第3次伝道旅行【使徒言行録―福音の勝利】#10

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パウロの第3次伝道旅行に関するルカの物語は、かなり唐突に始まります。聖書のその箇所は、パウロが彼の宣教拠点であるアンティオキアでしばらく過ごしたあと、また旅に出て、「ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた」(使徒18:23)とだけ述べています。つまり、その旅行の最初の2400キロほどが、一つの文で言い尽くされているのです。

これは、この旅行の焦点がエフェソであったからでした。パウロはその町に、これまでの旅行の途中で滞在したどの町よりも長くとどまりました。宣教的観点からすると、エフェソでの伝道は非常に実り豊かなものでした。パウロの説教の影響は、アジア州全域に及びました(使徒19:10、26)。たぶんそれは、パウロの共労者の1人であったエパフラスによって(コロ1:7、フィレ23)、コロサイ、ヒエラポリス、ラオディキアの諸教会が設立されたのと同じ頃でした(コロ4:12、13)。

この旅行で注目すべきことは、それが使徒言行録に記されているパウロの最後の旅であるという点です。彼は自由人としてこの旅に出ましたが、ルカはもう一つの旅行も記しています。それはローマへの旅です。しかし、この時のパウロは囚人でした。

エフェソ(その1)

使徒言行録18:24〜28は、パウロがエフェソへの途上にあったとき、アポロというユダヤ人信者がこの町へ来たと記録しています。彼は雄弁で、聖書に精通していました。アポロがイエスに従う者であったことは、「彼は主の道を受け入れており、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていた」(使徒18:25)というルカの描写から明らかです。しかし、ヨハネのバプテスマしか知りませんでした。バプテスマのヨハネからバプテスマを受けたということなので、アポロがイエスを知ったのは、イエスが地上におられた間になりますが、受難や五旬祭の出来事が起こる前に、その地域から離れたか、アレキサンドリアへ帰ったに違いありません。

このことは、なぜアキラとプリスキラがさらに彼を教えたのか、その理由を説明しています。アポロは、イエスがイスラエルのメシアであったことは聖書から示すことができましたが、アキラとプリスキラはそれ以上のことをアポロにしました。エフェソのほかの信者とともに、2人はアカイア州の諸教会宛ての推薦状を彼に持たせたのです(同18:27)。その手紙のお陰で、アポロはコリントにおいて効果的な伝道をすることができました(Iコリ3:4〜6、4:6、16:12)。

使徒言行録19:1〜7を読んでください。アポロの物語は、パウロがエフェソに到着してすぐに出会った12人の話とつながっています。なぜなら、状況がよく似ているからです。「弟子」(使徒19:1)と呼ばれていることや、彼らへのパウロの質問は(同19:2)、すでにイエスの信者であったことをはっきり伝えています。同時に、パウロへの答えは、アポロと同様、彼らがバプテスマのヨハネの元弟子であり、五旬祭を経験することなくイエスの弟子になっていたことを示しています。彼らは主とのより深い体験を享受する機会を得る必要がありました。

「エペソへ到着してすぐ、パウロは、アポロのようにバプテスマのヨハネの弟子であった12人の兄弟たちを見つけた。彼らもアポロのように、キリストの使命についてある程度の知識を持っていた。彼らにはアポロのような能力はなかったが、彼と同じ誠実な信仰をもって、彼らが受けていた知識をひろめようとしていた」(『希望への光』1462ページ、『患難から栄光へ』下巻305ページ)。

私たちは彼らの再バプテスマを、このような特殊な状況に照らして見るべきです。彼らはキリスト教の別の教派の出身者でもありませんし、回心を体験しつつあったわけでもありません。彼らはキリスト教の主流に組み入れられただけでした。彼らが“霊”を受けて異言を語ったというのは、アポロと同様、彼らがキリスト教の宣教師であり、どこへ行こうと、今やイエス・キリストをあかしするのに十分な力を得ていたことを意味します。

エフェソ(その2)

パウロはエフェソでも、まず会堂で説教をするという慣例に従いました。反対が起こると、彼と新しい信者たちは、ティラノという人の講堂に移り、その場所でパウロは2年間、毎日説教しました(使徒19:8〜10)。ルカはパウロのエフェソ伝道を要約して、アジア州全体に福音が広く行き渡った、と述べています(同19:10、26)。

ルカは使徒言行録19:11〜20において、魔術や迷信的な行為がかなり日常的な町で神の力が勝利したことを説明する奇跡の物語を少し加えています。神がパウロを通しておいやしになったことは、疑いの余地がありません。しかし、使徒が触れた手ぬぐいや前掛けにさえいやす力があったというのは(使徒19:12)、イエスが長血の止まらない女をいやされたことと似ていますが(ルカ8:44)、ある人には奇妙に聞こえるかもしれません。エフェソの人たちの迷信深さのゆえに、ルカが言うように、神は「目覚ましい奇跡」(使徒19:11)を行われたのかもしれません。たぶんこれは、神が人々の理解力において彼らの必要を満たされた一つの例なのでしょう。

