この記事のテーマ
啓示され、宣布された神の計画
パウロは聖霊の導きのもとで、キリストが教会に確立された独特の一致についてすでに書き記しています。パウロ以前の著者たちも一致について書いてはいますが、それはさまざまな階級、民族、国籍における一致ではなく、ある特定の集団における一致についてでした。異なった階級、民族、国籍における一致は当時の世界には決して見られないものでした。しかし、パウロが書き記している異なった種類の一致はキリストから来るものでした。
パウロの言葉はそこで終わっているのではありません。彼はユダヤ人と異邦人からなる教会について、また主がこの教会を通して成し遂げてくださることについて書き記しています。さらに、パウロはイエスの犠牲を通して多くのことを成し遂げてくださった神の愛に読者の心を向けさせています。
秘められた計画の内容(エフェ3:1~6)
問1
次の聖句を読んでください。それらは、パウロがこの一致を秘められた計画と見なした理由を理解する上でどんな助けになりますか。申14:2、マタ10:5、ヨハ4:9、使徒10:26~28、ガラ2:11~14
新約聖書に用いられている「奥義」とは、何らかの隠された秘密のことではなく、それまで知られていなかったことで、神がふさわしい時期に聖霊によって啓示された真理のことです。パウロはこのような啓示を受けることについて語っています(エフェ3:3)。バークレーは次のように述べています。「大いなる神の秘義が[パウロに]啓示された。この秘義とは、神の愛と憐れみと恵みがユダヤ人だけでなく全人類のためのものであるということであった。……当時の世界にあっては、障壁は完璧であった。神の特権がすべての人に及ぶと考えたことのある人はだれひとりいなかった」(ウィリアム・バークレー『ガラテヤの信徒、エフェソの信徒ヘの手紙』122、123ページ、1976年)。
何年も前、アメリカの愛国者トマス・ジェファーソンは、「我々はこれらの真理を自明の真理と信じる。すなわち、すべての人は平等に造られ……」と記しましたが、歴史はこの思想が「自明の真理」とほど遠いものであったことを示しています。それどころか、どの時代でも、さまざまな集団が自分たちこそほかの国民や民族よりも偉大で、優れていると信じていました。この考えがあまりにも深く染み込んでいたために、神の啓示を通して教えられていたはずの昔のイスラエル人でさえ、この自己優越感に染まっていました。このようなわけで、パウロほどの聡明で、勤勉で、学識のある人間でさえ、この生まれながらの偏見を取り除くためには神の啓示を必要としたほどです。
パウロにとって、ユダヤ人と異邦人が一つになるという考えは信じがたいものだったので、彼はそれを「奥義」と見なしたのです。パウロがなぜそのように考えたのかは、現代の私たちにとってはむしろ理解しがたいことです。というのは、現代にあっては、このような民族的、国民的、文化的優越感を抱くことは、あることはあっても、良くないことだと見なされているからです。たとえ国籍や人種、文化のゆえに優越感を抱くようなことがあっても、そのような考えを表に出すことは非常に不謹慎なことと考えられています。したがって、ユダヤ人と異邦人の間の一致という考えがパウロにとっていかに過激なものであったかを理解するためには、ある程度、パウロの時代の思考様式を理解する必要があります。
秘められた計画の証拠
問2
パウロは異邦人に福音が伝えられることを「秘められた計画」と呼んでいますが、この約束の証拠は旧約聖書のあちこちにちりばめられています。次の聖句は、神があらゆる国民に宣べ伝えられるという真理について何を教えていますか。創18:18 、イザ56:3~8、エレ16:19、イザ42:6、イザ49:6、イザ60:3、ゼカ8:23
悲しいことですが、民族的、文化的、宗教的偏見が人間の心を支配することは事実です。パウロは、上にあげるような数々の聖句を知っていたにもかかわらず、異邦人も神の真理に導かれることを「秘められた計画」と考えていました。繰り返しになりますが、異邦人も神を知るという思想は、その大部分が異邦人である今日のクリスチャンにとってはごく当たり前のことかもしれません。しかしながら、パウロと同じ背景・教育の中で育った人たちにとって、この思想を理解することは根本的変革を求められるので、容易ではありませんでした。
