初代教会の生活【使徒言行録―福音の勝利】#3

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 初代教会の切迫感は、これ以上高まりようがありませんでした。メシアの王国設立に関する質問へのイエスの答え方は、時の問題を棚上げにしつつも(使徒1:6〜8)、すべてが“霊”の到来と使徒たちの宣教の完了にかかっているかのように理解されうるものでした。それゆえ五旬祭が来たとき、初期の信者たちは、すべてが成就した、と考えました—彼らは“霊”を受け、全世界に福音を伝えました。使徒たちがエルサレムを離れて、世界に出て行ったわけではありませんが、世界が彼らのところにやって来たからです(同2:5〜11)。

 次に起きたのは、教会が物的財産から離れることでした。残り時間が短いと感じた彼らは、自分の持ち物を売り払い、(エルサレムにおいてだけですが、)イエスについてあかしを続けながら、学ぶことと交わりとに専念しました。彼らが育てた共同生活は、貧しい者たちを助けるには効果的でしたが、間もなく問題を生じ、教会の結束を保つために神が介入せざるをえませんでした。それはまた、彼らが反対に遭い始めた時でもありました。しかし、そのような中にあっても、彼らの信仰は揺るぎませんでした。

教えることと交わり

 五旬祭のあと、ルカは物語をエルサレム教会の内面的生活の要約へと転じます。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒2:42)。有名なこの四つの事柄は、基本的には、教えることと交わりであるように思えます。使徒言行録2:46によれば、教えることは神殿でなされ、交わりは個人の家でなされました。

 神殿の庭は屋根付きの回廊で囲まれており、ラビが教えるためにしばしば用いられました。信者たちが使徒の教えに熱心であったということは、“霊”の賜物は彼らを瞑想的な宗教に導いたのではなく、使徒たちの下で集中的な学習過程へと導いたことを示しています。その使徒たちの権威ある教えは、不思議な業としるしによって本物であると証明されました(使徒2:43)。

 霊的交わりは、初期のクリスチャンの信心深さを際立たせたもう一つの特徴でした。信者たちは神殿に集まるだけでなく、互いの家にも頻繁に集まり、そこでは食事をともにし、聖餐を祝い、祈りました(使徒2:42、46)。そのように日々祝うことによって、初期のクリスチャンはイエスの速やかなお戻りへの期待をあらわしたのです。イエスが戻られるとき、主と彼らとの交わりが、メシアの王国で回復されるからです(マタ26:29)。

 個人の家は、初代教会の生活において重要な役割を果たしました。信者は神殿での日々の儀式に依然参加しており(使徒3:1)、安息日には、仲間のユダヤ人と一緒に会堂にいたと思われます(ヤコ2:2)。しかし、クリスチャンの礼拝を特徴づける活動は、家で行われていました。

問1 

使徒言行録2:44、45、4:34、35を読んでください。初期のクリスチャンの交わりの重要な側面は何でしたか。

 彼らは終わりが近いと信じていたので、自分の物質的所有物、つまり(現代的用語を用いるなら)「私有財産」はもはや重要でない、と判断しました。それゆえ、彼らの物的資源を共有することは適切に思えました。メシアの王国ではメシア御自身が彼らの必要な物を与えてくださるのですから、あしたを心配する理由がありません(ルカ22:29、30)。この共有は、クリスチャンの気前の良さの並外れた実例になるとともに、より深い一体感を彼らに感じさせました。

足の不自由な男をいやす

 使徒言行録3:1で、ペトロとヨハネは、午後3時の祈りのために神殿へ行きました。このことは、初期の教会の信仰が基本的にユダヤ教的特徴を持っていたことを示しています。つまり使徒たちは、教えたり、新しい改宗者を得たりするためだけに神殿へ行ったのではなく、ペトロとヨハネはユダヤ人でしたから、そのような者として、依然として(少なくとも、この時点までは)ユダヤ人の宗教的伝統を守っていたということです(使徒20:16、21:17〜26)。その神殿で、彼らは驚くべき奇跡を行い(同3:1〜10)、それによってペトロは再び説教をする機会を得ました。

 使徒言行録3:12〜26を読んでください。初期のクリスチャンの説教を特徴づけたのは、おもに次の五つの点でした。①イエスは苦しみのメシアであられた(使徒3:18)。②神はイエスを復活させられた(同3:15)。③イエスは天で高められた(同3:13)。④イエスは再びおいでになる(同3:20)。⑤罪が赦されるには、悔い改めが必要である(同3:19)。

