架によってです。「これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ……てくださいました」(エフェ1:7、8)。パウロは『エフェソの信徒への手紙』の中で6回、「豊かな」という言葉を用いています(エフェ1:7、18、2:4、7、3:8、16)。私たちは多くの点で貧しく、困窮しているかもしれませんが、神の恵みにおいてあふれるほど豊かです。私たちは罪責から自由です。
だれかがある経営者に、「あといくらほどあれば満足ですか」と尋ねました。大富豪は答えました。「いつももう少しだけ」。しかし、クリスチャンは次のように答えます。「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(フィリ4:19)。
秘められた計画(エフェソの信徒への手紙1章9節―12節)
問6
パウロはエフェソ1:9~12の中で、何度、神の御心・目的が実現していると述べていますか。1~8節の中にこれと同じ思想が何度、語られていますか。神の目的が実現しているというこの思想は、私たちが神に信頼することを学ぶ上でどんな助けになりますか。
神の民は、神に選ばれ、神の子とされ、贖われ、赦され、受け入れられているという理由に加えて、「神が秘められた計画をわたしたちに知らせて」くださったという理由で、神を賛美することができます。「これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです」(エフェ1:9)。
パウロは『エフェソの信徒への手紙』の中で6回、「秘められた計画」という言葉を用いています。パウロはこの言葉を、以前は隠されていたが、今は神によって啓示されていることという意味で用いています。
パウロが語っている「秘められた計画」とは、エフェソ3章によれば、それはユダヤ人と異邦人を一つの交わりに入らせる神の計画であり、また、分裂のない一つの人類、障壁のない一つの教会を造り出すことです。しかし、この計画にはもう一つの次元があります。キリストが十字架においてユダヤ人と異邦人を一つに結びつけてくださったことは、神の御業の前触れに過ぎません。「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(エフェ1:9、10)。「時が満ちると」(ガラ4:4)、神が御子を遣わして、ユダヤ人と異邦人を贖い、一つに結びつけてくださったように、再び神は時が満ちると、つまり主のご再臨の時に、「あらゆるもの」を「キリストのもとに一つにまとめ」(エフェ1:10)る計画を持っておられます。
「神の目的は失われた一致を回復することにある。それは必然的にキリストにあってなされねばならない。キリストがすべてのものの中心であるからである。
……神の宇宙の統一は罪によって破られた。秘められた神の計画とは、ふさわしいときにこの一致を回復するという神の計画であった。この回復はキリストを通してなされる。この秘められた計画は、大争闘の終結するとき、すなわち天と地の万物がキリストにあって一つに結ばれ、三位一体の神の品性が擁護されるときに完成する」(『SDA聖書注解』第6巻1000ページ、エレン・G・ホワイト注)。
ユダヤ人と異邦人(エフェソの信徒への手紙1章11節~14節)
パウロはエフェソ1:11~13において、キリストがユダヤ人と異邦人の間にもたらされる新しい一致の模範を提示しています。彼はここで「わたしたち」と「あなたがた」という言葉を用いています。「わたしたちは……約束されたものの相続者とされました」(11節)。「以前からキリストに希望を置いていたわたしたち」(12節)。「あなたがたもまた……真理の言葉……を聞き、そして信じて」(13節)。「わたしたち」はパウロと同じユダヤ人クリスチャン、「あなたがた」は異邦人クリスチャンをさしています。
ユダヤ人が初めに来ているのはなぜでしょうか。神が彼らを初めに御自分の相続者として選ばれたからです(申4:20、9:29、ゼカ2:12)。「神の言葉」は彼らにゆだねられました(ロマ3:2)。福音はまず彼らに宣べ伝えられました(ロマ1:16)。それゆえ、まず初めに福音を信じたのはユダヤ人でした(ヨハ1:11、12、8:31、使徒1:8、3:26)。
しかしながら、ユダヤ人が先に信じたと言っても、パウロはユダヤ人クリスチャンを優位に置いているわけではありません。事実、彼はエフェソ1:13で、「あなたがた[異邦人クリスチャン]もまた……信じて」、と言っています。また、聖霊は「わたしたち[ユダヤ人と異邦人]が御国を受け継ぐための保証」となられた、と言っています(14節)。
神の御国では、最初にキリストを知ることやキリストに導かれることは何ら特別な地位を約束するものではありません。重要なのは、私たちがいつ福音を受け入れたかではなく、福音の要求に真実であるか否かです。
パウロは三度、聖霊の働きに言及して、私たちが御国の相続者とされることの確実性を強調しています。「第1に、聖霊は神が約束された聖霊です」。神はイエスを通して、悔い改めて信じるすべての人に聖霊を約束されました(ルカ24:49、ガラ3:14、16)。「第2に、聖霊は神の証印です」。証印は所有権と真実性の印です。神は私たちが神のものであることの印として、聖霊を私たちのうちに住まわせてくださいます(ロマ8:14~17、Ⅱコリ1:22参照)。「第3に、聖霊は神の保証です」。「保証」という言葉は「手付金」と訳すこともできます。神は聖霊を通して手付金を与えておられます。神はユダヤ人と異邦人に対するすべての約束を実現してくださいます。私たちが「神の栄光をたたえる」ようになるためです(エフェ1:14)。
まとめ
天地創造の前から
「われわれをあがなう計画は、あとで考え出されたもの、すなわちアダムの堕落後に定められた計画ではなかった。それは、『長き世々にわたって、かくされていた奥義』のあらわれであった(ローマ16:25)。それは永遠の昔から神の統治の根本となってきた原則のあらわれであった。……神は罪が存在するように定められたのではなく、その存在を予見し、その恐るべき危機に応ずる備えをされたのであった。世に対する神の愛はまことに大きかったので、神は、『御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得る』ために、そのひとり子を与えることを約束された」(ヨハネ3:16)」(『各時代の希望』上巻5ページ)。
神の予定
「天の協議において、反逆者である人間が背信のうちに滅びることなく、彼らの身代わりであり保証であるキリストに対する信仰によって、神の選民となり、神の御心に従ってイエス・キリストによって神御自身の子となるように前もって定める決定がなされた。神の御心はすべての人が救われることである。
……滅びる者たちはキリスト・イエスによって神の子となることを拒むゆえに滅びるのである」(『SDA聖書注解』第6巻1114ページ、エレン・G・ホワイト注)
「愛されるために生まれてきた」という歌があります。私たちは「いつから」神に愛されていたのでしょうか。それは、「天地創造の前」からであった、と聖書は教えています(エフェ1:4)。人は誕生して初めて愛されるのではない、というのです。「光あれ」という言葉が発せられるより前に、すでに、私たちは愛されていたのです。親は、我が子のために最善を尽くします。学校の先生は、生徒のためにあらゆる準備をします。しかし、親・教師の愛情、熱心さ、周到さをはるかに超えた愛、知恵、力によって、天の神が、あなたを救う計画を立てられました。あなたが神の国に行くためなら、天のすべてが用いられます。神の独り子さえ与えられました。神は、あなたを救うためなら何も惜しいとは思いません。人間の計画はどんなに優れていても弱点がありますが、神の計画は完璧です。その意味で、あなたが救われるのは決して難しいことではありません。心配する必要はないのです。ただ一つ、神が私たちに任されたことがあります。それは選択です。神の子になることを選ぶなら、あなたは必ず救われます、必ず。だって、神が失敗するなんてこと、あるわけないじゃありませんか!
第4課 賛美と祈り
第4課 賛美と祈り
パウロは多くの問題、試練、悲しみと戦っていました。しかし、彼はまた賛美と祈りの人でもありました。彼は、神がキリストにおいて私たちのためにしてくださった数々の御業に言及した後で、エフェソの教会の信仰に関して神に感謝をささげています。彼らの信仰と、彼らが「すべての聖なる者たちを愛している」(エフェ1:15)ことを聞いたからです。それから、彼はエフェソの信徒のために執り成しの祈りをささげています。
私たちはしばしば、祈りは逆境の中にある人々、本当に祈りを必要としている人々のためにだけあると考えがちです。しかし、パウロはここで明らかに順境の中にある人々のために祈っています。与えられている教訓は明らかです。それは、どんな人にも心を留めるということです。力強く信仰に成長している人であれ、かろうじて信仰を保っている人であれ、みな等しく祈りを必要としているのです。
一方、パウロの執り成しの祈りは、神がキリストにおいて私たちのために成し遂げてくださった御業と、その結果として私たちに与えられている大いなる希望に関して深い洞察を与えてくれます。
信仰と愛
「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています」(エフェ1:15、16)。
「こういうわけで」は「このゆえに」とも訳せます。神がエフェソの教会に与えてくださった「あらゆる霊的な祝福」(エフェ1:3)のゆえに、パウロの心は感謝で満ちあふれています。これらの祝福の中には、神に選ばれ、神の子とされ、贖われ、赦され、キリストに結ばれたこと、また万物が当初の計画に完全に回復されたことが含まれています(3~14節)。
クリスチャンの感謝は、積極的で有意義な毎日の生活において神の祝福を反映し、それをあかしする生き方につながるものでなければなりません。エフェソの信徒はそうでした。彼らの信仰告白はその生活の中に表されていました。事実、パウロは牢獄の中で、彼らが「主イエスを信じ」、「すべての聖なる者たちを愛している」(15、16節)ことを聞いていました。エフェソの信徒にとって、キリスト教は教理以上のものでした。それは変えられた生き方への招きでした。
問1
信仰と愛はどんな関係にありますか。
エフェソの信徒の信仰は生きた信仰でした。彼らは復活されたキリストを信じ、神がキリストを通して人類の赦しと救いを達成してくださったと信じていました。しかし、信仰は教理以上のもの、単なる知的な同意以上のものです。信仰は忠実であることを含みます。エフェソの教会はキリストとその教えに忠実に従っていました。彼らがユダヤ人と異邦人の「すべての聖なる者たちを愛してい」た(エフェ1:15)のも、イエスに対する信仰の必然的な結果に過ぎませんでした。
愛と信仰と希望はクリスチャンの生き方を特徴づける基本的な恵みです(Ⅰコリ13:13、コロ1:4、5)。いかに私たちの教理が正統的であっても、その礼拝とあかしが立派であっても、また管理者としての務めが忠実であっても、神への愛と人への愛という二重の愛が見られない限り、私たちはクリスチャンであるとは言えません。イエスがそのように命じておられるからです(マタ22:37~39)。神を愛しながら、人を愛さないということはあり得ないからです(Ⅰヨハ4:20、21参照)。
知恵と神を知ること(エフェソの信徒への手紙1章17節)
ここまでパウロの祈りの、信仰と愛の生活に対する感謝の部分について見てきましたが、次にパウロの執り成しの祈りの側面に目を向けてみましょう(エフェ1:17~23)。私たちは祈る時、しばしば物質的必要や自分自身の必要にだけ集中しがちです。しかし、祈りが持つ高尚な側面は執り成し、つまりだれかほかの人のために祈ることにあります。パウロは、神が「あなたがた[エフェソの信徒]に知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるように」してくださるように、と祈っています(17節)。
問2
聖書が教える知恵とはどんなものですか。それは頭だけの知識ですか。詩編111:10、箴9:10、11:12、コロ4:5、ヤコ3:13、17
哲学は、あなた自身を知れ、と言います。心理学は、自分と自分の可能性を理解することに人生の意味がある、と言います。しかし、神を知ることにまさる知識はありません。人間が神について知ることのできる最大の知識は、神御自身が啓示してくださる知識です。
神は、ご自身を、被造物を通して(詩編19:1、ロマ1:19~21)、また、聖書を通して(ヨハ5:39)、さらに神の御子イエス・キリスト(ヨハネ14:9、10、ヘブ1:1~3)を通してご自身を啓示しておられます。
神の啓示は「神を深く知る」(エフェ1:17)ことを可能にしてくれますが、「私たちは御言葉を与えてくださった聖霊の助けなしには神の啓示を正しく理解することも評価することもできません」(『教会へのあかし』第5巻241ページ)。「御父が……心の目を開いてくださるように」(18節)と、パウロが祈っているのはそのためです。私たちには、合理的な知識以上のものが必要です。それは霊的な洞察力です。内なる心の目をもって、次の四つの重要な真理を理解するためです。すなわち、「神の招きによってどのような希望が与えられているか」、「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(18節)、「神の力がどれほど大きなものであるか」(19節)、そしてキリストが教会の頭であること(22、23節)を理解することがそれです。
希望と受け継ぐもの(エフェソの信徒への手紙1章18節)
問3
エフェソ1:18を読んでください。神がこの聖句によって言おうとしておられることをあなた自身の言葉で要約してください。
パウロの手紙では、「招き」はクリスチャンの特権と責任を強調します。神は私たちに、キリストのものとなるように、聖なる者となるように(ロマ1:6)、また「主イエス・キリストとの交わり」(Ⅰコリ1:9)に入るように求めておられます。神の招きのゆえに、神の民でなかった私たちは神の民となりました(ロマ9:24)。召された者たちにとって、キリストは「神の力、神の知恵」となられます(Ⅰコリ1:24)。信じる者たちは「永遠の命」に招かれています(Ⅰテモ6:12)。この招きは彼らを自由な者、「愛によって互いに仕え」る者とします(ガラ5:13)。この招きは人種や階級を超えて、仲むつまじい交わりを約束します。私たちが「一つの体」(コロ3:15)になるように、また「その招きにふさわしく歩」む(エフェ4:1)ように求められているからです。この招きは私たちに、「汚れた生き方ではなく、聖なる生活」(Ⅰテサ4:7)を、平和に満ちた生活(コロ3:15)を送るように期待します。それは、「御自身の国と栄光にあずからせようと」(Ⅰテサ2:12)される神にふさわしい生き方です。この御国への招きは、「神がキリスト・イエスによって上へ召して」(フィリ3:14)くださる招きであって、私たちがクリスチャンの競走を耐え忍ぶ原動力となります。
神の招きは広範囲で、過去をおおい(赦し)、現在(交わりと平安に満ちた生活)を含み、将来における「わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望」みます(テト2:13)。パウロは私たちに対して、「神の招きによってどのような希望が与えられているか」(エフェ1:18)、その希望がいかに豊かであるかを悟るように祈っています。
パウロはさらに、「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(18節)を悟るように祈っています。この「受け継ぐもの」[相続財産]は、信者自身が、神から受け継ぐ相続財産であるという意味と、聖なる者たちが神の相続人として神から受けるもの、という二つの意味があります。後者は、私たちがいま救いにおいて享受している現在の特権と、聖霊によって保証され、証印を押されている将来の報いとが相続財産であることを暗示します(エフェ1:13、14)。この報いは、「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」のことです(Ⅰペト1:4)。
神の力の絶大な働き(エフェソの信徒への手紙1章19節~21節)
ここまでのパウロの祈りは、知恵と知識、また神の招きと相続財産を悟るように、というものでした。使徒の祈りは今、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか」(エフェ1:19)を悟る必要性に向けられます。
問4
神の特性の一つはその全能性にあります。この神の力はどのように現されていますか。聖句を用いて、いくつか例をあげてください。創2:7、イザ66:22、ルカ1:37、Ⅱコリ5:17、Iテサ4:16参照
パウロはエフェソ1:19で四つのギリシア語を用いて、神の包括的で比類ない力を強調しています[詳訳聖書参照]。まず「、信ずる私たちのうちに働く彼[神]のみ力」という表現中の「力」は“デュナミス”で、計画を達成する内在的な能力を意味します。他の三つは、「その偉大な[“イスカス”]力[“クラトス”]の働き[“エネルゲイア”]」のように用いられています。パウロはほぼ同じ意味の言葉を重ねることによって、神の力が宇宙において達成した御業の、無限にして絶対的な性質を強調しています。“エネルゲイア”は活動とその結果を暗示します。神の力は今も働いています。“イスカス”は固有の力を、“クラトス”は、征服し、勝利する力を暗示します。つまり、パウロは、次のように宣言しているのです。「神の力の絶大さは、神が達成しようと計画されたことのうちに見られる。神は御自分のあらゆる力と能力を用いて働くことによって、また御自分の敵を服従させ、打ち破り、大いなる勝利を収めることによって、それを達成された」。
この神の力の最高の現れが、神が「キリストにおいて達成された」(1:20、改訂標準訳)三つの御業のうちに見られます。
復活「キリストを死者の中から復活させ」(20節)。パウロにとって、神の愛の最高の現れはキリストの死であり(ロマ5:8)、神の力の最高の現れはキリストの復活です(エフェ1:19、20)。
昇天「天において御自分の右の座に着かせ」(20節)。
絶対的支配「すべてのものをキリストの足もとに従わせ」(22節)。キリストは宇宙の主です。
キリストの体なる教会
問5
サタンに対するキリストの最終的な輝かしい勝利について、またキリストと教会との親密な関係について、パウロは何と言っていますか。エフェ1:20~23
パウロの第4の祈りの中で、賛美と嘆願がみごとに溶け合っています。賛美は、キリストの復活と昇天のゆえです。嘆願は、死に対するキリストの勝利と昇天が宇宙的な意義を持つ二つの結果をもたらしたことをクリスチャンが知るようにというものです。
第1に、神はキリストを「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ」られました(エフェ1:21、22)。このことは、キリストがサタンとの大争闘において最終的な勝利を収め、今や万物が彼の支配下にあることを意味します。キリストは公に認められた万物の主です(フィリ2:9~11)。
第2に、神は「キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました」(エフェ1:22、23)。
問6
「教会はキリストの体である」(エフェソ1:23)とは、どういう意味ですか。キリストの体の一部である私たちには、どんな責任が伴いますか。Iコリ12:12~25参照
体の比喩は、教会がキリストと(において)完全に一つであることを強調しています。信者の共同体である教会の存在そのものがキリストの救いの御業に依存しています。教会の始まりも、新天地における教会の目的も、すべてキリストにその基礎を置いています。キリストを離れて、教会はありません。復活された主は宇宙の主、また教会の主です。それゆえ、キリストは教会の頭であり、「教会はキリストの体」(エフェ1:23)なのです。頭であるキリストは教会の権威と使命の源であり、中心です。
