【ヨハネによる福音書】真実であるための戦い【4章解説】#5

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今回の研究では、イエスに自分の息子の病気をいやしていただくために25キロもの山道を旅した男の信仰について学びます。普通なら、彼は信仰の人であったと考えるでしょう。しかし、イエスによれば、この男の信仰は奇跡的なしるしと不思議を求める心から出たものでした。イエスは、この男の信仰が本当はどのようなものであったかを明らかにしておられます。

人の心は本質的に欺くものです(エレ17:9、口語訳)。私たちは時どき自分自身や人を欺きます。しかし、ヨハネの福音書に描かれている物語には、魂の真の必要を見抜くことのできない私たちに、御言葉を通して私たち自身と神を理解させてくださるイエスが描かれています。

今回は、イエスについての生きたたとえを学びます。イエスの言葉はその接触と同じ効力を持っています。それによって、真のキリスト教信仰がどのようなものであるかをいっそうよく理解することができます。

故郷では敬われない(ヨハネ4:43―45)

この部分は、サマリアの女の物語とイエスに息子をいやしてもらおうとした王の役人の物語との中間にあります。これらの聖句は一見、特に関係がないかのように見えます。

自分の故郷に近づいたとき、イエスの心にはどんな思いがありましたか。ヨハ4:43、44

ガリラヤの人々はイエスをどのように迎えましたか。ヨハ4:45

ガリラヤに近づくと、イエスは、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」という言葉を思い起こしておられました。しかし、ガリラヤの人々はイエスを歓迎します。ギリシア語では、45節の初めに「それゆえに」という言葉があり、45節が44節の必然的な結果であることを暗示します。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ。イエスがガリラヤにお着きになると、それゆえに、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」。しかし、ガリラヤの人々の歓迎はイエスへの「敬意」を意味するものではありませんでした。

ガリラヤの人々がイエスを歓迎したのはなぜでしたか。ヨハ4:45

ガリラヤの人々の歓迎はユダヤの人々の歓迎と全く同じ性格のものでした。彼らがイエスを信じたのは奇跡やしるしを見たからでした。ガリラヤの人々は自分たちが喜んでイエスを歓迎していると考えました。しかし、奇跡にもとづいた熱意は敬意とは全く別です。ガリラヤの人々は奇跡やめざましい業に心を奪われましたが、イエスの御言葉を信じませんでした。彼らの興奮はイエスに対する信仰よりも利己心にもとづいたものでした。

正直であることは難しい(ヨハネ4:46―49)

ヨハネの福音書によくあることですが、今日の物語は、いわば行動に表されたたとえで、先の言葉に示された真理を実証しています。ガリラヤの人々はイエスを歓迎しましたが(ヨハ4:43~45)、それは疑わしいものでした。このことが、イエスを信じながら、なかなかその信仰を告白しなかった王の役人の物語に例示されています。

王の役人はイエスにどんな嘆願をしましたか。ヨハ4:47、49

イエスと王の役人はどこに住んでいましたか。ヨハ2:12、4:46

イエスと王の役人は一時期、小さな町で隣人として過ごしたことがありました(カファルナウムの町は100メートル四方ほどの小さな町でした)。この役人の信仰と疑いの入り混じった思いは、預言者が自分の故郷では敬われないという言葉をよく例示しています。

イエスは王の役人の最初の嘆願に何と答えられましたか。ヨハネ4:48

イエスの応答は、この役人も先のニコデモと同様、正しい信仰を持っていないことを示しています。ガリラヤの人々は外面的にはイエスを歓迎しましたが、本当はイエスを信じていませんでした(ヨハ4:43~45)。イエスのなされた奇跡が、イエスを正しく理解する上でつまずきの石になっていたのかもしれません。

王の役人もガリラヤの出身でした。彼の信仰は不完全で、不十分なものでした。彼はイエスの言葉に頼らないで、目に見える証拠を求めました。彼は自分の不信仰を隠すことができないと悟りました(ヨハ2:23~25参照。イエスはすべてを知っておられます!)。不信仰のためにすべてを失うことを恐れた彼は、絶望のあまりイエスの足もとにひれ伏します。

