この記事のテーマ
科学者たちは、世界が生物の生存に適当であるのを見て驚きます。それもそのはずです。創世記1章に始まって、聖書全体にその設計と目的が明らかにされているからです。形も中身もない惑星を手始めに、神は初めの3日間に居住地のための世界を形づくり、あとの3日間でそれを満たされました。今週の研究は天地創造の週の最初の3日間に焦点をあてます。
ある学者たちは、神が自然界に対して目的を「置こう」とされたという考えに異議を唱え、神はただ物的世界に「自立」を許し、それ自身のうちに備わっている自然のプロセスによって発展するのを許されただけであると主張しています。これは、さまざまな種類の「有神論的進化論」を唱える人たちのうちに見られる一般的な考えです。しかし、そのような考えは聖書や、天地創造に関する私たちの理解と相容れないものです。宇宙はそれ自身のうちに備わった意思というものを持ちません。全宇宙は神から独立した存在ではなく、むしろ神がお造りになった被造物に御自分の愛を表すために選ばれた活動の舞台です。
混沌
問1
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創1:1、2)。これらの聖句は、主が地上に生物を創造される前の、地上の状態についてどんなことを啓示していますか。
聖書は天地創造の物語をもって始まり、神が創造主であるという記述をもって始まっています。聖書は次に、被造物を置くために神が世界を準備し始めたときの、世界の状態について描写しています。物語が始まるとき、地球はすでにありましたが、形がなく、中身もなく、暗く、水で覆われていました。続く聖句は、神がどのようにしてこの世界を生物が宿るにふさわしい場所に形づくり、その後、生き物で満たされたかを描いています。聖句は、地球の岩や水がいつ存在するようになったかを語っていません。書かれているのは、世界が必ずしも生存に適した場所ではなかったということだけです。世界が被造物の生存に適した場所となったのは、神がそのように造られたからにほかなりません。
問2
イザヤ書45:18は、天地創造における神の意図についてどんなことを教えていますか。
地球が初めて出現したとき、それは生存には不適当な場所でした。最初に岩と水が造られたときと、環境と生き物が造られたときの間に、どれだけの期間があったのかについて、聖書は何も語っていません。ある学者は、それは直後だっただろうと考えますが、別の学者は長い期間の後だったかもしれないと考えます。
はっきり言って、それは私たちにはわかりませんし、またそれほど重要な問題でもありません。いずれにしても、地球の素材は神によって造られ、その後、神のお選びになった時期に、生存に適した環境を神が造られたのです。重要なことは、すでに存在する材料に左右されない主が、ある時点ですでに造っておられた材料、つまりその「初期の」状態では“トフボフ”(「混沌」)であったものを用いられたということです。その後で、神は御言葉の力をもって、私たちの棲息可能な世界を創造されたのです。
光あれ
問3
「神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」(創1:3 ~5)。これらの聖句は天地創造の1日目についてどんなことを教えていますか。
これらの聖句から、さまざまなことを推論することができます。
第一に、光は神の命令に応答して出現しました。神の御言葉は天地創造の状態を決定する効力を持っています。
第二に、その光は「良い」ものでした。神が光を「見た」と聖句にあることを不思議に思うかもしれません。神がすべてのものをご覧になることに疑いを感じるでしょうか。要点は、神によって造られた光が神の目にも良いものであったということです。光が良いものであるのは、神御自身がそれをそのように評価されたからです。
もう一つの要点は、神が光を闇から区分されたことです。光も闇も神の支配のもとにあって、どちらも神の活動と知識に影響を与えることはありません(詩編139:12参照)。神は光の部分と闇の部分の時間に名前をつけ、それらを「昼」と「夜」と呼んでおられます。神は時間の創造者なので、区切られた時間に名前をつける権利を持っておられます。時間の支配者である神は、時間に制限されることはありません。むしろ時間の方が、神に依存しています。
