【ヨハネによる福音書】過去を忘れる【5章解説】#6

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キリストにある新しい人生は、「過去を忘れる」ことを含みます。ヨハネ5章の物語は極限状態の中で生きていた男について描いています。体が麻痺し、心が罪で打ちひしがれていたこの男には、もはやイエスにいやしを求める気力さえありませんでした。イエスはこの男を、死人同様の人間に驚くべき力を与える安息日の模範とされます。イエスはこの男を肉体的に回復されたばかりではありません。この男のいやしが全人格にまで及ぶように求められたのでした。

宗教指導者から安息日を「汚している」と非難されたとき、イエスは御自分の行為が神からのものであることを啓示されます。安息日に池のそばの男をいやすことによって、イエスは御自分の身分と使命をあかしされます。イエスはひとりの人間以上のお方、ひとりのメシア以上のお方、すなわち創造力を備えた、命の賦与者そのものです。ベトザタの池におけるいやしの物語は、人となって、私たちのうちに住まわれた創造主についての、もうひとつの生きたたとえです。

ベトサダの池(ヨハネ5:1―4)

エルサレムのベトザタという池の回廊の中に横たえられた人々の光景は、どんな意味で堕落した人類を象徴していますか。ヨハ5:1~4

ベトザタは「憐れみの家」を意味すると考えられます。イエスは、人々が憐れみを求めるところで憐れみを与えられます。ベトザタの池は神殿の北側にありました。そこには間欠性の流れが注ぎ込んでいました。時どき水が動いたのはそのためだと思われます。

この池でどんなことが起こりましたか。ヨハ5:3、4

この質問に対する答えは用いる聖書によって異なるかもしれません。たとえば英語欽定訳など一部の翻訳では、主の御使いが池に降りてきて水を動かす、となっていますが、いくつかの古い写本にはそのような記述はありません(多くの翻訳に4節がないのはそのためです)。エレン・ホワイトはよく欽定訳聖書を用いていましたが、御使いが水を動かすとは考えていなかったようです。

「ある時期になると、この池の水面が動いた。一般の人たちは、これは超自然の力の結果で、池の水が動いてから、まっ先に水にとび込む者は、だれでも、どんな病気を持っていても、いやされると信じていた」(『各時代の希望』上巻242ページ、強調付加)。

もし伝統的な解釈が正しいとすれば、神が軽症の人を重症の人よりも有利な立場に置かれたことになり、明らかに不自然です。これとは対照的に、イエスは無慈悲な世界に来られて、伝統的な方法ではいやしを得ることのできそうにない人々に救いを与えられます。

麻痺患者をいやす(ヨハネ5:5―15)

イエスは38年もの長い間病気に悩んでいた人を見かけ、何と声をかけられましたか。そしてどのようにしていやされましたか。ヨハ5:5~15

注目に値する点がいくつかあります。まず第一に、イエスが任意にこの人をいやしておられる点です。イエスは大勢の人の中から一人の人を選ばれました。その人はイエスを求めたのではありません。イエスを知っていたのでもありません。いやされる前にイエスに信仰を告白したのでもありません。ただ一つイエスの関心を引くものがあったとすれば、その人がすべての病人の中で最も憐れむべき状態にあったということぐらいです。

神はまさにそのようなお方です。人生の決定的な場面で、私たちがまだ求めない先から、また受けるだけの価値もないのに、しばしば神の御手が私たちに差し伸べられています。神がそのようにしてくださるのは、神が罪を大目に見てくださるためではありません。むしろ、私たちが神の恵みを体験するためであり、神に全く依存していることを悟るためです。

第二の注目すべき点は、イエスがわざわざ安息日にこの人をいやしておられることです。律法学者も、緊急の場合に限り安息日に活動することを許していましたが、これは緊急の場合ではありませんでした。この人は38年も患っていたのですから、安息日のために1日遅らせたとしても特に問題はなかったはずです。実は、ここでイエスはある重要なことを教えようとされたのです。つまり、「安息日に善いことをするのは許されている」(マタ12:12)という御自分の言葉を、自ら実践されたのでした。「安息日は何の活動もしない無益な日として与えられているのではない。……病人をいやされたキリストの働きは、律法に完全に一致していた」(『各時代の希望』上巻252、253ページ)。

