この記事のテーマ
自らが創造するものよりも偉大なもののみが、それを創造することができます。したがって、宇宙よりも偉大な存在者のみが宇宙を創造することができました。この存在者が聖書に啓示されている神、つまり私たちが礼拝し、仕える神です。なぜなら、ほかの何にも増して、神は私たちの創造主だからです。
この神、つまり宇宙を創造し、宇宙空間に何十億もの銀河をちりばめられた方が、地上に来て、人間として私たちのうちに住み、驚くべきことに、私たちの罪を御自身に負われたのです。
私たちは時々、「信じられないほどいい話」を耳にします。しかし、堕落し、苦痛に満ちた世界に住む罪深い私たちにとって、私たちの創造者の愛、つまりキリストの人格において世に下り、決して切れることのない絆で御自身を私たちに結びつけられた方の大いなる愛についての素晴らしい真理を知ること以上に「いい話」がほかにあるでしょうか。
このような素晴らしい真理に応答するために、私たちはどのように生きたらよいでしょうか。
初めに
「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)。
この短い聖句に、多くの深い真理が含まれています。その最も深遠な真理の一つが、宇宙にはそれ自体の始まりがあるということです。この考えは今日の私たちにとってはそれほど不思議に思われないかもしれませんが、被造物が永遠の昔から存在しているという古来の信仰に真っ向から対立するものです。宇宙に始まりがあるという考えが一般的に受け入れられるのは、「ビッグバン」(宇宙大爆発)生成論が確立される20世紀以後のことです。それまでは、宇宙がつねに存在したと、多くの人々は信じていました。宇宙が創造されたという考えに多くの人が反論するのは、それが何らかの創造者を暗示させるからです(事実、ビッグバンという呼び方は創造された宇宙という考えをあざけることを意図したものでした)。しかし、宇宙に始まりがあるという証拠が明らかになるにつれて、少なくとも今のところは、ほとんどすべての科学者がそれを受け入れています(かつては神聖不可侵と思われていた科学的な見解ですら、しばしば変更され、論駁されています)。
ヘブライ11:3を読んでください。創世記1:1と同様に、ヘブライ11:3は私たちの現在の知識では説明できない神秘と事柄に満ちています。しかし、この聖句は、宇宙が前から存在した物質から形成されたのでないことを私たちに教えているように思われます。宇宙は神の言葉の力によって創造されました。つまり、物質とエネルギーは神の力によって存在するようになりました。
何もないところからの創造は“エクス・ニヒロ”(無から)の創造として知られています。私たちはよく、いろいろな物を作ることのできる人間を賞賛しますが、人間は何もないところから創造することはできません。私たちは前からあった物質の形を変えることはできますが、“エクス・ニヒロ”から創造する力を持っていません。それができるのは神の超自然的な力だけです。これは神と人間の決定的な違いの一つであって、私たちの存在そのものが創造主に依存していることを思い出させます。
事実、創世記1:1の「創造された」という動詞は、神の創造活動に関連してのみ用いられるヘブライ語の基語から来ています。人間ではなく、神だけが、この種の創造を行うことができます(ロマ4:17参照)。
天は物語る
問1
「天は神の栄光を物語り大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく声は聞こえなくても」(詩編19:2〜4—ロマ1:19、20参照)。これらの聖句が真理であることを実感したことがありますか。現代科学はどんな意味で、創造主としての神の力と知恵をさらに深く理解する助けになりますか。
いかなる種類の宇宙も、生命を維持することはできません。事実、生命が存在するためには、宇宙はきわめて精密に設計されていなければなりません。まず、安定した物体が創造されるためには、あらゆる物質の構成要素である原子が十分に安定していなければなりません。原子の安定度は原子の各部分を支える力に依存しています。原子は互いに引きつけ合い、かつ反発し合う分子で充満しています。この牽引と反発の力は微妙なバランスを必要とします。もし牽引力が強すぎると、大きな原子だけができ、水素がなくなります。水素がなければ、水も、したがって生命もありません。もし反発力が強すぎると、水素のような小さな原子だけができ、炭素や酸素ができません。酸素がなければ、水も生命もありません。ご存知のように、炭素もあらゆる生命に欠かせないものです。
