【ヨハネによる福音書】良い羊飼い【7ー10章解説】#8

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私たちの命はイエスの死から湧き出ます。イエスは父なる神の指示にしたがって、エルサレムの神殿での仮庵祭に遅れて参加されます。彼は偉大な『わたしはある』と言われるお方の生ける臨在として来られます。彼は祭りに祝われている水と光の体現として御自身を現されますが(ヨハ7:37~39、8:12、9:5)、大部分の参加者から拒絶されます。有力な人々から拒絶されたイエスは、社会から見捨てられた一人の盲人のところに行かれます。そして、見捨てられた人さえ心にかけてくださる良い羊飼いについての生きたたとえとなられます。イエスはこの盲人と接することによって、「ご自身の性格とイスラエルの指導者たちの性格との相違をお示しになった」(『各時代の希望』中巻273ページ)。

良い羊飼いであるイエスは、ほかのところに命を求めてもがいている人々に命を与えられます。「羊はその声を知っている」とあります(ヨハ10:4)。すべてをイエスにゆだねる人たちは特権としてイエスとの親しい関係に入ります。イエスは決して見捨てることのない優しい友です。イエスは私たちの思いを導き、豊かな命、喜び、満足感を与えてくださいます。

仮庵祭(ヨハネ7、8章)

ヨハネ7~10章で、イエスはエルサレムの神殿における仮庵祭に参加されます。彼はそこで、たびたび宗教指導者たちとの論争に巻き込まれます。ヨハネの福音書にこれらの論争が記録されているのは、イエスがそれを通して御自分の使命を明らかにされるためでした。

パレスチナ地方の1年は基本的に二つの季節からなっていました。一つは4~5か月からなる夏の乾期で、もう一つはほぼ同じ長さの冬の雨期です。仮庵祭は夏の乾期が終わりを告げる頃に催されました(9月、10月にあたる)。この時期に、冬の作物が植えられ、夏の果物が収穫されました。

仮庵祭はイスラエルのエジプト脱出と荒野の放浪を記念するものでした(レビ23:43)。その間、神はイスラエルに水と光をお与えになりました(出13:21、22、17:1~7)。したがって、仮庵祭の重要なテーマは水(毎日行われる水注ぎの儀式)と光(夜の灯火)でした。人々は戸外に建てられた仮小屋や、シュロの枝で作った天幕の中で生活しました。それは荒野における神の守りを思い起こさせるものでした。彼らはこうして、神が荒野においてイスラエルに水と光と食物を与えられたように、現在も自分たちの必要を満たしてくださることを思い起こすのでした。

イエスは仮庵祭の水注ぎの儀式の水の代わりに何をお与えになりますか。ヨハ7:37~39

イエスによれば、仮庵祭の光は何を象徴していましたか。ヨハネ8:12

仮庵祭におけるイエスの宣言は、この祭りがイエス御自身を象徴するものであることを示していました。仮庵祭において祝われる神の力ある御業はイエスとその教えにおいて現実のものとなります。神は食べ物、水、光を与える以上のことを私たちのためにしてくださいます。キリストにおいて、出エジプトの大いなる力が聖霊の臨在を通して私たちのうちに実現します。聖霊に満たされたクリスチャンは聖霊をほかの人々に分け与えることができます。

『わたしはある』(ヨハネ8:24、28、58)

ヨハネ7章と8章において、イエスは兄弟たち、宗教指導者、一部の群衆とたびたび議論をしておられます。これらの章に見られる大きな特徴の一つは、何度も『わたしはある』という表現が出てくることです。

イエスがご自分について『わたしはある』という表現を用いられたとき、彼はご自分について何を示そうとされたのでしょうか。ヨハネ8:24、28、58

英語新国際訳聖書はこれを「わたしがそれであると主張している者」と訳していますが〔詳訳聖書参照〕、これはもとの『わたしはある』を理解する助けになります。

旧約聖書の中で、『わたしはある』という宣言は神に適用されています。イエスはヨハネの福音書の中で、この宣言を御自身に適用しておられます。預言者によって約束された将来の救いは、イエスにおいて現実のものとなりました。イエスはエゼキエル書34章の中で啓示された良い羊飼いです(ヨハ10:11)。イエスは将来を見通される(イザ46:9、10、ヨハ13:19)聖なるお方です(ヨハ8:24、28、58)。

