この記事のテーマ
1人の少年が小さな舟を作りました。ペンキを塗り、きれいに仕上げました。ところがある日、だれかがその舟を盗み出したのです。少年は心を痛めました。
そんなある日、1軒の質屋の前を通りがかったとき、彼は自分の舟を見つけました。うれしくて少年は質屋に駆け込むと、「これはぼくの舟です」と店主に言いました。しかし、「いや、これは私の物だ。なんせ買ったんだから」と、店主は答えました。「でも、本当にぼくのなんだ。だってぼくが作ったんだから」と。「それじゃあ、2ドル払うなら、君に売ろう」。一銭も持っていない少年にとって、それは大金でした。いずれにしても、少年はそれを買おうと決心したのです。草を刈り、あらゆる種類の雑用をし、間もなくお金を手に入れました。
「少年はあの質屋に走って行って、言った。『ぼくの舟をください』と。彼は代金を支払い、自分の舟を受け取った。彼はそれを腕に抱き上げ、抱きしめ、キスをして、こう言った。『やあ、親愛なる小さな舟くん。ぼくは君が大好きさ。君はぼくのものだよ。君は二度ぼくのものになったね。ぼくが君を作り、今こうして君を買ったんだから』
私たちもそうなのだ。ある意味で、私たちは二度主のものになった。主は私たちを創造され、私たちは悪魔の質屋に入った。すると、イエスがおいでになり、私たちをものすごい代償で——銀や金でなく、彼の貴い血によって——買い取ってくださったのだ。私たちは創造と贖いによって、主のものになったのである」(ウィリアム・M・ティドウェル『適切な説明』97ページ、英文)。
「物分かりの悪いガラテヤの人たち」
ガラテヤ3:1〜5を読んでください。パウロがガラテヤの人たちに言っていることは私たちも同じ霊的落とし穴に陥り、右傾化し始め、やがて律法主義にはまり込む可能性があります。「物分かりの悪いガラテヤの人たち」という1節におけるパウロの言葉の意味を捉えようと、さまざまな現代語訳聖書が努力してきました。パウロが使っている実際のギリシア語は、これ以上にもっと強い言葉です。それは「アノエートイ」という言葉で、「心、精神、理性」に相当する言葉「ヌース」に由来し、文字どおりには、「思慮がない」ことを意味します。ガラテヤの人たちは考えていない、ということです。パウロはそこでやめません。彼らが愚かな行動をしているので、どこかの魔術師が彼らに魔法をかけたのではないかと、彼は言います——「だれがあなたがたを惑わしたのか」。ここでの言葉の選択は、彼らの状態の背後にある究極の原因が悪魔であることを示しています(IIコリ4:4)。
ガラテヤの人たちが福音から離れたことに関してパウロを困惑させているのは、彼らが、救いはキリストの十字架に根差していることを知っていたという事実です。それは、彼らが見逃しえぬことでした。ガラテヤ3:1において「示された」とか「描き出された」と訳されている言葉は、文字どおりには「掲示された」とか「描かれた」という意味です。それは、さまざまな公式声明を表現するために用いられました。パウロは、キリストの十字架が彼の宣教の中心部分だったので、実質的に、ガラテヤの人たちは十字架につけられたキリストを心の目で見た、と述べています。ある意味において、彼らは自分たちの行動によって十字架から目を背けていると、彼は言っているのです。
次にパウロは、ガラテヤの人たちが現在体験していることと、いかに彼らが初めてキリストを信じるようになったかを対比します。答えを必要としない問いかけをいくつかすることで、彼はその対比を行っています。彼らはどのように聖霊を受けたのでしょうか。つまり、彼らは最初にどうやってクリスチャンになったのでしょうか。そして少し異なる観点から見れば、なぜ神は聖霊を授けられたのでしょうか。それを得るために彼らが何かをしたからでしょうか。もちろん違います!そうではなく、キリストが彼らのためにすでに成し遂げてくださったことの良き知らせを、彼らが信じたからです。出だしは好調だったのに、彼らはどうして、自分たちの行いに頼らねばならない、と今や考えるようになったのでしょうか。