エフェソでの宣教の結果に満足したパウロは、エルサレムに行くことにしました(使徒19:21)。ルカはその旅行の理由を述べていませんが、私たちはパウロの別の書簡によって、彼がエルサレム教会の貧困問題を軽減するために集めた資金を届けたいと望んでいたことを知っています(ロマ15:25〜27、Iコリ16:1〜3)。初期の財産の共有と、皇帝クラウディウス時代の激しい飢饉がユダヤの信者を貧しくさせたのですが、パウロは、援助を求める彼らの訴えの中に(ガラ2:10)、彼の使徒性に対する彼らの信頼と、今や文化を超えた教会の一致を強める好機を見たのでした。彼がさらされるだろう危険を知りつつも……(使徒20:22、23、ロマ15:31)。

使徒言行録19:23〜40を読んでください。その反対は多神教礼拝に関係しており、それはパウロの伝道によってひどく脅威にさらされていました。デメトリオの真の動機は、明らかに金銭上のことでしたが、彼はそれを宗教的な動機に変えることができました。なぜなら、古代世界の七大不思議の一つに数えられていたアルテミス(別名ダイアナ)神殿が、エフェソにあったからです。

トロアス

騒動のあと(使徒19:23〜40)、パウロはエフェソを去ることにしました。しかし彼は、エルサレムへ直行するのではなく、マケドニア州とアカイア州を通って大きく迂回したのでした(同20:1〜3)。この旅では、異邦人教会の代表者たちが彼に同行しました(同20:4)。

使徒言行録20:7〜12を読んでください。トロアスでのパウロの短い滞在は、「週の初めの日」(使徒20:7)に持たれた教会の集会で終わりました。彼らは「パンを裂くため」に集まったのですが、それはたぶん聖餐式のことでしょう。ただし、エルサレム教会の初期の頃から、しばしばそれと組み合わされていた交わりの食事(同2:42、46)がなされたかどうかは、わかりません。杯や祈りに触れていないからといって、その可能性を否定することはできません。しかし肝心なのは、この出来事が、パウロの時代、少なくとも異邦人教会が礼拝の日として安息日を日曜日にすでに置き換えていた証拠だ、としばしば言われる点です。

しかし、そのような主張をする前に、この集会の性質とともに、集会が持たれた正確な曜日を立証する必要があります。エウティコが熟睡したことは言うまでもなく(使徒20:9)、「ともし火」(使徒20:8)を使用したことへの言及は、パウロの話が「夜中まで」(同20:7)、さらには「夜明けまで」(同20:11)続いた事実とともに、それが夜の集会であったことを明らかにしています。

しかし問題は、それが日曜の前夜であったか、あるいは日曜の夜であったかという点です。その答えは、ルカが用いている時間計算の方式によって決まります。つまり、日没から日没までのユダヤ方式か、深夜から深夜までのローマ方式かということです。もし前者であれば、それは土曜日の夜であり、後者であれば、日曜日の夜ということになります。

いずれにせよ、使徒言行録20:7〜12の状況は、たとえ集会が日曜日の夜に持たれたとしても、それは定期的な教会の集会ではなく、翌朝のパウロの出発ゆえの特別な集会であったことを示しています。従って、この単独の、例外的出来事で、日曜順守を支持できると考えることは困難です。事実、支持できません。

ミレトス

エルサレムへ向かう途中、パウロは別の場所にも立ち寄りました。今回はミレトスという町で、パウロはそこで、エフェソの教会の指導者たちに告別の辞を述べる機会を得ます。

使徒言行録20:15〜27を読んでください。パウロは新たな旅行の計画をすでに立てており、その旅にはローマやスペインが含まれていたので(ロマ15:22〜29)、彼は再びアジア州に戻ることは二度とあるまいと思っていました。そこでパウロは、エフェソで過ごした年月の説明責任報告のような形で彼のスピーチを始めました。しかしその報告は、過去だけでなく、つまり彼がエフェソの人たちの間でどのように生きたのかということだけでなく、未来にも、焦点を合わせています。なぜならパウロは、エルサレムで彼の身に起こりうることを恐れていたからです。

パウロの恐れは、根拠のないものではありませんでした。エルサレム教会は、パウロの迫害者としての過去や、彼が説いた割礼不要の福音のゆえに、敵意ではないにしろ、疑いをもって彼を見ていました(使徒21:20〜26)。ユダヤの当局者たちにとって、彼は裏切り者、宗教的伝統からの背教者でしかありませんでした(同23:1、2)。また西暦1世紀の半ばまでに、とりわけローマの失政のせいで、ユダヤは革命的かつ国粋主義的理想論の虜にもなっていました。このような雰囲気が、たぶん教会を含むユダヤ人社会のあらゆる階層に影響を及ぼしていたのです。そういう状況の中で、異邦人の間における元ファリサイ人の働きは、彼を悪名高い人物にしたに違いありません(同21:27〜36)。

