【ヨハネによる福音書】さらに良いもの【2章解説】#3

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ヨハネ1:1~18でイエスが神についての最高の啓示であることを学びました。イエスは初めから神と共におられました(1、2節)。彼は全宇宙を創造し、それに命を吹き込み、それを保持しておられます(3~5節)。彼は肉において神の栄光そのものを体現されました(14節)。彼は神との一対一の親密さの中から直接、私たちのもとに来られました(18節)。

今回の研究で扱う聖句〔ヨハ2:1~22〕は、ヨハネの福音書の序言に続くものです。もしイエスが最高のお方であるとするなら、彼は必然的にほかのすべての代替物にまさるお方です。しかし、悲しいことに、人間はイエスに代わる多くの代替物を生み出してきました。彼らは豊かな財産を蓄えることによって命を得ようとします。仕事や世的な成功に命を求める人たちもいます。さらには、お金持ち、知識人、美人、有名人を崇拝することによって命を得ようとする人たちもいます。そして、多くの人が失望のあまり、麻薬やアルコール、ギャンブルに溺れていきます。神秘的な宗教を追い求める人たちもいます。しかし、彼らがどのような道を選ぼうとも、イエスが示してくださる道はイエスを離れて得ることのできるいかなる道よりも優れたものです。

生きたたとえ(ヨハネ2:1―22)

一見、ヨハネの福音書のこの部分にはあまり霊的な糧がないように見えます。結婚式があり、宴会が終わる前に飲み物が切れてしまいます。イエスは新郎新婦と宴会の世話役を苦境から救われます。それから、イエスは神殿から犠牲の動物と両替人を追い出されます。これらはよく知られた出来事で、特に驚くことはありません。暗唱に値するような聖句もあまりありません。これらの物語はヨハネの福音書の霊的神学から逸脱しているのでしょうか、それとも何か深い意味があるのでしょうか。

もう一つ、この愛された福音書の興味深い特徴は、たとえ話がないことです(金曜日の研究参照)。たとえ話がイエスの教えの基礎になっていることを考えると、たとえ話がないことはいかにも不思議です。その代わり、ヨハネは聖霊の導きによって、イエスの働きにおける実際の出来事を生きたたとえとして用いています。主は歴史上の出来事の中に深い意味を付与し、それによってイエスについての重要な真理を教えておられるのです。

ヨハネの福音書に最初に出てくる奇跡がカナでの婚礼における奇跡です。それはこれらの生きたたとえの最初のものです。

イエスはイエスの母にどのように答えられましたか。ヨハ2:4、5

ほかのところでは、イエスは決して母をたしなめるような話し方をしておられませんが、この部分は明らかに異なります。「マリヤはイエスとの親子関係から、自分はイエスに対して特別な要求を持つことができ、またある程度イエスの使命に口を出す権利があると考える危険があった。……いと高き神のみ子として、またこの世の救い主として、イエスは、どんな地上のきずなによってもご自分の使命の達成をさまたげられたり、ご自分の行為に影響を及ぼされたりするようなことがあってはならない。彼は神のみこころをなすのに自由でなければならない。……神のご要求は人間の関係というきずなにさえまさるものである」(『各時代の希望』上巻169ページ)。

水をぶどう酒に変える(ヨハネ2:1―11)

イエスの用いられた水は何のためのものでしたか。ヨハ2:6

水をぶどう酒に変えることは単なる物理的な奇跡以上のことを象徴していました。この水はただの水ではなく、ユダヤ人が儀式的な清めに用いるための水でした。ぶどう酒もただのぶどう酒ではなく、「最上」のぶどう酒でした。

ヨハネはこの物語をイエスの信仰の「代替物」に対する批判として用いています。イエスの時代の宗教者たちは清めの儀式に取りつかれていました(マタ15:1、2参照)。清めは悪いことではありません。衛生上も、良いことです。宗教的には、清めは神について考えさせてくれます。水は生命に欠かせないものです。人が神なしでは生きられないように、水がなければ生きられません。しかし、イエスは儀式的な清めの水を味のよいぶどう汁というさらにまさったものに置き換えられます。