『わたしはある』という宣言において、イエスは御自分が神であることを主張しておられます。預言者を通して約束されたように、イエスは御自分の民を導くために天から下られた旧約聖書のヤハウェです。人として地上に生きておられたときでさえ、イエスは最高の意味において完全に、真実に神でした。彼は永遠から永遠に先在されます(ヨハ8:58)。

『わたしはある』というキリストの宣言は、将来がキリストにおいて現在の現実になったという主張です。将来の王国について旧約聖書に約束された栄光を、キリストはいま御自身を信じる人々の上に実現してくださいます。イエスに結ばれているということは、信仰によって今、将来の王国に豊かにあずかることができるということです。実際の意味において、私たちはキリスト・イエスにおいてすでに天上で生きているのです(エフェ2:6)。イエスに結ばれている人たちには、与えられないものは何ひとつありません。旧約時代にあっては、神はしばしば地上において力ある業をなされました。しかし、現代にあっても、キリストの十字架のゆえに、また聖霊の働きを通して、神の力ある御業がキリストを信じるすべての人に与えられています。

盲人のいやし(ヨハネ9:1―41)

ヨハネ9:1~10:21は、イエスがエルサレムの仮庵祭に行かれたときに起こった出来事について記しています。イエスは盲人をいやし、その経験を御自分の生涯と教えを例示するための生きたたとえとして用いておられます。

キリストは生まれつきの盲人をどのようにしていやされましたか。ヨハ9:1~7

イエスは盲人をいやすことによって、「わたしは世の光である」(ヨハ8:12)という先の宣言を例示する、生きたたとえを提示されました。世の光であるイエスは生まれつき目の見えない人に物理的な視力を与えられました。しかし、この出来事の背後にもっと深い意味があります。

このいやしはファリサイ派の人々に深刻なジレンマをもたらします。いやしは神に認められた人にしかできない行為です。しかし、緊急事態でもないのに、イエスは安息日に人をいやすことによって、偽預言者のように振舞われます(申13:1~5)。おもしろいのはここに見られる痛烈な皮肉です。盲人は、イエスがイスラエルのまことの神であることを次第に理解するようになります。対照的に、物理的には目が見え、イスラエルの信仰の守護者と目されていたファリサイ派の人々は、イエスについてますます盲目になっていきます。

盲人は見えるようになったのですが、イエスを拒んだファリサイ人たちはどのようになったとイエスは言われましたか。ヨハネ9:39~41

ファリサイ派の人々は盲人のいやしを否定しましたが、このことは、彼らがイエスによって世にもたらされた神についての真理を否定することの象徴でした。彼らがいやしを否定したのは、イエスの主張に対して故意に目をつぶったからでした。

良い羊飼い、イエス(ヨハネ10:1―21)

ヨハネ10:1~21を読み、次の質問に答えてください。

イエスはどれだけ多くの救いの道を備えておられますか。

雇い人であることはどのようにして表されますか。

よい羊飼いであることはどのようにして表されますか。

ヨハネ9:35~41は同10章にある良い羊飼いの記事のための舞台を準備しています。イエスは社会から見捨てられた人々を心にとめられます。宗教指導者たちがイエスに対する敵意のゆえに人々を見捨てるとき、彼らはそれによって自らの無知を現します(ヨハ9:39~41)。イエスにとって、それは見捨てられた人々を御自分のもとに集める機会となります。

ヨハネ10:1~21は二つの部分からなっています。初めは、羊飼いと羊の物語で(1~5節)、これはヨハネの福音書の中で最もたとえに近いものです。次の7~21節はこの物語の意味について述べています。

イエスが命を捨てられるのは、だれかが強制したからですか。ヨハ10:17、18

古代パレスチナではふつう、自然の洞窟が羊のおりでした。夜になると、羊飼いは羊を洞窟に入れ、自分は洞窟の入口で眠りました。盗人や獣が羊に近づくためには羊飼いを倒さねばなりませんでした。洞窟のないところでは、自然の石を用いておりを作り、羊飼いはやっと通れるくらいの狭い入口で眠りました。このように、イエスが御自分を良い羊飼い、また羊の門と言われたとき、聴衆はそれらが同じ意味であることを容易に理解したことでしょう。

