この記事のテーマ
ヨハネ6章全体を通じて、人々はイエスを物質的な次元でしか見ていません。彼らは霊的な食物を求めないで、肉体的な必要が満たされることだけを求めています。5000人に食物を与えるような奇跡をもっと見たいと願っています。このような驚くべき奇跡を見たときでさえ、彼らはイエスのうちに天から来られたお方の姿を見ないで、自分たちと同じふつうの人間の姿しか見ませんでした。彼らは世俗的なものの中に聖なる輝きを見ることができませんでした。
ヨハネ6章の中で、イエスは人々の目を世俗的なものから霊的なもの、すなわち永遠の命をもたらす食物に向けさせています。命は奇跡やこの世のものの中にはありません。命はイエスの要求を受け入れることによって与えられます。信仰生活を持続する秘訣は、日常のありふれた事柄の中にイエスの臨在と力を認めること、たとえ、見、聞き、触れることができなくても、イエスが私たちと共におられることを実感することです。
魚とパンの奇跡(ヨハネ6:1―13)
5つのパンと2匹の魚はどのようにして男5000人を養うほどに増えましたか。ヨハ6:1~13
この奇跡がなされた時期に注目してください。それは、主が御自分の民を救出された過越祭に近い時期でした(ヨハ6:4)。5000人に食べ物を与えることは、エジプトからの脱出ほど劇的なことではないかもしれません。しかしながら、霊的に無知なご自分の民のためになされた、大いなる神の力の現れであることには変わりありません。キリストに従った人たちの多くは、奇跡を見たために従ったのであり(2節)、キリストがメシアであるとか、霊的自由をもたらすお方であるといった深い、霊的な確信から従ったのではありませんでした。
それにもかかわらず、主は彼らのためにお働きになりました。つまり、彼らの心がまだ正しい状態でないと知っておられたときにも、主は彼らのためにお働きになったのでした。神がこのようなお方であることを感謝したいものです。これは私たちのための模範です。
キリストは魚とパンを増やされましたが、それを奇跡的な方法で群衆に分配されたのではありません。それはどんな方法で分配されましたか。ヨハ6:10~12
パンと魚はキリストによって奇跡的に増やされ、その分配の仕事は、まず人的に弟子たちに渡され、そして彼らが群衆に分配しました。このようにキリストは、私たちが人々の必要に応えるために、主の働きに協力することを求めておられます。
湖での奇跡(ヨハネ6:16―21)
荒れた夜の海の上を歩いて来られたイエスは、弟子たちに何と言われましたか。ヨハ6:16~21
キリストは山の上に集まった群衆のために奇跡的な方法で食べ物をお与えになりました。しかし、群衆はキリストの奇跡に正しく応答しませんでした(ヨハネ6:14、15を読んでください。彼らはキリストを無理やり王にしようとしました。しかし、それはキリストの御心ではありませんでした。そこで、キリストは山を退かれます)。キリストが湖の上を歩かれたのはこのような出来事の後でした。
キリストが湖の上を歩くというこの奇跡を行われたのは、ご自分について弟子たちに何を示したいと思われたからでしょうか。
湖の上を歩かれたキリストの奇跡(ヨハ6:16~21)は、出エジプトにおいて神がなされた御業と似ています(出14:20~22参照)。したがって、旧約聖書によって教えられた民にとって、イエスが水の上を歩き、風と波を支配されるということは、イエスの神性についての力強い証明でした。これは、キリストが王になることを拒んだために失望していた弟子たちにとって最も必要なことでした。
エレン・ホワイトによれば、弟子たちはキリストがダビデの王位につくのを強く望んでいました。キリストがそれを拒まれると、弟子たちは失望しました。「弟子たちは、イエスを王位につける民衆の運動を長い間待ち望んできた。彼らは、このような熱心さがみなむだになってしまうという考えに耐えられなかった。……
彼らの思いと心は、だんだん不信に占められた。名誉欲が彼らを盲目にしていた。彼らは、イエスがパリサイ人から憎まれておられるのを知っていた。彼らはイエスがあがめられるべきであると考えていたので、そうなるのをぜひ目に見たかった」(『各時代の希望』中巻119、121ページ)。