 いろいろな意味で、これは時代背景が変わったとしても、私たちがこの世に伝えているのと同じメッセージです。使徒たちは、宗教を変えるのではなく、古い契約から新しい契約へ根本的に「移行」せざるをえなかったときに、依然としてユダヤ人の枠組みの中にいました。神の民の一員として、彼らはメシアを受け入れ、イエスを真に受け入れることに伴う新生を体験する必要がありました。

 状況は違いますが、現在も依然として、メッセージは基本的に同じです—キリストは私たちの罪のために死に、復活させられ、再び戻って来られるということ。つまりこれは、私たちが救いを見いだせるのはキリストの内である、ということです。黙示録14章の三天使の使命に関しても、イエス・キリストが十字架にかかり、復活し、戻って来られるということが、それらのメッセージを伝える際の中心でなければなりません。

 「キリスト教徒と告白するすべての者の中で、セブンスデー・アドベンチストは、世にキリストを掲げることにおいて第一人者でなければならない。第三天使の使命の宣布には、安息日の真理を紹介する必要がある。この真理は、第三天使の使命に含まれているほかの真理と共に宣べ伝えられなければならないが、人々の注意を引くべき大いなる中心であるキリスト・イエスを置き去りにしてはならない。憐れみと真理が出会い、正義と平和が口づけするのは、カルバリーの十字架においてである。罪人はカルバリーを見るように導かれなければならない。罪人は、幼子のような単純な信仰で主の功績を信じ、彼の義を受け入れ、彼の憐れみを信じなければならない」(『福音宣伝者』156、157ページ、英文)。

反対が起きる

 ほどなくして、教会の成功はエルサレムの宗教指導者たちから反発を招きました。エルサレム神殿は大祭司とその仲間によって運営されており、彼らのほとんどがサドカイ派でした。大祭司はまた最高法院の議長でもあり、当時、その議会はサドカイ派とファリサイ派で構成されていました。サドカイ派は復活を信じていなかったので、ペトロとヨハネが、死者の中からイエスは復活されたと教えていたことに、とてもいら立ちました。2人の使徒は、神殿の警備兵に逮捕されて牢に入れられ、翌日、最高法院の前に引き出されました(使徒4:1〜7)。

 使徒言行録4:1〜18を読んでください。ペトロが語ったことの根底にあるメッセージで、宗教指導者たちが脅威に感じたものがありました。ユダヤ人指導者たちによって突きつけられた権威に関する質問は、権力への懸念を示唆しています。しかしペトロは、奇跡がイエスの名によってなされたことだけでなく、救いはイエスからのみもたらされる、と明言しました。使徒たちはユダヤの最高機関の前にいましたが、より高い権威に仕えていたのです。この2人は一介の無学なガリラヤの漁師でした。それゆえ、彼らの勇気と雄弁さは、そこにいた人たちを驚かせました。指導者たちは気づいていなかったのですが、肝心なのは、イエスがまさに予告しておられたように(マタ10:16〜20)、使徒たちが聖霊に満たされていたことでした。

 (いやされた男もその場におり、だれもが彼を見ることができたので)最高法院は奇跡を否定できず、説教をしないように、とだけ使徒たちに命じました。指導者たちは、この運動の人気が高まっていることと同じくらい、そのメッセージを恐れていたのです。証拠を適切に評価できなかったので、彼らは偏見と自己防衛の欲求のままに行動しました。

 ペトロの最後の言葉は、使徒言行録の中の珠玉の言葉の一つです—「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒4:19、20)。

アナニアとサフィラ

 初代教会における財産の共有は、強制的なものではありませんでした。つまり、それは教会員になるための正式な条件ではなかったのです。しかし、自発的な気前の良い実践例がいくつもあり、それが共同体全体に刺激を与えました。そのような実践例の一つがバルナバでした(使徒4:36、37)。彼は使徒言行録の中で、のちに重要な役割を果たします。

 しかし、教会の一致を内側から脅かした残念な例もありました。それはまさに、外側からの攻撃がちょうど始まったときのことでした。

問2 

使徒言行録5:1〜11を読んでください。この物語の教訓は何ですか。

 ルカは一部始終を記していませんが、アナニアとサフィラの根本的な問題がお金を取っておこうとしたことではなく、共同体内での欺きの行為であったということは、疑いの余地がありません。彼らの罪は、衝動的な行為の結果ではなく、周到に練られた計画、「主の霊を試す」(使徒5:9)意図的な企ての結果でした。彼らは、不動産を売って、そのお金を教会に差し出さねばならない義務を負ってはいなかったのです。それゆえ、彼らがそうすると誓ったとき、たぶん自分たちの利益のためだけに行動していたのでしょう。称賛に値する慈善行為らしきことによって、兄弟姉妹たちの間での影響力を得ようとしていたのかもしれません。

