この記事のテーマ
私たちが神を愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。ヨハネ11章と12章において、主題は地上におけるイエスの働きから十字架に関連した諸事件へと移行しています。これらの章に記されている二つの主要な出来事は、エルサレムからオリーブ山を越えたところにあるベタニアで起こっています。イエスがラザロを生き返らせたこと、またマリアがイエスに香油を注いだことを記すことによって、ヨハネは間もなくエルサレムで起こる悲劇的な事件へと読者を備えさせます。
ラザロを生き返らせたことは反発を招きます。サンヘドリン(最高法院)にとって、それは自分たちの権益を脅かすことでした。そのため、彼らはイエスを殺そうと図ります。マリアの献身的な行為はこれとは対照的でした。それは時宜にかなったものでした。「こうして主は、その大いなる試練という暗黒の中を進んで行かれたときに、この行為の思い出、すなわちあがなわれた者が永遠に主に対してささげる愛の保証をたずさえて行かれたのであった」(『各時代の希望』中巻386ページ)。
ラザロの復活(ヨハネ11:1―44)
ヨハネ11:1~44を読み、次の質問に答えてください。
- イエスがすぐにベタニアに行かれなかったのはなぜですか。ヨハ11:5~17、37、39
- イエスはマルタにご自分のことを何と言われましたか。ヨハ11:25、26
- キリストの力の源はどこにありましたか。ヨハ11:41、42
- マルタはどのような信仰告白をしましたか。ヨハ11:27
キリスト教信仰の基本は、福音に真の力があるということです。ラザロを生き返らせた力は現実のものであって、今日もなお生きています。人生には悲劇がつきものですが、神の復活の力は私たちの魂に意味と慰めをもたらします。
私たちはみな、ヨハネ11章にあるような経験をするときがあります。死、裏切り、失敗などは癒すことの出来ない喪失感をもたらします。どうしてイエスが悲劇から助け出してくださらなかったのかと、いぶかります。どのようにして悲劇が「神の栄光」となるのか、理解に苦しみます。このような落胆の時にあっても、私たちはなお、イエスを復活させられた神が無から何かを創造することがおできになると信じることができます。希望が全くないように見えても、なおイエスに信頼することができます。いえ、信頼しなければなりません。ほかに信頼できるものがないのですから。幸いなことに、ヨハネの福音書に記されたこれらの出来事は神に信頼すべき確かな根拠を与えてくれます。
マリヤとマルタ
マリアとマルタはイエスに会ったとき、まず何と言いましたか。ヨハネ11:21、22、33
マリアとマルタにとって、ラザロの死そのものは最悪の事態ではありませんでした。問題は、イエスが遅れて来られたことでした!二人の姉妹はイエスに対してかなり異なった態度を取っているように見受けられます。イエスが村に着いたという知らせを聞いたとき、マルタはイエスを迎えに行きますが、マリアはマルタから呼ばれるまで家の中にいます。二人とも悲しみ、動揺していますが、マルタは不満を述べると同時に(21節)、なおもイエスに対する強い信仰を表しています(22、24、27節)。この信仰の表明に答えて、イエスは御自分の生涯と使命についてはっきりと宣言されます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25、26節)。
上記のヨハネ11章25、26節のキリストのみ言葉をどのように理解しますか。そこにどんな希望が暗示されていますか。
マリアもイエスに会いに行きますが、マルタと同じ不満を繰り返しただけで、信仰は表明していません。彼女はイエスから啓示を受けていませんし、イエスも彼女から信仰を引き出しておられません(32、33節を22~27節と比較)。イエスは彼女たちに復活と命を見るように招かれたのに、彼女たちの心は失われたものだけに注がれていました。
この物語の背後に、二人の姉妹の内面をかいま見ることができます。二人の心は荒れ狂う海のように動揺していました。ラザロの突然の死が二人の心を押しつぶしていました。さらに、イエスの行動〔遅れて来たこと〕が悲しみの上に疑いを増し加えていました。マルタはうわべだけは平静さを保っていましたが、イエスが来られた目的を正しく理解していませんでした(39節参照)。
イエスへの殺害計画(ヨハネ11:45―47)
宗教指導者たちは、ラザロの復活のことを知らされたあと議会を召集します。彼らはどんなことを心配していましたか。ヨハ11:45~48
この日からイエスへの殺害計画が進められることになります。この議会で大祭司カイアファは話し合いを結論づけるようなどんな重要な発言をしましたか。ヨハ11:49、50
これらの聖句のうちに、宗教指導者たちがラザロの復活に対して取った態度が表されています。ラザロの復活が人類にもたらすであろう無限の可能性に目を向けないで、彼らは自分自身の立場と利益にだけ目を向けました。
ヨハネは指導者たち自身の言葉を皮肉として用いています。彼らはイエスを殺害しようと企みました。なぜなら、もしイエスの働きをそのままにしておけば、「皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」からでした(48節)。ヨハネの福音書を初めて読んだ人でも、この言葉の愚かさがよくわかります。皮肉なことに、宗教指導者たちが妨害しようとしたことを、イエスの死がもたらす結果となりました。全世界が信じるようになること、エルサレムとその神殿が滅ぼされることがそれです。彼らの指導者のカイアファでさえ、彼らが「何も分かっていない」と預言しています(49~52節)。最高法院は、イエスが死罪になるようなことを何もしていないけれども、イエスの死だけが自分たちの地位と国家の安全を守る唯一の方法であると考えました。
ベタニヤのマリヤ(ヨハネ12:1―8)
