【ヨハネによる福音書】恵みはすべての人を含む【3章解説】#4

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恵みはすべての人を含みます。ヨハネ3章と4章には、ニコデモとサマリアの女に関する二つの生きたたとえが記されています。イエスは非常に対照的な二人の人物に出会われます。民族、宗教、評判、性、富、地位、態度において異なる二人は、群衆から隠れてイエスに会います。二人にとって、イエスとの出会いは衝撃的で、人生を変えるものでした。

これらの生きたたとえのうちに、聖書の中で最も愛されているヨハネ3:16の約束が啓示されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。ニコデモとサマリアの女のうちに、この「一人も」の典型を見ることができます。神は人を分け隔てなさいません(使徒10:34、35比較)。あなたがどんな人であろうとも、何をしていようとも、どんな家系であろうとも、人からどのように扱われていようとも、イエスは決して偏見をもってあなたをご覧になりません。イエスはまさに「世の救い主」です(ヨハ4:42)。

奇跡だけでは十分ではない(ヨハネ2:23―25)

過越祭に来た多くの人々は何を根拠にしてイエスを「信じ」ましたか。ヨハネ2:23

ヨハネの福音書の中で用いられている「信仰」という言葉はさまざまな意味を含んでいます。それは、イエスがカナで水をぶどう酒に変えたときに、弟子たちが経験したイエスに対する救いの信仰を意味します(ヨハ2:11)。同じ弟子たちは、十字架(ヨハ2:22)と聖霊降下(7:39)の後には、さらに深く、さらに永続的な信仰を経験しました。

しかし、ヨハネ2:23~25などには、これとは異なる信仰が描写されています。それは、ただ奇跡にもとづいた信仰で、イエスとの救いの関係を生み出すことのない不適切で、表面的な信仰です。ヨハネ2:23~25で、イエスはある人々の信仰告白を看破し、その真の動機を見抜いておられます。

イエスに対する救いの信仰にあずかるためには、奇跡で十分ですか。ルカ16:31

奇跡を見れば、もっと信じることができる、と考えている人々がいます。しかし、奇跡は表面的な信仰をいやしてくれません。むしろ、奇跡は真の信仰の障害となり、イエスとのより深い関係を築くのを妨げることすらあります。

多くの人々は、イエスのあらゆる奇跡を見たにもかかわらず、なおもイエスを受け入れることを拒みました。そして、イエスが自分たちの思い通りのことをしないと見るやイエスのもとを離れていきました(ヨハ6:51~66、『各時代の希望』中巻127~147ページ参照)。このことからもわかるように、確かに、イエスとの個人的な関係は救いの信仰に欠かせないものですが、信仰は単なる経験を超越する必要があります。信仰は、私たちが何ものであって、どのような状態にあるか、またキリストが私たちを滅びの運命から救うために何をしてくださったかについての生きた知識にしっかりと根を降ろしたものでなければなりません。

彼は夜やってきた(ヨハネ3:1―21)

イエスはヨハネの福音書の中で、生きたたとえを通して霊的教訓を教えておられます。ニコデモは、「イエスが売り買いする人たちを追い出された時、……その場の光景を見て」いました(『各時代の希望』上巻198ページ)。このニコデモは、尊敬された宗教指導者であるにもかかわらず不適切な信仰を持っている人の生きた実例です。

ニコデモはどんな根拠にもとづいてイエスを神からの教師と認めましたか。ヨハネ3:2

ニコデモは、「わたしどもは……知っています」と言っていますが、この言葉は、彼自身、神殿におけるイエスの御業を見ながら正しい信仰を表さなかった人々(ヨハ2:23~25)の一人であることを示しています。

「彼〔ニコデモ〕のことばは信頼心をあらわし、また信頼心を起こさせるように意図されていた。だが実際にはその言葉に不信があらわれていた」

(『各時代の希望』上巻199ページ)。

この聖句に用いられている「夜」のギリシア語は、昼に対する夜というよりも、当時のニコデモの魂にあった暗闇を強調する形式になっています。

彼は神殿におけるイエスの御業を見ていましたが、イエスについての真の真理、つまりイエスが人となられた言であることを悟りませんでした。

ニコデモはどれほど霊的真理を知っていたでしょうか。ヨハネ3:3~10

この物語からも、イエスが人の心をお読みになることがわかります(ヨハ2:25)。ニコデモはうわべを飾るだけの宗教心、形式、慣習の裏にある霊的無知を隠すことができませんでした。

