【ガラテヤの信徒への手紙】キリストによる自由【5章解説】#11

目次

この記事のテーマ

パウロはガラテヤ2:4において、私たちがキリストによって得ている「自由」を守ることの重要性に少し触れています。しかし、彼がしばしば語る自由とは、どういう意味なのでしょうか。この自由には、どのようなものが含まれるのでしょうか。この自由はどのくらいまで許容するのでしょうか。何か制限があるのでしょうか。キリストによる自由と律法とは、どのような関係にあるのでしょうか。

パウロはガラテヤの人たちに二つの危険を警告することで、これらの疑問に答えています。

第一の危険は律法主義です。ガラテヤにいるパウロの敵は、行動によって神の好意を得ようとすることにひどく捕らわれ、キリストの働きの解放をもたらす性質や、彼らが信仰を通じてキリストによってすでに得た救いを見失っていました。

第二の脅威は、放縦に陥ることで、キリストが私たちのために犠牲を払って得てくださった自由を悪用する傾向です。このような見解を持つ者たちは、自由が律法とは真逆のものだと誤って思い込んでいるのです。

律法主義も放縦も自由とは対立します。なぜなら、それらはいずれもその信奉者たちを一種の隷属状態にとどめ置くからです。しかし、ガラテヤの人たちに対するパウロの訴えは、彼らがキリストによって正当に所有している真の自由にしっかり立ちなさい、ということです。

「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラ5:1)。

心が揺れ動く部隊に対する軍の指導者の激励のように、パウロはガラテヤの人たちに、キリストによる彼らの自由を放棄してはいけない、と命じています。パウロの語調の力強さと激しさは、彼の言葉をすぐにでも行動に移させそうです。実際、まさにそれがパウロの意図したことのようです。この聖句は、主題的には前後の聖句とつながっていますが、その唐突さとギリシア語における構文的つながりのなさは、パウロがこの聖句を巨大な広告看板のように目立たせたいと思っていたことを示しています。キリストによる自由は、パウロの主張全体を要約しており、ガラテヤの人たちはそれを手放す危機の中にありました。

ガラテヤ1:3、4、2:16、3:13を読んでください。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」(ガラ5:1)というパウロの言葉は、ここで彼の頭の中に別の比喩があることを示唆しているかもしれません。この聖句の言い回しは、奴隷の聖なる解き放ち(解放)で用いられた決まり文句に似ています。奴隷には法的権利がなかったので、〔多神教の〕神が彼らの自由を買うことができ、代わりに、その奴隷は、実際には自由であるけれども、法的にその神のものになる、と考えられていました。言うまでもなく、実際には、その手続きは架空の話であり、自由の身となるために神殿の経理係にお金を払ったのは奴隷自身でした。例えば、紀元前201年から西暦100年頃のデルフォイのピュティア・アポロンの神殿で見つかったおよそ千の碑文の一つで用いられていた決まり文句に注目してください。「自由を得させるために、ピュティア・アポロンはニカイアという名前の女奴隷をアンフィサのソシブスから買った。……しかし〔実際には〕、ニカイアは自由を得るためにこの売買をアポロ神に委託したのである」(ベン・ウィザーリントン三世『ガラテヤにおける恵み』340ページ、英文)。

この言い方はパウロの言葉遣いと基本的に似ていますが、根本的な違いもあります。パウロの比喩には作り話が含まれていません。私たちは自分自身で代価を支払いませんでした(Iコリ6:20、7:23)。その価格は私たちには高すぎました。私たちには自分を救う力がありませんでしたが、イエスが介入し、私たちにできないことをしてくださったのです(少なくとも、私たちの命を失うことなく)。彼は私たちの罪に対する罰を受け、それによって私たちを有罪判決から解放してくださいました。

クリスチャンの自由の性質

自由にしっかり立ちなさいというパウロの命令は、ほかとのつながりがなく、なされたのではありません。それに先立って、重要な事実が述べられています。——「キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」。なぜクリスチャンは、自由にしっかり立たねばならないのでしょうか。それは、キリストがすでに彼らを自由の身にしてくださったからです。言い換えれば、私たちの自由は、キリストが私たちのために成し遂げてくださったことの結果だからです。

