この記事のテーマ
ガラテヤ書に関するこのシリーズの研究は、真剣なものでした。というのも、この手紙そのものが真剣な内容だからです。パウロは、自分の召しを知り、彼が説いた真理(つまるところ、彼が何度も言っているように、その真理は主から来たものでした)を知っていたので、イザヤ、エレミヤ、ホセアといった旧約聖書の預言者たちと同様の、霊感を受けた情熱をこめてこの手紙を書きました。彼らが当時の神の民に、過ちから遠ざかりなさい、と嘆願したように、パウロもここで彼の時代の神の民に同じことをしています。
目の前の状況がいかに異なろうと、結局のところ、エレミヤの言葉が当時の人々に当てはまったのと同じように、ガラテヤの人たちにもすんなり当てはまります。「主はこう言われる、『知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない。誇る者はこれを誇とせよ。すなわち、さとくあって、わたしを知っていること、わたしが主であって、地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである。わたしはこれらの事を喜ぶと、主は言われる』」(エレ9:23、24、口語訳)。
キリストの十字架の前以上に、私たちの「誇るべき」知恵、富、力の無益さ、空しさがはっきりとわかる場所はありません。ガラテヤの誤れる群れへのパウロの手紙の焦点は、そこなのです。
パウロ自身の手
ガラテヤ6:11〜18におけるパウロの結びの言葉と、彼がほかの手紙で述べている最後の言葉を比較すると(ローマ、コリントI・II、エフェソ、フィリピ、コロサイ、テサロニケI・IIの最後の言葉を参照)、ガラテヤ書の終わりは、それらと違っています。パウロの結びの言葉は必ずしも一様ではありませんが、そこにはいくつかの共通点があらわれています。①具体的な個人への挨拶、②最後の勧め、③パウロ自身の署名、④結びの祝祷。これらの典型的な特徴をガラテヤ書におけるパウロの最後の言葉と比較するとき、二つの著しい違いがわかります。
第一に、パウロの多くの手紙と異なり、ガラテヤ書には個人への挨拶が含まれていません。なぜでしょうか。手紙の冒頭に慣例的な感謝の言葉がないように、これもたぶん、パウロとガラテヤの人たちとの緊張した関係を伝えているのでしょう。パウロは丁寧ですが、他人行儀です。
第二に、パウロが習慣的に彼の手紙を筆記者に書き取らせていたことを思い出さなければなりません(ロマ16:22)。そして口述筆記が終了すると、パウロはしばしば自らペンを取り、手紙を終えるために自分の手で一言書いたものでした(Iコリ16:21)。しかしガラテヤ書では、いつもとは違うことをしています。パウロは筆記者からペンを受け取ったとき、依然としてガラテヤの状況が心配なので、さらにもう少し書いています。彼は、愚かな道から離れなさい、とガラテヤの人たちに今一度嘆願するまではペンを置けなかったのでしょう。
パウロはガラテヤ6:11において、大きな文字で手紙を書いたと強調しています。その理由はわかりません。パウロは文字の大きさのことでなく、文字の不格好な形のことを言っているのだ、と推測してきた人たちがいます。彼らは、パウロの手が迫害のために不自由であったか、テント造りのために節くれだっていたので、彼は正確に字を書けなかったのだろう、と言います。パウロのこの言葉は、彼の視力が悪かったことのさらなる証拠だ、と思っている人たちもいます。いずれの見解も可能性はありますが、私たちが重要な言葉や考えの箇所に下線を引いたり、そこを斜体にしたり、大文字にしたりするように、パウロは彼の主張をはっきり示し、改めて強調するために意図的に大きな文字で書いたのだと単純に結論づけるほうが、はるかに確かなようです。その理由が何であれ、パウロは読者に、彼の警告や勧告に注意を払ってほしい、と確かに望んでいたのです。
肉について誇る
ガラテヤ6:12、13を読んでください。パウロは敵の意図や動機について先にほのめかしていましたが(ガラ1:7、4:17)、彼の言葉は、彼が敵について述べた最初の明確なコメントです。パウロは、彼らは「肉において人からよく思われたがっている」と評しています。「よく思われたがっている」という句に相当するギリシア語の文字どおりの意味は、「(不満を隠して)良い顔をする」ということです。実のところ、「顔」を意味するギリシア語は俳優の仮面に相当する言葉と同じで、それは比喩的に、俳優が演じる「役」を指すために用いられることもありました。言い換えれば、この人たちは俳優のように観客の称賛を得ようとしているのだと、パウロは言っています。名誉と恥に基づく文化の中で、一致は不可欠であり、誤りを教えている者たちは、ガラテヤの仲間のユダヤ人やエルサレムのユダヤ人クリスチャンたちの前で評判を上げようとしているかのようでした。
パウロは彼らの動機の一つについて重要な指摘をしています。迫害を避けたいことが動機だというのです。迫害は、暴行を伴う劇的なものとも理解できますが、嫌がらせや排斥のようなもっと「穏やかな」形での害だとも理解できます。パウロやほかの熱烈なユダヤの狂信者たちは、かつて前者のタイプの迫害を実行しましたが(ガラ1:13)、後者のタイプもクリスチャンに影響を及ぼしました。
