完成した天地創造【創世記―起源】#3

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今回の研究では、天地創造の後半の3日と安息日の休みに関する聖書の簡潔な記述について学びます。この記述は創世記1章及び2:1〜3に見られますが、これに関連した数々の記述が聖書のほかの個所にも見られます。天地創造の記録についての最も驚くべき側面の一つは、天地創造が1日ごとに分割されていることです。私たちが1週と呼ぶ7日からなる時間的なサイクルを、神があえてお選びになった理由は何でしょうか。

聖書は直接的には述べていませんが、その手がかりはあります。最も重要な手がかりとなるのが、神と人との交わりのための特別な時間である安息日そのものです。神が週を定められたのは、一定の時間的な期間を通常の仕事のために定めると同時に、一定の時間的な期間を私たちの神との関係を思い起こすために聖別するためでした(マコ2:28参照)。それは、神が真の供給者であって、私たちが全面的に神に依存していることを覚える助けとなるのでした。

理由はともかくとして、創世記における天地創造の記録を読むと、天地創造が素晴らしい配慮と目的をもってなされたことがわかります。偶然によるものは一つもありません。

太陽、月、星

問1

創世記1:14〜19を読んでください。天地創造の4日目には、どんなことがなされていますか。自然界についての私たちの現在の理解にもとづいて考えるとき、これはどのように理解したらよいですか。

第4の日はたぶん、天地創造のほかの6日以上に議論の対象となっているところでしょう。もし太陽が4日目に造られたとすれば、天地創造の初めの3日は何によって区分されたのでしょうか。他方、もし太陽がすでに存在していたとすれば、4日目には何が起こったのでしょうか。

天地創造の4日目の出来事をめぐる曖昧さは、論理的な矛盾よりも、むしろ複数の可能性から来ています。

第1の可能性は、太陽は4日目に造られたが、初めの3日の光は神の臨在から、あるいは超新星のようなほかの光源から出ていたという考えです。この考えは黙示録21:23と一致します。新しい地では、神がおられるので、太陽は必要ではありません。

第2の可能性は、太陽と月、星がそのときにそれぞれの働きを与えられたという考えです。詩編8:4(口語訳8:3)はこの考えに一致するように思われます。古代ヘブライ語学者C・ジョン・コリンズは、創世記1:14の語法によれば、これら二つの解釈のうちのどちらも可能であると述べています(『創世記1〜4章—言語学的、文学的、神学的注解』57ページ、2006年、英文)。

第3の可能性は、太陽はすでに存在したが、雲や火山灰によってぼやけ、4日目までは見えなかったか、完全には機能しなかったという考えです。この可能性は、今日同じような状況が起きている惑星金星と比較することができます。

この聖句はこれらの解釈のいずれについても、はっきりと支持も排除もしているようには思われません。また、この問題に関する強力な意見を禁止するものでもありません。賢明な方法は聖書に書かれていること以上の事柄を深読みしないことです。私たちの理解力には限界があることを認めるべきです。天地創造の領域においては、特にそうです。今日、どれほど多くの科学的神秘が存在するか考えてみてください。それらは実験科学によって解明されるためにここにあるのですが、いくら研究しても神秘のままです。太古の昔に隠された出来事について、わからないことがあったとしても不思議ではありません。

空中と水中の動物の創造

問2

創世記1:20〜23を読んでください。これらの聖句に、偶然性を暗示する証拠が何かありますか。

水中と空中の生物が造られたのは5日目のことでした。多くの人は、天地創造の2日目と5日目の間に関係があることを認めています。水は2日目に大空と分離され、どちらも5日目に生物で満たされました。天地創造の出来事は意図的な型に従った順序で起こり、神の活動が配慮と秩序をもってなされたことを示しているように思われます。言い換えるなら、天地創造の記録にはいかなる偶然性の余地も見られません。

水中の生物も空中の生物も、複数形で書かれていることに注意してください。これは、多様な有機体が5日目に造られたことを示しています。それぞれの生物には、産み、増える能力が与えられました。多様性は当初から見られました。一つの祖先からほかのすべての種が生まれたのではなく、それぞれの種が多様な個体を生み出す能力を与えられていたように思われます。たとえば、ごく普通に見られる鳩から、400以上の種類が生まれており、少なくとも27種類の金魚が知られています。神は御自分の生物のそれぞれに多様な子孫を生み出す能力を与え、被造物にさらなる多様性を与えられました。