それでも、私たちは驚くには及びません。福音は私たちに、敵を愛するように(マタ5:44)、迫害する者のために祈るように(44節)、右の頬を打つ者には左の頬をも向けるように(39節)、悪をもって悪に報いないように教えています(Ⅰペト3:9)。つまり、福音の要求の多くは根本的変革を迫るもの、私たちの基本的性格に反するもの、心のうちに深く染み込んだ文化的、民族的、政治的偏見に逆らうものです。もしイエスがどこかで私たちの足を踏みつけておられなかったなら[つまり、私たちの領域に踏み込んでおられなかったなら]、おそらく私たちはイエスにお会いしていなかったはずです。
教会によって(エフェ3:9~13)
「こうして、いろいろな働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが……」(エフェ3:10)。
問3
上記の聖句(エフェ3:10)を読んでください。パウロはこの聖句の中でどんな驚くべきことを述べていますか。
問4
エフェソ3:9~13を読んでください。パウロは9節でどんな主題を救いの計画と関連づけていますか。この主題はどれほど重要なものですか。
私たちはキリストにあって新しく創造された者です(ガラ6:15、エフェ4:24、Ⅱコリ5:17参照)。私たちはまた神御自身によって造られた教会の一部です。神は私たちを創造されました。神は私たちを再創造されます。神はまた教会を造られました。新しく創造された私たちはこの教会の一部です。神の知恵が宇宙に啓示されるのは、神の似姿に再創造された者たちからなるこの教会を通してです(エフェ3:10)。
神によって造られた新しい共同体である教会は、神の力と恵み、「知恵」を宇宙に知らせる展示物となります。神の知恵は、「神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画」に従って、サタンの勢力を打ち破りました。もし神が被造物を通して御自分の力を私たちに啓示されるとすれば、神が堕落した天使と堕落しなかった天使を含む「天上の支配や権威」(10節)に御自分の知恵と正義を啓示されるのは新しい被造物を通してです。
「この世界ばかりでなく全宇宙にも、私たちは神の王国の原則を現すのである」(『教会へのあかし』第6巻13ページ)。
エフェソ3:10は大争闘の争点を別の観点から明らかにしてくれます。全宇宙の知的存在者たちは私たちの世界の運命に深い関心を寄せています。さらに驚くべきことに、この聖句によれば、神は教会を通して御自分の「知恵」をこれらの知的存在者たちに知らせようと計画しておられます。
「だから」
エフェソ3:12にあるすばらしい約束に注目してください。パウロによれば、私たちはイエスを通して神御自身に近づくことができます。イエスがヨハネ10:9で「わたしは門である」と言われたのはこの意味においてです。アダムは初め、神に自由に近づくことができました。しかし、神に背いた結果、園の木々の間に身を隠すようになりました。もはや良心のとがめなしに神にお会いすることができなくなったからです。しかし、贖われた結果、人間は再び恐れや制限なしに、また司祭や聖人、儀式といった仲介者なしに、直接、大胆に神に近づくことができるようになりました。神はキリストの功績を通して、信頼する魂に直接、近づいてくださいます。
問5
次に、パウロは「だから」という言葉をもって13節を書き始めています。ギリシア語原語には「~という理由で」という意味もあります。つまり、パウロはここで、エフェソの信徒に「~という理由で」自分のことを心配してもらいたくない、と言っているのです。それはどんなことを意味していますか。
(1)異邦人が今やキリストの体に属しているゆえに、(2)永遠の計画がイエスによって実現しているゆえに、(3)神の知恵が宇宙に啓示されているゆえに、そして(4)私たちが神に自由に近づくことができるゆえに、福音を伝えたという理由で自分が苦しみにあったとしても、心配しないでほしいと、パウロは読者に語りかけています。
言い換えるなら、パウロは次のように言っているのです。「私自身のことや、私の試練のことは気にしないでほしい。むしろ、神がイエス・キリストを通して世のために成し遂げてくださった大いなる御業についての福音に心を留めなさい。この福音は私の苦しみにまさるものです」。
キリストの愛を知る(エフェ3:14~21)
問6
パウロの祈り(エフェ3:14~21)を繰り返し読み、わかりやすく言い換えてください。彼はどんなことを祈っていますか。このような祈りをささげているのはなぜですか。
パウロは、キリストがエフェソの信徒の心に住んでくださるように祈っています。
「住む」にあたるギリシア語は“カトイケーン”で、永久に住むことを暗示します。キリストは来客ではなく、私たちの生活の一部です。