信仰への道(ヨハネ4:50―54)

イエスは役人の二番目の絶望的な嘆願に何と答えられましたか。役人はどのように応答しましたか。ヨハ4:50

「役人はこれまでかつて経験したことのない平安とよろこびとをもって救い主の前から立ち去った。彼は息子の病気がなおることを信じたばかりでなく、強い確信をもってキリストを救い主として信頼した」(『各時代の希望』上巻239ページ)。

不思議なことに、イエスはこの役人にカファルナウムまで行く必要がないと言われます。イエスはどんなに離れていてもいやすことがおできになります。このことは、イエスの言葉が接触と同じくらい効力があるという、第二世代のクリスチャンに対する福音についての生きたたとえです。必要を満たすためには、イエスの物理的臨在は必要ではありません。

イエスの第二の言葉は王の役人に信仰をもたらします。役人はキリストの言葉を理解して、信じます。しかし、信仰には試験が伴います。彼は信仰にもとづいて行動するでしょうか。彼は息子のいやしを信じて帰途に着くでしょうか。それとも自分の家まで来て、息子に手を置いてくださるように嘆願し続けるでしょうか。行動は信仰の証明となるのです。

王の役人がイエスに会ったのは午後の1時ごろでした。急いで下れば(カナはカファルナウムよりも600メートルほど高い地点にあり、距離は約25キロ)、その夜のうちにカファルナウムにたどり着くことができました(『各時代の希望』上巻239ページ参照)。彼は息子のいやしを確かめるために急いで家に帰ったと思うでしょう。しかし、そうではありません。翌日、僕たちが彼を迎えに来たことから考えると、彼は急いで帰らないで、その夜をどこかで泊まったと思われます。彼はイエスの言葉に従って、家に帰っただけではありません。彼はイエスの言葉を心から信じて帰ったのです。信仰の証拠は行動です。息子のことが心配なら、急いで帰るはずです。しかし、ゆっくりと旅をしていることから考えると、彼がイエスの言葉に信頼していたことがわかります。

問題の解決法(ローマ10:17、ヘブライ11章)

パウロによれば、信仰はどのようにして始まりますか。ロマ10:17

王の役人にとって、信仰はイエスの口から語られた言葉を聞くことによって始まりました。第二世代のクリスチャンにとって、信仰が始まるのは、書かれたキリストの言葉を理解することによってか、あるいはだれかからキリストのみ言葉を伝え聞くことによってです。

ヨハネ4:43~54の物語は神の問題解決法について教えています。物語は、必要が生じるところから始まります。王の役人の息子が死にかけていました。イエスが来られることを知った役人は、何か良いことが起こるのを家で待っていませんでした。彼は直接、イエスに問題を持ち込みました。もしイエスが一緒にカファルナウムに来られるなら、息子の上に手を置いていやしてくださるに違いないと考えました。

驚いたことに、イエスはカファルナウムまで行く必要がないと言われます。イエスは遠く離れたところからでもいやすことがおできになります。イエスの言葉は接触と同じ効力を持ちます。役人はイエスの言葉を信じただけではありません。彼はイエスの言葉に対する信仰を行動に表したのでした。

この教えを今日の私たちの問題にどのように適用したらよいでしょうか。四つの段階が考えられます。

  1. 問題意識を持つ。これは言葉で言うほど簡単ではありません。明日の研究で考えます。
  2. 祈りによって、問題をイエスに打ち明ける。
  3. あなたの必要にかなうみ言葉を受ける。イエスの御言葉は聖書の中にあります。イエスの御言葉を聞くためには、御言葉を知る必要があります。継続的な聖書研究が重要なのはそのためです。
  4. 神の答えを実行に移す。御言葉を聞くだけでは十分ではありません。み言葉が現実のものとなるためには、それを実行し、人々にあかしする必要があります。真の信仰はそれにふさわしい行動に表されます。

しかし、もし私たちの信仰が王の役人のように疑いや不信仰と混じり合っていたならどうでしょうか。この物語は信仰の言葉と行為によって疑いに勝利するように教えています。神を御言葉のとおりに信じることです。聖書の教えを実行することです。そうすれば、信仰が生まれます。