天からのパン
この嵐の夜の後(ヨハ6:16~21)、群衆が湖を渡ると、イエスがカファルナウムの会堂におられます。6章に記されている残りの説教と対話はすべて、ここでなされたものです。
イスラエルの民は出エジプトのとき荒野でどのようにして生きることができましたか。出16:33~35
ヨハネ6章の背景にあるテーマはエジプトからの脱出です。5000人に食べ物を与えた奇跡は、イスラエル人がエジプト人の直接的な支配から逃れた最初の過越を思い起こさせるものでした。嵐の出来事(ヨハ6:16~21)は、イスラエル人が紅海で直面した危機を思い起こさせるものでした。その後、神はシナイの荒野で彼らを導かれました。荒野におけるイスラエル人のように、イエスの聴衆は見たり触れたりすることのできる奇跡に対しては応答しましたが、その信仰は不十分なものでした。イエスは彼らの関心を、イスラエル人が荒野で受けたマナから、御自分がお与えになる霊的パンへと向けられました。
イエスはご自分を何と言っておられますか。ヨハ6:32~35
このイエスの説教は、イエスを見、イエスを信じることが霊的な意味では今、また完全な意味では「終わりの日に」(ヨハ6:40、5:21)真の命をもたらすことを暗示します。肉体的な命を支えるためには絶えず食物を取らねばならないように、霊的な命を支えるためにはイエスを毎日の経験の中に取り入れる必要があります。ヨハネの福音書に出てくる「信じる」という言葉(1:12、6:47比較)は、つねに継続的な意味を持ちます。それは継続的な経験、毎日の経験です。
かたくなな心(ヨハネ6:36―50)
多くの人々は、「わたしは天から降って来たパンである」と言われたイエスに何と言ってつぶやきましたか。ヨハ6:41、42
この章全体を通じて、群衆はイエスに対して物質的、肉体的な次元で接しています。彼らがイエスに求めたのは、5000人に食べ物を与えたときのような奇跡を行うことでした。イエスが彼らの要求を拒んだとき、彼らはいともたやすく、イエスを天から来られたお方ではなく、自分たちと同様の、ごくふつうの人間と見なしました。俗なるものが聖なるものを悟るのを妨げていました。イエスの肉体的存在そのものが彼らにとってつまずきの石となっていました。
〔人間イエスを知らない〕第二世代のクリスチャンである私たちは、見たり、聞いたり、触れたりすることのできないお方を信じるよりも、人間イエスを知っていた方が有利であると考えるかもしれません。しかし、〔人間イエスを知る〕第一世代のクリスチャンにとっては、イエスの肉体的存在そのものがイエスを受け入れる妨げとなっていました。
実際のところ、イエスはどのようなお方だったのでしょうか。イエスはヨセフとマリアを両親としてナザレで育った、単なる善良な人以上のお方でした。いかに善良な人間であっても、自分が天から降って来た神の子であると宣言することはできないでしょう。そのような宣言をする者は、狂信者か偽善者(どちらも人は「善良な人」と呼ぶ)、そうでなければ宣言通りの人です。中道の立場はありえません。その人とその人の主張を受け入れるか、それとも狂信者あるいは史上最大の詐欺師として拒むかのどちらかです。愚かにも、ここに出てくる人たちはあくまでもイエスを単なる善良な人としか見ませんでした。それはイエスの望まれることではありませんでした。
したがって、イエスを正しく理解することは非常に重要です。イエスがもたらされる神についての啓示は、人間にとって生死にかかわる重大な問題です。イエスをパン、肉、血として受け入れることは、食べた食物とからだが密接なように、イエスと親密な関係によってのみ、約束の永遠の生命を得ることができるという生き生きとした描写なのです。
日常の事柄に聖なるものを見る(ヨハネ6:51―71)
イエスは、何がまことの食物、まことの飲み物だと言われましたか。ヨハ6:51~58
