【エフェソの信徒への手紙】クリスチャンの交わりと行い【6章解説】#14

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この記事のテーマ

交わりと行い

使徒パウロがこの手紙の中でここまで語ってきたことのすべて、つまり私たちの命の起源からキリスト教会を確立した十字架の秘められた計画に至るまで、また救いの喜びからクリスチャンの責任に至るまで、そして新しい人類の創造から霊的戦いの現実に至るまで、すべては神の御言葉にその基礎を置いています。聖霊の霊感を受け、聖霊によって啓示された神の御言葉がなければ、私たちは神の御旨も神の目的も知ることができません。神が直接私たちに語られるのはその御言葉を通してです。

神は私たちに語りかけてくださいますが、その一方で私たちも神に語りかける必要があります。クリスチャンの生活は、神が御言葉の中で語っておられることに耳を傾けることと、祈りを通して神に語りかけることの両方を要求します。御言葉と祈りは、悪魔に抵抗し、神の道に踏みとどまる上で必要な力を与えてくれます。

今回は、神の御言葉の役割と力について学びます。

みことばと聖霊(エフェソ6:17)

「霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(エフェ6:17)。

パウロは神の御言葉をクリスチャンの武具の最後にあげていますが、このことは御言葉が重要ではないという意味ではありません。神の御言葉はクリスチャン生活の基礎となるものです。御言葉がなければ、神がどのようなお方か、私たちが何者か、どのようにして生まれたか、私たちの何が問題か、どのようにして罪から救われるか、神がキリストを通して何をされたか、人間の最終的な運命は何か、ということを理解できません。ほんの短い期間でも、もし聖書を無視するなら、極度の暗黒が支配するようになることは歴史が証言しています。これは共同体としての教会だけでなく、個人の生活においても言えます。したがって、パウロが私たちの霊的戦いにおける御言葉の重要性を強調しているのは決して偶然ではありません。

問1

神の御言葉は「霊の剣」と呼ばれています。聖書と聖霊の間にはどんな関係がありますか。Ⅱペトロ1:21、ヨハネ14:26、Iコリント2:10はどんなことを教えていますか。

神の啓示はさまざまな方法で現されます(ヘブ1:1~3)。驚嘆すべき天、美しい自然界、驚異に満ちた生命などはすべて、創造主なる神をあかししています(詩編33:6~9)。しかしながら、御子イエスと聖書を通して与えられる神の啓示は独特のものです。前者は私たちに罪からの救いをもたらし、後者はイエスの救いの御業をあかしします(ヨハ1:1~3、14、5:39、17:17、ロマ15:4)。このように、聖書は「キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵」(Ⅱテモ3:15)を私たちに与えてくれます。

聖書がクリスチャン生活に果たす役割について、パウロはさらに次のように述べています。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(Ⅱテモ3:16、17)。

剣と戦い

イエスはマタイ4:1~11で、サタンとの戦いにおいて、どのように神の御言葉に信頼したらよいか、模範を示しておられます。荒れ野におけるイエスの経験は二つの重要な教訓を教えています。

第一に、霊的な戦いは現実のものであって、神の民はだれひとりサタンの攻撃から逃れられません。サタンは自分の味方を攻撃しません。私たちが神に近づけば近づくほど、サタンは私たちを自分の側に引き寄せようとします(ヨブ1、2章)。

第二に、神の御言葉を知るだけでは不十分です。私たちは御言葉の著者を知り、その方の約束に信頼する必要があります。サタンは御言葉を用いて神の約束と目的を疑わせようとしますが、イエスは御言葉に信頼し、神の道に従われました。「イエスは聖書のみことばをもってサタンに応じられた。『こう書かれている』と、イエスは言われた。試みのたびに、イエスの戦いの武器は神のみことばであった。サタンはキリストに神性の証拠として奇跡を求めた。しかしどんな奇跡よりも力のあるもの、すなわち『主はこう言われる』ということばに対する固い信頼こそ反論のできない証拠であった。キリストがこの立場を持続されるかぎり、誘惑者は勝つことができなかった」(『各時代の希望』上巻129ページ)。

問2

神の御言葉はサタンの攻撃に勝利する上でどんな力を与えてくれますか。次の聖句から学んでください。申8:3、マタ4:4、ヘブ4:12、Ⅱペト1:4、詩編119:9、11