キリストの体である教会との親密さと一体性のゆえに、神は教会を、「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」とお呼びになります。それは、キリストがあらゆる祝福と賜物をもって教会を満たしてくださることの完全な保証です(エフェ4:11~16)。キリストの体である教会がキリストに忠実であり続けるためです。
まとめ
人を救う信仰「キリストについて信ずるだけでは十分でない。……キリストそのものを信じなければならない。人を救う信仰は、キリストを受け入れる者が神との契約関係にはいる一つの取引きである。……生きた信仰とは、活力と信頼心とが増し加わり、それによって魂が勝利する力となることを意味する」(『各時代の希望』中巻74、75ページ)。
神の啓示について「神が聖書の中に与えておられる御自身についての啓示は、私たちの研究のためである。私たちはこの啓示を理解するように努力することができる。しかし、それを超えて理解しようとすべきではない。最高の頭脳の持ち主が頭脳を酷使して神の性質を推し量ろうとするかもしれない。しかし、その努力は徒労に終わるであろう。この問題は私たちには解決できるものではない。いかなる人間の頭脳も神を理解することはできない。有限な人間は神を解釈しようとすべきではない。……この点においては、沈黙が雄弁である。全知の神は議論を超越しておられる」(『教会へのあかし』第8巻279ページ)。
教会の頭なるキリスト「キリストとキリストの教会との関係は非常に密接であり、また神聖である。キリストは花婿であり、教会は花嫁である。キリストはかしらであり教会は身体である。したがって、キリストにつながることはキリストの教会につながることになる。……
キリストに忠誠をつくす者には教会の義務を忠実に果たすことが要求される。これはわれわれの訓練の重要な一部分であって、救い主の生命の息の通っている教会にあっては、このことは直接に外部の世界に対する働きに通じている」(『教育』317、318ページ)。
「神を愛しながら、人を愛さないということはあり得ない」(日曜日の学び)。でも私は……。イエス様は大好きですが、私はすべての人を愛しているでしょうか。答えは「ごめんなさい……」。パウロは、人はクリスチャンになったらイエス様と全く同じようになる、とは教えていません。と同時に使徒は、私たちが愛の人に変えられていく秘訣を伝えています。それは「神を深く知ること」(エフェ1:17)です。以前罪の生活をしていたエフェソの人々が変えられたのは、真の神を知ったからです。「自然と聖書は神の愛をあかししています」(『キリストへの道』1ページ)。神様の創造された大自然と御言葉を通して、主ご自身を学ぶことを第一にしましょう。イエス様をもっと深く知り、信じるなら、私でも……。
第5課 神の作品としての教会
第5課 神の作品としての教会
フランスの哲学者ミシェル・フコーは、すべての監獄を打ち壊し、囚人を解放すべきであると唱えました。なぜでしょうか。道徳観念、善悪・正邪の観念などというものは、純粋に人間の考え出したもの、つまり権力の座にある者たちがほかの人間を蹴落とすために作り出したものに過ぎない、と考えたからです。そのような信条を理論化した結果、犯罪という観念ですら人間の考え出したものであるから、すべての囚人は解放されるべきである、と唱えたのでした。
もちろん、これは極端な考え方です。しかし、罪などというものは存在しないし、道徳や善悪の観念ですら単なる一つの意見であって、それ以上のものではない、という考えが至る所に見られることもまた事実です。
当然ながら、使徒パウロはそのような考えとは無縁でした。今回の研究は、希望に満ちた積極的な調子で終わりますが、罪の現実とその必然的な結果としての死の描写をもって始まります(死はとうてい人間の考え出したものとは思われません)。今回は、パウロが罪について、また罪の唯一の解決法について何と教えているかを学びます。
罪のために死んでいた(エフェソの信徒への手紙2章1節~3節)
アダムとエバが神の御心の代わりに自分自身の意志に従うことを選んだときから、罪が人類の運命となりました。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ロマ5:12)。罪は普遍的なものなので(ロマ3:23)、死もまた普遍的です。
問1
Iヨハネ3:4、ヤコブ1:15、イザヤ59:2、ローマ14:23は、罪の性質を理解する上でどんな助けになりますか。
エフェソ2:2、3には、信仰のない人々に関して次のように書かれています。第一に、彼らは「世間一般の人と同じ生き方をし」(2節、リビングバイブル)、神に逆らい、仲間同士で争っていました。世の友となることは神の敵となることであって(ヤコ4:4)、彼らは敵として無知と離反の生活を送っていました。
第二に、彼らは「かの空中に勢力を持つ者」(エフェ2:2)に従っていました。これはサタンのことです。イエスは彼を「この世の支配者」と呼んでおられます(ヨハ12:31)。サタンを神話として片づける人たちがいますが、聖書は彼を実在する者、つまり神の民を食い尽くそうと探し回っている「ほえたける獅子」(Ⅰペト5:8)、「我々の兄弟たちを告発する者」(黙12:10)、人々を神に背かせる者として描いています(エフェ2:2)。
第三に、彼らは堕落した者、「生まれながらの怒りの子」(3節、口語訳)です。罪はすべてのもの、つまり、心、思想、行動、欲望、意志などを堕落させます。したがって、罪は本質的に倒錯したものであって、それ自身のうちに絶えざる矛盾があります。この霊的に堕落し、破綻した性質が罪人を「怒りの子」(3節、口語訳)、神の裁きを受けるべき者とします。
結局のところ、信仰のない人々はどのような状態にあるのでしょうか。彼らは罪のうちに死んでいます。彼らは「肉の欲望」(3節)に従って生きることを選び、神の怒りを受けるべき者となることによって、自らの運命を定めています。彼らの結末を考えれば、彼らは死んでいる死人です。
「しかし、神は……」
パウロは神の偉大な真理を伝達する達人でした。彼はエフェソ2:1~3で、信仰のない人々の憐れむべき状態を描写しています。彼らは罪のうちに死んだ者、サタンの奴隷、肉の欲望の赴くままに歩む者、怒りの子、希望のない見捨てられた者で、自らを救うことができません。しかし、使徒は次の4節で、「しかし、神は……」という劇的な二語を用いて、この憐れむべき運命に代わる輝かしい選択肢を提示しています。
これらの二語は聖書の中で最も美しい言葉と言えるかもしれません。私たちは死んでいた。しかし、神は……。私たちは死の裁きを受けるべき者であった。しかし、神は……。私たちは寄留者であり、異国人であった。しかし、神は……。サタンは勝利を収めるように見えるかもしれない。しかし、神は……。聖書にこの二語がある限り、私たちには希望があります。
問2
次の各聖句の中で、「しかし、神は……」という表現に注目して調べてください。それは私たちにどんな希望を与えてくれますか。詩編73:26、ロマ5:7、8、6:16、17、使徒13:29、30、フィリ2:27
神が私たちを死の定めから救おうとされるのはなぜですか。神が私たちを罪の力から解放しようとされるのはなぜですか。神がアダムとエバを自らの選択のゆえに滅びるままにされなかったのはなぜですか。神が御自分の道を愛し、従う、新しい被造物を創造されなかったのはなぜですか。
第一の理由は、神が「憐れみ豊かな」(エフェ2:4)お方であるからです。憐れみは神の性質に本来備わっているものです。「あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも……ないからである」(申4:31)。「恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに」(詩編106:1)。憐れみは救いの過程できわめて重要なものなので、贖われた者たちは「憐れみの器」(ロマ9:23)と呼ばれています。
第二の理由は、神が「わたしたちをこの上なく愛してくださ」ったからです(エフェ2:4)。神の愛は与える側の神にとっては無我の愛であり、受ける側の人間にとっては不相応の愛です。この愛が、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」に「、その独り子をお与えになった」動機です(ヨハ3:16)。「神の憐れみと愛の賜物は地に生命を与える空気や日光、降り注ぐ雨のように無制限のものである」(『教会へのあかし』第9巻190ページ)。
「キリストと共に生かし」(エフェソの信徒への手紙2章5節)
罪人に対する神の恵み、愛、憐れみについて語るとき、パウロは繰り返し、「豊かな」、「この上なく」、「限りなく」といった最上級の言葉を用いています。このような用法は、かつてはファリサイ派の人間であったパウロが、人間の行いの結果でなく、神の賜物としての救いに最高の価値を認めていたことを示しています。エフェソ2:1~8には、罪人が死から命に移っていく様子がはっきりと要約されています。
問3
エフェソ2:5、6を読み、神がキリストにおいて私たちのために成し遂げてくださる三つのことに注目してください。
ギリシア語では、上記の言葉はそれぞれ「共に」を意味する接頭辞の“スン”をもって始まります。このことから、すべての信者がこれらの祝福をお互いに、またキリストと分かち合っていることがわかります。
まず第一に、神は「わたしたちをキリストと共に生かし」てくださいました(エフェ2:5)。キリストを信じ、キリストと共に死ぬ人たちはキリストの復活の力にあずかる者となり、復活された主と共に霊的に生きるようになります(ロマ6:8~11)。
第二に、神は私たちを「キリスト・イエスによって共に復活させ」てくださいました(エフェ2:6)。キリストによるこの復活には、目的があります。それは、キリストのために生きることです。クリスチャンの新しい生き方はキリストの復活の力をあかしするものです。この力は私たちの生活と品性によって現されます。
第三に、神は私たちをキリスト・イエスによって「共に天の王座に着かせてくださいました」(6節)。クリスチャンの最高の特権はキリストと共に王座に着き、キリストと共に支配することです(Ⅱテモ2:12、黙22:5)。私たちは今でも、全宇宙に対して、神の永続的な愛と正義についての模範となることができます。私たちは今でも、信仰によってイエスと共に生きるときに、イエスと共に「天の」王座に着くことができます。
問4
あなたはどのようにして、キリストにあって「生かされて」いる経験をされましたか。またどのようにしてキリストによって「復活させられて」いる経験をされましたか。あなたは今、イエスと共に「王座に着いて」いる経験をされていますか。
恵みにより、信仰によって(エフェソ2章8節、9節、ローマ3章24節―28節、テトス3章4節―7節)
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェ2:8、9)。
これはパウロの福音を要約しています。その要旨は、恵みが救いにおける神の役割、信仰が人間の応答であり、恵みにより、信仰による救いの経験の全体は神の賜物であって、行いの結果ではない、ということです。
ここで重要なのは、「恵み」と「信仰」です。どういう意味でしょうか。
恵みは神から与えられるもので、私たちの罪からの贖いの基礎です。罪人の私たちは死に値しますが、神は命をお与えになります。私たちは神から、またお互いに離反していますが、神は和解をお与えになります。私たちは罪と裁きの支配下にありますが、神は自由をお与えになります。私たちは神のどの賜物をも受けるに値しません。罪を犯し、神に敵対しているからです(コロ1:21)。この意味において、恵みはしばしば、私たちに対する神の不相応な好意であるといわれます。
恵みは罪人を救うための、神の絶対的主導による行為です。「時が満ちると(」ガラ4:4)、この恵みは十字架上のキリストの行為において現されました。私たちは救いの構想にも執行にも何らかかわりがありません。救いはイエスを「信じる者がだれでも」(ヨハ3:16、新欽定訳)受けることのできる神の賜物です。
問5
コリントⅡの5:18は、恵みの概念を理解する上でどんな助けになりますか。だれが、だれのために和解を達成されましたか。
信仰は、私たちが自分で養える美徳ではありません。それは、神の贖いの御業に対する驚きの応答であり、私たちのうちになされる神の働きを喜んで受け入れることです。人を救う信仰は、自己から神へ、また神の要求に対する否認と無関心から全面的受容へと忠誠心を変えます。信仰は心を開いてキリストの内住を可能にします。したがって、それは肉の心に生まれるものではありません。「信仰は、神の賜物である。しかし、信仰を働かせる力は、われわれに与えられている。信仰は神の恵みとあわれみの招待を、魂が把握する手である」(『人類のあけぼの』下巻35ページ)。
「神に造られたもの」(エフェソの信徒への手紙2章10節)
問6
パウロはエフェソ2:8、9で、私たちが行いによって救われるのではないことを強調しています。ところが、その直後の10節で、私たちは「神の作品であって、良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られた」だけでなく、また「良い行いに歩むように、あらかじめ備えてくださったのです」(新改訳)と言っています。ここに矛盾がないですか。パウロがここで言っていることをどのように理解しますか。
私たちは個々のクリスチャンとして、また信仰の共同体として、その全存在を神の恵みに負っています。私たちはキリスト・イエスにあって創造された神の作品、神の傑作、神の芸術作品です。
しかし、私たちはそのことを誇るべきではありません。パウロも9節で次のように警告しています。「行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」。私たちの行いは、いかに立派で永続的なものであっても、自分自身を救うことはできません。救いにおいては、自己満足は入る余地がありません。神が私たちに求められるのは自己否定、自己放棄だけです。キリストだけが最高のお方として私たちの内にあって支配されるためです。「キリスト御自身が与えてくださる衣だけが、私たちを神の御前に出るにふさわしいものとする。……天の織機によって織られたこの衣には、人間の考案した糸は一本も含まれていない。キリストはその人性において完全な品性を獲得された。彼はこの品性を私たちに分け与えてくださる」(エレン・G・ホワイト『キリストの実物教訓』291ページ)。
クリスチャンは二つの誤りに対して警戒しなければなりません。一つは、神の恵みに自分自身の要素を付加する必要があると考えることです。もう一つは、キリストにあって自由になったから、キリストの要求に従う必要はないと考えることです。パウロの教えはこうです。「確かに、あなたがたは信仰によって救われた。神の無償の恵みによって救われた。しかし、あなたがたは生きるために救われたのだ。あなたがたの信仰経験は信じることから生きることへと移行する必要がある。あなたがたは自分の救いを生活の中で実践しなければならない。それには服従の生活が含まれる。私たちの模範であるキリスト・イエスが恥辱と死に至るまで従順であられたのと同じである(フィリ2:5~12)。しかも、あなたがたの信仰の歩みは個人的な責任においてなされるものであって、ほかの人があなたがたに代わることはできない」。
まとめ
信仰のみによる義
「はっきりさせておかねばならないことは、人間の功績は神のみ前における私たちの立場や神の賜物にいかなる影響も及ぼさないということである。もし信仰や行いによって救いの賜物を獲得することができるのであれば、創造主は被造物に対して義務を負うことになる。ここに、虚偽を真理として受け入れる危険がある。……もし人がいかなる善行によっても救いを得ることができないのであれば、それはひとえに恵みによるものであって、罪人である人間はイエスを受け入れ、信じるゆえに救いにあずかるのである。救いは完全に無償の賜物である。信仰による義認には論争の余地がない」(エレン・G・ホワイト『信仰と行い』19、20ページ)。
実を結ぶこと
「キリスト・イエスにあって新たに造られた者はみたまの実を結びます。つまり『愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制』(ガラテヤ5:22、23)を生じるのであります。もはや、かれらは以前の欲望に従って歩まず、神のみ子を信じてそのみ足跡にならって歩み、そのご品性を反映しながらきよくいましたもうごとくに、自らをきよくするのであります。以前にはきらっていたものを今は愛するようになり、かつて愛していたものはきらうようになります。高慢、不遜な人は、柔和、けんそんになります。軽佻浮薄(けいちょうふはく)な人はまじめに控え目になり、酒に酔う者はそれをやめ、放蕩者は純潔になります。世的なむなしい習慣や流行を追う気持ちはなくなり……ます」(『キリストへの道』75、76ページ)。
救いは行いによるのではない、という言葉のすぐあとに、善い行いについて言われているので、人は動揺します。心配無用。人にとって救いは本当に無料です。代金はすべてキリストが支払ってくださいました。
「安価な恵み、高価な恵み」というボンヘッファーの言葉があります。私は彼を尊敬していますが、この言葉は彼の意図ではなかったにしろ、誤解を与えるかもしれないと思います。恵みは安価どころか、ただなのです。そうでなくては、恵みは恵みではなくなります。
ではなぜパウロはここで善い行いについて言っているのでしょうか。神が私たちに用意してくださった業とは、報いを求めない清い行いです。救いをただで受け取った人だけが、それを行うことができます。自分で頑張って救われた、と思っている人は、善い行いをすることなど決してできません。彼らは、相手に頑張りと報酬を求める汚れた行為しか行うことができないのです。
第6課 隔ての壁のない教会
第6課 隔ての壁のない教会
不可能な可能性
1+1=1あり得ないことでしょうか。いいえ、福音の算数においてはあり得るのです。パウロが教えているように、人間の方程式では不可能なことも、神の力と備えのもとでは可能です。キリストは「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げ」られました(エフェ2:15)。彼はこれを、ユダヤ人と異邦人を含むすべての人類のために十字架上で流された御自分の血によって成し遂げられました。
十字架の力は新しい人類を創造します。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラ3:28)。
個性、性別、文化、人種、民族のあいだに違いはあるかもしれませんが、神の究極の目的はすべての被造物を「キリストのもとに」(エフェ1:10)一つにまとめることです。これらの相違点はすべて、イエスにある一致に取って代わられます。
キリストの外にあって遠い者(エフェソの信徒への手紙2章11節、12節)
2章の前半で、神の恵みが個人に神の無償の救いの賜物をもたらしたと述べた後、使徒パウロは後半の11節から、神がどのようにしてそれまで分裂していた共同体に和解をもたらしてくださったかを明らかにします。
問1
パウロはエフェソ2:11、12で、キリストとかかわりなく生きてきた異邦人はどんな四つの点で無力であったと述べていますか。
ユダヤ人は異邦人のことを軽蔑的な意味を込めて割礼のない者と呼び、自分たちのことを自尊心を込めて割礼を受けている者と呼んでいました。しかし、パウロは、ユダヤ人の割礼も結局のところ、「手による割礼」(エフェ2:11)だったのだから、そのような呼び方は無意味なものだと宣言します。割礼も一時は霊的な意味を持っていましたが、今やキリストにあって心の割礼に取って代わられました。心の割礼はユダヤ人にも異邦人にも等しく与えられている霊的契約です。