事実を述べたあとに勧告が続くというこの形は、パウロの手紙において特徴的です(Iコリ6:20、10:13、14、コロ2:6)。例えば、彼はローマ6章で、キリストにおける私たちの状態という事実について、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた……と知っています」(ロマ6:6)というような叙実法の言葉を何回か述べています。パウロはこの事実に基づいて、「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて……はなりません」(同6:12)と、命令法の勧告を発することができるのです。パウロはこのような言い方によって、「キリストにあってすでにある姿でありなさい」と実質的に述べています。福音による道徳的生き方は、私たちが神の子らであることを証明するために、なすべき重荷を負わせたりしません。むしろ私たちは、すでに神の子らであるがゆえになすことをなします。

キリストは私たちを自由にしてくださいました(ロマ6:14、18、8:1、ガラ4:3、8、5:1、ヘブ2:14、15)。クリスチャン生活を表現するために「自由」という言葉を使うことは、新約聖書のほかのどの書よりもパウロの手紙において目立っています。「自由」とその同語源語は、ほかでは合計13回にすぎないのに対して、パウロの手紙の中には28回も登場しています。

パウロは、どういう意味で自由という言葉を使っているのでしょうか。第一に、それは抽象的な概念ではありません。それは、政治的自由、経済的自由、好きなように生きる自由のことでもありません。それは、イエス・キリストとの関係に根差した自由です。文脈から、パウロが律法主導のキリスト教の隷属と有罪宣告からの自由について述べていることはわかりますが、私たちの自由にはそれ以上のものが含まれます。罪、永遠の死、悪魔からの自由が含まれているのです。

「イエス・キリストを別にすれば、人間の存在は隷属によって特徴づけられる。律法への隷属、この世を支配している悪の力への隷属、罪、肉、悪魔への隷属などである。神が御子をこの世に遣わされたのは、こういった束縛するものの支配を打ち砕くためであった」(ティモシー・ジョージ『ガラテヤ書』354ページ、英文)。

律法主義の危険な影響

ガラテヤ5:2〜12のパウロの導入の仕方は、これから言おうとしていることの重要性を示しています。「見よ」(口語訳)、「よく聞いてください」(新改訳)、「わたしパウロはあなたがたに断言します」……。彼はおどけているのではありません。「見よ」という言葉を使うことによって、パウロは読者の細心の注意を求めているだけでなく、彼の使徒としての権威を喚起しているのです。彼は、もし異邦人が救われるために割礼を受けるのであれば、ガラテヤの人たちはその決定に伴う危険な影響を自覚する必要があることを、彼らに理解させたいと思っています。

ガラテヤ5:2〜12を読んでください。割礼を受けることによって神の好意を得ようとすることの最初の影響は、その人が律法全体を守らなければならなくなるということです。2節と3節におけるパウロの言葉には、興味深い語呂合わせが含まれています。彼は、キリストが彼らにとって何の役にも立たず(「オフェレーセイ」)、むしろ彼らは律法に対して義務がある(「オフェイレテース」)と言います。もし人が律法に従って生きたいと思うなら、その人は従うべき掟をえり好みできません。全部かゼロかです。

第二に彼らは、キリストとは「切離」されます。行いによって義とされるという決定には、同時に、キリストによる神の義認の方法を拒絶することが含まれます。「あなたは両立させることができない。キリストを受け入れ、それによってあなたが自分自身を救えないことを認めておきながら、次に割礼を受け、それによって自分自身を救えると認めることはできないのである」(ジョン・R・W・スコット『ガラテヤ書のメッセージ』133ページ、英文)。

割礼に対するパウロの第三の反対は、それが霊的成長を妨げるからです。パウロが用いるのは、ゴールに向かっていたのにその進み具合が意図的に妨害されてしまった走者の比喩です。実際、「邪魔をし(た)」(7節)と訳されている言葉は、「敵の前進を食い止めるために、道を崩したり、橋を落としたり、敵の道に障害物を置いたりすること」(『SDA聖書注解』第6巻978ページ、英文)を指すために軍事的集団の中で用いられていました。