このニコデモの物語の中で、ヨハネは引き続き第2章で強調されているテーマについて述べています。イエスはニコデモの宗教的思想を新生の真理と、またすべての教えの基礎である十字架と置き換えられます。人が神の国に入るのは肉体的な誕生によってではなく、個人的な決断によってです。ニコデモのようなユダヤ人の指導者でも同じです。

新生(ヨハネ3:3―8)

ニコデモという名前は「民の指導者」を意味していました。明らかに、彼は信仰深い人物で、ユダヤ教の最高の模範でした。ファリサイ派に属していた彼は聖書と信仰を非常に重要視していました。人づき合いも良かったでしょう。したがって、この善良で、信仰深い人物に対するイエスの言葉は意外な感じがします。

神の国に入るためには、絶対的に何が必要ですか。ヨハ3:3、5

もしニコデモがバプテスマのヨハネに質問したファリサイ派の代表団の一人であったとすれば(ヨハ1:24~28)、水によるバプテスマはメシアの到来を予告するものであるというヨハネの言葉を聞いていたはずです。ニコデモのような善良で信心深い人でも、バプテスマと聖霊の働きを通してメシアから与えられる新生の経験が必要でした。

水と聖霊はイエスの教えにおいて密接な関係にあります(ヨハ4:10~14、23、24、7:37~39)。また、「上から生まれる」という思想はバプテスマのヨハネの働きと関係があります(ヨハネ3:22~36)。したがって、イエスのこれらの言葉(ヨハ3:3~8)は水による外面的なバプテスマと聖霊による内面的なバプテスマという二重のバプテスマの必要性を暗示します。

日曜日の研究において、(たとえば、奇跡を見るといった)経験だけでは救いの信仰にとって不十分であることを学びました。しかし、ニコデモに対するキリストの言葉は、経験がクリスチャンにとっていかに重要であるかを教えています。新生は経験とならなければ何の意味もありません。イエスがニコデモに、また私たちに言っておられることは、形式、習慣、教理を知っているだけでは不十分であるということです。私たちは個人的に、自分の生活の中でイエスの救いの力を経験する必要があります。

彼女は昼やってきた(ヨハネ4:1―42)

井戸のそばでイエスの語りかけを受けたサマリアの女が、イエスを預言者と信じたのはなぜでしたか。ヨハ4:17~19、29

サマリアの女の立場になって考えてください。目の前に敵対する宗派の見知らぬ人がいます。彼は自分の最もいやな、知られたくない秘密を明かします。彼女の態度が変わったとしても不思議ではありません。イエスがメシアであるという確信を彼女に与えたのはイエスの物理的な存在ではなく(イエスの外観は何の意味もありませんでした)、イエスの言葉でした。ヨハネはここでも、イエスの言葉がその接触に劣らぬ効力を持つことを強調しています。

イエスは、どのような礼拝をまことの礼拝だと言われましたか。ヨハ4:21~24

ヨハネ4:23、24は2章にある神殿の清めを思い起こさせます。イエスがこの世に来られたのは正しい神の礼拝を回復するためでした。特定の地方に神殿が置かれていると、特定の民だけが恩恵を受けます。しかし、霊的な礼拝は普遍的です。特定の地域や民に偏ることはありません。イエスは礼拝の場所よりも礼拝者の態度を重要視されます。重要なのはどこで礼拝するかではなく、だれを礼拝するか、です。

サマリアの女の物語の中で、ヨハネは2章と3章のテーマを繰り返しています。イエスはサマリアの女のすべてを知っておられます。ニコデモの場合と同様、彼女の心と過去をお読みになります。彼女がイエスに信仰を告白したのは、そのことを知ったからです。こうして、イエスはサマリア人の礼拝を霊と真理にもとづいた正しい礼拝へと導かれます。

正反対のものの魅力

サマリアの人々は、女のあかしを聞き、また彼ら自身イエスと出会って、イエスはだれだと信じるようになりましたか。ヨハ4:42

「世の救い主」とは、救いが特定の民族や地域に限られたものではないことを意味します。イエスにあっては、サマリア人のように軽んじられていた民を含めて、すべての民が神の恵みにあずかることができます。軽蔑され、拒絶されている人々にとっては、このような救いは大いなる、歓迎すべき驚きです。一方、抑圧し、締め出す人々にとっては、この大いなる救いは身分制度を打破するものとなります。