問2
パウロがローマ3:1、2、9:3~5であげているユダヤ人の特権とはどんなものですか。パウロがエフェソ2:11~13で述べている異邦人の状態に照らして考える時、これらの特権にはどんな責任が伴いますか。
ユダヤ人とは対照的に、異邦人は神の共同体から締め出されていました。彼らは約束を含む契約にあずかっていませんでした。希望も未来もありませんでした。さらに悪いことに、彼らは「多くの神々」、「多くの主」(Ⅰコリ8:5)を持っていたのに、まことの神を持っていませんでした。彼らが持っていたのは、間違った哲学や忌まわしい快楽、異教の慣習に満ちたこの世界だけでした。これが異邦人の状態でした。多くの点で、これは罪の暗闇の中で、神から離れて生きている人々の状態でもあります。
キリストの内にあって近い者(エフェソの信徒への手紙2章13節)
「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(エフェ2:13)。
しかし、今や、これらの短い二語によって、贖いの歴史を変えるテーマが提示されます。かつての異邦人はキリストとかかわりがなく、神の共同体に属さず、約束を含む契約と関係がなく、希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかし、今や、神はキリストにおいて介入し、異邦人をその悲劇的で憐れむべき状態から解放してくださいました。
イスラエルの選びについて次のように書かれています。「神は人々の間に、神の律法について、また救い主をさし示している象徴と預言とについて知識を残すために、イスラエルを召されたのだった。神は、イスラエルが世に対して救いの井戸となるように望まれた。……彼らは人々に神をあらわすのであった」(『各時代の希望』上巻14、15ページ)。
「遠い」「近い」という言葉は異邦人とユダヤ人の状態を描写しています。律法学者は、イスラエルほど神に近い国民はいないと自負していました。イスラエルに対する神の契約に関する限り、それは真実でした。しかし、「近い」ということは最初に神から光を受ける特権が与えられたゆえに、「遠い」異邦人にあかしする義務を負うという意味に理解すべきものでした。イスラエルはこの義務を果たしませんでした。イザヤは「、遠く」にいる者と「近く」にいる者との距離は消え、両者に平和の訪れる日が来る、と預言しています(イザ57:19)。
パウロにとって、このメシアの日は「キリストの血によって」訪れました(エフェ2:13)。神殿の儀式において、犠牲の血は罪を赦し、ユダヤ人を神のみもとに近づける上できわめて重要な役割を果たしました。パウロの論点は動物の血からキリストの血へと移っています。キリストの血は「新しい生きた道をわたしたちのために開いて」くださいました。私たちが「信頼しきって、真心から神に近づ」くためです(ヘブ10:20、22)。
キリストにあって、距離はなくなります。私たちは近い者となり、天国の市民権、約束、希望、平和を与えられます。
隔ての壁はない(エフェソの信徒への手紙2章14節、15節、ガラテヤの信徒への手紙6章15節)
問4
イエスの血は遠く離れていた異邦人と、近くにいたユダヤ人との距離をなくしました(エフェ2:13)。どのようにしてでしょうか。なぜでしょうか。キリストの流された血はどんな意味で、私たちがみな平等であることを示していますか。ロマ3:20~31、5:12~18参照
これからは、「キリストはわたしたちの平和であります」(エフェ2:14)。ほかのだれでもなく、キリストだけが私たちの平和です。私たちの平和であるキリストは何をしてくださったのでしょうか。
第一に、キリストは「隔ての壁を取り壊」されました(14節)。この壁は、異邦人とユダヤ人を隔てていた宗教的、社会的、政治的な障壁を意味しています。しかし、キリストは全人類の罪のために死ぬことによって、神と人との間に、また人と人との間に平和をもたらされました。前者は、神がすべての人を等しく愛されることを宣言しています。後者は次のことを要求します。キリストにおいては、「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラ3:28)。
第二に、キリストは「御自分の肉において敵意という……規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(エフェ2:15)。パウロがここで語っている律法については議論がなされてきましたが(道徳律か礼典律か)、パウロがここで言っていることは、ユダヤ人と異邦人を隔てていた一切のものがキリストによって取り除かれた、ということです。今や、すべての人はキリストにあって一つです。キリストは平和をもたらされました。それゆえ、パウロは言います。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラ6:15)。
第三に、キリストは「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて」くださいました(エフェ2:15)。これが福音の算数、つまり1+1=1ということです。不可能が可能となるのです。ユダヤ人もなく、異邦人もなく、あるのはただ新しく創造された者だけです(Ⅱコリ5:17)。そのとき、人々の立場は身分や皮膚の色、性別や国籍によってではなく、十字架のキリストとの永続的な関係によって規定されるようになります。
和解と接近(Ⅱコリ5章17節~19節、エフェソ2章16節~18節、コロサイ1章20節~22節)
問5
あなたは、上記の各聖句に記された和解をどう理解しますか。
私たちはキリストにあってなんと大いなる特権を与えられていることでしょう。寄留者は市民となりました。希望のない者たちは希望を受けました。神を知らなかった者たちは神を知りました。隔ての壁は取り除かれました。新たに造られた一致が現れました。キリスト御自身が私たちの平和となられました。パウロはエフェソ2:16~18で、キリストの御業が現実的で完全なものであることについて詳しく述べています。
第一に、この平和は現実的なものです。なぜなら、キリストはユダヤ人と異邦人を「一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされ」たからです(エフェ2:16)。キリストは和解不可能であったユダヤ人と異邦人を和解させられました。それは、異邦人のために便宜を図るようにユダヤ人を説得することによってでもなければ、異邦人をユダヤ人の宗教に改宗させることによってでもありませんでした。むしろ、キリストは両者に共通の問題、つまりあらゆる敵意の原因である罪の問題を解決することによって、ユダヤ人と異邦人を和解させられました。キリストの十字架はユダヤ人と異邦人を神に和解させました。そして、この和解は「一つの体」、つまり隔ての壁のない教会における彼らの一致の基礎となりました。
第二に、パウロはこの平和の完全さを次のように強調しています。「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(18節)。ここに、三位一体の神、すなわち父なる神、御子、聖霊が神と人、また人と人の間に和解と平和をもたらす働きに参加しておられるのを見ます。それだけではありません。ユダヤ人と異邦人が一つの聖霊を通して神に「近づく」ことができます。礼拝においても、交わりにおいても、もはやユダヤ人と異邦人を隔てる壁はありません。
キリストを通して、異邦人もユダヤ人も、すべての信者が等しく神の御前に出ることができます。遠く離れていた寄留者も、近くにいた市民も、共に同じ聖霊によって神の謁見室に招き入れられるのです。このように、キリストにある平和と和解は完全なものであり、現実のものです。
「神の家族」(エフェソの信徒への手紙2章19節―22節)
悲しみから喜びへ。疎外から交わりへ。異邦人とユダヤ人から一つの新しい人類へ。キリストの救いの働きはこれらすべてを達成しました。今、使徒パウロは信者を新しい身分へと導きます。エフェソ2:19~22は彼らの身分に伴う三つの特徴をあげています。
第一は、市民権です。キリストとかかわりがなかったとき、異邦人は寄留者であり、外国人であり、「イスラエルの民」に属していませんでした(エフェ2:12)。しかし、キリストにあって、彼らは「聖なる民に属する者」(19節)となりました。クリスチャンは神の国の市民です。
神の王国には二つの側面があります。恵みの王国は、人が自分の罪を悔い改めて、キリストによる救いを受け入れるそのときに実現します。栄光の王国は、キリストが御自分の聖なる者たちを御国に集めるために再臨されるときに実現します。第一の王国の市民にならないで、第二の王国の市民になることはできません。
第二は、神の家族になることです。クリスチャンは市民であり、神の家族です。
「家族」という言葉は親愛、平等、尊厳に満ちた関係を連想させます。両親と子供の関係は疎遠で、空虚な関係ではなく、愛によって支配される温かく、親密な関係です。彼らはお互いに、また家族全体に対して義務を負います。神の家族である教会においても、同じことが言えます。パウロによれば、教会は「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身で」す(エフェ2:20)。キリストを唯一の土台として据えた人(Ⅰコリ3:11)は、人間の土台を据えることはできません。かなめ石であるキリスト(Ⅰペト2:6参照)は家の各部分を支え、家に力と統一を与えています。
第三は、神の神殿であることです。すべての信者が神にあって一つになり、互いに離反していた人々が一つになるのは、「霊の働きによって神の住まい」(エフェ2:22)、つまり神の聖所となるという最終的な目的のためです。隔ての壁のない教会は神の聖なる神殿となります(Ⅰコリ3:16)。
まとめ
偏見と不和
「1800年前に[本書の執筆当時から数えて]人々とキリストとの間をさまたげていた勢力は今日も働いている。ユダヤ人と異邦人との間のへだての壁を築きあげた精神は、いまも生きている。誇りと偏見のために、異なった階級の人々の間に頑固なへだての壁が築かれてきた。キリストとその使命はまちがって解釈され、一般の人々は、自分たちは事実上福音の働きからしめ出されていると思っている。だがキリストからしめ出されていると彼らに思わせてはならない。人間やサタンが築くことのできる壁で信仰によって突破できないものは一つもない」(『各時代の希望』中巻163ページ)。
「神は差別的階級制度を憎まれる。神はこの種のものをすべて無視される。神の御目には、すべての人の魂は同じ価値がある。……年齢、地位、国籍、宗教上の特権などの区別なく、だれでもみな神のもとに来て生きるように招かれている」(同164ページ)。
日本に、「新しい人」(エフェ2:15)というパウロの言葉に強く影響された人がいます。ノーベル文学賞を受賞された大江健三郎氏です。「私はただ、十字架の上で死なれた、そして『新しい人』となられたイエス・キリストがよみがえられたということを、つまり再び生きられて、弟子たちに教えをひろめるよう励まされたということを、人間の歴史でなにより大切に思っています」(「『新しい人』の方へ」[朝日新聞社]、179ページ)。キリスト者ではない大江氏がこのように書いていることに、大きな驚きと喜びと励ましを感じます。
彼は次の言葉で本文を締めくくっています。「敵意を滅ぼし、和解を達成する『新しい人』になってください。『新しい人』をめざしてください。『新しい人』になるほかないのです。……十字架にかかって、生きかえった人は、この2000年でただひとりです。そしてこれからの新しい世界のための『新しい人』は、できるかぎり大勢でなくてはならないのです」(181ページ)。
大江氏は、「新しい人」になるための「教育」あるいは「自己教育」を強く勧めています(179、180ページ)。パウロは、どうしたら「新しい人」になることができると教えているでしょうか。それは、キリストを信じることによってです。これしか方法はありません。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(コリント第二5:17、口語訳)。
第7課 神の秘められた計画
第7課 神の秘められた計画
パウロは聖霊の導きのもとで、キリストが教会に確立された独特の一致についてすでに書き記しています。パウロ以前の著者たちも一致について書いてはいますが、それはさまざまな階級、民族、国籍における一致ではなく、ある特定の集団における一致についてでした。異なった階級、民族、国籍における一致は当時の世界には決して見られないものでした。しかし、パウロが書き記している異なった種類の一致はキリストから来るものでした。
パウロの言葉はそこで終わっているのではありません。彼はユダヤ人と異邦人からなる教会について、また主がこの教会を通して成し遂げてくださることについて書き記しています。さらに、パウロはイエスの犠牲を通して多くのことを成し遂げてくださった神の愛に読者の心を向けさせています。
秘められた計画の内容(エフェソの信徒への手紙3章1節~6節)
問1
次の聖句を読んでください。それらは、パウロがこの一致を秘められた計画と見なした理由を理解する上でどんな助けになりますか。申14:2、マタ10:5、ヨハ4:9、使徒10:26~28、ガラ2:11~14
新約聖書に用いられている「奥義」とは、何らかの隠された秘密のことではなく、それまで知られていなかったことで、神がふさわしい時期に聖霊によって啓示された真理のことです。パウロはこのような啓示を受けることについて語っています(エフェ3:3)。バークレーは次のように述べています。「大いなる神の秘義が[パウロに]啓示された。この秘義とは、神の愛と憐れみと恵みがユダヤ人だけでなく全人類のためのものであるということであった。……当時の世界にあっては、障壁は完璧であった。神の特権がすべての人に及ぶと考えたことのある人はだれひとりいなかった」(ウィリアム・バークレー『ガラテヤの信徒、エフェソの信徒ヘの手紙』122、123ページ、1976年)。
何年も前、アメリカの愛国者トマス・ジェファーソンは、「我々はこれらの真理を自明の真理と信じる。すなわち、すべての人は平等に造られ……」と記しましたが、歴史はこの思想が「自明の真理」とほど遠いものであったことを示しています。それどころか、どの時代でも、さまざまな集団が自分たちこそほかの国民や民族よりも偉大で、優れていると信じていました。この考えがあまりにも深く染み込んでいたために、神の啓示を通して教えられていたはずの昔のイスラエル人でさえ、この自己優越感に染まっていました。このようなわけで、パウロほどの聡明で、勤勉で、学識のある人間でさえ、この生まれながらの偏見を取り除くためには神の啓示を必要としたほどです。
パウロにとって、ユダヤ人と異邦人が一つになるという考えは信じがたいものだったので、彼はそれを「奥義」と見なしたのです。パウロがなぜそのように考えたのかは、現代の私たちにとってはむしろ理解しがたいことです。というのは、現代にあっては、このような民族的、国民的、文化的優越感を抱くことは、あることはあっても、良くないことだと見なされているからです。たとえ国籍や人種、文化のゆえに優越感を抱くようなことがあっても、そのような考えを表に出すことは非常に不謹慎なことと考えられています。したがって、ユダヤ人と異邦人の間の一致という考えがパウロにとっていかに過激なものであったかを理解するためには、ある程度、パウロの時代の思考様式を理解する必要があります。
秘められた計画の証拠
問2
パウロは異邦人に福音が伝えられることを「秘められた計画」と呼んでいますが、この約束の証拠は旧約聖書のあちこちにちりばめられています。次の聖句は、神があらゆる国民に宣べ伝えられるという真理について何を教えていますか。創18:18 、イザ56:3~8、エレ16:19、イザ42:6、イザ49:6、イザ60:3、ゼカ8:23
悲しいことですが、民族的、文化的、宗教的偏見が人間の心を支配することは事実です。パウロは、上にあげるような数々の聖句を知っていたにもかかわらず、異邦人も神の真理に導かれることを「秘められた計画」と考えていました。繰り返しになりますが、異邦人も神を知るという思想は、その大部分が異邦人である今日のクリスチャンにとってはごく当たり前のことかもしれません。しかしながら、パウロと同じ背景・教育の中で育った人たちにとって、この思想を理解することは根本的変革を求められるので、容易ではありませんでした。
それでも、私たちは驚くには及びません。福音は私たちに、敵を愛するように(マタ5:44)、迫害する者のために祈るように(44節)、右の頬を打つ者には左の頬をも向けるように(39節)、悪をもって悪に報いないように教えています(Ⅰペト3:9)。つまり、福音の要求の多くは根本的変革を迫るもの、私たちの基本的性格に反するもの、心のうちに深く染み込んだ文化的、民族的、政治的偏見に逆らうものです。もしイエスがどこかで私たちの足を踏みつけておられなかったなら[つまり、私たちの領域に踏み込んでおられなかったなら]、おそらく私たちはイエスにお会いしていなかったはずです。
教会によって(エフェソの信徒への手紙3章9節~13節)
「こうして、いろいろな働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが……」(エフェ3:10)。
問3
上記の聖句(エフェ3:10)を読んでください。パウロはこの聖句の中でどんな驚くべきことを述べていますか。
問4
エフェソ3:9~13を読んでください。パウロは9節でどんな主題を救いの計画と関連づけていますか。この主題はどれほど重要なものですか。
私たちはキリストにあって新しく創造された者です(ガラ6:15、エフェ4:24、Ⅱコリ5:17参照)。私たちはまた神御自身によって造られた教会の一部です。神は私たちを創造されました。神は私たちを再創造されます。神はまた教会を造られました。新しく創造された私たちはこの教会の一部です。神の知恵が宇宙に啓示されるのは、神の似姿に再創造された者たちからなるこの教会を通してです(エフェ3:10)。
神によって造られた新しい共同体である教会は、神の力と恵み、「知恵」を宇宙に知らせる展示物となります。神の知恵は、「神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画」に従って、サタンの勢力を打ち破りました。もし神が被造物を通して御自分の力を私たちに啓示されるとすれば、神が堕落した天使と堕落しなかった天使を含む「天上の支配や権威」(10節)に御自分の知恵と正義を啓示されるのは新しい被造物を通してです。
「この世界ばかりでなく全宇宙にも、私たちは神の王国の原則を現すのである」(『教会へのあかし』第6巻13ページ)。
エフェソ3:10は大争闘の争点を別の観点から明らかにしてくれます。全宇宙の知的存在者たちは私たちの世界の運命に深い関心を寄せています。さらに驚くべきことに、この聖句によれば、神は教会を通して御自分の「知恵」をこれらの知的存在者たちに知らせようと計画しておられます。
「だから」
エフェソ3:12にあるすばらしい約束に注目してください。パウロによれば、私たちはイエスを通して神御自身に近づくことができます。イエスがヨハネ10:9で「わたしは門である」と言われたのはこの意味においてです。アダムは初め、神に自由に近づくことができました。しかし、神に背いた結果、園の木々の間に身を隠すようになりました。もはや良心のとがめなしに神にお会いすることができなくなったからです。しかし、贖われた結果、人間は再び恐れや制限なしに、また司祭や聖人、儀式といった仲介者なしに、直接、大胆に神に近づくことができるようになりました。神はキリストの功績を通して、信頼する魂に直接、近づいてくださいます。
問5
次に、パウロは「だから」という言葉をもって13節を書き始めています。ギリシア語原語には「~という理由で」という意味もあります。つまり、パウロはここで、エフェソの信徒に「~という理由で」自分のことを心配してもらいたくない、と言っているのです。それはどんなことを意味していますか。