 そのような可能性は、なぜ神が彼らを厳しく罰せられたのかを説明する助けになります。たとえ教会の共同生活が、イエスがすぐに来られるという確信に由来するものであったとしても、これほど初期の段階でのアナニアとサフィラのような行為は、神に対する忠誠心の重要性をおとしめ、信者の間に悪影響を及ぼしえたのです。サフィラの場合と同様(使徒5:8)、アナニアに悔い改めの機会が与えられたと記されていない事実は、単に物語の短さのせいかもしれません。

 要するに、終始、彼らは罪深い行動をしたのであり、罪というのは、たとえ神が直ちに罰を下されないとしても、神の目には深刻な問題であるということです(エゼ18:20、ロマ6:23)。実際、罰がしばしば延期されることによって、私たちは、神がいかに恵み深い方であるかを思い出すべきです(IIペト3:9)。

二度目の逮捕

 アナニアとサフィラの場合のように、もし使徒たちが罪に神の裁きを下すために用いられたのなら、彼らは罪人に神の恵みをもたらすためにも用いられました。彼らの力強いいやしの働きは(使徒5:12〜16)、神の“霊”が彼らを通して働いておられた明白な証拠でした。ペトロの影さえ人々をいやすと信じられていたことは驚きです。福音書において最も類似した話は、イエスの衣に触れたことでいやされた女性の話でしょう(ルカ8:43、44)。しかしルカは、実際にペトロの影にいやす力があったと言っているのではなく、人々がそう考えていた、と述べているのです。しかし、大衆の迷信が混じっているとしても、神は恵みを施してくださいます。

 それにもかかわらず、使徒たちがますます“霊”に満たされ、しるしと不思議な業が数多くなされるほど、宗教指導者たちはますます嫉妬に駆られました。このことが、使徒たちに二度目の逮捕をもたらしました(使徒5:17、18)。権力者の中のある人たちが、超自然的影響力が働いている可能性をようやく考え始めたのは、使徒たちが奇跡的に逃れ(同5:19〜24)、ペトロが再び大胆に語り、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(同5:29)と強調したあとのことでした。

 使徒言行録5:34〜39を読んでください。最高法院は、影響力の強い少数派を形成するファリサイ派とともに、サドカイ派によって支配されていました。ガマリエルはファリサイ派に属し、律法学者でした。彼はユダヤ人の間で高く評価され、単に「ラビ」(私の師)ではなく、「ラバン」(私たちの師)として知られるようになりました。パウロは彼の弟子の1人でした(使徒22:3)。

 ガマリエルは、イスラエルの近年の歴史の中で、追随者を得て、混乱を引き起こした二つの反対運動を思い起こさせました。しかし、その首謀者たちはいずれも殺され、彼らに従った者たちはすっかり散らされました。彼が得た教訓は次のようなものでした。もしクリスチャンの運動が人間から出たものなら、それはやがて消えるだろうし、一方、もしそれが神の運動であるなら、使徒たちが主張したように、どうしてそれに抵抗したいと望みうるだろうか。ガマリエルの助言は、説得に成功しました。使徒たちは鞭で打たれ、もう一度、イエスの名によって語ってはならない、と命じられたのでした。

◆ いかに良い助言は必要であり、有用であるかということについて、この物語は何を教えていますか。たとえ私たちが必ずしも聞きたくない内容の助言であったとしても、どうしたら私たちは助言を受けることに、もっと心を開けるようになるのでしょうか。

さらなる研究

 「私たちは管理者であり、不在にしておられる私たちの主から、世話をするようにと彼の家族と利益を託されている。主はそれらに仕えるために、この世へ来られた。主は私たちに託して天に戻られたが、目を覚まして彼の出現を待つよう、私たちに期待しておられる。主が突然おいでになって、私たちが眠っているのをご覧になることがないよう、私たちに託されたものに忠実でいよう」(『教会への証』第8巻37ページ、英文)。

 「人々は、神の御業に対する誓いや約束の神性さを印象づけられる必要がある。このような誓いは、人間から人間への約束手形ほどに拘束力を持っていないと、一般に思われている。しかし、神に対してなされた約束だからという理由で、それがさほど神性でなかったり、拘束力がなかったりするだろうか。専門用語が含まれておらず、法によって強制されえないからという理由で、クリスチャンは、自分が約束した誓いを無視するのだろうか。神の御業に対してなされた約束以上に拘束力のある法的契約書や約定はないのである」(エレン・G・ホワイト『SDA聖書注解』第6巻1056ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2018年3期『使徒言行録』からの抜粋です。

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