さまざまな種類の多くの化合物を生み出すためには、原子は安定していると同時に、相互に作用し合う必要があります。生命に必要な化学反応を可能とするためには、分子を支える力と分子を破壊する力との間にバランスが必要です。
この宇宙が生命に正確に適応しているのを見て、科学者たちは驚嘆します。彼らの多くは、この宇宙が一人の知的存在者によって設計されたように見えると言っています。
生命が存在するためには、世界はまた賢明に設計されていなければなりません。温度の範囲は生存に適したものでなければなりません。よって、太陽からの距離、自転の速度、大気の組成などはすべて適度のバランスを保っていなければなりません。その他の多くの細部において、世界は注意深く設計されていなければなりません。じつに、神の知恵がその被造物のうちに現されています。
御言葉の力
問2
エレミヤ書51:15、16、詩編33:6、9を読んでください。天地創造には、神の知恵のほかに、どんな属性が現されていますか。この属性は天地創造にどのように現されていますか。この真理は私たちにどんなことを教えていますか。
神がどのようにして創造の業をなさったかを正確に知ることはできませんが、それが神の力強い御言葉によってなされたと書かれています。宇宙のあらゆる部分にあるあらゆる力は、神の御言葉にその起源を持っていました。この世界のあらゆる燃料に含まれるあらゆる力は神の力から出ていました。宇宙全体のあらゆる重力、軌道上を回るあらゆる星、あらゆるブラックホールは神の力から出ていました。
最大のエネルギーはたぶん、原子そのもののうちにあります。わずかな物質が大きなエネルギーに変換される核兵器の威力を見れば、そのことがよくわかります。しかし、科学者によれば、すべての物資が大きなエネルギーを含んでいます。もしわずかな物質が核兵器のような莫大なエネルギーを生み出すとすれば、全世界の物質に蓄えられているエネルギーの量はどれほどになると思いますか。しかし、それも宇宙の物資に蓄えられているエネルギーに比べれば無に等しいものです。宇宙を創造するために用いられた神の力を想像してみてください。
神の創造の働きはすべて「自然の法則」によって制限されると、多くの科学者は信じていますが、これは聖書に反する考えです。神は自然の法則によって制限されるお方ではありません。むしろ神が自然の法則をお定めになったのです。神の力は、私たちが「自然の法則」と呼ぶ型に必ずしも従うとは限りませんでした。
たとえば、基本的な「自然の法則」の一つに、「質量およびエネルギー保存の法則」と呼ばれるものがあります。この法則によれば、宇宙における物質とエネルギーの総量は一定です。もしこの法則が絶対的なものであるなら、どのようにして何もないところから宇宙が出現するのでしょうか。神の創造的な御言葉は科学の「法則」によって束縛されることはありません。神は御自分のあらゆる被造物を支配し、思いのままに御心を遂行されます。
天と地の創造者
問3
創世記1:1〜3、14、コロサイ1:15、16、ヘブライ1:1、2を読んでください。新約聖書の著者たちは創造主をどのように特定していますか。その答えはどのようなことを暗示しますか。
ヨハネはイエスを「言」(“ロゴス”)と表現し、彼を神と同等視しています。さらに詳しく言えば、イエスは万物を創造された方です。ヨハネの時代においては、“ロゴス”という言葉は創造的な原則を表すために一般的に用いられました。ヨハネの読者は創造的な原則あるいは創造者としての“ロゴス”の概念について知っていたことでしょう。ヨハネはこの一般的な思想をイエスに当てはめ、イエスが真の創造者であると言いました。人となって私たちのうちに住まれたロゴス、イエスは初めに存在されただけでなく、宇宙を創造された方でした。つまり、創世記1:1は、「初めに、イエスは天地を創造された」と読むこともできるわけです。