(1)異邦人が今やキリストの体に属しているゆえに、(2)永遠の計画がイエスによって実現しているゆえに、(3)神の知恵が宇宙に啓示されているゆえに、そして(4)私たちが神に自由に近づくことができるゆえに、福音を伝えたという理由で自分が苦しみにあったとしても、心配しないでほしいと、パウロは読者に語りかけています。
言い換えるなら、パウロは次のように言っているのです。「私自身のことや、私の試練のことは気にしないでほしい。むしろ、神がイエス・キリストを通して世のために成し遂げてくださった大いなる御業についての福音に心を留めなさい。この福音は私の苦しみにまさるものです」。
キリストの愛を知る(エフェソの信徒への手紙3章14節~21節)
問6
パウロの祈り(エフェ3:14~21)を繰り返し読み、わかりやすく言い換えてください。彼はどんなことを祈っていますか。このような祈りをささげているのはなぜですか。
パウロは、キリストがエフェソの信徒の心に住んでくださるように祈っています。
「住む」にあたるギリシア語は“カトイケーン”で、永久に住むことを暗示します。キリストは来客ではなく、私たちの生活の一部です。
キリストの内住によって、内なる人が強められ、それによってキリストの愛の広さ、長さ、深さ、高さを理解する力が与えられるように、とパウロは祈っています(エフェ3:18、19)。パウロは理解できないことを理解するように祈っていますが、そのような力が絶えず神の愛について瞑想することから来ることを知っていました。クリスチャンは、自分たちがどれほど大いなる愛をもって祝福されているかを知る必要があります。キリストの愛は幾何学的に測定することのできないものですが、地球を取り囲み、すべての罪人に到達するほど広いものです。それは神の謁見室に至るほど高いものです。それはサタンの深淵を探り、キリストに助けを求める罪人を闇から引き上げ、神の光の下に立たせるほど深いものです。それは「天地創造の前」(エフェ1:4)から、その愛が聖なる者たちの研究の主題となる終わりのない時代に及ぶほど長いものです。それは、「人の知識をはるかに超え」、すべての信者を「神の満ちあふれる豊かさのすべて」で満たす愛です(エフェ3:19)。
「神の満ちあふれる豊かさ」という表現は約束に満ちたもので、『エフェソの信徒への手紙』と『コロサイの信徒への手紙』に出てきます。それは、神が無限のお方であることを意味しています。神は、「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」です(20節)。豊かな恵み、測りがたい愛、限りない恵み、無限の力の持ち主である神は、「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えて」、天のすべての富を与えてくださいます。神の栄光が、「教会により、……世々限りなくあ」るためです(20、21節)。
まとめ
神に近づく
「私たちはキリストの御名の功績によって神に近づくことができる。神は私たちに、自分の試練や誘惑を持って神のもとに来るように招いておられる。神はそれらすべてを理解されるからである。神は、私たちが自分の悩みをほかの人に語るのをお望みにならない。キリストの血によって、私たちは恵みの御座に来て、必要なときの助けとなる恵みを見いだすことができる。……この世の親が自分の子にどんなときでも親のもとに来るように促すように、主は私たちに自分の欠乏と悩み、感謝と愛を御自分のもとに置くように促される。すべての約束は確実である。イエスは私たちの保証また仲保者であって、あらゆる富を私たちの掌中に置いてくださる。私たちが完全な品性を養うためである。永続的な効力を持ったキリストの血は私たちのただ一つの希望である。キリストの功績を通してのみ、私たちは赦しと平安を得ることができるからである」(『SDA聖書注解』第6巻1116ページ、エレン・G・ホワイト注)。
エフェソ3:14~21は、パウロの切なる祈りを伝えています。「ひざまずいて祈ります」(14節)という言葉は、この祈りが、彼が捧げた祈りの中で特に重要なものであったことを示しています。パウロの願いは、エフェソの人々が「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされ」「、愛にしっかりと立つ者」となることでした(19、14節)。
「しっかり!」は、家庭や社会でよく聞く言葉です。私も何回となく「もっと、しっかりしてよ」と言われたものです。今も、ですが……。私たちはどうしたら「しっかり」できるのでしょうか。パウロは、自分の力で強くなれ、とは教えていません。使徒は、神の力が、人を強くする、と信じていました(16、20節)。
彼はもう二つ、しっかりした者になる秘訣を挙げています。それは「信仰」と「キリストの愛」を知ることです(17、18節)。どんなに弱く見えても、イエス様の愛を単純に信じる人ほど「しっかり」した人はいません。「信仰」は、頑張って信じるのではありません。信頼は、愛されることによって生じます。ですから、一番大切なことは、キリストの愛を知ることです。「もう、イエス様の愛はわかっている」などと言える人など一人もいません。それは、「人の知識をはるかに超え」ているからです(19節)。牧師・信徒が一致して、安息日学校、礼拝、祈祷会、日々の生活の中で、「キリストの愛を深く知ること」を第一にして祈り求めるなら、私たちはパウロと共に、神を力強く讃美するようになるでしょう(20、21節)。
第8課 多様性の中の一致
第8課 多様性の中の一致
ちょうど『エフェソの信徒への手紙』の中間点に到達しました。前半の3章は人間のあらゆる分裂を解決する一致の神学について述べています。後半の3章は、この一致がクリスチャンの人生においてどのような実際的意味を持つかについて教えています。つまり、パウロは神学から実践へ、注解から勧告へ、神の御業から私たちのなすべき務めへと話題を転換しています。私たちの神学は道徳を導き、私たちの道徳は神学を反映したものでなければなりません。
今、パウロの関心はキリストの秘められた計画という大いなる神学的洞察に従った生き方に向けられています。ユダヤ人と異邦人の一致は決して神話ではなく、実際的な問題であって、神の「招きにふさわしく歩」むことを要求します(エフェ4:1)。
ふさわしく歩む(エフェソの信徒への手紙4章1節―3節)
問1
パウロは初めの3章で、おもに神がキリストにあって完成してくださったことについて述べました。彼は今、私たちの「招きにふさわしく歩む」ように教えています。また、その方法について教えています。クリスチャンの品性の基礎である五つの恵みは何ですか。それぞれの恵みはどんなことを意味しますか。エフェ4:2、3
謙遜 ローマ人やギリシア人にとって、謙遜は弱さのしるしでした。しかし、クリスチャンにとっては、それは強さの源です。謙遜は高慢の反対です。高慢は分裂の元ですが(天におけるルシファーがその例)、謙遜はイエスの受肉と十字架に見られるように和解の中心です(フィリ2:2~8)。
柔和は教会の一致に欠かせないものです。それは自己主張をしないことです。挑発されても、それに乗らないことです。柔和な人たちは地を受け継ぎます(マタ5:5)。
寛容の心は神御自身の特性です。神は、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(Ⅱペト3:9)。寛容とは苦難を耐えること、悪に報いないこと、断絶した関係を希望をもって修復を続けることです。
互いに忍耐するとは、互いに忍び合うこと以上に、互いに相手を理解し、すすんで赦し、受け入れることです。
これらの恵みはすべて愛に根ざしています。この愛を積極的に実践することによって、人間関係が保たれ、教会と社会に平和と一致がもたらされます。
一致の必要性(エフェソの信徒への手紙4章4節~6節)
問2
エフェソ4:4~6を読んでください。これらの聖句はどんな重要な一つのテーマについて述べていますか。
エフェソ4:4~6は聖書の中でも最も壮大な部分の一つです。その力強い構成、雄大な文体、一致の基礎を神の満ちあふれる豊かさに置いているところなどは特筆に値します。一致がクリスチャンに欠かせないものであることは、疑問の余地がありません。クリスチャンの信仰と生活のすべてが一つだからです。
クリスチャンに一致を要求されるのは神です。一人の神が一人のキリストを通して私たちを罪から贖い、私たちに一つの信仰を与え、私たちを一人の聖霊を通して再生させ、私たちを一つのバプテスマを通して一つの体の各部分とし、私たちに一つの永遠の希望をお与えになりました。
一致に関連してこの七重の定式について研究しようとするなら、もう一つの重要な要素に注目する必要があります。それは、三位一体の神が教会の一致にかかわっておられるということです。このことは『エフェソの信徒への手紙』の精神と一致します。なぜなら、この手紙はしばしば、三位一体の神が贖いの歴史にかかわっておられることを強調しているからです。
父なる神は、「唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(エフェ4:6)。神はすべてにおいてすべてとなられます。
子なる神は、「信仰の創始者また完成者」(ヘブ12:2)、「栄光の希望」(コロ1:27)、キリストの体である教会の土台です。
聖霊なる神は、私たちを新生の経験とバプテスマに導いてくださるお方です(Ⅰコリ12:13)。
「エフェソ4章には、神の計画がはっきりと平易に啓示されているので、神の子らはみな真理を理解することができる。ここには、神が御自分の教会に一致を保つために定められた方法がはっきりと示されている。教会員が健全な宗教経験を世に現すようになるためである」(『SDA聖書注解』第6巻1117ページ、エレン・G・ホワイト注)。
多様な賜物(エフェソの信徒への手紙4章7節―11節、コリント人への手紙Ⅰ 12章28節―31節)
パウロはエフェソ4:6で神について、「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」と述べています。私たちがみな同じ父を持っていることを強調することによって、教会の一致が強調されています。ところが、7節で、「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」と述べています。すべての人が同じ賜物を、同じ程度受けているわけではありません(11節)。このように、パウロの関心は「すべてのもの」(6節)から「一人一人」(7節)へ、そして教会における一致から多様性へ移っています。多様性は分裂を意味するものではありません。むしろ、種々の賜物があってしかるべきであり、それらの賜物が教会の一致のために用いられるべきであるという意味です。要するに、私たちは種々の賜物を分け与えてくださる同じ聖霊によって、神の教会の強化・育成のために働くことができるということです。
問3
エフェソ4:7~11は、神の賜物について何を教えていますか。
キリストは「高い所に昇るとき」(8節)、信じる者たちに賜物を与えられました。つまり、キリストは天に昇ったとき、地上に聖霊を注がれました。では、9節の「『昇った』というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか」は、どのように理解したらよいのでしょうか。「昇る」と「降りる」の対比は空間的なものではなく、神学的なものです。キリストが神のみもとに昇られたことが、最大の恥辱である十字架にまで降りられたことと対比されているのです(フィリ2:5~11)。キリストは十字架と昇天における勝利の記念として、教会に種々の賜物をお与えになりました。これらの教会員はキリストが暗黒の君から奪回されたものです。サタンに勝利し「、もろもろの天よりも更に高く昇られた」(エフェ4:10)ことによって、キリストはすべてのものを満たしておられます。キリストは宇宙の主ですが、なおも地上の教会と密接な関係を保ち、御自分の賜物をもって教会を満たしておられます。
奉仕の業に適した者とされる(エフェソの信徒への手紙4章12節、13節)
問4
パウロは今、エフェソ4:12で、主がご自分の教会に賜物を与えられた理由を二つあげています。それらは何ですか。それらは互いにどんな関係にありますか。
第一の理由として「、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ」とあります。「適した者とされる」を意味するギリシア語は、たとえば破れた網を繕ったり(マタ4:21)、折れた骨をつないだりするように、何かを「修復する」を意味する言葉から来ています。したがって、「聖なる者たちは……適した者とされ」とは、彼らを召された奉仕のために準備し、訓練することを意味します。
それでは、だれが教会の牧者なのでしょうか。新約聖書によれば、すべてのクリスチャンが牧者であって、主御自身から、行って、すべての民を弟子にし、彼らにバプテスマを授け、教えるように命じられています(マタ28:18~20)。牧会の働きは特権を与えられた少数の人たち(牧師)にではなく、キリストの御名を告白するすべての人にゆだねられています。クリスチャンの働きは人対人、一対一の働きです。教会員はだれひとりこの働きから除外されませんし、牧師はだれひとりこの働きを占有しません。
賜物が与えられている第二の理由として、「キリストの体を造り上げてゆき」(エフェ4:12)とあります。教え、説教、伝道、いやし、助言、訪問、慰め、助けといった賜物はどれも、個人的な目的のために与えられているのではありません。それらは全体の利益、教会の成長のために与えられているのであって、皆のためにそれを用いない者は全体からそれを奪っているのです(マタ25:24~30)。教会員が互いに愛し合い、周囲の社会にキリストの恵みと愛を伝えるときにのみ、教会は成長します。教会員の働きは、キリストの救いのメッセージが全世界に伝えられる日を早めます。教会はこのようにして、「信仰と知識において一つのものとなり……キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長」します(エフェ4:13)。キリストによって満ちあふれる人は、キリストを知らない人がいるのを見ると、黙っていることができません。これが伝道の動機です。
キリストにあって成長する(エフェソの信徒への手紙4章14節―16節)
エフェソ4:12、13によれば、霊的賜物が与えられているのは聖なる者たちを教会の働きに適した者とするためだけでなく、彼らを「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで」導くためでもあります。キリストのもとに来て、あらゆる分裂を超えた一致を体験し、働きに適した者となるだけでは十分ではありません。クリスチャンはキリストにあって成長しなければなりません。14~16節には、そのような成長にともなう特徴が概略されています。
問5
エフェソ4:14には、「わたしたちはもはや子供ではないので」(口語訳)とあります。マタイ18:3のキリストの言葉と矛盾しませんか。
神が私たちに求められるのは、子供のように素直なことであって、子供のように未熟なことではありません。神が私たちに期待されるのは「、幼子のことを棄て」ること(Ⅰコリ13:11)、また大人として成熟し、霊的なことと世的なことを識別し、乳の代わりに固い食物をとるようになることです(同3:2)。
問6
パウロはエフェソ4:14で、ほかに何を警告していますか。
確固不動であることには、信仰を失わないこと、真理と虚偽とを選別すること、真理を持っていると主張する者たちのだましに乗らないことが含まれます。それには、神の御言葉にしっかりと根ざしていることが要求されます。悪賢い人間の変わりやすい教えに翻弄される時にも(エフェ4:14)、神の「証し」(イザ8:20)にしっかりと立つためです。
パウロはまた、「愛に根ざして真理を語」るように、と言っています(エフェ4:15)。それは真理を行うこと、愛をもって真理を行うことです。教会は福音を異端と識別しなければなりませんが、そのときでも真理は愛をまとっていなければなりません。「愛によって和らげられていない真理は固くなる。真理によって強められていない愛は弱くなる」(ジョン・R・W・ストット『エフェソの信徒への手紙』172ページ)。
最後に、究極的な成長のしるしは真心からキリストに献身し、従うことです。私たちはキリストの体です。体の各部分とその働きはキリストにつながっていなければなりません。
まとめ
霊的な賜物
「福音の事業を力のないものにしているのは、この聖霊の欠乏である。学識、才能、弁舌など、先天的、後天的ないっさいの資質が備わっていても、神の霊の臨在がないならば、人の心に触れることも、罪人をキリストに導くこともできない。その反面、どんなに貧弱で無知な弟子であっても、キリストと結合し、聖霊のたまものを所有しているならば、必ず人びとの心に触れる能力をもつことができる。神は彼らを用いて、宇宙間の最高の感化を及ぼす器となさるのである」(『キリストの実物教訓』302ページ)。
クリスチャンの成長
「種の発芽は、霊的命の発生を示し、作物の成長は、クリスチャンの成長の姿を美しく象徴している。自然界と同様に恩恵の世界でも、成長がみられなければ命があるとはいえない。作物は、成長するか、枯れるかのどちらかである。作物は、黙々と、人知れず生長し続けるが、クリスチャン生活の成長もそれと同様である。成長中のどの段階においても、わたしたちの生命は完全であり得るのである。しかし、神がわたしたちのために備えられた目的を達成するためには、継続的に前進する必要がある。……次第に重い責任を負うことができるようになり、特権が与えられるにつれて、ますます円熟するのである」(同45ページ)。
エフェソ3~4章は「神の御業から、私たちのなすべき務めへと話題を転換しています」(安息日午後の学び)。ローマ11~12章でも、同様な移行が見られます。このことから、パウロの確信を知ることができます。それは、主に喜ばれる生活の基盤は神の御業である、ということです。エフェソ1~3章がなければ、4章で勧められている一致に至ることなど、決してできません。ローマ1~11章がなければ、12章の愛の実践は不可能です。教会は、このパウロの確信をしっかりと理解しなければなりません。
エフェソ4章から読み、一致を目指しましょう、と勧めるのは、パウロの意図を無視しています。ローマ12章だけを読み、それを実践できると考えるのは、「神の御業なしでは私たちは正しい行いをすることはできない」という使徒の確信を理解していないことになります。一致や善い行いを勧める時は、まず最初に神の業を力強く証ししましょう。これは、すべての説教、聖書研究、お勧めで強調されなければなりません。パウロがこのように考え教えているのですから、私たちも同じようにしなければなりません。
第9課 新しい生き方
第9課 新しい生き方
クリスチャンの一致についてのパウロの実際的な教えは、「その招きにふさわしく歩み」(エフェ4:1)という、ユダヤ人と異邦人のクリスチャンへの招きをもって始まっています。このような歩みには、いくつかのことが要求されます。一つは、多様性の中にあってキリストの体としての一致を保つことです(1~13節)。もう一つは、今回の研究で扱うテーマですが、新しい生き方をすることです。これは、パウロが語っている一致を保つ上で欠かすことのできないものです。
この新しい生き方は古い生き方の修正でも改良でもありません。それは根本的な変革であって、考え方、品性、価値観、人間関係、動機において古い価値観を否定すること、全く新しい生き方を選ぶことです。それは死から命に移ることです。所有者がサタンからキリストに変わることです。
古い生き方を捨てる(エフェソの信徒への手紙4章17節~22節)