パウロはさらなる心配も抱えていました。彼は使徒言行録20:28〜31において、エフェソの教会の指導者たちが偽教師の問題をいかに扱うべきかに目を向けています。その偽教師たちは、群れを間違った方向へ導き、堕落させる残忍な狼にたとえられています。つまり教会の中においてさえ、しかも教会の初期にもかかわらず、偽教師の危機は現実のものだったのです。ソロモンは、別の時代の、別の状況において、「太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘ1:9)と言いました。キリスト教会の歴史は、偽教師が教会に与えた途方もない被害を明らかにしています。この問題は、終末まで存在し続けるでしょう(IIテモ4:3)。

間違いなく、パウロは多くのことを気にかけ、多くの心配を抱えていました。しかし、彼の忠実さや勤勉さは、決して萎えることがありませんでした。

ティルスとカイサリア

ミレトスのあと、ルカはパウロの旅行を少し詳しく記録しています。依然、エルサレムへの途上でしたが、使徒はフェニキアの港町ティルスに1週間滞在しました。その町で、船荷を降ろすことになっていたのです(使徒21:1〜6)。しかし、パウロがそこにいる間、信者たちは彼に、エルサレムへ行かないように、としきりに頼みました。信者たちが“霊”に導かれて、エルサレムへ行かないようパウロに警告したということは、必ずしも使徒の先の助言と矛盾していません。使徒言行録19:21の「御霊に感じて」(口語訳)に相当するギリシア語「エセトエントープニューマティ」は、パウロが自分だけでこの結論にたどり着いたというより、むしろ「“霊”によって決心(決意)した」と表現されたほうがいいようです。肝心なのは、“霊”がティルスのクリスチャンたちに、パウロの前途に待ち受けている危険を示されたかもしれないということ、そして彼らが、人間的心配からではなく、計画を進めないように勧めたという点です。パウロ自身は、エルサレムで自分の身にどのようなことが起きるのか、わかっていませんでした(使徒20:22、23)。神の助言は、パウロのような者に対してでさえ、必ずしもすべてを明らかにはしないのです。

使徒言行録21:10〜14を読んでください。アガボはエルサレム出身の預言者で、使徒言行録11:27〜30における飢饉の話の中ですでに登場していました。旧約聖書のいくつかの預言と同様(例えば、イザ20:1〜6、エレ13:1〜10)、彼のメッセージも行動で示すものでした。それは、パウロがエルサレムに着いたときに彼の身に起こること、彼の敵が彼を異邦人(ローマ人)に引き渡すことを生々しく説明する役割を果たしました。

パウロの同行者たちは、アガボのメッセージを預言としてではなく、警告として受け取ったため、彼らは、なんとかしてパウロをエルサレムへ行かせまいと説得しました。パウロは彼らの反応に深く心を打たれましたが、自分の命を犠牲にしてでも、彼の使命を果たそうと決心します。彼にとって、福音に誠実であることと教会の一致は、自分自身の安全や関心よりもずっと重要だったからです。

「パウロはこれまで、このような悲しい思いをもってエルサレムに近づいたことはなかった。彼は、友が少なく、敵が多くいることを知っていた。彼は、神のみ子を拒否して殺害した都、そして、今や、神の怒りが臨もうとしている都に近づいているのであった」(『希望への光』1507ページ、『患難から栄光へ』下巻83ページ)。

さらなる研究

「福音の宣教の成功が、新たにユダヤ人の怒りを引き起こした。ユダヤ人はもはや礼典律を守る必要はなくなり、異邦人はユダヤ人と同じように、アブラハムの子孫の特権にあずかるのである、という新しい教理が広まったとの報告が、各地から入って来ていた。……彼が強調した『もはやギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼……の差別はない』という言葉を、彼の敵たちは、はなはだしく神を冒するものであるとみなし、彼の声を沈黙させなければならぬと決意した(コロサイ3:11)」(『希望への光』1504ページ、『患難から栄光へ』下巻75ページ)。

「またパウロは、同信の兄弟たちの同情と支援にさえ頼ることができなかった。悔い改めないユダヤ人たちは、しつこく彼につきまとって、時を移さず、直接また手紙の両方によって、彼と彼の働きに関する不利な報告を広めた。そして、使徒たちや長老たちのあるものは、この報告が真実であると信じて、何の反駁もしなければ、彼と一致しようとするどんな希望も示さなかった」(『希望への光』1507ページ、『患難から栄光へ』下巻83ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2018年3期『使徒言行録』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
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『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
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『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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