コロサイ1章にあるパウロの言葉も、ヨハネの言葉と同様に、イエス・キリストを創造主と認めています。イエスによって、万物は創造されました。パウロはほかに二つ、イエスの属性を付け加えています。第一に、イエスは見えない神の姿です。私たちは罪深い存在であるため、父なる神を見ることができません。しかし、イエスを見ることはできます。神がどのような方であるかを知りたいと思うなら、イエスの生涯について学ぶことです(ヨハ14:9)。第二に、パウロはイエスを、「すべてのものが造られる前に生まれた方」と呼んでいます(コロ1:15)。この文脈においては、「すべてのものが造られる前に生まれた方」とは、起源でなく、地位をさします。長子は家族の長であって、財産を受け継ぐ者でした。イエスが「すべてのものが造られる前に生まれた方」であるというのは、イエスが創造主として、また受肉(私たちと同じ人性をとられたこと)を通して、正当な人類家族の長であるという意味です。イエスは創造された方ではありませんでした。イエスは永遠から父なる神と共におられました。
ヘブライ1:1、2はコロサイの聖句と同じ論点を繰り返しています。イエスは万物の相続者と定められた方、世界を創造された方です。加えて、イエスは神の性質を正確に表す方、別の言い方をすれば神の姿です。
私たちと共におられる創造主
問4
ヨハネ2:7〜11、6:8〜13、9:1〜34を読んでください。これらの聖句は神の創造力についてどんなことを啓示していますか。
これらの奇跡はそれぞれ、神御自身が創造された物的世界に対する神の力を私たちにかいま見させてくれます。
まず、水を直接ぶどう酒に変えるためには、どのようなプロセスが必要とされるのでしょうか。私たちにはわかりません。実際、イエスがここでなさったことを行うために、少なくとも私たちが現在知る範囲の自然の法則を超えた行為がなされています。
魚とパンの奇跡では、イエスは5つのパンと2匹の小さな魚を取り、群衆を充分に養い、余ったパン屑が12の籠いっぱいになるまでにそれを増やしておられます。すべての食物は原子と分子でできていました。最後には、食物の原子と分子は群衆に食べさせ始めたときよりもはるかに増えていました。もし神の超自然的な介入によらないとしたら、余分な分子はどこから来たのでしょうか。
また、目の不自由な人がいやされたとき、どんな肉体的変化が彼に起こったのでしょうか。彼は生まれつき、目が不自由でした。したがって、彼の脳は視神経を通して目から送られたメッセージの像を結ぶように刺激を受けたことが一度もありませんでした。つまり、入ってくる情報を処理し、像を結び、その意味を理解するためには、彼の脳は配線し直される必要がありました。次に、目そのものに何らかの欠陥がありました。おそらく、光受容体の一部がDNAの異変によって傷ついていたのでしょう。あるいは、出生時に、網膜や視神経、水晶体といった目の部分の発育を支配する遺伝子に何らかの異変が起きたのかもしれません。あるいは、目の正常な機能を阻害する何らかの機械的な損傷が生じたのかもしれません。
彼がどのような原因で目が不自由になったにせよ、イエスの言葉はふさわしい場所に分子を生じさせ、目に入った光が像を結ぶように、正常な感覚器官、神経結合体、脳細胞を形成しました。こうして、彼は今までに見たことのない像を認識する能力を身につけたのでした。
さらなる研究
「創造の業は決して科学によっては説明できない。どのような科学が生命の神秘を説明することができるだろうか。
神が世界を創造されたとき、物質を創造されなかったという理論には、根拠がない。この世界を形成するにあたって、神は以前から存在する物質に依存されなかった。反対に、万物は、物的なものも霊的なものも、神の御声によって主エホバの前に立ち、神御自身の目的のために創造された。天とその万象、地とそれに満ちる一切のものは、神の御手の業であるばかりでない。それらは神の口の息によって出現した」(『教会へのあかし』第8巻258、259ページ、英文)。
「神がどんな方法で創造の働きをなさったかは、人間にあらわされていない。人間の科学は、至高者の秘密をさぐり出すことはできない。神の創造の力は、神の存在と同様に理解することはできない」(『希望への光』24ページ、『人類のあけぼの』上巻32ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2013年1期『起源』からの抜粋です。