「招きにふさわし」い生き方(エフェ4:1)は、前回の研究でも学んだように、一致と成長に満ちた生き方であるだけでなく、新しい生き方でもあります。この新しい生き方には、否定的な面と肯定的な面があります。否定的な面の第一は、「古い人を脱ぎ捨て」ることです(22節)。クリスチャンの生き方は過去ときっぱり手を切ることから始まります。パウロはエフェソの信徒に、「異邦人と同じように歩んではなりません」と言っています(17節)。彼はローマの信徒に対してはもっと強い言葉を用い、「罪に支配された体が滅ぼされ」るために、古い自己を十字架につけるように求めています(ローマ6:6)。
問1
エフェソ4:17~24にあげられている古い人の特徴をあげてください。ローマ3:10~18と比較してください。パウロはここで人間性全般についてどんなことを言っていますか。それらを1900年後の今日と比較してください。
パウロがここで、「暗くなり」、「無知」、「心のかたくなさ」という表現を用いてエフェソの人々の道徳的状態を描写していることに注目してください。彼らの頭脳は罪のゆえに霊的真理を理解することができませんでした。その結果、彼らの人生は自分自身や無価値な偶像、むなしい哲学の中に神を求めることに浪費されたのでした。彼らは非現実的な教えにふけり、霊的無知の中で生きていました(エフェ4:18、ローマ1:19~21)。道徳的感受性が鈍っていたため、善と悪を識別することができませんでした。肉の楽しみ、とりわけ不道徳で常軌を逸した行為が彼らの娯楽となりました。彼らは、「無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません」でした(エフェ4:19──ロマ1:26~32参照)。
これが彼らの生き方、つまり異邦人がキリストのもとに来る以前の、古い人の生き方でした。このようなわけで、パウロは信じる者たちに、決して古い生き方に逆戻りしてはならない、と戒めているのです。
新しい人を身につける(ローマの信徒への手紙12章1節、2節、エフェソの信徒への手紙4章20節―24節)
問2
「古い人を脱ぎ捨て」と言った後で、パウロはエフェソの信徒に何と勧告していますか。エフェ4:22~24
キリストを受け入れたとき、エフェソの信徒は異邦人としての古い生き方を捨てました。しかし、捨てるだけでは十分ではありません。キリスト教は否定形の宗教ではありません。それは信じる者たちに、より高い道徳的、霊的境地にまで達するように期待します。そこで、パウロは強く勧めています。「心の底から新たにされて、……新しい人を身に着け……なければなりません」(エフェ4:23、24)。古い人の生き方の特徴が無益な心であるとするなら、新しい人の生き方の特徴は新たにされた心です。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき……なさい」(ロマ12:2)。
問3
信じる者たちはどのようにして心を新たにされますか。ロマ12:2、Iコリ2:9~16、フィリ4:8、9
パウロは異邦人のむなしい、無知な、罪深い生き方について描写した後で(エフェ4:17~19)、異邦人がキリストに来たときにそのような生き方を捨てるように教えられたはずである、と言っています。パウロは、「学んだ」、「聞いた」、「教えられた」という三つの言葉を用いることによって、エフェソの信徒が救いと新生の力をすでに十分に知っていることを強調しています。この真理はいかなる人間的な源からでもなく、イエス御自身から来ていました(エフェ4:21)。パウロがイエスという名前を使っているのは偶然ではありません。彼は歴史上のイエス、つまり人となり、十字架につけられ、復活し、昇天されたイエス御自身が真理であること、イエス御自身がその真理の啓示者(ヨハ14:6)であることを知ってほしかったのです。
新しい生き方をする(エフェソの信徒への手紙4章25節~29節)
パウロは決して尊大な理論家ではありません。彼はあるときは私たちを高遠な神学に引き上げ、あるときは身近な現実に引き戻してくれます。こうして、彼は新しい生き方の四つの規範を概略しています。それらは単純なものですが、よい人間関係を維持するためには欠かせないものです。
1.偽りを捨て、真実を語りなさい(エフェ4:25)。
偽りや偽善は人間関係を傷つけ、信頼を損ないます。真実は信頼と確信を築き、人間関係を強め、一致を保ちます。
2.「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」(26節)。
私たちは人間として怒りを禁じ得ない状況に直面することがあります。確かに、正当な怒りというものもあるでしょう。しかし、怒る場合には、次の点に留意する必要があります。まず、罪を犯さないことです。つまり、律法に背くようなことをしないことです。問題を翌日まで持ち越さないことです。悪魔に、怒りに乗じて一致と人間関係を損なう機会を与えないことです。
3.盗まないで、働きなさい(28節)。
盗みにも、純然たる盗みから、人の物を返さないこと、人の名誉や品性を傷つけることまで、いろいろあります。クリスチャンの道徳観念はもっと高いものです。正直に働くこと、人のために生きること、惜しみなくささげることなどはキリストにある新しい生き方のしるしです。
4.あなたの舌を守り、人を造り上げる言葉を語りなさい(29節)。
言葉は力強い道具です。上手に用いるなら、それは大きな祝福となります。しかし、パウロは「悪い」言葉を口にしてはならないと戒めています。「悪い」にあたるギリシア語は「腐った」をも意味します。腐敗、俗悪、呪い、悪口などは私たちの言葉と無縁のものです。クリスチャンの言葉は人を高め、造り上げるものでなければなりません。
「聖霊を悲しませてはいけません」(エフェソの信徒への手紙4章30節)
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです」(エフェ4:30)。
エフェソの教会は、パウロが信徒の上に手を置いて、彼らが聖霊を受けたときに始まります(使徒19:1~7参照)。パウロがこの手紙の中でたびたび(少なくとも12回)聖霊に言及しているのも何ら不思議ではありません。
問4
パウロは、エフェ2:18、3:16、5:19、6:17で、聖霊について何と言っているか調べてください。
パウロは他のところでも、聖霊が次のものを与えてくださると言っています。命(Ⅱコリ3:6)、神の子となること(ロマ8:16)、悟り(Ⅰコリ2:10~16)、実(ガラ5:22)、将来の希望(ガラ5:5)、霊的な賜物(Ⅰコリ12:4~11)、清め(ロマ15:16)、内住する力(ロマ8:11)など。
パウロは信者と教会の生活における聖霊の役割を非常に重視しています。それゆえ、「神の聖霊を悲しませてはいけません」と言っているのです。この言葉からもわかるように、聖霊は神の力であるばかりでなく、三位一体の神のひとり、しかも関係に敏感なお方です。聖霊を悲しませることは、すなわち父なる神と子なる神を悲しませることです。聖書を読みさえすれば、神がいかに私たちの行動に関心を寄せておられるか、また私たちの罪と不従順がいかに神を悲しませるかを理解することができます。聖霊によって神の家族とされた者たちには道徳的、霊的責任が負わせられています。これらの責任に背くとき、私たちは神を悲しませるのです。神が私たちの行いによって実際に悲しまれるということは理解しがたいことですが、聖書にそのように書かれていますし、イエスの生涯を見れば、神が御自分の被造物を深く心に留めておられることがわかります。このように、もし神が私たちを愛し、心に留めておられるとすれば、神が私たちの行いによって悲しまれるとしても不思議ではありません。
「神に倣う者となりなさい」(エフェソの信徒への手紙4章31節~5章1節)
パウロは、救われて、いまユダヤ人と異邦人からなる一つの体として生きている者たちに対して、新しい命のうちに歩むように勧めています。この新しい命は、脱ぎ捨てること、身に着けること、忍耐すること、聖霊を悲しませないことといったさまざまな要素を含みます。今日の研究の中で、パウロはこの新しい生き方をひと言で要約して、「神に倣う者となりなさい」と言っています(エフェ5:1)。
問5
堕落した人間である私たちはどうしたら「神に倣う者」となることができますか。パウロが言っていることはどんな意味ですか。
パウロは神に倣う者となりなさいと言う前に、「神に愛されている子供ですから」(エフェ5:1)と言うことによって、この勧告を個人的で、親密なものにしています。親と子が親密な関係を保ち、一緒に時間を過ごし、いろいろな活動を共にすることによって、子供は親に似てくるものです。同じように、より多く神に祈り、神について瞑想し、学ぶときに、私たちは神に似る者となります。
「子供が自分の親に倣うのと同じように、私たちもキリストに倣うべきである。キリストは私たちに対する大いなる愛のゆえに御自身を犠牲としてささげられたが、それは私たちが生きるためであった。人々に対する私たちの愛もこれと同じでなければならない。このような愛は愛情を超えた自己犠牲の奉仕である」(『ライフ・アプリケーション・バイブル』エフェソ5:1、2)。
問6
パウロはエフェソ4:32で、どんな3つのことを私たちの生き方の特徴としてあげていますか。それらはどんな意味で神の品性を反映していますか。どうしたらこれらの特徴を私たちの生活の中に現すことができますか。
まとめ
キリストの改変の働き
「イエス御自身が無限の憐れみのうちに人間の心に働き、天使たちも驚きと喜びをもって眺めるほどの霊的改変を成し遂げておられる。主のうちに見られるのと同じ無我の愛が、心から主に従う者たちの品性と生活のうちにも見られる。人々がこの世においてキリストの聖なる性質にあずかる者となり、キリストの栄光を反映することによって神をたたえ、天の光をもって世の闇を照らすようになることを、キリストは望んでおられる」(『教会へのあかし』第5巻731ページ)。
新たにされていない教会員
「心が新たにされず、生活が改まっていない教会員の増大が、教会の弱体化の原因である。この事実がしばしば軽視されている。一部の牧師や教会は、ただ会員の増加を望むばかりで、クリスチャンにふさわしくない習慣や行いをやめるように忠実にあかししていない」(同172ページ)。
前回、「1~3章の神の業がなければ、4章のお勧めを行うことはできない」と述べました。それは正しいのですが、それでは、4章以降には神の業が出て来ないかというと、そんなことはありません。パウロは新しい生き方を勧める中でも、神がしてくださったことを証ししています。①私たちは神から招かれた(4:1)、②私たちにはみな賜物と恵みが与えられている(8節)、③「あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されている」(30節)、④「神がキリストによってあなたがたを赦してくださった」(32節)。
異邦人の放縦を指摘した後で、使徒は「あなたがたはキリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」と書きました(4:20~24)。これは、次のように読むことができないでしょうか。「あなたがたは、キリストの真実と清い生活を学んだ。だから、あなた方も同じようにすべきだ」。もし私たちの主人が清くなく、真実でないなら、私たちはそのようにする必要はありません。しかしイエス様は、全く汚れのない生活をされました。彼は、いつも私たちに対して真実でいてくださいます。だから私たちも、清く、真実に生きるべきなのです。
第10課 クリスチャンの生活
第10課 クリスチャンの生活
「招きにふさわし」い生き方(エフェ4:1)についてのパウロの勧告はなおも続きます。彼は真剣にクリスチャンとして歩むように教えています(エフェ5:1~20)。パウロの手紙を少し読んだだけでも、彼がクリスチャンの歩みをいかにまじめに理解していたかがわかります。彼は決して恵みを軽く考えていませんでした。私たちはキリストの御業によって救われていますが、イエスにおいて与えられている救いにふさわしく生きるべきです。私たちは新しい命を与えられていますが、その新しい命を神の求められるように生きる必要があります。
今回の聖句(エフェ5:1~20)の中で、パウロはこのような生き方に含まれる五つの要素、つまり愛、さばき、光、知恵、聖霊のうちに歩むことについて教えています。語られていることは簡潔ですが、かつて闇の中を歩み、今は光の中を歩む者たちに期待されていることが余すところなく語られています。
愛によって歩む
「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェ5:1、2)。
信じる者たちは神に倣う者となるように召されています。神なるキリストはすべてのこと、すなわち倫理、苦しみ、服従、仕事、祈り、とりわけ愛における私たちの模範です。したがって、私たちは愛によって歩むように教えられているのです。
今回の聖句から、少なくとも三つの原則が明らかになります。
第一に、キリストの愛は無我の愛です。それは“アガペー”の愛、つまり感情でなく原則にもとづいた愛、受ける価値のない他者の必要を満たそうとする外向性の愛です。神の愛はこのような愛です。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ5:8)。愛によって歩むとは、愛することのできない人を愛することです。
第二に、キリストの愛は犠牲的です。キリストは最高の犠牲の模範です。彼は人類を贖うために、恥辱に満ちた十字架を負い、その命をささげられました(Ⅱコリ5:21)。愛によって歩むとは、他者に仕えるために自己を捨てることです。「弟子になるとは、苦しむキリストに忠誠を尽くすことを意味する。したがって、クリスチャンが苦しむように召されているとしても何ら不思議ではない」(ディートリヒ・ボーンヘッファー『弟子となることの代価』101ページ、1963年)。
第三に、キリストの愛は和解をもたらします。キリストは損なわれたあらゆる関係を回復し、完全な一致をもたらしました(ロマ5:10、Ⅱコリ5:18)。キリストの愛によって歩むとは、キリストの和解を告げ知らせる者となることです。
さばきを心に留めて生きる(エフェソの信徒への手紙5章3節~7節)
問1
エフェソ5:3~7を読み、次の質問に答えてください。
1)パウロはどんな罪について警告していますか。これらの罪はどんな意味で十戒に背くことになりますか(出20章参照)。
2)パウロはこれらの罪を「愛によって歩む」こととどのように対比していますか(エフェ5:2)。これらの罪が愛によって歩むことと矛盾するのはなぜですか(ネヘ1:5、ダニ9:4、ヨハ15:10、Iヨハ5:2、3、Ⅱヨハ1:6参照)。
3)エフェソ5:6の「むなしい言葉」は、前後関係から考えて、どんなことを意味すると思いますか(Iヨハ3:7参照)。
人生における悲劇の一つは、あたかも神がいないかのように、あるいは神がいてもいなくても問題でないかのように生きることです。こういう態度は、将来のことを考えないで現在のことだけに目を向けるような生き方を助長します。しかし、聖書の人生観によれば、歴史はある究極点に向かって動いていて、そのときになれば人間はみな神のさばきの前で責任を問われることを教えています(Ⅱコリ5:10、ヘブ9:27)。神に対する最終的な説明責任は避けることのできないものです。
パウロによれば、神の愛が人類の救いのために現されたのと同じくらい確実に、「神の怒りは不従順な者たちに下るのです」(エフェ5:6)。神の怒りとは悪と悪の子らの上にくだる神のさばきのことです。このさばきが確実であるゆえに、パウロは信じる者たちに、「彼ら〔「むなしい言葉」(6節)を語る者たち〕の仲間に引き入れられないようにしなさい」(7節)と訴えているのです。彼らは、なおも異教の哲学に執着し、罪の実在と罪に対する最終的なさばきを否定する偽りの教師たちでした。パウロが彼らとその哲学に近づかないように教えているのは、彼らがイエスの真理に反抗しているからです。パウロはこのような偽りの教えを警戒し、その責任者たちを、「神の怒り」が下る「不従順な者たち」と呼んでいます(6節)。クリスチャンには、そのような罪についての暗示や思い、戯れさえあってはならない、と教えています。
光のうちを歩む(エフェソの信徒への手紙5章8節―14節)
「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」(エフェ5:8)。
パウロは、クリスチャンの生き方を愛によって歩むことであると定義したあとで、切迫したさばきを心に留めて生きるようにと勧告しています。そして今、第三の側面に目を向け、光の子として歩むように教えています。彼はここでも、いつもの対照法を用いて、あなたがたは以前には暗闇の子でしたが、今は光の子となっています、と言っています(エフェ5:8)。
暗闇は古い生き方を現し、光は新しい生き方を現します。信じる者たちは暗闇から光に移っています(8節)。彼らは回心したときから、主にあって光となっています。すなわち、「わたしは世の光である」(ヨハ8:12)と言われたお方の品性を現す者となっています。
問2
私たちは「光」を、頭だけの知識、つまりある事実を知っていること、また「暗闇」を、ある事実を知らないことと考えがちです。確かにそうとも言えますが、もういちどエフェソ5:8~14を読んでください。パウロはここで、光によって歩むことを何と同一視していますか。それは頭だけの知識ですか。それともクリスチャンの道徳的生き方・行動ですか。
自分自身、道徳的汚れのない生活を送っていたパウロは、悪を行う者たちから遠ざかるように、さらにはそのような者たちを叱責するようにと私たちに教えています。
問3
エフェソ5:13を注意深く読んでください。言葉によらないでも悪を叱責することができることに関して、この聖句はどんなことを教えていますか。ヨハ3:20参照
あなたのうちの暗闇がだれかの生き方や態度、品性の光によって照らされ、叱責された経験はありませんか。あなたはどのように応答しましたか。謙虚な心と悔い改めをもって、その沈黙の譴責を受け入れましたか。それとも、その光を闇と呼ぶことによって(イザ5:20参照)、光から逃れたり、光と闘ったりしませんでしたか。
知恵によって歩む(エフェソの信徒への手紙5章15節~17節)
パウロによれば、私たちのクリスチャンとしての歩みは世のそれと異なったものでなければなりません。私たちは愛によって歩むべきです。すべての行いに対してさばきが臨むことを覚えなければなりません。努めて光の中を歩むべきです。パウロはさらに、知恵をもって歩むように教えています。
問4
聖書は何度も知恵について語っています。次の聖句はどんな知恵について語っていますか。Iコリ1:20、21、3:19、Ⅱコリ1:12
パウロがエフェソ5:15~17で語っている知恵・知識はこの種の知恵とは異なるものです。すでに学んだ通り、このような知識は単なる頭だけの知識や事実についての知識とは異なります(事実も有益なものですが)。前後関係から考えると、ここで言われている知識は私たちの行いと関係があります。知識の量に関係なく、知恵ある者は正しく振る舞い、知恵のない者は愚かに振る舞います。
問5
パウロの言う「無分別」(エフェ5:17)とはどんな意味ですか。次の聖句はどんな手がかりを与えてくれますか。詩編111:10、箴1:7、イザ33:6
この世界は神によってのみ存在します。万物は神の御心によってのみ存在します。したがって、知識とは可能な限りにおいて神の御心を知ることを意味します。私たちは神と神の御心を完全に知ることはできません。しかし、私たちに対する神の御心は、私たちが清く、聖なる生活、つまり神の愛と品性を反映した生活を送ることにあります。これが真の知恵です。この世で最も頭がいいと思われている人々の中にも、全くの無知と暗闇の中に生きている人々がいます。
聖霊に満たされて歩む(エフェソの信徒への手紙5章18節―20節)
クリスチャンの歩みに欠かせない四つの原則に加えて、パウロは第五の、たぶん最も重要な原則をあげています。「霊に満たされ……なさい」(エフェ5:18、19)。聖霊に満たされたクリスチャンは愛と光、知恵とさばきによって信仰生活を続けるための活力を与えられます。啓発と活力は内住の聖霊によって与えられる二つの大きな祝福です。