この聖句のもう一つの要点は、闇の期間と光の期間が共に一日を構成していたことです。天地創造の物語の中に「昼(日)」の意味についてさまざまなことが書かれています。この問題については後で考えますが、ここでは第1日が今日私たちが観察する一日と同じように、闇の期間と光の期間によって構成されていたことに注目します。
また、光は神の臨在に伴う特徴の一つです。光は天地創造の1日目に発明された、と考える必要はありません。というのは、神は地球が創造される前から存在し、その臨在はしばしば光と結びついているからです(ヨハ1:5、黙22:5)。天地創造において、光はそれまで闇であった地球にもたらされたのです。
天の創造
「神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ』。神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である」(創1:6~8)。
神は大空を造り、その役割を定め、それを天と名付けられました。大空(天)の役割は下の水と上の水とを分けることでした。今日、私たちは「空」という言葉を使い、それが私たちの環境の一部である大気圏と、太陽や月、星々のある大気圏外の宇宙とに区分されることを知っています。
大気圏は天地創造の2日目に形づくられた「天」の一部であるように見えます。大気圏は水が上に向かって移動する手段を提供します。水は蒸発し、大気となり、地上のあらゆる場所に運ばれていきます。そして、創世記2:6にあるように霧となり、あるいは雨となって、地表に戻ります。
神は大空に名前を付けることによって、大空に対する主権を表されました。名前を付ける行為は、神が空間を支配される方であることを暗示しています。空間はいかなる意味においても神の行為を制限するものではありません。なぜなら、神がそれを造り、かつ支配されるからです。1日目の世界の光と同様、大空の創造も2日目が終わる前に完了しています。ここにも、夜の闇の期間と昼の光の期間がありました。
「大空」という言葉の意味については、さまざまな議論があります。ヘブライ語の“ラキア”は一枚の薄板にのばされた金属板を意味することがあります。「大空」という言葉はここから来ています。批評家たちは、古代のヘブライ人が地球の上には固い表面があると実際に信じていたと言います。実際にはそのようなものが存在しないので、したがって、聖書の記述が誤りであると彼らは主張します。しかし、これは誤った推論です。この文脈において、「大空」という言葉は単に上の空、つまり大気圏と宇宙そのものについて用いられています。私たちは直接的な文脈によって、語られている内容を理解する必要があります。創世記の中で、鳥は「大空の面」を飛ぶものとして描かれています(創1:20)。しかし、ほかの個所を見ると、大空は太陽や月の見えるところです(創1:14)。明らかに、鳥は太陽や月のある“ラキア”を飛ぶことはありません。
生きるための空間
問4
創世記1:9~13を読んでください。ここに描かれている信じがたいほどの神の創造力について想像してみてください。この記述は、「ニワトリが先か、卵が先か」という古くからある疑問に対して、どんな論理的な答えを与えてくれますか。
このときまで、地球は水で覆われていました。御自分が創造しようと計画された人類に、生きるための空間を提供するために、神は地の表面を変え、水を受け止めるための入れ物を造り、海を形づくられました。それによって、大陸が乾いた所となって、水の上に現れました。これは地球を取り巻く自然界の、あるものを分割するという、3度目の行為でもありました。(第1は光と闇の分割、第2は上の水と下の水の分割、第3は乾いた地面と海の分割でした)。
この3度目の分割においても、神は御自分が分けられたものに名前を付けておられます。乾いた所は「地」と呼ばれ、水の集まった所は「海」と呼ばれています。ここでも、空間に対する神の主権が例示されています。神は地と海の配置を点検し、それを「良い」と宣言されます。
天地創造の3日目については、その日になされた2番目の創造の出来事が記録されています。乾いた所は、神が間もなく創造なさる生き物に、食物を供給する場所となる空間を提供します。神は乾いた所(地)から植物を芽生えさせられます。具体的に、草と植物、果樹の名があげられています。これらは地球上の生物のための食物の源となるのでした。聖句には、どれほど多くの種類の植物が造られたか示されていませんが、初めから多様な植物があったことが示されています。事実、今日わかっていることからしても、信じがたいほど多様な植物の形態があったに違いありません。また、やがて全ての植物に進化する元となる1つの祖先がそこに置かれたのではなく、むしろ、初めから多様な植物があったということについて、聖書は明確です。進化論的生物学の基礎である、一つの植物の祖先という概念は聖書の記述と矛盾するものです。