マリアがイエスに香油を注いだのは、十字架の前週の、土曜日の夜のことだったと思われます(ヨハ12:1)。ベタニアはオリーブ山を隔てて、エルサレムの東約3キロのところにありました。
マリアはイエスの足に何を塗りましたか。それはマリアのイエスに対するどのような気持ちを表していたのでしょう。ヨハ12:2、3、7
ヨハネ12章の最初の物語においては、イエスに対するマリアの純粋な信仰と愛が、カイアファとユダの冷酷で打算的な態度(11章の終わり)と比較されています。マリアがイエスの足に香油を注いだのは無我の愛と犠牲の精神からでした。一方、イエスの敵対者たちの思いは貪欲と利己心から出たものでした。
この場面には、マリアの魂からの全的献身が現れています。ラザロの復活以前に抱いていた疑いはもうどこにも見られません。彼女の心は、自分の兄弟を生き返らせ、自分のために死のうとしておられるお方への感謝の念で満ちあふれています。彼女がイエスに注いだ香油は1年間の厳しい労働によって手に入れたものでしたが、それだけにイエスに対する感謝の気持ちをよく表していました。ユダの反応からも明らかなように、このような全的な献身はめったに見られるものではありませんでした。「何という無駄なことを。イエスなどのために使わないで、自分のためにもっと有効に使えばよかったのに!」と、だれもが思ったことでしょう。
ユダの反応はまともで、人間的です。マリアの行為は無駄なように見えます。どこの教会理事会もそのような支出を承認しません。人間的に考えれば、マリアは精神的におかしくなったとしか見えません。しかし、イエスは何と言っておられるでしょうか。マルコ14:6~9を読んでください。「わたしに良いことをしてくれたのだ。……この人はできるかぎりのことをした。……はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。
差し迫った十字架(ヨハネ12:9―27)
ヨハネはラザロの復活に対する三つの主な反応について記しています。1.宗教指導者たちは影響の大きさを恐れて、イエスとラザロを殺そうとします(ヨハ11:47~53)。2.一方、マリアは感謝と自己犠牲の愛をもって応答します(ヨハ12:1~9)。
第三の反応は何ですか。ヨハ12:9、17~19
これら三つの応答の中で、ヨハネによる福音書の著者がイエスとその奇跡に対する模範的な応答として読者に求めているのはマリアの応答です。
イエスはギリシア人の要求に対して何と答えられましたか。またそれによれば、イエスに従うことは何を意味しますか。ヨハ12:20~27
ヨハネ12:26によれば、イエスに従うことは利己心を捨てることです。自分の利益、安全、快楽を追い求めている限り、私たちはイエスの与えてくださる豊かな命にあずかることができません。事実、イエスが25節で言っておられるように、私たちは自分自身を捨てるときにのみ、本当の意味でキリストに従うことができます。これは自分自身に対して完全に死ぬことを意味します。もちろん、これは主の力によってのみなされることです。そのためには、自発的に主に従い、一粒の麦のようにまず死なねばなりません。ほかに方法はありません。ユダやイスラエルの指導者およびエルサレムに入城したイエスを歓呼して迎えた群衆はみな、ある意味で、程度の差こそあれ、(その時点においては)全的に献身していなかった人々の代表です。
今日の研究で学んだ人々の中でマリアだけが、自分を捨てることの大切さを理解していたようです。それは彼女の行いから明らかです。
まとめ
「もしキリストが病室におられたら、サタンはラザロに権力をふるうことができないので、ラザロは死ななかったであろう。……彼女たち〔ラザロの姉妹〕が兄弟の死顔を見るとき、あがない主に対する彼女たちの信仰が激しく試みられることを主はご存知であった。しかし主は、姉妹たちの信仰が、いま経験している戦いを通して、ずっと大きな力となって輝き出ることをご存知だった」(『各時代の希望』中巻342ページ)。
「救い主は、祭司たちの陰謀をさとられた。主は、彼らがイエスを除こうとしていることと彼らの目的がまもなく達成されることを知っておられた。しかし危機を早めることはキリストの分ではなかったので、主は弟子たちをつれて、その地方から退かれた。こうしてイエスは、弟子たちにお与えになった教訓すなわち『一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい』という教えを、自ら手本を示して、ふたたび実行された(マタイ10:23)。魂の救いのために働く広い分野があった。主のしもべたちは、主に忠誠をつくすためにやむを得ないかぎり、自らの生命を危険にさらしてはならなかった」(同361、362ページ)。
ここでは三人の姿を比較し、特にラザロに注目してみましょう。マリアは捧げる人、マルタは奉仕する人でした。彼らは教会の二つの大切な働きを代表しています。ではラザロはどうでしょうか。復活させられたラザロこそ率先して奉仕すべきだったように思いますが、彼はただ座っていただけでした(12:2)。しかし最も力強く復活を証ししていたのはマルタでもマリアでもなく、ラザロでした(12:9~11)。「信仰というのはなにかをすることであると考えがちです。……確かに信仰というものは、心の中で信じるだけではなくて、なんらかの行為や働きをするものです。しかし……ラザロのように、なにもしなくても、なにも語らなくても、ただそこにいるだけで、すなわち、イエスによって死によみがえらされた自分の姿をそこであらわすだけで、誰よりも復活の証人となっていることを知るべきでしょう」(上林順一郎著『なろうとして、なれない時』98~100ページ)。私たちはラザロのように肉体の復活は経験していませんが、復活の主を信じる者は皆「キリスト・イエスによって共に復活させ」られた者なのです(エフェ2:6)。
*本記事は、安息日学校ガイド2004年1期『ヨハネ 愛された福音書』からの抜粋です。