問6
エフェソ5:18を読んでください。パウロがここで酒を引き合いに出しているのはなぜだと思いますか。何が言いたかったのでしょうか。ロマ6:16参照
パウロは酒を例として用いていますが、実際には信者から聖霊の力を奪うものなら何でもよかったのです。言い換えるなら、私たちは何ものによっても聖霊の影響力を妨げられてはならない、ということです。パウロは聖霊の働きの結果である新生と清めの経験に関して、深い神学的思想を述べているのです。すべてのクリスチャンは次のように自問してみる必要があります。「私の体と心と霊はだれの支配下にあるだろうか。酒、貪欲、欲望、あるいは神との歩みを妨げるものの支配下にあるだろうか。それとも、聖霊の支配下にあるだろうか」。聖霊だけが私たちを行くべき道に導いてくださいます。もしほかのものによって支配されるなら、必ず道をそれます。
問7
聖霊に満たされるなら、ほかのものに満たされる余地はありますか。聖霊に満たされることのほかに、パウロはどんなことを勧めていますか(エフェ5:19~21参照)。これらは互いにどんな関係にありますか。
まとめ
愛によって歩む
「キリストのみたまを吹きこまれる者はみなキリストが愛されたように愛するのである。キリストを動かした原則がお互いの間における彼らの態度の動機となるのである。
この愛は彼らが弟子であることの証拠である。『互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう』とイエスは言われた(ヨハネ13:35)。人が強制や利己心によってではなく、愛によってむすばれるとき、彼らは人間の力にまさる力が働いていることを示すのである。この一致があるとき、それは神のみかたちが人のうちに回復され、新しい生命の原則がうえつけられた証拠である」(『各時代の希望』下巻167、168ページ)。
パウロは、5:3~5で、汚れたことと貪欲を避けるように命じた後、「それよりも、感謝を表しなさい」と勧めています(4節)。「汚れたこと、貪欲」が、「感謝」と対比されているのです。18~20節では、「酒に酔いしれる」かわりに「、讃美」と「感謝」をすることが勧められています。
ここで、「汚れたこと、貪欲、酒酔い」と、「讃美、感謝」の違いを考えてみましょう。どうして人は、讃美したり感謝したりするのでしょうか。それは、満足しているからです。コンサートで、手が痛くなるまで拍手するのは、演奏に満足した時です。同じように、神の業に不満を感じる時、人は心から神に感謝したり讃美を捧げたりすることができません。不満から、貪欲、汚れたことを行いたいという気持ち、そして酒に酔ってしまいたいという思いが生まれます。満足している心からは、そのような思いは生じないのです。サタンは、なぜ「神のようになろう」という思いを持つようになったのでしょうか。豊かに与えられていた神の祝福に満足しなかったからです。被造物の中で一番であっても満足せず、創造者のようになりたい、と思ったのです。
神に満足する一番の秘訣は何でしょうか。それは「どうしようもない罪人の私のために、イエス様が死んでくださった」と信じることです。イエスの十字架だけではだめだと不満をもらすなら、サタンの思うつぼです。キリストの死が完璧な贖いの供え物であることを認め、感謝し、神様を讃美しましょう。
第11課 クリスチャンの関係
第11課 クリスチャンの関係
エフェソ1~3章は教会に関する基本的な神学について述べていました。4章以降はこの神学の実際的側面、とりわけ多様性の中にあって一致を守ること、クリスチャンの生き方、そして(これから学ぶ)適切な関係を強調しています。
結局のところ、キリスト教は関係、つまり神との、また人との関係の宗教です。家族や共同体との関係に影響を及ぼさないような神との関係は無意味です。教会、家庭、職場はクリスチャンの主要な活動領域です。教会の中では聖人、家庭の中では悪魔、ということはあり得ません。キリスト教は真空状態における清めではありません。それは全体における清めです。それは生活のあらゆる領域、つまり霊的、知的、肉体的、社会的な面にまで影響を及ぼすものです。
今回の研究では、クリスチャンの関係に目を向けます。
互いに仕え合う(エフェソの信徒への手紙5章21節)
問1
エフェソ5:21で、パウロは何と言っていますか。
この聖句は18節の「霊に満たされ……なさい」という言葉と結びついています。
れいぞく けんそん
クリスチャンの服従は隷属ではなく、お互いに対する謙遜と思いやりの態度でなければなりません。言うまでもなく、このような態度は人間に生まれながら備わったものではなく、交わりや礼拝、賛歌や賛美、絶えざる感謝と同様、聖霊に「満たされる」ことの結果です(エフェ5:19、20)。
このように考えるなら、真の服従は一般的に考えられている服従とは異なります。聖書の教える服従は、一方が権威を行使し、他方が無条件にそれに従うという、専制的で、権威主義的で、不条理な関係ではありません。
パウロは服従に関する勧告に「キリストに対する畏れをもって」という句を付け加えています。夫と妻であれ、親と子であれ、主人と奴隷であれ、クリスチャンの行動と関係は服従を含みますが、それはキリストに対する畏れの念から出るものです。神は破壊者ではなく建設者です。専制的でも利己的でもなく、愛に満ちたお方です。キリストを敬うことはいかなる服従にも優先します。自分の良心と神の御心に背いてまで服従するように要求されるときには、ペトロの言うように、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒5:29)。
一家の主人が妻や娘に生活費を稼ぐために売春しなさいと言うなら、どうしますか。父親が子供に麻薬の密売をしなさいと言うなら、どうしますか。服従すべきですか。いいえ、決して服従してはなりません。人間関係における服従は決して絶対的なものでも、無条件のものでもありません。その基準となるのが神の御心です。この基準を超えて服従を期待するようなクリスチャンはクリスチャンと呼ばれる資格がありません。このような人にクリスチャンとしての特権を与えてはなりません。「キリストに対する畏れをもって」服従することは、妻に対しては敬意を、夫に対しては尊厳と名誉を要求します。配偶者や子供に対する虐待が増えている今日、このことはますます重要な意味を持ちます。神の子らは人の言いなりになるべきではありません。
権威(エフェソの信徒への手紙5章22節、6章1節、5節)
妻、子供、奴隷の側における服従は権威についての問題を提起します。夫、父親、主人への服従はどんな権威から来るのでしょうか。エフェソ5:21には、「キリストに対する畏れをもって」仕えなさい、とあります。同じような表現はほかにもあります。「主に仕えるように」(22節)、「主に結ばれている者として」(6:1)、「キリストに従うように」(5節)などがそれです。こうしたキリストへの言及は、権威の構造に神の秩序があることを暗示します。パウロはこの点に関して詳しく述べていませんが、それでもキリストと教会の関係について、次のような参考になる類比を与えています。「キリストが教会の頭であり」「、教会がキリストに仕えるように(」エフェ5:23、24)。キリストが頭であることは、教会が従うべき模範です。同じように、夫、父親、主人が頭であることは、キリスト教によって確立された模範に従うものです。権威は横暴でもなければ、無制限でもありません。事実、パウロは、権威と服従は「教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった」(25節)キリストから来る、と言っています。このことは非常に重要です。家庭や家族といった組織体の秩序を守るために与えられている権威は、力ではなく愛を動機としています。同じように、服従は恐れや劣等意識ではなく愛を動機としています。
問2
創世記1:26、27、使徒言行録17:26、マタイ12:50、エフェソ3:6、ガラテヤ3:28は、クリスチャンの人間関係についてどんなことを教えていますか。
私たちはみな主の前に同等の存在、神の恵みを必要とする罪人です。権威と服従の観念はゆがめられてはいますが、だからといってそれらが聖書的でないとは言えません。権威ある立場にある者たちは、自分たちが神に対して、また部下に対してどんな関係にあるかをつねに覚えるべきです。この役割を誤解することは、一羽の雀さえ地に落ちることをお許しにならない主の前に罪を犯すことです(マタ10:29~31)。
夫と妻(エフェソの信徒への手紙5章22節~25節)
この聖句を読むと、結婚が夫と妻を対等のパートナーとする聖なる制度であることがわかります(創2:24、エフェ5:31参照)。両者の結びつきと同等性は「二人は一体となる」(エフェ5:31)という神の言葉のうちに強調されています。このことを、キリストが二つのもの(ユダヤ人と異邦人)を一つにされたと述べているエフェソ2:14と比較するとき、結婚と教会が共に神に起源を持つことがわかります。
さらに、キリストと教会は密接な関係にあります。キリストは頭であり、教会は体です(エフェ5:23)。この比喩から、少なくとも次のことがわかります。(1)体としての教会は頭としてのキリストに従属する。(2)頭としてのキリストは体である御自分の教会を愛し、教会のために死に、教会を救い、教会を清められた。
服従と愛は夫と妻を敵対させるものではなく、むしろ両者を結びつけます。服従は自分自身を完全に相手にささげることです。愛も同じであって、キリストのように人のために自分の命をささげることです。
問3
キリストと教会の関係についての比喩は、夫と妻の関係を理解する上でどんな助けになりますか。どんな力が最高の動機となるべきですか。ロマ5:8、Iヨハ4:10、11、ユダ21参照
キリストと教会とのこの密接な関係は夫と妻との間にも見られるべきです。パウロ(ペトロも)は「、妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい」(エフェ5:22)と言っていますが(コロ3:18、Ⅰペト3:1参照)、同時に、夫たちに対して自分の妻を愛するようにとも言っています(エフェ5:25、28、コロ3:19参照)。この愛は保留のない、犠牲的なキリストの愛を模範にしています(エフェ5:25)。夫が頭であることは結婚関係における横暴ではなく、責任を意味します。一方、服従は隷属ではなく、栄誉、誠実、尊敬を意味します。もちろん、人間の弱さは認めなければなりません。自分の妻を奴隷のように扱い、執拗に虐待する夫がいます。しかし、それは文化的な問題、罪の問題であって、パウロはここでは扱っていません。
親と子(出エジプト記20章12節、エフェソの信徒への手紙6章1節―4節)
キリスト教ほど、子供のために貢献した宗教・哲学はありません。英国の政治家で、敬虔なキリスト教徒でもあったウィリアム・ウィルバーフォースは英国における児童労働を廃止しました。英国最初のキリスト教宣教師ウィリアム・ケアリはインドにおける児童結婚と寡婦焼殺を廃止するために尽力しました。今日でも、インド南部の田舎に行くと、女の赤ちゃんを絞殺したり、毒殺したりする風習が残っています。キリスト教の病院や教会では、玄関にカゴを用意してあります。そうすれば、だれにも知られずに、そこに女の赤ちゃんを捨てることができます。使徒パウロの時代のローマでは、もっとひどいことが行われていました。ローマの政治家セネカは「、我々は獰猛な雄牛を屠殺する。我々は狂った犬を絞め殺す。我々は伝染するのを防ぐために病気の牛を殺す。我々は病弱で、奇形の子供が産まれたら溺死させる」と記しています(バークレイ『ガラテヤの信徒、エフェソの信徒への手紙』176ページ)。
こんな時代に、有名なローマの都市エフェソに住むクリスチャンの両親や子供に宛てて書いた偉大な使徒パウロの手紙の中で、自分たちがこのように認められているのを知って、子供たちは大いに喜んだことでしょう。
問4
どんな二つのことが子供たちに期待されていますか。親と子に関するパウロの言葉は、夫と妻に関する彼の言葉とどんな点で似ていますか。どんな点が異なりますか。エフェ6:1~4(同5:22、コロ3:18参照)
クリスチャンの画家は神の律法を、神に対する人間の義務である初めの4条と、同胞に対する後の6条の二枚に分けて描きます。しかし、ユダヤ人は各板に5条ずつ描きました。両親を敬うことが神を敬うことと同じであると見なしていたからです。
服従は両親に依存しているあいだ子供に要求されますが、両親を敬うことは一生のあいだ続く義務です。
パウロは両親に、「子供を怒らせてはなりません」(エフェ6:4)と勧告しています。子供を怒らせるのはどんなことでしょうか。良くない模範を示すこと、偽善、首尾一貫していないこと、厳格すぎること、などです。
奴隷と主人(エフェソの信徒への手紙6章5節~9節)
パウロの時代のローマ帝国には、何百万という奴隷がいました。たいていの場合、奴隷は家畜以下の扱いを受けていました。アリストテレスのような偉大な人間でさえ、奴隷は労働の道具にすぎないと教えていました。神から与えられた権利や尊厳を無視して、一人の人間が一人の人間を所有することは、パウロにとっては不快なことだったに違いありません。
パウロはエフェソの奴隷たちに、あたかもキリストに従うように自分の主人に従い、働きなさい、と勧めています(エフェ6:5)。「人にではなく主に仕えるように」、誠意と善意をもってなされた働きは報いられないことがありません(7、8節)。奴隷は自分の境遇を変えることはできないが、克服することはできるということを、パウロは認めていました。ここに、学ぶべきキリスト教の哲学があります。つまり、私たちは当面、悪を滅ぼすことはできないが、悪によって滅ぼされる必要もない、ということです。
問5
聖書は直接的には奴隷制度を非難していませんが、次の聖句はこの制度の背後にある原則をどのように否定していますか。マタ22:39、マコ10:44、ルカ6:31、ロマ12:10、フィリ2:3、Iヨハ4:11
主人たちへのパウロの勧告は、非常に明白です。彼らにも天に主人がおられて、このお方から恵みと罪の赦しを受けているのだから、彼らも奴隷たちを脅すことなく、親切に扱うべきである、というのです(エフェ6:9)。
パウロがこれ以上のことをしなかったのはなぜでしょうか。「既成の社会制度を独断的に、あるいは急にくつがえすことは使徒パウロの仕事ではなかった。これを試みようとすれば、福音の成功が阻まれるであろう。しかし彼は、奴隷制度の根本にある原則、しかも、それが実行されれば奴隷制度全体を揺るがせること必然であろうと思われる原則を教えた」(『患難から栄光へ』下巻152ページ)。
パウロの伝道は実を結び、多くの主人たちが自分の奴隷たちと共に熱心なクリスチャンになりました。フィレモンがよい例です。パウロは、逃亡奴隷のオネシモをフィレモンに送り返すにあたって、オネシモを「もはや奴隷としてではなく……愛する兄弟として」受け入れるように書いています(フィレ16)。
まとめ
親と子
「親たる者たち、神はあなたがたに自分の家族を天の家族の模範とするように望んでおられる。あなたがたの子供たちを守りなさい。彼らに対して親切で、優しくありなさい。父親、母親、子供たちは愛という黄金のきずなで結ばれるべきである。よく秩序のとれた、よく訓練された一つの家族は、世界のすべての説教以上にキリスト教の有用性を証明する力となる」(『SDA聖書注解』第6巻1118ページ、エレン・G・ホワイト注)。
夫と妻
「多くの夫たちは主に従っていないために、妻に対する彼らの関係は、教会との関係における主イエスを正しく表していない。彼らは、妻はすべてのことにおいて自分に服従しなければならないと主張する。しかし夫がキリストに服従しないのに家長としての支配権を持つということは神のご計画ではない。夫は教会との関係におけるキリストを代表することができるように、彼自身キリストの支配の下にいなければならない。夫が粗野で乱暴で、高慢で利己主義で、苛酷で威張った人であるなら、彼は主人または夫という言葉が真に意味する人物ではないから、夫が妻のかしらであり、妻はすべてのことにおいて服従しなければならないなどとは一言もいわせてはならない」(『アドベンチスト・ホーム』119ページ)。
パウロは5:22~6:9で「妻と夫」「子と親」「奴隷と主人」についての勧めを書く前に、こう書きました。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(5:21)。この言葉は、その後に書かれていることの要約であると言っていいでしょう。ここでパウロは、「キリストに対する畏れ」の重要性を認めています。「神を畏れること」は、旧新約聖書全体を通じて大きなテーマです。箴言1:7は有名です。「主を畏れることは知恵の初め。」問題は、どうしたら、人は真の意味で神を畏れるようになるのか、ということです。神の裁きを思う時、人は神を畏れるのでしょうか。私たちが、心からキリストを畏れるのは、何ゆえでしょうか。詩編130編に、その答えが記されています。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」(3、4節)。神が赦しの神であるから、私たちは神を畏れるのです。私たちを赦すために十字架で死んでくださったキリストの愛のゆえに、私たちはキリストを畏れます。そのような畏れを持つ時、私たちはお互いに仕え合うようになっていくのです。
第12課 クリスチャンの戦い
第12課 クリスチャンの戦い
現実の戦い
聖書は二つの重要な記録をもって始まっています。一つは、神が完全な世界を創造し、それをアダムとエバの管理にゆだねられたことです(創1:27、28)。もう一つは、サタンがアダムとエバを神に反逆させ、世界と全人類を罪の呪いのもとに置いたことです(創3章)。聖書はまた、二つの大いなる福音を宣言しています。その一つは、神が御子を、世の罪を負って死ぬために地上に遣わし、それによって堕落した人類を御自分に和解させてくださったことです(Ⅱコリ5:14~18)。キリストの十字架と復活は、罪とサタンが世の終わりにおいて完全に滅ぼされることの保証です。もう一つの福音は、神が聖なる者たちの家郷として新しい天と新しい地を創造してくださることです(ヨハ14:1~3)。
聖書は、先の二つの出来事と後の二つの出来事の間に繰り広げられる、キリストとサタンの大いなる闘争について描写しています。私たちはみな、この闘争にかかわっています。今回は、この戦いに勝利する方法について学びます。
「最後に言う」(エフェソの信徒への手紙6章10節)
「最後に言う」という言葉をもってパウロは霊的戦いについて勧告を始めます。ここまで彼は、神がキリストによって私たちを罪から贖って下さったこと、聖霊によって私たちに証印を押して下さったこと、私たちを一致の交わりに導き入れて下さったこと、そして私たちを神の家族として下さったことについて説明しました。神は、私たちが古い、罪深い生活を捨て、新しい、変えられた自己を身に着け、聖潔・愛・光・知恵・信心深い人間関係のうちに歩むことによって、「[神の]招きにふさわしく歩」む(エフェ4:1)ように期待しておられます。クリスチャンの生活と歩みは「聖霊に満たされた」ものでなければなりません(エフェ5:18参照)。
しかし、クリスチャンに対抗して働く悪霊がいます。サタンは、ペトロに対してそうしたように、私たちをも支配しようとしています(ルカ22:31)。それゆえパウロは、「最後に言う」、サタンに対する日ごとの戦いに備えなさい、と言うのです。
問1
ルカ22:31を読んでください。イエスはここで、サタンがペトロをふるいにかけることを願った、と言っておられますが、これはどんな意味ですか。サタンが人をふるいにかけるのは何のためですか。
問2
エフェソ6:10の勧告は、どのように戦うよう教えていますか。その御言葉は勝利についてのどんな希望を与えてくれますか。