第四に、割礼はキリストの十字架のつまずきをなくします。どのようになくすのでしょうか。割礼のメッセージは、あなたが自分自身を救えることを意味します。それは人間のうぬぼれをほめそやすようなことです。しかし、十字架のメッセージは人間のうぬぼれに対して攻撃的です。なぜなら私たちは、自分が完全にキリストに依存していることを認めなければならないからです。

パウロは、この人たちが割礼にこだわることに激怒し、ナイフが滑り落ちて、彼らを去勢してしまえばいいのに、と言っています!強い言葉ですが、パウロの語調は、彼がこの問題をいかに深刻に見ているかを反映しているにすぎません。

放縦ではなく自由

ガラテヤ5:13は、ガラテヤ書において重要な転換点になっています。パウロはここまで、彼のメッセージの神学的内容にもっぱら焦点を合わせてきましたが、今やクリスチャンの行動の問題に目を向けます。行いによって救われない人間は、どのように生きるべきなのでしょうか。

パウロは、ガラテヤの人たちが自由の悪用をしないようにさせたいと思っていました(ガラ5:13)。パウロは、信者がキリストにおいて持っている恵みと自由を強調することに伴う誤解の可能性を十分にわかっていました(ロマ3:8、6:1、2)。しかし、問題はパウロの福音ではなく、人間の身勝手な傾向でした。歴史のページには、道徳的混乱に陥ったことが直接的に自制心の欠如につながった人々、都市、国家の物語が散見されます。このような傾向を自分自身の生き方の中にも感じたことのない人がいるでしょうか。それゆえ、パウロは肉欲にふけることを避けなさい、とイエスの弟子たちにはっきり命じているのです。それどころか彼は、反対のことをしてほしい、つまり「愛によって互いに仕えなさい」と彼らに望んでいます。愛によって他者に仕える人ならだれもが知っているように、これは自己に死ぬこと、肉に死ぬことによってのみなされうることです。肉欲にふける者たちは、他者に仕える傾向がありません。それどころか、その逆です。

このように、キリストによる私たちの自由は、この世に隷属することからの単なる自由ではなく、新しい種類の奉仕、愛によって他者に仕える責任への召しなのです。それは、「妨げなく隣人を愛する機会、相互の自己犠牲に基づく人間社会を生み出す可能性なのである」(サム・K・ウィリアムズ『ガラテヤ書』145ページ、英文)。

私たちがキリスト教に慣れ親しんでいることや、ガラテヤ5:13の現代語訳の言葉遣いのために、これらの言葉からガラテヤの人たちが受けた衝撃を見逃しがちです。第一に、そのギリシア語は、この種の奉仕を動機づける愛が普通の人間的な愛ではないこと、人間的な愛では不可能であることを示しています。人間の愛はあまりにも条件付きだからです。ギリシア語の「愛」に相当する言葉の前にパウロが定冠詞を用いていることは、彼が聖霊によって私たちに与えられる神の愛について述べていることを示します(ロマ5:5)。しかし本当の驚きは、「仕える」と訳されている言葉が、「奴隷にされる」に相当するギリシア語だという事実にあります。私たちの自由は自立のためのものではなく、キリストの愛に基づいて相互に奴隷になるためのものです。

律法全体を全うする

「律法全体を行う」(ガラ5:3)というパウロの否定的な言葉と、「律法全体は……全うされる」(同5:14)という彼の肯定的な言葉との折り合いを、あなたはどのようにつけたらいいのでしょうか(ロマ10:5、ガラ3:10、12、5:3をロマ8:4、13:8、ガラ5:14と比較)。多くの人が、「律法全体を行う」というパウロの否定的な言葉と「律法全体は……全うされる」という肯定的な主張の違いを逆説的なものとしてみなしてきました。実のところ、そうではありません。その答えは、パウロが律法との関係でクリスチャンの行動を定義づける二つの仕方の間に重要な区別をつけるために、それぞれの言葉を意図的に用いているという事実の中にあります。例えば、パウロが律法順守を肯定的に述べているとき、彼は決して「律法を行う」こととしてそれを述べているのではないというのは意義深い点です。彼は、律法の下で生き、律法が命じることを「実行すること」によって神の承認を得ようとする人々の誤った行動を述べるためだけにこの言葉を用意しています。