ユダヤ人の宗教指導者たちは、依然として多くの分野で大きな政治的影響力を及ぼしていました。彼らはローマの正式な認可を受けており、それゆえ、多くのユダヤ教徒が彼らと良好な関係を維持することに熱心でした。異邦人に割礼を施し、律法を守るように教えることによって、ガラテヤの厄介者たちは地元のユダヤ人と共通点を見いだすことができました。それによって、彼らは諸会堂と友好な関係を維持できただけでなく、異邦人になされている働きに対して疑惑を深めていたエルサレムの信者とのつながりを強化することさえできたのです(使徒21:20、21)。間違いなく、ある意味で、彼らの行動はユダヤ人に対してより効果的なあかしをしたのでした。パウロがどのような状況を考えているにしろ、彼の意味するところははっきりしています。「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(IIテモ3:12)ということです。
十字架を誇る
「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」(ガラ6:14)。
ある人たちが割礼を主張するように促された動機を露呈したあと、パウロはもう一度ガリラヤの人たちに、要約したかたちではあるものの、彼の福音のメッセージを伝えます。パウロにとって、福音は二つの基本的な教義に基づいています。①キリストの十字架が中心であること(14節)と、②義認の教え(15節)です。
きょうの研究では、前者に焦点を当てます。私たちは21世紀に生きているので、キリストの十字架に関するパウロの言葉(ガラ6:14)が最初に与えた衝撃を理解することは困難です。今日、キリストの十字架は、多くの人にとって肯定的な気持ちを起こさせる一般的で大切な象徴になっています。しかしパウロの時代、十字架は誇るべきものなどではなく、嫌悪されるべきものでした。ユダヤ人は十字架につけられたメシアという考えに憤慨し、ローマ人は十字架刑をひどく不快に思っていたので、それがローマ市民にふさわしい刑罰だとさえ言われませんでした。
古代世界はキリストの十字架を軽蔑の目で見ていたことが、記録に残っている最も初期の十字架刑の絵にはっきりとあらわれています。2世紀初頭にさかのぼる古代の落書きの一つは、ロバの頭をした人間の十字架刑を描いています。十字架の下のほうで、拝むために両手を挙げている1人の男の横には、「神を拝むアレクサンダー」という文字が書かれています。言いたいことは明瞭です。キリストの十字架は、馬鹿げたものとみなされていました。パウロが、誇ることのできるのはキリストの十字架だけだ、と大胆にも宣言したのは、このような背景の中においてでした。
キリストの十字架は、パウロとこの世との関係に違いをもたらしました(ガラ6:14、ロマ6:1〜6、12:1〜8、フィリ3:8)。キリストの十字架は、信者にとってすべてを変えます。それは、自分自身に対する私たちの見方だけでなく、この世に対する私たちの関わり方も再評価するように迫ります。この世——この現在の悪しき時代とそれに伴うあらゆるもの(Iヨハ2:16)——は神に敵対しています。私たちはキリストと共に死んだので、この世はかつて私たちに対して持っていた隷属させる力をもはや持っていませんし、私たちがこの世のためにかつて生きていた古い命は、もはや存在しません。パウロの比喩に従えば、信者とこの世の断絶は、あたかも両者が互いに対して死んだようなものでした。
新しい創造
クリスチャンの人生にとってキリストの十字架が中心であることを強調したのち、今やパウロは彼の福音メッセージの二番目の基本的な教義、信仰による義を強調します。今期ずっと見てきたように、パウロは割礼と福音を基本的に対抗させてきました。しかし、彼は割礼という慣習そのものに反対しているのではありません。パウロは割礼に対して強い意見を述べていますが(ガラ5:2〜4参照)、ガラテヤの人たちが割礼を受けるよりも受けないほうが神を喜ばすのだと結論づけることは望んでいません。それは彼の主張ではありません。なぜなら人は、することに関してと同様、しないことに関しても律法主義的になりうるからです。霊的に言えば、割礼そのものの問題は無関係です。真の宗教は、外面的な行為に根差しているのではなく、人の心の状態に根差しているからです。イエス御自身が言われたように、人は外側をすばらしく見せることができても、内側は霊的に腐っていることがあるのです(マタ23:27)。