私たちに新生の経験をさせてくださった聖霊は(ヨハ3:3~8)、この経験についての証印であり、保証です(エフェ1:13、14)。聖霊は私たちのうちに住み(ロマ8:9、11、14、Ⅱコリ1:22)、私たちの心を造り変え(ロマ12:1、2)、私たちに聖書を理解させてくださいます(エフェ1:17~23、ヨハ16:13)。この聖霊は神の御言葉に霊感を与えたのと同じお方であって、私たちの心に宿ることによって、私たちが御言葉の剣によってサタンの攻撃をかわすのを可能としてくださいます。クリスチャンの兵士は、「生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭」い(ヘブ4:12)この御言葉を用いるべきです。それは罪を刺し通し、切り離し、善と悪を識別し、神の声と悪魔のささやきを峻別します。このように、御言葉は防御のための武器にもなれば、攻撃のための武器にもなります。

祈りとクリスチャンの戦い

「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(エフェ6:18)。

英国の作家ジョン・バニヤンの『天路歴程』の中に、クリスチャンが屈辱の谷でアポルオンと対決する感動的な場面が出てきます。サタンの勢力の象徴であるアポルオンは、神の国に向かって進む聖なる者たちを滅ぼそうとして、あらゆる武器を使ってクリスチャンに攻撃を仕掛けてきます。クリスチャンも霊の剣を用いて勇敢に戦います。ところが、激戦の最中に、クリスチャンは剣を失います。アポルオンはクリスチャンの命運の尽きたのを見て喜びますが、クリスチャンはもう一つの強力な武器である祈りを用いて戦いを続けます。クリスチャンはこの武器を巧みに用いて敵を打ち破り、力強く勝利の叫びをあげます。

問3

エフェソ6:18を読んでください。パウロはここで、祈りに関連して、さらにどんな勧告をエフェソの信徒に与えていますか。マコ13:33、Iコリ16:13、コロ4:2、Iペト5:8参照

パウロは祈りをクリスチャンの武具に含めていませんが、祈りがクリスチャンの生活と勝利に欠かせないことを認めていました。彼は、「どのような時にも、……絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」と言っています(エフェ6:18)。祈りはクリスチャンの毎日の生活に欠かせませんが、同時に、祈りは来るべき終末の試練に備えて希望を与えてくれます。真理、正義、平和、信仰、救い、御言葉という神の武具で身を固め、そのうえ祈りによって神に結ばれた生活は、サタンに勝利して余りある生活です。

勝利の手段としての祈りを最もよく例示しているのは、私たちの主の祈りの生活です。40日に及ぶ断食と祈り、それに神の御言葉に対する知識と信頼は、イエスが荒れ野の誘惑において悪魔に勝利する備えとなりました(マタ4:1~11)。神の御心を知り、それに従おうとして、苦悩のうちに魂を注ぎ出したゲッセマネの祈りは、イエスが十字架上の決定的な戦いに勝利する力を与えました(マタ26:36~46)。

祈りとクリスチャンの勝利(エフェ6:18~20)

非聖書的な意味では、祈りは神を探求すること、未知のものを追求することです。聖書的な意味では、祈りは神の御言葉に応答することです。神は語り、神は約束されました。神は「求めなさい」と言われました(マタ7:7、ルカ11:9)。私たちは神の言われたことに応答するのです。このように、クリスチャンにとって、祈りは第一の言葉ではなく、第二の言葉です。第一の言葉はつねに神の御言葉です。私たちは神の約束に従って祈らなければなりません。神の御言葉に耳を傾け、祈りによって神を求めることによって、神との交わりは完全なものとなります。

祈りにはしばしば、私たちの必要、子供、家族といった個人的な要素が含まれます。親しみを感じている人であればあるほど、その人のために祈るものです。これは自然なことであって、決して悪いことではありません。しかし、内輪の人だけのために祈り、隣人、共同体、教会、とりわけ御国の進展のために祈らないとすれば、それは問題です。人のために祈ることは度量の大きさを表すのではなく、神の家族がすべての人にまで及ぶということを認めることです。

問4

エフェソ6:18~20から、どのように祈るか、何について祈るか、いつ祈るか、など、祈りについて教えられることを書いてください。

パウロがここで個人的なことに触れている点に注目してください。彼は自分のためにも祈ってほしいと言っています。自分のどんなことのためでしょうか。牢獄から解放されることでしょうか。もっとよい食物が与えられるようにといった、個人的な安楽のためでしょうか。そうではありません。むしろ、無我の精神から、自分がキリストのための大胆な証人になることができるように、また「語るべきことは大胆に話せるように」(20節)祈ってほしい、と言っているのです。彼は自己に死んだ人間の内面を冷静に、しかし鋭く分析しています。

クリスチャンの品性(エフェソ6:21―23)