神はキリストにおいて私たちのために働いておられる、とパウロは言っています。キリストが地上に来られたとき、神とサタンとの宇宙規模の戦いは新たな局面を迎えました。十字架上におけるキリストのサタンに対する勝利は、信じる者たちが神に受け入れられることの基礎となりました。しかし、彼らの天国への旅は始まったばかりです。今後、彼らは多くの戦いを経験しなければなりません。抜け目のない敵と戦わなければなりません。「悪魔の策略に対抗して」戦わなければなりません(エフェ6:11)。「われわれは、神が、み名の栄光のために、神の全能の力を人間の器の努力に結びつけてくださることを、心から確信して期待することができる。われわれは、神の義の武具をまとって、すべての敵に勝利することができるのである」(『国と指導者』上巻82ページ)。
「悪魔の策略」(エフェソの信徒への手紙6章11節)
パウロは霊的戦いを描写するにあたって、まず「悪魔の策略」(エフェ6:11)に気をつけなさいという一般的な警告を与えています。
悪魔の策略とは何でしょうか。悪魔はいつでも、はっきりと悪とわかる方法を用いて信者を攻撃してくるわけではありません。彼のやり方は巧妙で、ときには気高い動機に訴えます。たとえば、エバを誘惑するにあたっては、[神のように善悪を知るものとなるという]高尚な動機に訴えています(創3:1~5)。ユダに対しては、地上にメシアの王国を建設するという熱意に訴えています。
C・S・ルイスはその寓話小説『悪魔の手紙』の中で、悪魔の親玉スクルーティプが聖徒をわなにかける技に熟達していない手下の悪魔に宛てて書いた一連の手紙を紹介しています。たとえば、ヨハネがリウマチで苦しむ母のために祈っているときには、ヨハネが祈りに対する信仰を失うように仕向けてはならない、と助言しています。むしろ、ヨハネが四六時中、母のために祈るように仕向けるべきである、と助言しています。そうすれば、ヨハネは痛む母の関節をマッサージするのを忘れてしまうからです。
また別の手紙では、クリスチャンの心を[解決可能な]現実の、身近な問題からそらせて、[解決不可能な]大きな、手に負えない問題に取り組むようにさせなさい、と助言しています。彼はこの作戦を名づけて、「洪水が起こるたびに信者たちに消火器をもって走り回らせよう作戦」と呼んでいます(128、129ページ、1956年)。
問3
次の聖句の中で、サタンはどのように働いていますか。特に身近に感じるものはありますか。ヨブ2:9、ゼカ3:1、ルカ22:3、黙12:12、マコ4:15、Ⅱペト3:4、Ⅰテサ2:18、Ⅱコリ2:10、11
問4
パウロは私たちの直面する敵について何と言っていますか。私たちの戦いはどのような戦いですか。エフェ6:12
第一に、私たちの主要な敵は「血肉」(エフェ6:12)、つまり人間ではありません。利己心、高慢、自己中心癖、敵意などはみな、クリスチャンが戦わねばならない勢力ですが、これよりも大きな宇宙的な勢力が私たちと神との関係を断ち切るために働いています。
第二に、私たちの敵は「支配と権威、暗闇の世界の支配者」と描写されています(エフェ6:12)。それらは「悪の司令部からの霊的代理者」です(12節、フィリップス訳)。この描写は驚くべきものですが、現実のものです。それは神に対する私たちの忠誠心を失わせようとする、超自然的、宇宙的、悪魔的な勢力を表しています。私たちはだれの側に立つべきでしょうか。サタンの側でしょうか。神の側でしょうか。これがクリスチャンの戦い、キリストとサタンとの大闘争の焦点です。
サタンは私たちの敵です。残忍で、恐るべき敵であるサタンは邪悪な戦士であって、「ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(Ⅰペト5:8)。彼は告発する者(黙12:10)、偽り者、人殺し(ヨハ8:44)です。彼は初めから罪を犯しており(Ⅰヨハ3:8)、主の道をゆがめ(使徒13:10)、「全人類を惑わ」し(黙12:9)、神の残りの教会に戦いを挑み(黙12:17)、聖なる者たちを迫害し(黙2:10)、光の天使を装い(Ⅱコリ11:14)、世の終わりになると、最後の戦いにおいて神に敵対する者たちを率いて、神の支配を覆そうとします(Ⅱテサ2:4~10)。クリスチャンは、この超自然的な存在者、また堕落した天使からなる彼の軍勢と絶えず戦っているのです。「すべての魂において、二つの勢力が勝利を求めて激しく戦っている。不信仰はサタンに率いられて、私たちを力の源である神から切り離すためにその勢力を結集している。信仰は、私たちの信仰の創始者であり完成者であるキリストに率いられて、その勢力を結集している。天の宇宙の目には、時々刻々と戦いが進展している。これは直接的な戦いであって、最大の関心事は、だれが勝利を収めるか、である」(エレン・G・ホワイト『神の息子・娘たち』328ページ)。
「その偉大な力によって強くなりなさい」(エフェソの信徒への手紙6章10節)
クリスチャンの戦いを描写する「格闘」(エフェ6:12、新改訳)という言葉は、二つのことを暗示します。一つは、それが相撲のように一対一の戦いであるということです。もう一つは、敵が相撲の相手のように目に見える直接的な反対者であるということです。この敵は巧妙かつ大胆であって、キリストを信じ、キリストに忠実に従っている者たちをだまそうとします。この戦いに勝利するか否かは、クリスチャンの生活と信仰の基礎である以下の三つの原則に従うか否かにかかっています。(1)「強く」なる(10節)。(2)「神の武具を身に着け」る(11節)。(3)「立つ」(11、13、14節)。今日は、第一の原則について考えます。
問5
「強くなりなさい」という表現は、ほとんどの場合は、肉体的な戦いであれ霊的な戦いであれ、恐れることなく敵に当たりなさいという神の招きを意味しています。つまり、神は「あなたの力はわたしから来る。だから、強くありなさい。恐れてはならない」と言っておられるのです。次の聖句はさまざまな状況においてどんな確信を与えてくれますか。それらの勧告をあなた自身の状況に当てはめてみてください。ヨシュ10:25、イザ35:4、ダニ10:19、Iコリ16:13
パウロは、「主に依り頼み……強くなりなさい」と勧めています(エフェ6:10)。神の永遠の敵に対抗できるのは、神の側に立つことによってのみです。「武力によらず、権力によらずただわが霊によって、と万軍の主は言われる」(ゼカ4:6)。人間の力がいかに偉大で、純粋で、道徳的に優れていても、霊的な悪の勢力には対抗できません。それに対抗できるのは霊的な勢力だけです。聖霊を通して神から与えられる力以外に、悪魔に対抗できる力はありません。イエスは言われます。「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハ15:5)。パウロは言います。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(Ⅰコリ15:57)。神の恵みは私たちに十分です(Ⅱコリ12:9)。
パウロはさらに「その偉大な力によって強くなりなさい」と勧めています。主の力は「その偉大な力」(エフェ6:10)から出るからです。その力とは、キリストの復活において現された神の力です。私たちが「天にいる悪の諸霊」(エフェ6:12)と戦うのはこの復活の力によってです。
「身に着けて、立ちなさい」(エフェソの信徒への手紙6章11節)
パウロは続いて、信者に「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と勧告しています(エフェ6:11)。
私たちは自分自身のうちに悪魔に対抗する意志の力も忍耐力も持っていません。私たちは生まれながらにして罪人です(ロマ3:23)。罪は私たちを神から引き離し(イザ59:2)、罪の奴隷とし(ヨハ8:34、ロマ6:16)、私たちの心と良心を堕落させました(Ⅱコリ3:14、Ⅱテモ3:13)。
問6
次の聖句は何を教えていますか。私たちはサタンと罪に対するこの戦いにどんな態度で臨むべきですか。マタ16:24、ルカ13:24、使徒14:22、フィリ4:1、Ⅱテモ2:3、ヤコ5:10、11、Iペト4:1
キリストは十字架上でサタンに勝利し、信仰によって彼を贖い主として受け入れる者たちにその勝利を与えてくださいます。しかし、私たちの新しい人生に戦いがないわけではありません。オランダの新約学者ヘルマン・リデルボスは次のように言っています。サタンの勢力は「、たとえキリストによって大いに弱体化したとはいえ、無害になったわけではない。しかし、彼らと十分に戦うことができるように、教会は神からの武具を与えられている。これらの武具で完全に武装しているので、教会は立ち続けることができる」(『パウロ神学の概要』392ページ、1975年)。
私たちはこの武具を身に着けて、神によって「暗闇の世界の支配者」との戦いに送り出されます(エフェ6:12)。この武具は偽りに満ちたサタンの策略に十分対応できるものです。サタンはずる賢い敵であって、正々堂々とは戦いません。彼は蛇の姿をとって口をきくことから(創3章)、光の天使を装うことまで(Ⅱコリ11:14)、あらゆる策略を用いてきます。それゆえにパウロは、「身に着けて、立ちなさい」と勧告しているのです。
「身に着けなさい」とは、自分のうちにないものを身に着けるようにという命令です。自分のうちにあるものでは、敵に対抗するには全く不十分です。この勧告はまた、永続性を暗示します。クリスチャンは「神の武具」(エフェ6:11)なしには一瞬も生きることができません。それは頭から足指まで、心の思いから行いまで、全体を覆うものでなければなりません。エフェソ6:11~14において4回、パウロは信者に「立つ」ように勧めています。しっかりと地を踏みしめ、敵に抵抗し、目を覚まして警戒し、決して屈服しないように勧めています。勝利は私たちのものです。
まとめ
宇宙規模の戦い
「神の御言葉の中には、この世界の人間を動かし、支配しようとする二つの相反する勢力が描かれている。これらの勢力は絶えず人間に働きかけている。神に支配されている者たち、天使によって動かされている者たちは、目に見えない闇の勢力の巧妙な働きを見抜くことができる。天の勢力と一つになりたいと思う者たちは、真剣になって神の御心を行わなければならない。いかなる点においても、サタンとその天使たちに妥協してはならない」(『SDA聖書注解』第6巻1119ページ、エレン・G・ホワイト注)。
一生続く戦い
「敵は魂を混乱させるためにあらゆる議論、あらゆる偽りを用いる。いのちの冠を獲得するためには、熱心な、たゆむことのない努力を傾けなければならない。贖い主によって勝利し、凱歌を奏でるまでは、武具を脱いだり、戦場を離れたりしてはならない。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスに目を向け続ける限り、私たちは安全である。しかし、私たちは地上のものではなく、天上のものに愛情を注がなければならない。信仰によって、高く、さらに高く、キリストの恵みに到達しなければならない。キリストの比類ない愛を日ごとに瞑想することによって、ますます彼の輝かしい姿に成長しなければならない」(エレン・G・ホワイト『今日のいのち』105ページ)。
私たちの敵は悪魔である、と教えられています。彼は強力な存在です。神の次に賢く力強いのは彼でしょう。悪魔に勝つ方法は、一つしかありません。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(6:10)。サタンに簡単に負ける方法があります。それは、一人で戦うことです。どんなに頑張っても、私たちは自分の力でサタンに勝つことはできません。キリストと共に働きたいと思う者が第一に学ばなくてはならない教訓は、自分に頼らない、ということです。一方、サタンは自分に頼ります。彼が絶対に言うことのない言葉があります。それは「主よ、助けてください」です。彼は決して神様に助けを求めません。彼は信頼することを知りませんから、すべてを自分でしようとするのです。なんと愚かなことでしょう。どんなに彼が努力しても、神様にはかないません。反対に、どんなに弱い者でも、単純にキリストに信頼するなら、その人ほど強い人はいません。神様が味方だからです。
第13課 クリスチャンの武具
第13課 クリスチャンの武具
神のすべての武具
「クリスチャンの生涯は戦いと進軍である。この戦いには休息がない。つねに努力し、忍耐をしなければならない。サタンの誘惑に勝利してゆくには絶え間ない努力がいる」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング』435ページ)。
サタンとの戦いは避けることのできないものです。しかしながら、私たちには二つの約束が与えられています。第一に、キリストは十字架の上ですでにサタンに勝利し、その勝利は私たちのものとなっています(ガラ2:20)。第二に、キリストは「神のすべての武具」(エフェ6:11、新改訳)を私たちに与えておられます。パウロが「すべての」武具と言っていることに注意してください。彼はここで、少なくとも六つの武具をあげています。どれも必要なものばかりです。なぜなら、これらはひと揃いのものとして神によって鍛造され、用意されているからです。一つでも欠けるなら、全体が弱くなります。
今回は、六つの武具のうちの五つについて考えます。最後の一つは来週の研究にゆずります。
「真理を帯として腰に締め」(エフェソの信徒への手紙6章14節)
「真理とは何か」(ヨハ18:38)と、ピラトがイエスに尋ねた質問は、人生における最も重要で、繰り返しなされる質問の一つでしょう。以下はこれに対する人間の代表的な答えです。真理とは論理的なものである。真理とは有用なものである。真理とは相対的なものである。真理とは実験に耐えうる観察である。真理とは自分の宗教や司祭が教えるものである。
問1
次の聖句は、真理についてどんなことを教えていますか。詩編31:6(口語訳31:5)、イザ65:16、詩編43:3、ヨハ17:17、詩編86:11、Ⅲヨハ4、ヨハ14:17、ヨハ14:6
キリスト教の真理は単なる観念や哲学、あるいは合理的・論理的陳述ではありません。クリスチャンにとって、真理とは人、すなわち「神の満ちあふれる豊かさ(」エフェ3:19)と神の真理とが啓示されているイエス・キリストです。イエスという真理は人を救い、贖う真理です。それは罪に対して死ぬことを要求します。それは義なる生き方、道徳的高潔、霊的結合、神の御心への服従を要求します。真理は私たちの信じるものと行うことの両方を含みます。キリストに全的に献身することによってのみ、私たちは罪と偽りの世にあって真理によって守られます。それゆえ、パウロは次のように勧告しています。「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(ロマ13:14)。
新約聖書の時代、ローマの兵士たちは行進のじゃまにならないように着物を帯(ベルト)で縛りました。クリスチャンの帯は真理です。私たちの内にあるものや外にあるものが霊的な戦いのじゃまにならないように、私たちは体全体をイエスという真理でおおわなければなりません。私たちが真理にして変わることのないイエスに従っているか否かは、その言葉と生活、礼拝と働きのうちに現されます。
正義の胸当て(エフェソの信徒への手紙6章14節)
クリスチャンの二番目の武具は正義の胸当てです。もしキリストのうちに啓示された神の真理がクリスチャンの生命と高潔さの基礎であるなら、その生命は正義の胸当てによって保護される必要があります。ローマの兵士は生命維持に欠かせない重要な器官を敵の攻撃から守るために、首から太ももをおおう金属製の大きな胸当てをつけていました(今日の防弾チョッキに似ている)。クリスチャンの生命は金属製の胸当てによってではなく、神のうちに起源と手段を持つ正義によって守られます。
問2
次の聖句は正義(義)について何と言っていますか。ロマ1:16、17、Iコリ1:30、Ⅱコリ5:21
義は神御自身の際立った特徴であって(イザ59:17、ロマ3:26、Ⅱテモ4:8)、私たちを罪から贖ってくださったキリストを通して啓示されています(ロマ1:16、17)。神が私たちを義としてくださる、つまり私たちを義なる者と宣言し、その罪を赦してくださるのは、キリストを通して啓示されたこの義によってです。このように、キリストの義は神との正しい関係を可能にします。神と正しい関係にあること以上に、サタンの攻撃から私たちを守ってくれるものはありません。
したがって、「私たちの義なるキリスト」は私たちの胸当てです。神の側に立つこと、キリストの義でおおわれること、神の救いの恵みに忠実であることは、悪魔に次のように布告することです。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。……だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」(ロマ8:31~34)。
問3
神との正しい関係である義は、クリスチャンの日ごとの生活においてどのように現されますか。ロマ6:10~14
神との正しい関係としての義は人を正しい生き方に導きます。それはキリストの弟子となる、つまりキリスト御自身の品性を反映する生き方をするようにという招きです。義とされることは、キリストに似る者となることです。つまり、神の律法に従順で、道徳的に正直で、高潔・誠実で、キリストの愛をすべての人に伝える者となることです。
平和の福音を履く(エフェソの信徒への手紙6章15節、イザヤ書52章7節)
問4
エフェソ6:15を読んでください。パウロはこの聖句によって何を言おうとしたと思いますか。
パウロはほかの聖句でも軍隊の比喩を用いているので、ここでもローマの軍隊で用いられていた靴や長靴のことを言っていると思われます。ローマの兵士がはく靴は戦いのときにしっかりと地面を捉えるものでなければなりませんでした。敵と戦っているときに滑ったり、転んだりするようでは用をなしません。
同じように、クリスチャンも霊的な戦いに勝利するためには、福音の真理にしっかりと立つ必要があります。『新英語聖書』はエフェソ6:15を次のように訳しています。「足もとを安定させるために、平和の福音をあなたの足の靴としなさい」。足は私たちの基礎であって、体全体を安定させるにはしっかりとした基礎の上に立つ必要があります。したがって、平和の福音は私たちの信じるものの基礎です。事実、ほかにどれほど重要な真理が与えられていようとも、もしイエス・キリストに対する信仰によってのみ救われるという福音の基礎の上に立たないなら、ほかの真理はすべて崩壊してしまいます。
問5
黙示録14:6~12にある三天使のメッセージを読んでください。福音が私たちの教えの基礎であることについて、これらの聖句は何を教えていますか。
パウロが「平和の福音」という表現を用いていることに注目してください。聖書の言う福音は消極的な意味を持つ言葉ではなく、むしろ積極的な意味を持つ言葉です。それは罪と自己に打ち勝つことからくる安定を意味します。平和は関係を表す言葉です。つまり、私たちと神との和解(ロマ5:1)、また人間社会、特に信仰の共同体としての私たち相互の一致を表す言葉です。このようなわけで、クリスチャンはいつでも平和を追い求めるように教えられています(Ⅱテモ2:22、Ⅰペト3:11)。神との関係、人との関係が疎遠になるとき、私たちはクリスチャンとしての使命感を失い、サタンの誘惑にさらされることになります。
信仰の盾(エフェソの信徒への手紙6章16節)
この聖句はクリスチャンの重要な武具の一つである信仰について二つのことを教えてくれます。
第一に、「なおその上に」、信仰を盾として取りなさい、と言われています。「なおその上に」とは、信仰が最も重要だというのではなく、むしろ必要不可欠なものという意味です。要するに、パウロはここで「、これらすべてのもののほかに(」グッドスピード訳)、あるいは「これらすべてのものと共に」(新国際訳)、信仰を盾として取りなさい、と言っているのです。
第二に、信仰はクリスチャンの生活と勝利の基礎となるものです。
問6
