この記事のテーマ
フランスの哲学者ミシェル・フコーは、すべての監獄を打ち壊し、囚人を解放すべきであると唱えました。なぜでしょうか。道徳観念、善悪・正邪の観念などというものは、純粋に人間の考え出したもの、つまり権力の座にある者たちがほかの人間を蹴落とすために作り出したものに過ぎない、と考えたからです。そのような信条を理論化した結果、犯罪という観念ですら人間の考え出したものであるから、すべての囚人は解放されるべきである、と唱えたのでした。
もちろん、これは極端な考え方です。しかし、罪などというものは存在しないし、道徳や善悪の観念ですら単なる一つの意見であって、それ以上のものではない、という考えが至る所に見られることもまた事実です。
当然ながら、使徒パウロはそのような考えとは無縁でした。今回の研究は、希望に満ちた積極的な調子で終わりますが、罪の現実とその必然的な結果としての死の描写をもって始まります(死はとうてい人間の考え出したものとは思われません)。今回は、パウロが罪について、また罪の唯一の解決法について何と教えているかを学びます。
罪のために死んでいた(エフェ2:1~3)
アダムとエバが神の御心の代わりに自分自身の意志に従うことを選んだときから、罪が人類の運命となりました。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ロマ5:12)。罪は普遍的なものなので(ロマ3:23)、死もまた普遍的です。
問1
Iヨハネ3:4、ヤコブ1:15、イザヤ59:2、ローマ14:23は、罪の性質を理解する上でどんな助けになりますか。
エフェソ2:2、3には、信仰のない人々に関して次のように書かれています。第一に、彼らは「世間一般の人と同じ生き方をし」(2節、リビングバイブル)、神に逆らい、仲間同士で争っていました。世の友となることは神の敵となることであって(ヤコ4:4)、彼らは敵として無知と離反の生活を送っていました。
第二に、彼らは「かの空中に勢力を持つ者」(エフェ2:2)に従っていました。これはサタンのことです。イエスは彼を「この世の支配者」と呼んでおられます(ヨハ12:31)。サタンを神話として片づける人たちがいますが、聖書は彼を実在する者、つまり神の民を食い尽くそうと探し回っている「ほえたける獅子」(Ⅰペト5:8)、「我々の兄弟たちを告発する者」(黙12:10)、人々を神に背かせる者として描いています(エフェ2:2)。
第三に、彼らは堕落した者、「生まれながらの怒りの子」(3節、口語訳)です。罪はすべてのもの、つまり、心、思想、行動、欲望、意志などを堕落させます。したがって、罪は本質的に倒錯したものであって、それ自身のうちに絶えざる矛盾があります。この霊的に堕落し、破綻した性質が罪人を「怒りの子」(3節、口語訳)、神の裁きを受けるべき者とします。
結局のところ、信仰のない人々はどのような状態にあるのでしょうか。彼らは罪のうちに死んでいます。彼らは「肉の欲望」(3節)に従って生きることを選び、神の怒りを受けるべき者となることによって、自らの運命を定めています。彼らの結末を考えれば、彼らは死んでいる死人です。
「しかし、神は……」
パウロは神の偉大な真理を伝達する達人でした。彼はエフェソ2:1~3で、信仰のない人々の憐れむべき状態を描写しています。彼らは罪のうちに死んだ者、サタンの奴隷、肉の欲望の赴くままに歩む者、怒りの子、希望のない見捨てられた者で、自らを救うことができません。しかし、使徒は次の4節で、「しかし、神は……」という劇的な二語を用いて、この憐れむべき運命に代わる輝かしい選択肢を提示しています。
これらの二語は聖書の中で最も美しい言葉と言えるかもしれません。私たちは死んでいた。しかし、神は……。私たちは死の裁きを受けるべき者であった。しかし、神は……。私たちは寄留者であり、異国人であった。しかし、神は……。サタンは勝利を収めるように見えるかもしれない。しかし、神は……。聖書にこの二語がある限り、私たちには希望があります。
問2
次の各聖句の中で、「しかし、神は……」という表現に注目して調べてください。それは私たちにどんな希望を与えてくれますか。詩編73:26、ロマ5:7、8、6:16、17、使徒13:29、30、フィリ2:27
神が私たちを死の定めから救おうとされるのはなぜですか。神が私たちを罪の力から解放しようとされるのはなぜですか。神がアダムとエバを自らの選択のゆえに滅びるままにされなかったのはなぜですか。神が御自分の道を愛し、従う、新しい被造物を創造されなかったのはなぜですか。
第一の理由は、神が「憐れみ豊かな」(エフェ2:4)お方であるからです。憐れみは神の性質に本来備わっているものです。「あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも……ないからである」(申4:31)。「恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに」(詩編106:1)。憐れみは救いの過程できわめて重要なものなので、贖われた者たちは「憐れみの器」(ロマ9:23)と呼ばれています。