聖書に基づいて
これまでのところ、パウロはガラテヤ書において、エルサレムで使徒たちと達した合意(ガラ2:1〜10)と、ガラテヤの人たち自身の個人的体験(同3:1〜5)に訴えることによって、信仰による義認の福音を擁護してきました。ガラテヤ3:6から始めて、パウロは今や、彼の福音の最終的、究極の確認のために、聖書のあかしに頼ります。実際に、ガラテヤ3:6〜4:31は、聖書に根差した積極的な議論で構成されています。
パウロがガラテヤ3:6〜8で「聖書」と記した際に、それは何を意味していたのでしょうか(ロマ1:2、4:3、9:17参照)。パウロがガラテヤ書を書いた当時、「新約聖書」が存在していなかったという事実を覚えておくことは重要です。パウロは、新約聖書の最初の記者でした。マルコによる福音書は、たぶん四福音書の中で最も古いものですが、パウロが亡くなった(西暦65年)頃まで、つまりガラテヤ書が書かれてからおよそ15年後までは、書かれていなかったようです。それゆえ、パウロが聖書と言うとき、彼の心にあるのは旧約聖書だけでした。
旧約聖書は、パウロの教えの中で重要な役割を果たしています。彼はそれを命のない文章ではなく、権威ある、神の生きた御言葉とみなしています。IIテモテ3:16に、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ(た)」と、彼は書いています。「霊の導きの下に」と訳されている言葉は、「セオプニューストス」というギリシア語です。この言葉の最初の部分である「セオ」は「神」を意味し、後半部分は「息を吹き込まれた」という意味です。聖書は、「神が息を吹き込まれた」ものだということです。パウロはこの聖書を用いて、イエスが約束されたメシアであることを論証し(ロマ1:2)、クリスチャンの生き方における指示を与え(同13:8〜10)、彼の教えの妥当性を証明しています(ガラ3:8、9)。
パウロが旧約聖書から何百回引用しているのかは判断しにくいのですが、最も短いテトスとフィレモンへの手紙を除けば、彼のすべての書簡の至る所に引用は見られます。ガラテヤ3:6〜14を読むと、これらの聖句は旧約聖書からの引用です。このことは、旧約聖書がいかに権威を持っていたかということについて物語っています。
義と認められる
パウロは彼の福音メッセージの正当性を証明するために聖書に頼る際、まずアブラハムに訴えました(ガラ3:6)。アブラハムはユダヤ教の中心人物でした。彼はユダヤ民族の父であっただけでなく、パウロの時代のユダヤ人は、彼をユダヤ人のあるべき姿の見本としても見ていました。多くの人が、アブラハムをよくあらわす特徴は服従であり、神が彼を正しい者と宣告されたのは、彼のその服従のゆえだと信じていました。何しろ、彼は故郷と親族を捨て、割礼を受け入れ、神の御命令に従って自分の息子さえ喜んで犠牲にしようとしたからです。まさに服従です!割礼へのこだわりとともに、パウロの敵はこれと同じような主張を確実にしました。しかしパウロは、(ガラテヤ書の中で9回も)アブラハムは律法順守の手本ではなく、信仰の手本なのだ、と訴えることによって形勢を逆転します。
パウロは創世記15:6を引用しました。そして彼は、「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」と言いました(ロマ4:3〜6、8〜11、22〜24も参照)。義認が、法律の世界から採用された比喩であるのに対して、「みなされる」とか「認められる」といった言葉は、ビジネスの分野から採用された比喩です。それは、「掛け売りをする」とか「何かをだれかの勘定に入れる」といったことを意味します。この言葉は、ガラテヤ3:6でアブラハムについて用いられているだけでなく、この族長との関連で11回も登場します。幾つかの聖書の訳は、それを「勘定に入れられた」「みなされた」「転嫁された」として翻訳しています。