ヘブライ11:6は信仰の役割について何と教えていますか。エフェソ6:16とどんな関係にありますか。ヤコブ2:18~20は聖書の信仰を理解する上でどんな助けになりますか。
これらの聖句に出てくる信仰は何を意味するのでしょうか。それは「何かを信じる」ことではなく、むしろ「何かに信頼する」ことです。前者はある教理の体系に頭で同意することですが、後者は神に信頼すること、神の言葉と約束に絶えず信頼することです(エフェ4:13)。このような永続的な信頼は、信仰が盾として機能する上で欠かすことのできないものです。
「信仰とは神に信頼すること、すなわち神がわれわれを愛し、われわれの幸福にとって最善であるものをご存知であることを信じることである。そのときわれわれは自分自身の道を選ばず、神の道を選ぶようになる。信仰によってわれわれは、無知の代わりに神の知恵を受け入れ、弱さの代わりに神の力を、罪の代わりに神の義を受け入れる。われわれの生命、われわれ自身がすでに神のものである。信仰は神の所有権をみとめ、その祝福を受け入れる」(『教育299ページ)。
このような信仰は、「悪い者の放つ火の矢をことごとく消す」(エフェ6:16)力を私たちに与えてくれます。敵の火の矢は、誘惑、疑い、欲望、失望、試練、反逆、罪悪感といったさまざまな方角から飛んできます。
ローマ人の盾は堅い木と革でできていて、高さが約1.2メートル、幅が約60センチで、周囲を鉄で保護されていました。片手に盾、片手に剣(来週の研究)を持つことによって、兵士は防御と攻撃の両方に備えていました。変わることのない神に対する信仰は勇気をもってサタンに抵抗する確信を与えてくれます。神は「拠り頼む者の盾」です(箴30:5、新改訳)。
救いの兜(エフェソ6章17節、テサロニケⅠ 5章8節)
アルバートはハンサムで、頭のよい、有望な青年でした。彼は両親の誇りで、音楽とコンピューターと聖書を教えて、教会と近隣の祝福となっていました。子供たちには慕われ、大人たちには将来が期待されていました。しかし、18歳になったとき、悲劇がアルバートを襲いました。両親と教会は悲しみのどん底に突き落とされました。隣に住む老人のために、近くの店に買い物に出かけた直後、猛スピードで走ってきたトラックにバイクごとはね飛ばされ、頭を強打しました。検屍の外科医が言いました。「頭部にひどい傷を負っています。ヘルメットさえかぶっていたなら……」。
ヘルメットは頭を保護するためにかぶります。世界の多くの国々では、危険から身を守るためにヘルメットをかぶることを法律で義務づけています。パウロの時代には、青銅や鉄などの丈夫な金属でできた兜は兵士の標準的な装備でした。どんな剣もそれを切り裂くことができませんでした。
クリスチャンの戦いにおいても、同じことが言えます。彼らは意志の中枢を守るために兜をかぶらなければなりません。何に忠誠を尽くし、何に希望を抱くかといった重要な決定はここでなされるからです。パウロはこの兜を、キリストにおいて与えられている救いと同一視しています。
問7
テサロニケIの5:8で、パウロは、兜をどんな比喩として用いていますか。このことは救いを理解する上でどんな助けになりますか。
私たちクリスチャンは「救いの希望」(Ⅰテサ5:8)をもって生きなければなりません。私たちはこの希望を持つことができます。しかし、それは私たちの行いのうちにあるのではありません。感謝すべきことに、私たちに「救いの希望」をもたらすのはイエスの行い、イエスの業績、イエスの清めです。もしこの希望がほかの何かによって得られるのであれば、その希望は遅かれ早かれ消滅してしまいます。
このようなわけで、たとえサタンが私たちの救いを疑わせるようなことがあっても、恐れるには及びません。キリストのうちにとどまり、救いの兜をかぶっている限り、キリストは私たちの保証です(ヨハ6:37~39、ロマ8:31~39、Ⅰペト1:3~10)。
まとめ
神の武具「神の武具を身に着けているなら、敵の攻撃は私たちに対して力を持たない。神の天使たちが周りにいて、私たちを守ってくれる」(『SDA聖書注解』第6巻1119ページ)。
真理の帯「真理のほかに、悪に対する防衛手段は何もない。心に真理を宿していない者はだれも、正義のために固く立つことはできない」(エレン・G・ホワイト『天上で』179ページ)。
正義の胸当て「キリストの義の衣を着ている者たちはみな、選ばれた者、忠実な者、真実な者として神の前に立つ。サタンは彼らを救い主の手から奪う力を持たない。キリストは、悔い改めと信仰をもって御自分の守りを求める魂が敵の力に遭遇するのをお許しにならない」(エレン・G・ホワイト『神の驚くべき恵み』31ぺージ)。
信仰の盾「人を救う信仰は、キリストを受け入れる者が神との契約関係にはいる一つの取引きである。真の信仰はいのちである。生きた信仰とは、活力と信頼心とが増し加わり、それによって魂が勝利する力となることを意味する」(『各時代の希望』中巻75ページ)。
今回取り上げられている「神の武具」は、真理、正義、平和の福音、信仰、救い、です。
さて、真理だけを持っている人なんているのでしょうか。正義だけを持っている人は?そういう人はいないのではないか、と私は思います。すべてを持っているか、全部持っていないか、のどちらかではないでしょうか。サタンは、これらを一つも持っていません。どんなに力強く、どんなに豊かなタラントを持っていても、悪魔は、真理も、正義も、福音も、信仰も、救いも、どれも所有していないのです。本当に哀れです。反対に、どんなに弱々しい者でも、「主に依り頼」んでいるなら(6:10)、その人は、すべてを持っています。ですから、信仰についてのみ「なおその上に信仰を」(16節)と言われているのではないでしょうか。神に信頼している人は、「神の武具」を身に着けています。だから安全です。キリストとキリストの業に、信頼し続けましょう。
第14課 クリスチャンの交わりと行い
第14課 クリスチャンの交わりと行い
交わりと行い
使徒パウロがこの手紙の中でここまで語ってきたことのすべて、つまり私たちの命の起源からキリスト教会を確立した十字架の秘められた計画に至るまで、また救いの喜びからクリスチャンの責任に至るまで、そして新しい人類の創造から霊的戦いの現実に至るまで、すべては神の御言葉にその基礎を置いています。聖霊の霊感を受け、聖霊によって啓示された神の御言葉がなければ、私たちは神の御旨も神の目的も知ることができません。神が直接私たちに語られるのはその御言葉を通してです。
神は私たちに語りかけてくださいますが、その一方で私たちも神に語りかける必要があります。クリスチャンの生活は、神が御言葉の中で語っておられることに耳を傾けることと、祈りを通して神に語りかけることの両方を要求します。御言葉と祈りは、悪魔に抵抗し、神の道に踏みとどまる上で必要な力を与えてくれます。
今回は、神の御言葉の役割と力について学びます。
みことばと聖霊(エフェソの信徒への手紙6章17節)
「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(エフェ6:17)。
パウロは神の御言葉をクリスチャンの武具の最後にあげていますが、このことは御言葉が重要ではないという意味ではありません。神の御言葉はクリスチャン生活の基礎となるものです。御言葉がなければ、神がどのようなお方か、私たちが何者か、どのようにして生まれたか、私たちの何が問題か、どのようにして罪から救われるか、神がキリストを通して何をされたか、人間の最終的な運命は何か、ということを理解できません。ほんの短い期間でも、もし聖書を無視するなら、極度の暗黒が支配するようになることは歴史が証言しています。これは共同体としての教会だけでなく、個人の生活においても言えます。したがって、パウロが私たちの霊的戦いにおける御言葉の重要性を強調しているのは決して偶然ではありません。
問1
神の御言葉は「霊の剣」と呼ばれています。聖書と聖霊の間にはどんな関係がありますか。Ⅱペトロ1:21、ヨハネ14:26、Iコリント2:10はどんなことを教えていますか。
神の啓示はさまざまな方法で現されます(ヘブ1:1~3)。驚嘆すべき天、美しい自然界、驚異に満ちた生命などはすべて、創造主なる神をあかししています(詩編33:6~9)。しかしながら、御子イエスと聖書を通して与えられる神の啓示は独特のものです。前者は私たちに罪からの救いをもたらし、後者はイエスの救いの御業をあかしします(ヨハ1:1~3、14、5:39、17:17、ロマ15:4)。このように、聖書は「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵」(Ⅱテモ3:15)を私たちに与えてくれます。
聖書がクリスチャン生活に果たす役割について、パウロはさらに次のように述べています。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(Ⅱテモ3:16、17)。
剣と戦い
イエスはマタイ4:1~11で、サタンとの戦いにおいて、どのように神の御言葉に信頼したらよいか、模範を示しておられます。荒れ野におけるイエスの経験は二つの重要な教訓を教えています。
第一に、霊的な戦いは現実のものであって、神の民はだれひとりサタンの攻撃から逃れられません。サタンは自分の味方を攻撃しません。私たちが神に近づけば近づくほど、サタンは私たちを自分の側に引き寄せようとします(ヨブ1、2章)。
第二に、神の御言葉を知るだけでは不十分です。私たちは御言葉の著者を知り、その方の約束に信頼する必要があります。サタンは御言葉を用いて神の約束と目的を疑わせようとしますが、イエスは御言葉に信頼し、神の道に従われました。「イエスは聖書のみことばをもってサタンに応じられた。『こう書かれている』と、イエスは言われた。試みのたびに、イエスの戦いの武器は神のみことばであった。サタンはキリストに神性の証拠として奇跡を求めた。しかしどんな奇跡よりも力のあるもの、すなわち『主はこう言われる』ということばに対する固い信頼こそ反論のできない証拠であった。キリストがこの立場を持続されるかぎり、誘惑者は勝つことができなかった」(『各時代の希望』上巻129ページ)。
問2
神の御言葉はサタンの攻撃に勝利する上でどんな力を与えてくれますか。次の聖句から学んでください。申8:3、マタ4:4、ヘブ4:12、Ⅱペト1:4、詩編119:9、11
私たちに新生の経験をさせてくださった聖霊は(ヨハ3:3~8)、この経験についての証印であり、保証です(エフェ1:13、14)。聖霊は私たちのうちに住み(ロマ8:9、11、14、Ⅱコリ1:22)、私たちの心を造り変え(ロマ12:1、2)、私たちに聖書を理解させてくださいます(エフェ1:17~23、ヨハ16:13)。この聖霊は神の御言葉に霊感を与えたのと同じお方であって、私たちの心に宿ることによって、私たちが御言葉の剣によってサタンの攻撃をかわすのを可能としてくださいます。クリスチャンの兵士は、「生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭」い(ヘブ4:12)この御言葉を用いるべきです。それは罪を刺し通し、切り離し、善と悪を識別し、神の声と悪魔のささやきを峻別します。このように、御言葉は防御のための武器にもなれば、攻撃のための武器にもなります。
祈りとクリスチャンの戦い
「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(エフェ6:18)。
英国の作家ジョン・バニヤンの『天路歴程』の中に、クリスチャンが屈辱の谷でアポルオンと対決する感動的な場面が出てきます。サタンの勢力の象徴であるアポルオンは、神の国に向かって進む聖なる者たちを滅ぼそうとして、あらゆる武器を使ってクリスチャンに攻撃を仕掛けてきます。クリスチャンも霊の剣を用いて勇敢に戦います。ところが、激戦の最中に、クリスチャンは剣を失います。アポルオンはクリスチャンの命運の尽きたのを見て喜びますが、クリスチャンはもう一つの強力な武器である祈りを用いて戦いを続けます。クリスチャンはこの武器を巧みに用いて敵を打ち破り、力強く勝利の叫びをあげます。
問3
エフェソ6:18を読んでください。パウロはここで、祈りに関連して、さらにどんな勧告をエフェソの信徒に与えていますか。マコ13:33、Iコリ16:13、コロ4:2、Iペト5:8参照
パウロは祈りをクリスチャンの武具に含めていませんが、祈りがクリスチャンの生活と勝利に欠かせないことを認めていました。彼は、「どのような時にも、……絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」と言っています(エフェ6:18)。祈りはクリスチャンの毎日の生活に欠かせませんが、同時に、祈りは来るべき終末の試練に備えて希望を与えてくれます。真理、正義、平和、信仰、救い、御言葉という神の武具で身を固め、そのうえ祈りによって神に結ばれた生活は、サタンに勝利して余りある生活です。
勝利の手段としての祈りを最もよく例示しているのは、私たちの主の祈りの生活です。40日に及ぶ断食と祈り、それに神の御言葉に対する知識と信頼は、イエスが荒れ野の誘惑において悪魔に勝利する備えとなりました(マタ4:1~11)。神の御心を知り、それに従おうとして、苦悩のうちに魂を注ぎ出したゲッセマネの祈りは、イエスが十字架上の決定的な戦いに勝利する力を与えました(マタ26:36~46)。
祈りとクリスチャンの勝利(エフェソの信徒への手紙6章18節~20節)
非聖書的な意味では、祈りは神を探求すること、未知のものを追求することです。聖書的な意味では、祈りは神の御言葉に応答することです。神は語り、神は約束されました。神は「求めなさい」と言われました(マタ7:7、ルカ11:9)。私たちは神の言われたことに応答するのです。このように、クリスチャンにとって、祈りは第一の言葉ではなく、第二の言葉です。第一の言葉はつねに神の御言葉です。私たちは神の約束に従って祈らなければなりません。神の御言葉に耳を傾け、祈りによって神を求めることによって、神との交わりは完全なものとなります。
祈りにはしばしば、私たちの必要、子供、家族といった個人的な要素が含まれます。親しみを感じている人であればあるほど、その人のために祈るものです。これは自然なことであって、決して悪いことではありません。しかし、内輪の人だけのために祈り、隣人、共同体、教会、とりわけ御国の進展のために祈らないとすれば、それは問題です。人のために祈ることは度量の大きさを表すのではなく、神の家族がすべての人にまで及ぶということを認めることです。
問4
エフェソ6:18~20から、どのように祈るか、何について祈るか、いつ祈るか、など、祈りについて教えられることを書いてください。
パウロがここで個人的なことに触れている点に注目してください。彼は自分のためにも祈ってほしいと言っています。自分のどんなことのためでしょうか。牢獄から解放されることでしょうか。もっとよい食物が与えられるようにといった、個人的な安楽のためでしょうか。そうではありません。むしろ、無我の精神から、自分がキリストのための大胆な証人になることができるように、また「語るべきことは大胆に話せるように」(20節)祈ってほしい、と言っているのです。彼は自己に死んだ人間の内面を冷静に、しかし鋭く分析しています。
クリスチャンの品性(エフェソの信徒への手紙6章21節―23節)
パウロは書き出しと同様に、イエスの御名による、恵みに満ちた挨拶でその手紙を結んでいます。イエスの御名のほかに、私たちが救われるべき名は天下に与えられていません。同様に、イエスの御名のほかに、私たちと神との関係および私たち相互の関係を規定し、信仰の共同体を確立する名はありません。贖われた共同体はキリストにある共同体です。これが『エフェソの信徒への手紙』全体に流れているテーマであって、同じテーマによって、使徒は一致についての一大賛歌であるこの手紙を結んでいます。
この手紙の結びの言葉は、クリスチャンの品性に見られる三つの素晴らしい特徴を明らかにしています。
共通の交わり パウロは優しい言葉をもって、自分の手紙を託した使者をエフェソの信徒に紹介しています。「彼[ティキコ]は主に結ばれた愛する兄弟であり、忠実に仕える者です」(エフェ6:21)。ダマスコへの途上でイエスと出会う以前のパウロなら、ティキコについてこのように言うことはできなかったでしょう。しかし、パウロは十字架につけられたキリストにおいて、ユダヤ人と異邦人を隔てていた壁が取り壊されるのを見ました(エフェ2:14~18)。彼は異邦人の回心者であるティキコを、愛する兄弟、また忠実に仕える者として受け入れました。このような広い包容力こそ共通の交わりの素晴らしさを示すものです。
共通の関心 キリストにある共同体はあらゆる境界線を越えて共通の関心を表します。使徒時代の教会は互いに挨拶を交わし、情報を分かち合い、困ったときには助け合いました。この慣習に従って、パウロはエフェソの信徒にティキコを遣わして、口頭でローマの状況について報告させようとしたのです。このような方法を通して、諸教会は世界の情勢を知ることができました。
共通の遺産 クリスチャンの遺産は朽ちない遺産であって、「父である神と主イエス・キリストから」、「朽ちぬ愛をもって」(エフェ6:23、24、新改訳)主を愛するすべての者に与えられます。キリストの弟子であることは、信者と主との間に永続的な関係を要求します。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(ヨハ15:4)と、イエスは言われます。このような主との変わらない愛の関係にある者たちは平和と愛、信仰と恵みの遺産を受けます。天にある神の謁見室から出たこれらの珠玉の言葉をもって、パウロは『エフェソの信徒への手紙』を結んでいます。
今週のメッセージ
祈りの重要性 「祈りは魂の呼吸、あらゆる祝福の経路である。悔い改めた魂が祈りをささげるとき、神はその悩みを見、その戦いを目に留め、その誠実さに目を向けられる。神は彼の脈拍を取り、その拍動の一つひとつに注目される。神の許しがなければ、どんな思いも彼を興奮させることなく、どんな感情も彼を動揺させることなく、どんな悲しみも彼を覆うことなく、どんな罪も彼を汚すことなく、どんな考えや目的も彼を動かすことがない。その魂は無限の代価をもって贖われ、変わることのない献身をもって愛されている」(エレン・G・ホワイト『マラナタ』85ページ)。
絶えず祈る 「頻繁にあなたの天の父に祈りなさい。頻繁に祈るなら、それに比例してあなたは聖なる神のみもとに引き寄せられる。聖霊は言葉に表せないうめきをもって誠実な嘆願者のために執り成してくださるので、心は神の愛によって和らげられ、服従するようになる。サタンが魂の周りに投げかける雲と影は義の太陽イエスの輝かしい光によって消散し、心と思いの部屋が天の光によって照らされる」(エレン・G・ホワイト『天上で』89ページ)。
パウロのような信仰の勇者が、エフェソの人々に「祈ってください」とお願いしていることに、驚きと感動を覚えます(6:19、20)。「祈ってください」と言える人は幸いです。この言葉は、その人が神により頼んでいることを示しています。また、その人は、神の助けだけでなく、人の助けを必要としていることを認めています。この言葉は、その人が謙遜であることを示しています。サタンは「祈ってください」とは決して言いません。彼のプライドが許しません。俺のために祈る必要などない、と彼は思っています。
さて、私たちは「天の父」に祈りなさい、と勧められています。私たちの祈りは、天に昇って行きます。祈りによって、私たちは天とつながります。私たちは携帯電話を使うようになりました。昔は、電話機があるところでしか、送受信することができませんでした。今は、どこでも話すことができます。すぐに連絡を取ることが可能です。でも、携帯電話より優れたものがあります。それは祈りです。祈りのスピードは、光より速いのです。私たちの祈りは、はるかかなたにある天に、空間を越えて届きます。祈りが捧げられた時、すでに神は聞いておられます。すごいことです。キリストを信じる人は、この最高のホットラインを持っているのです。