創世記1:21で、神は御自分の造った生物を見て、良しとしておられます。このことは、それらがうまく設計されており、見た目に魅力的で、欠陥がなく、創造の目的に調和していたことを暗示します。

鳥ほど、私たちの想像力と驚きをかき立てる生き物はあまりいないでしょう。鳥は実に驚くべき生き物で、素晴らしく設計されています。彼らの羽毛は軽くて丈夫、硬くてもしなやかです。翼の各部分は強くて軽い支柱を持った、いくつもの小さな羽枝によって一つに結ばれています。鳥の肺は、息を吸い込むときにも吐き出すときにも酸素を取り入れることができるような設計になっています。それによって、力強い飛行に必要な量の酸素を取り入れることができるのです。これは骨の一部に空気の袋があることで可能になります。これらの袋は酸素の流れを良くすると同時に、鳥の体を軽くし、飛行を維持し、制御しやすくしてくれます。鳥は驚くべき構造を持っています。

陸上動物の創造

創世記1:24〜31によれば、地上の動物と人間は6日目に造られました。2日目と5日目の間に相互関係があるように、3日目に陸と海が分離されたことと、6日目に地が満たされたこととの間にも相互関係があります。秩序の神にふさわしく(Iコリ14:33比較)、ここでも天地創造の出来事が秩序正しく、目的を持った順序でなされていることがわかります。

5日目に造られた生き物と同様、この聖句の表現によれば、多くの種類が天地創造の6日目に造られていることがわかります。多様な獣、家畜、這うものも造られています。一つの先祖から、地上のあらゆる動物が出たのではありません。神は多くの種類の異なる、別々の系統の動物を創造されたのでした。

創世記1:11、21、24、25に見られる「それぞれの」(「種類にしたがって」)という表現、あるいはそれに類似した語句に注目してください。一部に、この言葉を用いて、ギリシア哲学から来た思想である、固定した「種」の思想を裏付けようとする人たちがいます。古代ギリシア人は、各自は型と呼ばれる不変の理想の不完全な表現であると考えました。しかし、種の固定説は、あらゆる自然が罪の呪いのもとで苦しんでいるという聖書の教えと相容れないものです(ロマ8:19〜22)。種が創世記3章の呪いに表されているように変化したことを、私たちは知っています(エレン・G・ホワイトは、地上における「三重の呪い」、つまり堕落以後の呪い、カインの罪以後の呪い、そして洪水以後の呪いについて記しています)。多くの苦しみと暴力をもたらす寄生虫や食肉動物もそうです。「それぞれの」という言葉の意味は、用いられている文脈を調べることによって正しく理解されます。

創世記6:20、7:14、レビ記11:14〜22を読んで、上記の「それぞれの」や、それに相当する表現がどのように用いられているかを調べることは、創世記1章の語句を理解する助けになります。

「それぞれの」や、それに相当する語句は、何らかの生殖に関する規則を意味するものではありません。むしろ、それぞれの物語には、多様な生き物の種類が含まれていたという事実をさしています。一部の聖書の翻訳は「さまざまな種類の」という言葉を使っていますが、こちらの方が文脈にかなっているように思われます。この言葉は種の固定性ではなく、6日目に造られた生物の多様性を意味しています。天地創造のときから、多種多様な植物と動物が見られました。

完成された天地創造

天地創造が6日間で完成した後で(人間の創造については後で学びます)、聖書は初めて第7の日に言及しています。

問3

創世記2:1〜3を読んでください。特に、神がすべての業を完成されたことを強調している1節に注意してください。このことが第7の日の深い意味を理解する上で重要なのはなぜですか。

この聖句にある「安息」を意味するヘブライ語は“シャバット”で、“サバス”(安息日)という語と密接な関係があります。それは何らかの計画が完了し、作業を停止することを意味します。神は疲れて、休息を必要とされたのではありません。神は創造の業を終えて、休止されたのでした。神の特別な祝福が第7の日に与えられています。それは「祝福」され、さらに「聖別」されています。分けられて、特別に神に捧げられたという意味です。このように、神と人間との関係において、神は安息日に特別な重要性を与えられました。