「新しく創造されたこと(者)」(ガラ6:15、IIコリ5:17)とはどういう意味でしょうか。「創造」と訳されているギリシア語は「クティシス」です。この言葉は、個々の「被造物」(ヘブ4:13)を指すことも、「被造物全体」(ロマ8:22、口語訳)を指すこともできますが、いずれの場合にも、創造主の行為を暗示しています。それがパウロの論点です。「新しく創造されたこと(者)」になるというのは、割礼であれ、何であれ、人間的努力によってもたらせるものではありません。イエスはこの過程を「新たに生まれること」と呼んでおられます(ヨハ3:5〜8)。それは、霊的に死んでいる人を神が選び、その人に霊的命を吹き込まれる神の行為です。これは、通常パウロが信仰による義と評する救済行為を説明するためのもう一つの比喩です。
パウロは、この新しい創造の体験について、IIコリント5:17でもっと詳しく述べています。この聖句の中でパウロは、新しく創造された者になるというのは、単に天の書における私たちの立場が変わるだけではない、と説明しています。それは、現在の私たちの生き方に変化をもたらします。ティモシー・ジョージが記しているように、「(それには)回心の全過程が伴う。すなわち、悔い改めと信仰につながる聖霊の再生の働き、苦行と復活の日常的な過程、キリストのみかたちとの最終的一致につながる継続的な成長などが伴うのである」(『ガラテヤ書』438ページ、英文)。
しかし、新しく創造された者になることで、私たちが義とされるのではありません。そうではなく、そのような根本的な変化は、義とされるということの紛れもないあらわれです。
最後の言葉
問1
パウロは、彼が言うところの、「このような原理に従って生きていく人」(ガラ6:16)たちに祝福を与えます。前後関係からすると、パウロはどの「原理」について語っているのだと、あなたは思いますか。
「原理」と訳されている言葉は、文字どおりには、石工や大工が測るために用いた真っ直ぐな棒を指します。最終的にこの言葉は、人が何かを評価するために用いる基準や標準を指す比喩的な意味を持つようになりました。例えば、人々が新約聖書聖典について語るとき、彼らは新約聖書の中の27の書巻を指しており、それらは、教会の信仰と実践の両方を決定するための権威とみなされています。それゆえ、もしある教えがこれらの書巻の中で見いだされることと一致しなければ、それは受け入れられません。
パウロが彼の身に受けているという「主イエスの焼き印」とは、何のことでしょうか。パウロは、その焼き印のゆえにだれも彼を「煩わさない」でほしい、と言っています(ガラ6:17、IIコリ4:10、11:23〜29)。
この「焼き印」に相当するギリシア語は「スティグマタ」で、英語の「スティグマ(stigma)」(「烙印」「不名誉のしるし」「兆候」)はその派生語です。パウロは、本人確認のために主人の印で奴隷たちに焼き印を押す習慣や、献身のしるしとして信奉者が自らに焼き印を押す、いずれかの神秘宗教で行っていることを言っているのかもしれません。いずれにしても、「『主イエスの焼き印』という言葉で、パウロは間違いなく、迫害と苦難によって彼の体に残った傷に言及している(IIコリ4:10、11:24〜27参照)。彼の敵は、ユダヤ教への帰依のしるしとして割礼の印を受けることを異邦人改宗者に強制するよう、強く要求している。しかしパウロは、彼がだれの奴隷になったかを示す印を持っており、しかも彼にとってキリストに対する忠誠心以外の忠誠心はないのである。……パウロが、彼の主人に仕える中で敵から受けた傷は、キリストに対する彼の献身を最も大胆に語ったのである」(エレン・G・ホワイト『SDA聖書注解』第6巻989ページ、英文)。
さらなる研究
「カルバリーの十字架は挑戦し、最終的に地上や地獄のあらゆる力を打ち負かすだろう。すべての影響力は十字架に集中し、すべての影響力はそこから出て行く。それは大いなる注目の的である。なぜなら、キリストは人類のためにそこで御自分の命を捨てられたのだから……。この犠牲が払われたのは、人間を本来の完全さに回復するためであった。いや、それ以上に、人間の品性を全面的に変え、人間を征服者以上の者とするために、この犠牲は払われたのである。キリストの力によって神と人間の大いなる敵に勝つ者たちは、これまで罪を犯したことのない天使たちよりも高い地位を天の法廷で占めるだろう。
キリストは、『わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう』と宣言しておられる。もし十字架に有益な影響力がないなら、十字架は自らそれを生み出す。幾世代にもわたって、この時代の真理は現代の真理として明らかにされている。十字架上のキリストは、それによって憐れみと真理が出会い、義と平和が接吻を交わす媒介者であられた。これが世界を動かす手段である(「原稿」56、1999年)」(エレン・G・ホワイト『SDA聖書注解』第6巻1113ページ、英文)。
まとめ
真の宗教は外面的な行動の中にあるのではなく、心の状態の中にあります。心が神に屈服しているとき、人の人生は、その人が信仰において成長するにつれて、ますますキリストの品性を反映するでしょう。心はキリストによって支配されなければなりません。そうなるとき、ほかのあらゆるものがそれに続くでしょう。
*本記事は、安息日学校ガイド2017年3期『ガラテヤの信徒への手紙における福音』からの抜粋です。