ヨハネの福音書ではしばしば、たとえばパン、水、光といった日常生活にもとづく象徴が用いられています。こうした象徴はイエスの言葉を日常のありふれた事柄に関連づけてくれます。私たちの生活がいかに平凡なものであっても、毎日の生活の中でイエスを覚えることによって、イエスとの関係が深められ、成長していきます。命のパンであるイエスは永遠の命を味わわせてくださいます。永遠の命に比較すれば、物質的な食物や飲み物は取るに足りないものです。
人間の体が食物、飲み物、日光を求めるように、人間の魂は(たとえ本人が気づかなくても)イエスの臨在を求めます。もしイエスの臨在が与えられないなら、人間はあらゆる方法を用いて、ほかのものによってその隙間を埋めようとします。
人間はどんなものによって、生まれながらの霊的必要を満たそうとしますか。
食事の席につくとき、私たちは雨、生命、日光、食物に思いを寄せることができます。もしイエスの十字架がなければ、それらはみな罪と共に途絶えていたかもしれません。コップの水を飲むとき、命の水であるイエスを思い起こすことができます。朝、服を着るとき、キリストの義の衣について考えることができます。イエスとの生きた関係を保つ方法の一つは、俗なるもののうちに聖なるものを見いだすこと、日常のありふれた出来事の中にイエスの言葉と行為を思い起こすことです。
まとめ
ヨハネ6章は、イエスが霊的な必要と日常的な必要をどのように理解しておられるかを教えています。イエスは、人の空腹や病をいやす時にも、彼らの心を霊的なことに向けさせました。パンを食べさせた後、主はご自分を「命のパン」として紹介されました。多くの者はパンだけに興味がありました。イエスを王にしようとした彼らは、食べ物だけではなくローマの圧政から解放されることを期待していました。ローマ人をやっつけて自分たちが彼らを支配するのだ、と考えていたのです。言い換えるなら彼らの関心は「今の自分だけ」でした。一方イエスの関心は、「皆」が「永遠」の命を得ることでした。しかし、すべての者が救われるのではありません。永遠の命を得るのは「神がお遣わしになった者を信じる」人だけです(29節)。イエスは「信じる」ということを、「来る」(35、37、44、45、65節)、「飲み食べる」(51、53~58節)という日常的な言葉で表現されました。
「イエスのもとに来る」
パンのみを求めていた者がイエスを離れた時、ペテロは告白しました。「わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」(68節)。弟子たちは、パンではなく「パンを与える方」「命のパンそのものである方」のところに行き、彼から離れませんでした。後に12弟子もイエスから離れましたが、救いは、神であるイエスが「天から下って来」て(51節)、彼の方から「近づいて来られ」た(19節)ことです。永遠の命を受けるか否かは、あるがままの姿で主のもとに行くか、否か、によって決まります。離れたなら戻ればよいのです。イエスはご自分のところに来る者を決して拒みません(37節)。これで、日常的な必要と霊的な必要の関係が明らかになります。
「日々」の生活の中でイエスのもとに行く時、私たちは「永遠」の命を得ることができるのです。
「イエスの血を飲み彼の肉を食べる」
大群衆を養った奇跡の記事も十字架を証しするたとえであったと考えられます。この出来事が聖餐式の原型ではないか、という人もいます。イエスは「パンを裂いて」(マタイ14:19、マルコ6:41)と書かれていますが、それは十字架上で「裂かれる」主の体を意味していたのではないか、というのです。そのように読むなら、「人々が満腹し」(ヨハ6:12)「残ったパンの屑で、12の籠がいっぱいになった」(13節)ということは、キリストの死を通して与えられる神の恵みは、人をやっと救うことができるというものではなく、「すべての人を救って余りあるほど十分なものである」ということなのです。
*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ヨハネ 愛された福音書』からの抜粋です。