問4

マルコ2:27、28を読んでください。安息日の目的は何であると、イエスは言われましたか。

安息日は神の必要のために定められたのではありません。それは人の必要のために、神によって定められたのです。最初の週の終わりに、神は創造の業を休み、御自分の時間を被造物との関係に捧げられたのです。人間は宇宙における自分の立場を理解するために創造主との交わりを必要としました。神と語り、神の創造された世界を眺めたときに、アダムとエバが経験した喜びと驚きを想像してみてください。この安息の規定に含まれる知恵は、罪以後、さらに明らかになります。神を見失わないために、また物質主義や過労に陥らないために、私たちは安息日の休みを必要とします。

文字通りの日

問5

創世記1:5、8、31を読んでください。天地創造の1日は何によって構成されていますか。ここには、これらの1日1日が今日の私たちが経験する文字通りの24時間からなる1日と異なることを暗示するものが何かありますか。

天地創造の1日がどのような性質のものであったかは、多くの議論の的となっています。一部の人たちは、その1日1日が普通の1日であったのか、それともずっと長い期間をさすものであるのかを問題にしています。天地創造の1日1日に関する聖句の記述がこの問題に対する答えとなります。それぞれの日は夕べ(暗い時間)と朝(明るい時間)からなり、連続的に数えられています。つまり、それぞれの日は、今日私たちが経験するのと同じ1日、夕べと朝、暗い時間と明るい時間であることをはっきりと示すような方法で表現されています。これ以上に週の日々をはっきりと、明白に描写する言葉を見いだすことは困難です。「夕べがあり、朝があった」という反復された表現は、それぞれの日が文字通りのものであることを強調しています。

問6

レビ記23:3を読んでください。ここから、天地創造の週の7日すべてが、私たちが経験するのと同じ種類の1日であったことについてどんなことがわかりますか。

古代ヘブライ人は安息日の性格について少しも疑問を抱いていませんでした。それは普通の長さの1日でしたが、神からの特別な祝福で満ちていました。神の週6日の働きと、私たちの週6日の働きがはっきりと比較されていること、また神の休みの日と、私たちの休みの日が同じように比較されていることに留意してください(出20:9、11参照)。これらの日が文字通りの1日であったことを認めない多くの学者でさえ、聖書の記者たちがそれらを文字通りの1日と理解していたことは認めています。

さらなる研究

先にも述べたように、創造週の1日1日は暗い期間の夕べと明るい期間の朝からなるものとして数えられ、特定されています。これらの日を、今日私たちが経験する日と同じものと考える以外に、それらを解釈する合理的な方法はありません。一部の人たちは、たとえば詩編90:4やペトロIIの3:8のような聖句を用いて、天地創造の各日が実際には1000年を表すと主張します。このような結論は聖句によって示唆されるものではなく、またこれらの日が何十億年を表すと考える人たちによって作り出された問題を解決するものでもありません。

また、もし創世記の1日1日が長い時代を表しているとすれば、化石の記録に見られる順序は天地創造の連続した6「日」に造られた生きた有機体の順序に一致しているはずです。したがって、最初の化石は第3の「日」に造られた植物でなければなりません。次は最初の水中動物と空中動物でなければなりません。最後に、最初の陸上動物が見られるはずです。化石の記録はこの順序に一致していません。水中生物が植物の前に来ており、陸上生物が空中生物の前に来ています。最初の化石の果樹とその他の花木がこれらすべてのグループの後に現れます。唯一の類似点は、人間が双方の記録の最後に現れることです。

「聖書の記録は、創造週の一日一日が、その後のすべての一日と同様に、夕があり朝があったことを明らかにしている」(『希望への光』24ページ、『人類のあけぼの』上巻30ページ)。

「しかし、不信仰者の仮定、つまり最初の週の出来事は完成されるまでに7つの莫大で不定の期間を必要としたという考えは、第4の戒めの安息日の基礎と真っ向から対立するものである。それは、神がきわめて明白にされたことを不明確で、曖昧なものにする。それは最悪の不信仰である。なぜなら、創造の記録を信じると告白する多くの者たちにとって、それは偽装された不信仰だからである」(エレン・G・ホワイト『霊の賜物』第3巻91ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2013年1期『起源』からの抜粋です。

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そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

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