イエスは御自分を、羊が救われるためには必ず通らねばならない門であると言われました。それは、イエスがほかのあらゆる救いの道に取って代わる存在であるという意味です。門(イエス)を通らなければ、羊の群れに至ることはできません。

雇い人と盗人(ヨハネ10:1、5、10―13)

盗人は羊をどうしますか。雇い人は羊をどうしますか。イエスは羊をどうされますか。

イエスは良い羊飼いを、同じく羊を扱うほかの二種類の人々と比較しておられます。一つのグループは盗人と強盗です。彼らは羊に何一つ投資していません。興味のあるのはただ儲けることだけです。イエスが心に思い描いておられたのは、礼拝者が献げる献金や献げ物にあずかるためにだけ信心深いふりをしている大祭司たちの姿でした。

もう一つのグループは、自分の羊を持たず、したがって羊と個人的な利害関係のない雇い人です。彼はただ生活のためだけに羊を世話します。野獣が襲ってくると、彼は自分自身だけを守ろうとします。イエスはヨハネ9章のファリサイ派の人々を思い描いておられたことでしょう。大祭司よりはまだましかもしれませんが、雇い人もまた羊のことを本当に心にかけてはいませんでした。彼らは羊のことを詳しく知らないばかりか、羊のために自分の命や名誉を捨てようとはしませんでした。

良い羊飼いであるイエスは、宗教指導者たちから見捨てられた人々を御自分のもとに集められました(ヨハ9:34~38)。良い羊飼いの物語は、生まれつきの盲人を手荒く扱うことによって、雇い人としての自らの本性を暴露した者たち〔ファリサイ派の人々〕に対する叱責でした(ヨハ9:40)。

イエスが私たちに望まれるのは、良い羊飼いのように人々に温かい関心を抱くことです。家族、隣人、友人を真に思いやる人々は、(ヨハネ9章のファリサイ派の人々のように)強情で、虐待的なところがなく、むしろ他人の利益のために思いやりをもって行動します。この世は悲嘆と苦痛で満ちています。私たちはキリストから受けた力を用いて、人々を築き上げ、励ます必要があります。人々を助ける働きは自分自身にも豊かな命をもたらします。

まとめ

ヨハネ10:1~21を、羊と羊飼いについてのほかの二つの物語(マタイ18:10~14とルカ15:3~7)と比較してください。これら三つの記事に共通する点、また独特の点は何ですか。マタイとルカの記事において羊飼いの役割を果たしているのはだれですか。両書に教えられている教訓をヨハネ10章のそれと比較してください。

「パリサイ人たちは、キリストの力についてあえてあかしをたてたという理由で、ひとりの人間をかこいの中から追い出したばかりであった。……このことによって、彼らは、自分たちにまかされている働きについて無知であることと、羊の群れの牧者として信任される価値のないことをばくろした。イエスは、いま彼らとまことの羊飼との相違を彼らの目の前に示し、ご自身を主の羊の群れのまことの番人としてさし示された」(『各時代の希望』中巻273ページ)。

ヨハネ9:1の原文の前半を語順通り訳すなら、「そして彼は通りがけに見た、生まれつき目の不自由な人を」となります。よい羊飼いであるイエスは、社会からのけ者にされている人に温かいまなざしを注ぎました。主は「神の業がこの人に現れるため」と言われましたが「神の業」とは何のことでしょうか。視力を与えた奇跡のことでしょうか。いいえ。主は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である(」6:29)とおっしゃいました。あの男が「『主よ、信じます』と言って、ひざまず」(9:38)いたことが、「神の業が現れる」ことだったのです。これこそ私の福音書の目的なのだ、とヨハネは言います。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(20:31)。どんなに絶望的に見える人も、神の栄光を表すために生を受けています。すべての人に神のご計画があります。大きな業績を残すことが神の栄光を現すことではありません。私たちが、よい羊飼いであるイエスを信じていることが、神の業なのです。

*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ヨハネ 愛された福音書』からの抜粋です。

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