第二の理由は、神が「わたしたちをこの上なく愛してくださ」ったからです(エフェ2:4)。神の愛は与える側の神にとっては無我の愛であり、受ける側の人間にとっては不相応の愛です。この愛が、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」に「、その独り子をお与えになった」動機です(ヨハ3:16)。「神の憐れみと愛の賜物は地に生命を与える空気や日光、降り注ぐ雨のように無制限のものである」(『教会へのあかし』第9巻190ページ)。
「キリストと共に生かし」(エフェ2:5)
罪人に対する神の恵み、愛、憐れみについて語るとき、パウロは繰り返し、「豊かな」、「この上なく」、「限りなく」といった最上級の言葉を用いています。このような用法は、かつてはファリサイ派の人間であったパウロが、人間の行いの結果でなく、神の賜物としての救いに最高の価値を認めていたことを示しています。エフェソ2:1~8には、罪人が死から命に移っていく様子がはっきりと要約されています。
問3
エフェソ2:5、6を読み、神がキリストにおいて私たちのために成し遂げてくださる三つのことに注目してください。
ギリシア語では、上記の言葉はそれぞれ「共に」を意味する接頭辞の“スン”をもって始まります。このことから、すべての信者がこれらの祝福をお互いに、またキリストと分かち合っていることがわかります。
まず第一に、神は「わたしたちをキリストと共に生かし」てくださいました(エフェ2:5)。キリストを信じ、キリストと共に死ぬ人たちはキリストの復活の力にあずかる者となり、復活された主と共に霊的に生きるようになります(ロマ6:8~11)。
第二に、神は私たちを「キリスト・イエスによって共に復活させ」てくださいました(エフェ2:6)。キリストによるこの復活には、目的があります。それは、キリストのために生きることです。クリスチャンの新しい生き方はキリストの復活の力をあかしするものです。この力は私たちの生活と品性によって現されます。
第三に、神は私たちをキリスト・イエスによって「共に天の王座に着かせてくださいました」(6節)。クリスチャンの最高の特権はキリストと共に王座に着き、キリストと共に支配することです(Ⅱテモ2:12、黙22:5)。私たちは今でも、全宇宙に対して、神の永続的な愛と正義についての模範となることができます。私たちは今でも、信仰によってイエスと共に生きるときに、イエスと共に「天の」王座に着くことができます。
問4
あなたはどのようにして、キリストにあって「生かされて」いる経験をされましたか。またどのようにしてキリストによって「復活させられて」いる経験をされましたか。あなたは今、イエスと共に「王座に着いて」いる経験をされていますか。
恵みにより、信仰によって(エフェソ2:8,9、ローマ3:24―28、テト3:4―7)
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェ2:8、9)。
これはパウロの福音を要約しています。その要旨は、恵みが救いにおける神の役割、信仰が人間の応答であり、恵みにより、信仰による救いの経験の全体は神の賜物であって、行いの結果ではない、ということです。
ここで重要なのは、「恵み」と「信仰」です。どういう意味でしょうか。
恵みは神から与えられるもので、私たちの罪からの贖いの基礎です。罪人の私たちは死に値しますが、神は命をお与えになります。私たちは神から、またお互いに離反していますが、神は和解をお与えになります。私たちは罪と裁きの支配下にありますが、神は自由をお与えになります。私たちは神のどの賜物をも受けるに値しません。罪を犯し、神に敵対しているからです(コロ1:21)。この意味において、恵みはしばしば、私たちに対する神の不相応な好意であるといわれます。
恵みは罪人を救うための、神の絶対的主導による行為です。「時が満ちると(」ガラ4:4)、この恵みは十字架上のキリストの行為において現されました。私たちは救いの構想にも執行にも何らかかわりがありません。救いはイエスを「信じる者がだれでも」(ヨハ3:16、新欽定訳)受けることのできる神の賜物です。
問5
コリントⅡの5:18は、恵みの概念を理解する上でどんな助けになりますか。だれが、だれのために和解を達成されましたか。
信仰は、私たちが自分で養える美徳ではありません。それは、神の贖いの御業に対する驚きの応答であり、私たちのうちになされる神の働きを喜んで受け入れることです。人を救う信仰は、自己から神へ、また神の要求に対する否認と無関心から全面的受容へと忠誠心を変えます。信仰は心を開いてキリストの内住を可能にします。したがって、それは肉の心に生まれるものではありません。「信仰は、神の賜物である。しかし、信仰を働かせる力は、われわれに与えられている。信仰は神の恵みとあわれみの招待を、魂が把握する手である」(『人類のあけぼの』下巻35ページ)。
「神に造られたもの」(エフェ2:10)
問6