真の信仰への道

生来の人間の心はどのような状態ですか。エレ17:9

「この役人に対する救い主のみことばは、光のひらめきのように、彼の心を明るみに出した。彼はイエスを求めている自分の動機が利己的であることがわかった。彼は動揺している自分の信仰の本当の姿を見た」(『各時代の希望』上巻238ページ)。

王の役人は、イエスに直接お目にかかるまでは、自分の不信仰の深さを理解することができませんでした。私たちもしばしば自分の罪深さ・不信仰に気づかないことがあります。黙示録に出てくるラオディキアの教会のように、自分の真の状態を認識していません(黙3:17)。自分の真の状態に気づいていないのに、自分に問題があることさえ認識していないのに、どうしてイエスに問題を解決していただくことができるでしょうか。

真の信仰にいたる最も効果的な方法は、祈りをもって神と交わることです。

  1. 聖書研究を通して、神がダビデやペトロやニコデモのような、過ちを犯しながらも真に誠実な人々と共に働いて下さることを知ることができます。私たちは罪や問題を神に告白することを恐れてはなりません。神はすでにそれらを知っておられます。神は過ちを犯す人を見捨てられません。それゆえ、私たちは勇気をもって神に正直に打ち明けることができます。
  2. 祈りを通して、私たちの思いを神に正直に打ち明けることができます。神は私たちに、祈りを通して何事でも率直に打ち明けるように望んでおられます。主は私たちの心にある必要、思い、いや怒りさえ喜んでお聞きになります。
  3. 信仰の日記をつけることによって、聖書研究と祈りの大切さがわかります。書くことによって、自分自身の心の状態、自分が実際に神に対してどのような必要を感じているかが明らかになります。
  4. 他者に対する責任感は神に対する責任感を高めてくれます。本物のクリスチャンは、自分を理解し、愛すると同時に、率直に自分の態度を批評してくれる友だちを持っています。

上記のような方法を通して、神と私たちとの間にある障害物をより正確に知ることができます。

まとめ

多くの人は責任についての考えを正しく理解していません。彼らはすべての悩みを神に打ち明けるべきであると言います。エレン・ホワイトも確かにそのように言っていますが(『キリストへの道』166ページ)、同時に、ほかのクリスチャンと相談することの重要性も強調しています。

「兄弟たちと協議することはあなたの義務である。そうすることはあなたの誇りを傷つけるかもしれないが、聖霊に導かれた謙そんな心は、勧告に耳を傾け、すべての自己過信を取り去る(」『牧師へのあかし』315ページ)。

「人々の心が聖霊の力によって和らげられ静められるときに、彼らは勧告に心を向ける。しかし彼らが訓戒に背を向けて、ついに心がかたくなになってしまうならば、主は彼らが他の勢力に動かされるままになさる」(『国と指導者』下巻45ページ)。

「疑いに悩み、弱さに苦しみ、信仰弱く、目に見えない神をとらえることのできない魂がいる。しかし彼らの目に見える友人がキリストの代りに彼らのところにやってきて、彼らのふるえている信仰をキリストに固くつなぐ環とすることができる」(『各時代の希望』上巻384ページ)。

イエスが最も悲しまれるのは、私達が彼にうそをつくことです。アナニアとサッピラのことを思い出してみましょう(使徒5章)。ペトロが言うように、彼らにはお金を捧げる義務はありませんでした。彼らは捧げるのが難しいと思うなら、捧げなくてもよかったのです。しかし彼らは、うそをついてしまいました。いい子ぶってしまったのです。

ガイドの著者は、神に打ち明けることの重要性と共に、他人の声に耳を傾けることの大切さを説いています。素直に人の意見を聞くのはやさしいことではありません。カチンとくるのが常です。ではどうしたらよいのでしょうか。今回のテーマの通りです。「父よ、私は人の意見を聞くことができません。助けてください」と祈ることから始めましょう。自らを偽って、「私は他人の声によく耳を傾けることができます」などといい子ぶりっこするのは止めたいと思います。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(Ⅰヨハ1:8、9)。

*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ヨハネ 愛された福音書』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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