全能の神の御言葉
問5
次の聖句は神の御言葉の力についてどんなことを教えていますか。IIコリ4:6、イザ55:11、IIペト3:5
いかなる種類の闘争や抵抗もなしに、神は御言葉の力によって、無から(“エクス・ニヒロ”)創造なさったと聖書は教えています。創造に関するこのような見解は、古代世界のあらゆる民族の中でもヘブライ人に特有のものです。聖書以外の創造物語のほとんどは、創造に伴う闘争と暴力について語っています。たとえば、古代バビロニア人の創造物語の中で、怪物アプスとその妻ティアマトが神々を生んだ後で、彼らを滅ぼそうとしますが、ティアマトは戦いによって殺されます。彼女の死体は二つに切り離され、一方は天となり、もう一方は地となりました。
現代人もまた、よく知られた暴力による創造物語を作り出しました。この物語によれば、神はわざと資源の乏しくなる世界を造り、個人の間に競争をもたらし、その結果、弱い者が強い者によって滅ぼされるようにしたといいます。この現代の物語によれば、時間の経過とともに、有機体はどんどん複雑なものになり、最終的には、一つの共通の祖先から人間や、その他のあらゆる生きた有機体が生まれたといいます。
しかし、進化論の「神々」(突然変異と自然淘汰)は聖書の神と同じではありません。聖書の神は弱い者を守り、すべての生き物を養われる恵み深い方です。死や苦しみ、その他の害悪は神によって生じたのではありませんでした。むしろ、それらは神の善なる支配に対する反逆の必然的な結果として生じたのです。進化論の神々は競争を用いることによって、また強い者が弱い者を滅ぼすことによって、創造します。さらに悪いことに、彼らは死と苦しみをもたらします。それどころか、死と苦しみは彼らの創造の手段そのものです。
このように、創世記1章と2章はいかなる意味においても現代の進化論と相容れないものです。進化論はその中心において聖書にある天地創造の記録と対立します。
さらなる研究
聖書は明らかにしていませんが、地上に生命が存在するずっと以前から、宇宙が存在したと信じるに十分な証拠が聖書にあります。第一に、ヨブ記38:4~6で、神が世界を形づくられたとき、喜びの声を上げた生き物がいたと、神は語っておられます。このことは、地球が創造される前から、宇宙には先住者が住んでいたことを暗示します。コリントIの4:9には、傍観する宇宙のことが書かれていますが、これも同じ先住者のことを言っているのかもしれません。第二に、アダムとエバが罪を犯す前に、蛇がエデンの園にいました。黙示録12:9によれば、この蛇は天から追放されたサタンです。イエスもこの出来事を見たと言っておられます(ルカ10:18)。エゼキエル書28:14、15には、初めは完全であったが、後に反逆した覆うケルブのことが書かれています。このことは、サタンが反逆する前に一定の期間があったこと、またサタンも宇宙に生存していたことを暗示します。これらの聖句は、アダムとエバが最初に創造された存在者ではなかったことを示しています。
「地球が創造主のみ手によって造られたとき、それは非常に美しかった。その表面には、山や丘や野原があって変化に富み、きれいな川や美しい湖水が、ここかしこにあった。しかし、山や丘は、現在のように、けわしく、荒けずりでなく、恐ろしい絶壁や裂け目などはなかった。地球の骨組みをなす岩かどは、肥沃な土地におおわれて、いたるところで、緑の草木が繁茂していた。気味の悪い沼や、不毛の砂漠はどこにもなかった。どちらを向いても、優雅な灌木や優美な花が視線をとらえた。丘は、今はえているどんな木よりも堂々とした樹木で飾られていた。空気は、臭気で汚染されておらず、清らかで健康的であった。周りの景色は、どんなりっぱな宮殿の飾り立てられた庭園よりも、はるかに美しかった。天使の群れは、その光景をながめて感激し、神のすばらしいみわざに歓喜の声をあげた」(『希望への光』19ページ、『人類のあけぼの』上巻17、18ページ)。
*本記事は、安息日学校ガイド2013年1期『起源』からの抜粋です。