パウロはエフェソ2:8、9で、私たちが行いによって救われるのではないことを強調しています。ところが、その直後の10節で、私たちは「神の作品であって、良い行いをするために、キリスト・イエスにあって造られた」だけでなく、また「良い行いに歩むように、あらかじめ備えてくださったのです」(新改訳)と言っています。ここに矛盾がないですか。パウロがここで言っていることをどのように理解しますか。
私たちは個々のクリスチャンとして、また信仰の共同体として、その全存在を神の恵みに負っています。私たちはキリスト・イエスにあって創造された神の作品、神の傑作、神の芸術作品です。
しかし、私たちはそのことを誇るべきではありません。パウロも9節で次のように警告しています。「行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」。私たちの行いは、いかに立派で永続的なものであっても、自分自身を救うことはできません。救いにおいては、自己満足は入る余地がありません。神が私たちに求められるのは自己否定、自己放棄だけです。キリストだけが最高のお方として私たちの内にあって支配されるためです。「キリスト御自身が与えてくださる衣だけが、私たちを神の御前に出るにふさわしいものとする。……天の織機によって織られたこの衣には、人間の考案した糸は一本も含まれていない。キリストはその人性において完全な品性を獲得された。彼はこの品性を私たちに分け与えてくださる」(エレン・G・ホワイト『キリストの実物教訓』291ページ)。
クリスチャンは二つの誤りに対して警戒しなければなりません。一つは、神の恵みに自分自身の要素を付加する必要があると考えることです。もう一つは、キリストにあって自由になったから、キリストの要求に従う必要はないと考えることです。パウロの教えはこうです。「確かに、あなたがたは信仰によって救われた。神の無償の恵みによって救われた。しかし、あなたがたは生きるために救われたのだ。あなたがたの信仰経験は信じることから生きることへと移行する必要がある。あなたがたは自分の救いを生活の中で実践しなければならない。それには服従の生活が含まれる。私たちの模範であるキリスト・イエスが恥辱と死に至るまで従順であられたのと同じである(フィリ2:5~12)。しかも、あなたがたの信仰の歩みは個人的な責任においてなされるものであって、ほかの人があなたがたに代わることはできない」。
まとめ
信仰のみによる義
「はっきりさせておかねばならないことは、人間の功績は神のみ前における私たちの立場や神の賜物にいかなる影響も及ぼさないということである。もし信仰や行いによって救いの賜物を獲得することができるのであれば、創造主は被造物に対して義務を負うことになる。ここに、虚偽を真理として受け入れる危険がある。……もし人がいかなる善行によっても救いを得ることができないのであれば、それはひとえに恵みによるものであって、罪人である人間はイエスを受け入れ、信じるゆえに救いにあずかるのである。救いは完全に無償の賜物である。信仰による義認には論争の余地がない」(エレン・G・ホワイト『信仰と行い』19、20ページ)。
実を結ぶこと
「キリスト・イエスにあって新たに造られた者はみたまの実を結びます。つまり『愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制』(ガラテヤ5:22、23)を生じるのであります。もはや、かれらは以前の欲望に従って歩まず、神のみ子を信じてそのみ足跡にならって歩み、そのご品性を反映しながらきよくいましたもうごとくに、自らをきよくするのであります。以前にはきらっていたものを今は愛するようになり、かつて愛していたものはきらうようになります。高慢、不遜な人は、柔和、けんそんになります。軽佻浮薄(けいちょうふはく)な人はまじめに控え目になり、酒に酔う者はそれをやめ、放蕩者は純潔になります。世的なむなしい習慣や流行を追う気持ちはなくなり……ます」(『キリストへの道』75、76ページ)。
救いは行いによるのではない、という言葉のすぐあとに、善い行いについて言われているので、人は動揺します。心配無用。人にとって救いは本当に無料です。代金はすべてキリストが支払ってくださいました。
「安価な恵み、高価な恵み」というボンヘッファーの言葉があります。私は彼を尊敬していますが、この言葉は彼の意図ではなかったにしろ、誤解を与えるかもしれないと思います。恵みは安価どころか、ただなのです。そうでなくては、恵みは恵みではなくなります。
ではなぜパウロはここで善い行いについて言っているのでしょうか。神が私たちに用意してくださった業とは、報いを求めない清い行いです。救いをただで受け取った人だけが、それを行うことができます。自分で頑張って救われた、と思っている人は、善い行いをすることなど決してできません。彼らは、相手に頑張りと報酬を求める汚れた行為しか行うことができないのです。
*本記事は、安息日学校ガイド2005年4期『エフェソの信徒への手紙—イエスによる新しい関係の福音書』からの抜粋です。