ぶどう酒は何を象徴していますか。マタ26:27~29、ルカ22:17~20、レビ17:11は、救いの計画における血の重要性についてどんなことを教えていますか。

イエスがなされた最初の奇跡は水をぶどう酒に変えることでした。ぶどう酒はイエスが世の罪のために流される血の象徴です。それは救いの唯一の手段です。なぜこれが最初の奇跡として記録されているのかは明らかにされていませんが、たぶん主がキリストの血の思想を最初に提示しようとされたのでしょう。それは後に起こるべき出来事の象徴でした。

十字架の前触れ

イエスがまだ来ていないと言われた「イエスの時」(ヨハ2:4)は何を意味しますか。ヨハ7:30、8:20

これらの聖句で「時」と訳されているギリシア語は、実際には「時刻」を意味する言葉です。「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハ2:4)。この時刻とは、言うまでもなく、イエスが逮捕され、十字架にかけられる時刻のことでした。

イエスは最初のしるしでその「栄光」を現されましたが(ヨハ2:11)、ヨハネの福音書で言われているイエスの「栄光」は何を意味しますか。ヨハ12:23~25、32、33

ヨハネの福音書では、イエスの「栄光」もイエスの「時刻」も同じことを意味しています。イエスが栄化されるのは、まさしくその苦難と死の時刻においてです。十字架は、自己犠牲というイエスの聖なる品性が究極のかたちで現されるときです。十字架は、神の品性が最もはっきりした形で現されるときです。そこに神の栄光の完全な現れを見ることができます。

したがって、婚礼の物語は間接的にイエスの死と復活に言及しています。婚礼は「三日目」に執り行われました。これはイエスの復活をさしています(マタ16:21、ルカ24:7、21、46、使10:40、Iコリ15:4参照)。イエスは水を、御自分の血の象徴である血に変えられます(ルカ22:20、Iコリ11:25、26)。イエスの「栄光」と「時刻」は十字架を指し示しています。イエスは二度だけ御自分の母に語りかけておられますが、どちらもヨハネによる福音書においてです。一度目はこの婚礼の物語においてであり(ヨハ2:4)、二度目は十字架そのものにおいてです(ヨハ19:25~27)。

特別な意味において、この婚礼の物語は十字架と十字架において現される神の品性の栄光についての「生きたたとえ」です。イエスがカナの婚礼においてなされたしるしは、彼が苦難と死においてなされる最終的なしるしについての前触れでした。ヨハネ2:11における弟子たちの応答は、将来における彼らの十字架に対する応答を予示していたばかりでなく(ヨハ20:8、24~29)、彼らの言葉によってイエスを信じるようになるすべての人の応答をも予示していました(ヨハ17:20、20:30、31)。

神殿を清める(ヨハネ2:13―22)

ヨハネ2:13~22を読み、次の各質問に答えてください。

  1. イエスが神殿に行かれたとき、何という祭りが近づいていましたか。その祭りはどういう出来事を記念するものでしたか。出12:24~27参照
  2. イエスはしるしを求めるユダヤ人たちに何と言われましたか(ヨハ2:19)。この答えの中で、過越祭が型として象徴していたどのような出来事を述べておられたのでしょうか。Ⅰコリ5:7参照
  3. ヨハネ2:21を読んでください。イエスはどういう意味でご自分の体を神殿にたとえられたのでしょうか。出25:8、9参照

神殿で売られていた動物は犠牲として献げるための動物でした。したがって、この「市場」は正当なもので、遠方からやって来る礼拝者にとって必要なものでした。両替も必要でした。神殿でしか通用しない特別な通貨が用いられていたからです。

神殿における商売は偽りと堕落の巣窟になっていたと言う人々もいますが、ここで問題となっているのはそのようなことではないように思われます。ここで問題となっているのは、そのような商売が、たとえ必要なものであったとしても、教えと礼拝と祈りのためにのみ用いられるべき場所でなされていたということです。

このように、カナにおける婚礼の物語に続くこの神殿の物語は、十字架の前触れと「さらに良いもの」という二つの主題について教えています。神殿は善なるものでした。神によって定められたからです。しかし、イエスはここで神殿にまさるもの、すなわちご自分の体を献げようとしておられました。十字架の意味は宗教の持つほかのすべての表現を超越したものです。

十字架の意味(ヨハネ2:21、22、ガラ6:14)