パウロの比喩によれば、私たちの勘定に入れられるものは義です。しかし問題は、「神は何を根拠に私たちを義とみなされるのか」ということです。パウロの敵が何と主張しようと、それは服従に基づいてはなされえません。アブラハムの服従について彼らが何を言ったとしても、聖書は、神がアブラハムを義とみなされたのは彼の「信仰」によってである、と述べています。
聖書は明快です。アブラハムの服従は、彼の義認の根拠ではありませんでした。そうではなく、結果だったのです。彼は義とされるために何かをしたのではありません。彼がそれをしたのは、すでに彼が義とされていたからです。義認が服従をもたらすのであり、その逆ではありません。
旧約聖書の福音
「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました』」(ガラ3:8)。パウロは、福音がアブラハムに予告されたということだけでなく、それを告げたのは神であると記しています。ですから、その予告は真の福音であったに違いありません。しかし神はアブラハムに、いつその福音を予告されたのでしょうか。パウロが創世記12:3を引用している事実は、神がその箇所でアブラハムを召されたときに彼と結ばれた契約をパウロが頭に置いていることを示しています。
創世記12:1〜3を読んでください。これらの聖句は、神がアブラハムと結ばれた契約の性質について物語っています。神とアブラハムとの契約の基礎は、アブラハムに対する神の約束を中心にしていました。神は彼に、〔英語訳聖書だと〕「私は……するだろう」と4度言っておられます。アブラハムに対する神の約束は、それがまったく一方的であるがゆえに、驚くべきものです。神がすべての約束をなさっており、アブラハムは何も約束していません。私たちは通常、もし神が私たちのために何かをしてくださりさえすれば、神にお仕えします、と約束します。しかし、それは律法主義です。神はアブラハムに、何も約束することを求めず、信仰によって神の約束を受け入れることを求めておられます。言うまでもなく、それは簡単なことではありませんでした。なぜならアブラハムは、自分自身を信頼するのではなく、完全に神を信頼することを学ばねばならなかったからです(創世記22章参照)。それゆえ、アブラハムの召命は信仰による救いという福音の本質を説明しています。
聖書は二つの救いの方法を教えていると、誤って結論づけている人たちがいます。彼らの主張は、旧約時代の救いは戒めを守ることに基づいていたが、それがうまく機能しなかったので、神は律法を廃止し、信仰によって救いを可能にされたというものです。これは真実からかけ離れています。パウロがガラテヤ1:7で書いているように、福音は一つしかありません。
信仰のみによる救いの例として、ほかにも旧約聖書の中に見いだすことができます(例えば、レビ17:11、詩編32:1〜5、サム下12:1〜13、ゼカ3:1〜4)。
呪いからの贖い
パウロの敵は、ガラテヤ3:10の大胆な言葉にきっと驚いたことでしょう。彼らは、自分たちが呪われているなどと夢にも思っていませんでした。それどころか、彼らの服従によって祝福されると期待していたのです。しかし、パウロは明快でした。「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています」
パウロはまったく異なる二つの方法(「信仰による救い」と「行いによる救い」)を対比しています。申命記27章、28章で要点が説明されている契約の祝福と呪いは、単刀直入でした。従う者は祝福され、従わない者は呪われます。要するに、もし人が神に受け入れていただくために律法順守に頼るのなら、すべての律法を守る必要があるということです。私たちには、自分が従いたい律法をえり好みする自由もなければ、神があちこちの過ちを喜んで見逃してくださると考えるべきでもありません。中途半端は許されないのです。