パウロは書き出しと同様に、イエスの御名による、恵みに満ちた挨拶でその手紙を結んでいます。イエスの御名のほかに、私たちが救われるべき名は天下に与えられていません。同様に、イエスの御名のほかに、私たちと神との関係および私たち相互の関係を規定し、信仰の共同体を確立する名はありません。贖われた共同体はキリストにある共同体です。これが『エフェソの信徒への手紙』全体に流れているテーマであって、同じテーマによって、使徒は一致についての一大賛歌であるこの手紙を結んでいます。

この手紙の結びの言葉は、クリスチャンの品性に見られる三つの素晴らしい特徴を明らかにしています。

共通の交わり パウロは優しい言葉をもって、自分の手紙を託した使者をエフェソの信徒に紹介しています。「彼[ティキコ]は主に結ばれた愛する兄弟であり、忠実に仕える者です」(エフェ6:21)。ダマスコへの途上でイエスと出会う以前のパウロなら、ティキコについてこのように言うことはできなかったでしょう。しかし、パウロは十字架につけられたキリストにおいて、ユダヤ人と異邦人を隔てていた壁が取り壊されるのを見ました(エフェ2:14~18)。彼は異邦人の回心者であるティキコを、愛する兄弟、また忠実に仕える者として受け入れました。このような広い包容力こそ共通の交わりの素晴らしさを示すものです。

共通の関心 キリストにある共同体はあらゆる境界線を越えて共通の関心を表します。使徒時代の教会は互いに挨拶を交わし、情報を分かち合い、困ったときには助け合いました。この慣習に従って、パウロはエフェソの信徒にティキコを遣わして、口頭でローマの状況について報告させようとしたのです。このような方法を通して、諸教会は世界の情勢を知ることができました。

共通の遺産 クリスチャンの遺産は朽ちない遺産であって、「父である神と主イエス・キリストから」、「朽ちぬ愛をもって」(エフェ6:23、24、新改訳)主を愛するすべての者に与えられます。キリストの弟子であることは、信者と主との間に永続的な関係を要求します。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(ヨハ15:4)と、イエスは言われます。このような主との変わらない愛の関係にある者たちは平和と愛、信仰と恵みの遺産を受けます。天にある神の謁見室から出たこれらの珠玉の言葉をもって、パウロは『エフェソの信徒への手紙』を結んでいます。

今週のメッセージ

祈りの重要性 「祈りは魂の呼吸、あらゆる祝福の経路である。悔い改めた魂が祈りをささげるとき、神はその悩みを見、その戦いを目に留め、その誠実さに目を向けられる。神は彼の脈拍を取り、その拍動の一つひとつに注目される。神の許しがなければ、どんな思いも彼を興奮させることなく、どんな感情も彼を動揺させることなく、どんな悲しみも彼を覆うことなく、どんな罪も彼を汚すことなく、どんな考えや目的も彼を動かすことがない。その魂は無限の代価をもって贖われ、変わることのない献身をもって愛されている」(エレン・G・ホワイト『マラナタ』85ページ)。

絶えず祈る 「頻繁にあなたの天の父に祈りなさい。頻繁に祈るなら、それに比例してあなたは聖なる神のみもとに引き寄せられる。聖霊は言葉に表せないうめきをもって誠実な嘆願者のために執り成してくださるので、心は神の愛によって和らげられ、服従するようになる。サタンが魂の周りに投げかける雲と影は義の太陽イエスの輝かしい光によって消散し、心と思いの部屋が天の光によって照らされる」(エレン・G・ホワイト『天上で』89ページ)。

パウロのような信仰の勇者が、エフェソの人々に「祈ってください」とお願いしていることに、驚きと感動を覚えます(6:19、20)。「祈ってください」と言える人は幸いです。この言葉は、その人が神により頼んでいることを示しています。また、その人は、神の助けだけでなく、人の助けを必要としていることを認めています。この言葉は、その人が謙遜であることを示しています。サタンは「祈ってください」とは決して言いません。彼のプライドが許しません。俺のために祈る必要などない、と彼は思っています。

さて、私たちは「天の父」に祈りなさい、と勧められています。私たちの祈りは、天に昇って行きます。祈りによって、私たちは天とつながります。私たちは携帯電話を使うようになりました。昔は、電話機があるところでしか、送受信することができませんでした。今は、どこでも話すことができます。すぐに連絡を取ることが可能です。でも、携帯電話より優れたものがあります。それは祈りです。祈りのスピードは、光より速いのです。私たちの祈りは、はるかかなたにある天に、空間を越えて届きます。祈りが捧げられた時、すでに神は聞いておられます。すごいことです。キリストを信じる人は、この最高のホットラインを持っているのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2005年4期『エフェソの信徒への手紙—イエスによる新しい関係の福音書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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