ヨハネは神殿の清めに関する記事を、カナにおける婚礼の記事と同様、十字架のたとえとして用いています。十字架は宗教儀式に用いられる水にまさるばかりでなく、エルサレムの神殿にさえまさるものです。十字架は、人となられたキリスト御自身を除けば、真の宗教についての最高の啓示でした。

ヨハネと同様、パウロは何に「栄光」を見いだしていますか。ガラ6:14

ヨハネ2:1~22で、良いものが最良のものを妨げているのを見ます。今日も同様です。多くの人が人生に意味と価値を見いだそうとしますが、イエスのうちに価値を見いだす人はまれです。人々は財産を蓄えることによって、また宗教的な功績を含めて、人から賞賛される仕事をすることによって、あるいは有名人と親しくなることによって「命」を得ようとします。

財産、業績、人間関係は良いものです。それらは人生を豊かにしてくれますが、命そのものを与えることはできません。いくら財産があったとしても、それで満足できるものではありません。財産はさびつき、腐り、破壊され、無情にも奪われます。運動選手は故障し、虚弱になります。美人コンテストの女王は年をとり、しわだらけになります。教師は愚かになり、物を忘れます。愛する人はあなたを去り、軽べつし、離婚し、思いがけないときに死にます。財産、業績、人間関係といった良いものに頼っているかぎり、人生は安全ではありません。

命を求めることに疲れた人々に、ヨハネはさらに良いもの、十字架を提示しています。十字架は私たちに、過去の行いがどうであれ、御自分の命を与えるほどに私たちを愛し、尊んでくださる神がおられることを教えています。「十字架の下に立って、キリストはただ一人の罪人のためでさえ、その命をおすてになったのだということを考えるとき、はじめて一人の魂の価値を正しく評価することができる」(『キリストの実物教訓』177ページ)。「宇宙にある諸世界を支え……ておられる手は、彼らのために十字架にはりつけにされた手である」(『患難から栄光へ』下巻165ページ)。このような洞察は、私たちの置かれた立場がどうであれ、個人の価値についての意識を高めてくれます。

まとめ

ヨハネの福音書を詳しく学んでいない人にとって、この福音書にたとえがないことは驚きかもしれません。たとえに近いのは、良い羊飼いの記事(ヨハ10:1~21)とぶどうの木の記事(同15:1~8)の二つだけです。しかし、これらはどれもたとえとは言われていませんし、ほかの三つの福音書にあるイエスのたとえの形式とも異なっています。それらは独立した一つの物語というよりも、ある要点を教えるための一般的な例話です。これら二つの記事をマタイ13章やマルコ4章にある多くのたとえと比較してみるとおもしろいでしょう。

「婚宴の席へのキリストの贈物は、一つの象徴であった。水は主の死にあうバプテスマをあらわし、ぶどう酒は世の罪のために流される主の血潮をあらわしていた。水がめを満たす水は人間の手で持ってこられたが、それにいのちを与える効力をさずけることができるのはキリストのみことばだけである。救い主の死をさし示す儀式も同様である。信仰を通して働くキリストの力によってのみ、それらは魂を養う効力があるのである(」『各時代の希望』上巻172ページ)。

カナでの奇跡と神殿での出来事は十字架を証しするたとえでした。旧約聖書の引用もこの考察を支持しています。イエスが神殿から商人を追い出した時、弟子たちは「あなたの神殿に対する熱情がわたしを食い尽くしている」という聖句(詩69:10)を思い出した、とヨハネは書いています。他の福音書は、イエスはイザヤ56:7を引用した、と記しています。ヨハネはこの聖句には触れず、キリストの苦難を預言した詩編69編に言及しています。ヨハネ15:23、25でイエスは、「理由もなくわたしを憎む」という詩編69:5を引用なさいました。ヨハネ19:28~30は詩編69:22「渇くわたしに酢を飲ませようとします」という言葉の成就としてキリストの死を描いています。このようにヨハネによる福音書は十字架を強く意識して書かれています。これこそ「愛された福音書」の大きな特徴です。聖書はすべて十字架が中心になっていますが、ヨハネによる福音書ほど徹頭徹尾キリストの死に焦点を合わせたものはありません。この福音書には「十字架の福音書」という名が真にふさわしいのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ヨハネ 愛された福音書』からの抜粋です。

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