キリストの内住によって、内なる人が強められ、それによってキリストの愛の広さ、長さ、深さ、高さを理解する力が与えられるように、とパウロは祈っています(エフェ3:18、19)。パウロは理解できないことを理解するように祈っていますが、そのような力が絶えず神の愛について瞑想することから来ることを知っていました。クリスチャンは、自分たちがどれほど大いなる愛をもって祝福されているかを知る必要があります。キリストの愛は幾何学的に測定することのできないものですが、地球を取り囲み、すべての罪人に到達するほど広いものです。それは神の謁見室に至るほど高いものです。それはサタンの深淵を探り、キリストに助けを求める罪人を闇から引き上げ、神の光の下に立たせるほど深いものです。それは「天地創造の前」(エフェ1:4)から、その愛が聖なる者たちの研究の主題となる終わりのない時代に及ぶほど長いものです。それは、「人の知識をはるかに超え」、すべての信者を「神の満ちあふれる豊かさのすべて」で満たす愛です(エフェ3:19)。
「神の満ちあふれる豊かさ」という表現は約束に満ちたもので、『エフェソの信徒への手紙』と『コロサイの信徒への手紙』に出てきます。それは、神が無限のお方であることを意味しています。神は、「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」です(20節)。豊かな恵み、測りがたい愛、限りない恵み、無限の力の持ち主である神は、「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えて」、天のすべての富を与えてくださいます。神の栄光が、「教会により、……世々限りなくあ」るためです(20、21節)。
まとめ
神に近づく
「私たちはキリストの御名の功績によって神に近づくことができる。神は私たちに、自分の試練や誘惑を持って神のもとに来るように招いておられる。神はそれらすべてを理解されるからである。神は、私たちが自分の悩みをほかの人に語るのをお望みにならない。キリストの血によって、私たちは恵みの御座に来て、必要なときの助けとなる恵みを見いだすことができる。……この世の親が自分の子にどんなときでも親のもとに来るように促すように、主は私たちに自分の欠乏と悩み、感謝と愛を御自分のもとに置くように促される。すべての約束は確実である。イエスは私たちの保証また仲保者であって、あらゆる富を私たちの掌中に置いてくださる。私たちが完全な品性を養うためである。永続的な効力を持ったキリストの血は私たちのただ一つの希望である。キリストの功績を通してのみ、私たちは赦しと平安を得ることができるからである」(『SDA聖書注解』第6巻1116ページ、エレン・G・ホワイト注)。
エフェソ3:14~21は、パウロの切なる祈りを伝えています。「ひざまずいて祈ります」(14節)という言葉は、この祈りが、彼が捧げた祈りの中で特に重要なものであったことを示しています。パウロの願いは、エフェソの人々が「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされ」「、愛にしっかりと立つ者」となることでした(19、14節)。
「しっかり!」は、家庭や社会でよく聞く言葉です。私も何回となく「もっと、しっかりしてよ」と言われたものです。今も、ですが……。私たちはどうしたら「しっかり」できるのでしょうか。パウロは、自分の力で強くなれ、とは教えていません。使徒は、神の力が、人を強くする、と信じていました(16、20節)。
彼はもう二つ、しっかりした者になる秘訣を挙げています。それは「信仰」と「キリストの愛」を知ることです(17、18節)。どんなに弱く見えても、イエス様の愛を単純に信じる人ほど「しっかり」した人はいません。「信仰」は、頑張って信じるのではありません。信頼は、愛されることによって生じます。ですから、一番大切なことは、キリストの愛を知ることです。「もう、イエス様の愛はわかっている」などと言える人など一人もいません。それは、「人の知識をはるかに超え」ているからです(19節)。牧師・信徒が一致して、安息日学校、礼拝、祈祷会、日々の生活の中で、「キリストの愛を深く知ること」を第一にして祈り求めるなら、私たちはパウロと共に、神を力強く讃美するようになるでしょう(20、21節)。
*本記事は、安息日学校ガイド2005年4期『エフェソの信徒への手紙—イエスによる新しい関係の福音書』からの抜粋です。