言うまでもなく、これは異邦人にとっても、パウロの律法主義的な敵にとっても悪い知らせです。なぜなら、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなってい(る)」(ロマ3:23)からです。私たちが良くなろうとどんなに努力しても、律法は私たちを律法の違反者として罪に定めることしかできません。
キリストは私たちを律法の呪いから解放してくださいました(ガラ3:13、IIコリ5:21参照)。パウロは、神が私たちのためにキリストによって成し遂げてくださったことを説明するために、もう一つの比喩を用いています。「贖い」という言葉は「買い戻す」という意味で、人質の解放のために支払われる身代金や、奴隷を自由にするために支払われる代金として用いられました。罪が支払う報酬は死なので、律法を破ることの呪いは、しばしば死刑宣告でした。私たちの救いのために支払われた身代金は、取るに足りないものではありません。それは神に、御子の命という犠牲を払わせました(ヨハ3:16)。イエスは、私たちの罪を担う者となることで、その呪いから私たちを買い取ってくださったのです(Iコリ6:20、7:23)。彼は自発的に私たちの呪いを自分の身に引き受け、私たちの代わりに罪の厳罰を受けてくださいました(IIコリ5:21)。
パウロは聖書の証拠として申命記21:23を引用しています。ユダヤ人の慣習によれば、刑の執行のあとに死体が木にかけられるなら、その人は神に呪われた者でした。十字架上でのイエスの死は、この呪いの一例とみなされました(使徒5:30、Iペト2:24)。メシアが神によって呪われるという考えを理解できない一部のユダヤ人たちにとって、十字架がつまずきの石であったのは無理もありません。しかし、これこそがまさに神の御計画だったのです。確かに、メシアは呪いをお受けになりましたが、それは彼自身の呪いではなく、私たちの呪いだったのです。
さらなる研究
「われわれの身代りまた保証人としてキリストの上にわれわれ全部の者の不義がおかれた。律法による有罪の宣告からわれわれをあがなわんがために、キリストは、罪人にかぞえられた。アダムの子孫1人1人の不義がキリストの心に重くのしかかった。罪に対する神の怒り、不義に対する神の不興の恐るべきあらわれが、み子の魂を非常な驚きと恐れで満たした。一生の間、キリストは、天父の憐れみとゆるしの愛についてのよい知らせを堕落した世に宣伝してこられた。罪人のかしらの救いがキリストのテーマであった。
しかしいま、自ら負っておられる不義の恐るべき重さで、キリストは、天父のやわらぎのみ顔を見ることがおできにならない。この最高の苦悩の時に神のみ顔が見えなくなったために、救い主の心は、人にはとうていわからない悲しみに刺し通された。この苦悩は、肉体的な苦痛などほとんど感じられないほど大きかった」(『希望への光』1075ページ、『各時代の希望』下巻274、275ページ)。
「今やルターは、真理の闘士としての彼の仕事に、大胆に乗り出した。彼は説教壇から、熱心で厳粛な警告の声をあげた。彼は人々に、罪のいまわしい性質を告げ、人間は自分自身の行為によっては、そのとがを減じることも罰を避けることもできないと教えた。神に対する悔い改めと、キリストに対する信仰以外に、罪人を救うことができるものはない。キリストの恵みを買うことはできない。それは、無償で与えられる賜物である。彼は人々に、免罪符を買ったりしないで、十字架につけられた贖い主を、信仰をもって見つめるように勧めた」(『希望への光』1651ページ、『各時代の大争闘』上巻150ページ)。
まとめ
クリスチャン生活の最初から最後まで、私たちの救いの根拠はキリストにある信仰のみです。アブラハムが義と認められたのは、神の約束に対する彼の信仰のゆえであり、その同じ義の賜物は、彼の信仰を共有する今日のだれもが得ることができます。私たちが自分の過ちのゆえに罪に定められないのは、イエスが私たちの代わりに死ぬことで、私たちの罪の代価を支払ってくださったからです。
*本記事は、安息日学校ガイド2017年3期『ガラテヤの信徒への手紙における福音』からの抜粋です。