ヨハネ5章の物語は、「子も、与えたいと思う者に命を与える」というヨハネ5:21の真理を例示する、生きたたとえとなっています。イエスは御自分の望む人に命をお与えになります。命を与えるイエスの力には限界がないからです。

罪とその結果(ヨハネ5:14)

後日、神殿で先の麻痺患者に出会ったとき、イエスは彼に何と言われましたか。ヨハ5:14

イエスはこの人に、「罪を犯し続けることをやめなさい」(英語新国際訳)と言っておられます。このことは、この人の病気が何らかの罪によって生じたことを暗示します。罪を犯し続けることは麻痺の再発をもたらすかもしれません。

しかしながら、これにはもっと深い意味があります。「罪を犯し続ける」と訳されている言葉は継続性を暗示します。イエスはこの人に、神殿で出会うまで継続的に行っていた何らかの行為をやめるように命じておられます。このことは、彼が麻痺した状態でも何らかの罪を犯し続けていたことを暗示します。イエスはどんな罪を言っておられたのでしょうか。麻痺した人に銀行強盗はできません。姦淫を犯すこともできません。人を殺すこともできません。イエスは心、思い、態度、想像の罪に言及しておられたに違いありません。

麻痺患者のいやしは全くイエスの恵みによる行為でしたが、いやされるためには麻痺患者にも果たすべき務めがありました。罪は人を神から引き離すばかりではありません。それは最終的に人の生命そのものを滅ぼします。罪の結果は肉体の傷害や病気だけにとどまりません。感情的、霊的、心理的な影響も含まれます。これらはすべてイエスとの関係によって解決されるべきものです。イエスとの真実な歩みは顔の表情を明るくし、感情を和らげ、心を温め、肉体に新たな力を与えます。セブンスデー・アドベンチストが食事、運動、心の状態を重要視するのはそのためです。真の信仰は人間のすべての部分、つまり精神的、肉体的、感情的、霊的部分を含むものです。

ほとんどのクリスチャンは、人間の内面的な部分、特に感情が回心後もきわめて不安定なものであることを認めています。ヨハネ5:14は、私たちが絶えずイエスと協力することによって、罪とその結果からいやされる必要があることを教えています。

命の与え主、イエス(ヨハネ5:16―30)

イエスは安息日における御自分のいやしの行為をどのように正当化しておられますか。ヨハ5:16~18

イエスは人々から迫害されたとき、御自分が「今もなお」安息日に働いておられる父なる神の模範に従っているだけである、と言われました。神の働きは安息日における人の働きの模範です。

当時のユダヤ人たちは、安息日における神の働きが誕生、死、日光、雨、絶えざる川の流れなどに表されている、と考えていました(ウィリアム・バークレー『ヨハネによる福音書』英文第1巻183ページ参照)。彼らは、イエスが神だけに与えられている安息日に対する特権を行使している、と考えました。イエスが安息日に人をいやすことによって、御自分が神と同等であると主張しておられたからです。

「神は、太陽が安息日にその職務を遂行するのを禁じ……たまわねばならないだろうか。……麦や穀物は生長をやめ、ぶどうの房は紫色に熟するのを延ばさなくてはならないだろうか。……そうなったら、人は、地の果実と、生活を豊かにしてくれるいろいろな祝福を失うであろう。……安息日に、苦しみをやわらげることをおこたる者は罪をまぬかれない。神の聖なる休日は、人のためにつくられたもので、あわれみの行為は、安息日の意図に完全に一致している。神は、ご自分の被造物が安息日でもほかの日でも、苦しみをやわらげられるものなら、一時間でも苦しむことをお望みにならない」(『各時代の希望』上巻252ページ)。