正反対のものは関心を引きつけます。ニコデモとサマリアの女の物語は非常に対照的です。ニコデモは男で、サマリアの女は女です。彼はユダヤ人、しかもファリサイ派の人ですが、彼女は卑しいサマリア人です。彼は夜に来ますが、彼女は昼に来ます。彼は裕福ですが(ヨハ19:39)、彼女は貧乏です(そうでなければ、真昼に水くみになど来ません)。彼は高度の教育を受けていますが(「イスラエルの教師」――ヨハ3:10)、彼女は1世紀のパレスチナの女性がみなそうであったように、たぶん文盲です。彼は信心深い人物ですが(ファリサイ派の人)、彼女は姦淫の罪を犯しています。彼は人々から尊敬されていますが、彼女はたぶん隣人たちからさえ軽べつされ、拒絶されています。彼の名前は聖書以外の古い書物にさえ出てくるほどに有名ですが、彼女は無名です。彼は聖都エルサレムに住んでいますが、彼女の住んでいたシカルの町はその正確な場所さえ不明です(『ネルソン聖書辞典』では、その意味が不明となっています。ほかの大部分の聖書辞典もほぼ同じです)。彼はいつでも受け入れられる立場にありますが、なかなか受け入れません。彼女は初めのうちは疑っていますが、イエスを理解するとすぐに受け入れます。

これら二つの物語のうちに、ヨハネ3:16の生きたたとえを見ることができます。神が御子をお遣わしになったのは、「信じる者が一人も滅びないで」永遠の命を得るためでした。ニコデモとサマリアの女は、この「一人も」の典型的な例です。私たちはだれであっても、その身分や状態にかかわりなく、イエスを受け入れることができます。イエスはまさに「世の救い主」です(ヨハ4:42)。金曜日の引用文を読んでください。

まとめ

「イエスはユダヤ人と異邦人との間をへだてている壁をとりこわし、世界に救いをのべ伝え始めておられた。キリストはユダヤ人であられたが、自由にサマリヤ人とまじわり、ご自分の国民のパリサイ的な習慣を無視された。ユダヤ人の偏見に直面しながら、主はこの軽蔑された民のもてなしを受けられた。主はサマリヤ人の屋根の下に眠り、彼らと同じテーブルで食事をし、彼らの手で料理されて食卓に出された食物を食べ、彼らの町の通りで教え、できるだけの親切と礼儀をつくして彼らに応対された。……キリストの弟子と自称する人たちが、社会から見捨てられた人々をさげすみ、いやがるようなことがあるかもしれない。だが生れや国籍による事情も、社会的な身分も、イエスの愛を人の子らから離れさせることはできない。……福音の招きは、狭い範囲に限定され、相手が受け入れたらこちらの名誉になるような少数のえらばれた人たちだけに与えられるのではない。福音はすべての人に与えられるのである(」『各時代の希望』上巻231、232ページ)。

ヨハネ3:16をもう一度味わってください。「神は」――救いの御業の主役は神です。絶望的な人類を救うため、神が絶対的な主導権をもって救いの計画を実行しておられます。ここに希望があります。「世を愛された」

――誰がこの罪に汚れた世界を愛するでしょうか。平和な世界なら誰でも愛し、そこに住みたいと願います。しかしイエスは、天を捨て、最悪の世に来てくださいました。「一人も滅びないで」――真の愛は決して「ひとり」を見捨てません。福音の真髄は「ひとり」という言葉に集約されます。神は「ひとり」を救うために、「ひとり子」であるイエスを与えてくださいました。

「神を『人類の神』とする信仰は人を救いません。救いの神は、けっして『人類の神』ではありません。『私の神』です。……あなたは神の『ひとり子』です。勇気を出してそう信ずべきです。……あなたがもし神の『ひとり子』なら、それはなんと大きな特権でしょう。神の全愛と全知と全能とは、ただあなただけのものです」「神には、あなた以外に、だれも愛する者がいません。神はただあなたの神です」(千葉芳吉著『母のおもわ神の愛』34ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ヨハネ 愛された福音書』からの抜粋です。

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