これは、キリストの内に救いを見いだした者たちは律法に従わないということを意味するのではありません。それはまったくの見当違いです。彼らは律法を「全うする」と、パウロは言います。真のクリスチャンの行動は律法を単に「行う」という外面的な服従以上のものであると、彼は言っています。パウロが「全うする」という言葉を用いているのは、それが単に「行う」ことをはるかに超えているからです。この種の服従は、イエスに根差しています(マタ5:17参照)。それは律法を放棄することでも、愛することだけに律法を単純化することでもなく、それによって信者が律法全体の真の意図と意味を体験できる方法です。

パウロによれば、律法の完全な意味はイエスに見いだされます(レビ19:18、マコ12:31、33、マタ19:19、ロマ13:9、ヤコ2:8)。ガラテヤ書におけるパウロの言葉はレビ記からの引用ですが、突き詰めれば、レビ記19:18をイエスがお用いになったことに基づいています。しかしイエスは、律法全体の要約としてレビ記19:18に触れた唯一のユダヤ人教師ではありません。イエスより一世代前に生きたラビ・ヒレルは、「あなたにとって不愉快なことを隣人にしてはならない。それが律法全体である」と言いました。しかし、イエスの考え方は、根本的に違いました(マタ7:12)。それはずっと肯定的であるばかりでなく、律法と愛が相容れないものではないこともはっきり示しています。愛がなければ、律法は空しく、冷たいものであり、律法がなければ、愛には方向性がありません。

さらなる研究

「純粋な信仰は、常に愛によって働く。カルバリーを見るとき、それは何の義務も果たさないように魂を鎮めるためでも、眠るように心を静めるためでもなく、イエスに対する信仰、働く信仰、魂を自己中心という泥から清める信仰を生み出すためである。私たちが信仰によってキリストを捕らえるとき、私たちの働きは始まったばかりである。すべての人は、激しい戦いによって打ち勝たなければならない堕落した罪深い習慣を持っている。いずれの魂も信仰の戦いを闘わねばならない。キリストに従う者であるなら、その人は取り決め(取引)において厳しくあることも、冷酷であることも、情けに欠けることもできない。言葉遣いにおいて下品であることも、うぬぼれや自尊心にあふれることもありえない。その人は横柄であることも、荒々しい言葉を使って非難したり、糾弾したりすることもありえない。

愛の労苦は、信仰の働きから生じる。聖書の宗教は、絶え間のない働きを意味する。『そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである』(マタ5:16)。『恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです』(フィリ2:12、13)。私たちは善行に熱心であり、善行を続けるように注意しなければならない。そうすれば、真の証人であるお方が、『わたしはあなたの行いを知っている』と言われる。

私たちの忙しい活動がそれ自体で救いを保証するものでないというのは真実だが、私たちをキリストに結びつける信仰が魂を活動へと駆り立てることも真実なのである(原稿16、1890年)」(エレン・G・ホワイト『SDA聖書注解』第6巻1111ページ、英文)。

まとめ

「自由」は、パウロが福音を定義するために好む言葉の一つです。自由には、私たちをこの世の隷属から解放するためにキリストが成し遂げてくださったこととともに、クリスチャン生活を送るように私たちがいかに召されているかということが含まれています。しかし私たちは、この自由が律法主義や放蕩の犠牲とならないように注意しなければなりません。キリストが私たちを自由の身にしてくださったのは、私たちが自己に仕えるためではなく、私たちの人生を隣人たちへの働きにささげるためです。

*本記事は、安息日学校ガイド2017年3期『ガラテヤの信徒への手紙における福音』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次