ヨハネ5:19~30には、イエスが父なる神と同じ働き、すなわち命を与え(20、21、26、28、29節)、裁きの業(22、27、30節)を行っておられることが記されています。イエスは地上において父なる神の御心を行うことによって、父なる神が命であること、またイエス御自身が神であることを明らかにしておられます(19~23節)。イエスの神性を信じないで、父なる神を信じることはできません(23節)。

イエスについての最大のあかし(ヨハネ5:31―47)

前回の研究では、イエスがご自身について驚くべき宣言をされたことを学びました。それはほかの人にはとてもできないような宣言でした。そこで、イエスはご自身についてのあかしを正当化する必要があるとお考えになりました。

イエスは 「わたしについてあかしする」ものを挙げておられます。それはどのようなものですか。ヨハ5:31~47

確証のないあかしが不適切であることは、イエスも認めておられます(ヨハ5:31)。ユダヤ教の原則によれば、真理は二人以上の証人によってのみ確証されました(申19:15、黙11:3~13)。そこで、イエスはご自身のあかしに加えて、バプテスマのヨハネのあかし、ご自身の御業、父なる神、聖書を用いることによって、ユダヤ教で真理を確証するために必要なあかしの数を2倍にしておられます(ヨハ5:31~40)。

宗教指導者たちがこれらの証人のあかしを受け入れないと知ると(ヨハ5:43、44――8:13、14比較)、イエスはユダヤ教の中の最大の証人であるモーセを引き合いに出されます。モーセはイスラエルのために神に執り成した人物です(出32:7~14)。しかし、モーセはイエスによって裁判官に仕立て上げられています(ヨハ5:45~47)。モーセの言葉はイエスを拒む者たちを断罪します。なぜなら、モーセはイエスについて書き、イエスへの道を備えたからです。イエスは最後に言われます。「しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか」(ヨハ5:47)。

このときから、イエスとイスラエルの指導者との間に葛藤が生じます。この葛藤はイエスの逮捕、苦難、十字架にいたるまでヨハネの福音書の中で続きます。ヨハネはこれらの人々の敵意の中に、福音を拒むすべての人々の敵意を描いています。

まとめ

火曜日の研究でも学びましたが、ほとんどのクリスチャンは、人間の内面的な部分、特に感情が回心後もきわめて不安定なものであることを認めています。私たちは不幸な記憶、突発的な怒り、口にできないような思いと戦わねばなりません。ベトザタの麻痺患者の物語は、イエスが外界の状況ばかりでなく内面の生活にも配慮してくださることを教えています。

好ましくない思いや感情は、自分が他人にしたことと他人から被ったことの両方から生じます。自分が他人にしたことは後悔と失敗の気持ちを生じさせ、他人から被ったことは怒りと恨みの気持ちを生じさせます。キリストの満ちあふれる豊かさはこのような過去の問題をも解決してくれます。精神的、感情的いやしの方法に関しては、本ガイドの著者による『副読本』〔別売〕の第6章を読んでください。

ある安息日にイエスが、38年間も横たわっていた男をいやされたのは、彼が最も憐れむべき状態にあったからです。福音とは、最も哀れな者に希望を与えるものであるはずです。イエスはいつも、最も弱っている者にいかに命を与えるかに心を配っておられました。私たちの安息日には、絶望している人に希望が語られ、疲れている人に休みが与えられているでしょうか。「いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も(!)、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である」(出20:10)という御言葉は、自分だけでなく、他人を休ませることを命じています。安息日に命を与える行為をするのは善いことですが、重荷を負って疲れている人に一番必要なものは休息です。安息日には、人々に真の安息が与えられなければなりません。「安息日に苦しみをやわらげることをおこたる者は罪をまぬかれない」のです(水曜日の学び参照)。イエスは「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(ヨハ5:17)とおっしゃっています。神が、私たちに休みを与えるために働いて下さっていることを覚えましょう。

*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ヨハネ 愛された福音書』からの抜粋です。

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