聖書のテーマ、天地創造【創世記―起源】#4

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創世記1:1~2:3は聖書に見られる多くの天地創造に関する聖句の基礎となるものです。創世記1章と2章にはっきりと言及している聖句もあれば、間接的に言及している聖句もあります。たとえばコリントIIの4:6のように、直接聖句を引用しないで、特定の言葉や思想を何度も繰り返しています。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」。対照的に、直接言及しているのはヘブライ4:4です。「なぜなら、ある個所で七日目のことについて、『神は七日目にすべての業を終えて休まれた』と言われているからです」。これは創世記2:2からの引用です。

今回は、創世記の記事に言及しているさまざまな聖句に目を向け、ほかの聖書記者たちが人間の起源についての文字通りの記述としてそれらをどのように理解していたかを学びます。

創世記2章における天地創造

「これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき」(創2:4)。

創世記1:1~2:3は、神がこの世界を創造されたことについての最初の記録です。それは、私たちがクリスチャンとして信じているほかのすべての真理の基礎となるものです。

しかし、天地創造の記録はそこで終わっているのではありません。創世記2:3から2章の終わりにかけて、特にアダムとエバの創造に関して、さらに詳しいことが書かれています。したがって、創世記2:4(上記)は同1:26~29で要約されているアダムとエバの創造についてのより詳しい歴史への序言であると理解すべきです。現代の一部の学者は、創世記1章と2章の間に矛盾があると主張しますが、モーセやほかの聖書記者たちはそのようには考えなかったことでしょう。もし物語が矛盾していると考えていたなら、モーセはそれらのことを、これほど近いところで書くことはなかったはずです。矛盾は聖句にあるのではなく、聖句の中に矛盾を読み込む者たちのうちにあります。

問1

マタイ19:4~6を読んでください。イエスは創世記1章と2章の歴史的真理をどのように肯定しておられますか。

離婚に関するファリサイ派の人々の質問に答えて、イエスは創世記1:27と2:24を引用しておられます。この中で、イエスはどちらの聖句も同じ歴史的な出来事、つまりこの世界と人類の創造について述べていると考えておられます。創世記1章と2章が天地創造に関する一致した記録、私たちの存在と目的の基礎となる教理・教えであることについて、これ以上の証拠が必要でしょうか。私たちはたまたま、偶然、ここにいるのではありません。私たちは神にかたどって造られた存在です。創世記1章と2章に啓示された天地創造の記録は、私たちの起源についての神の特別な啓示です。

詩編における天地創造

問2

詩編8編を読んでください。それは創世記1章とどんな関係にありますか。

問3

詩編104編を読んでください。ここで、天地創造と摂理に表された神の慈愛のゆえに、神がどのようにたたえられていますか。

詩編104編の主題の順序が創世記1章の主題の順序にならうように巧みに作られていることに注意してください。詩的表現が各聖句を通して生き生きと描かれており、その教えは神の力と知恵、慈愛に、またすべての被造物が創造主に依存していることにまで及んでいます。この詩編の中に、創世記の記録を文字通りに受け取るべきでないと思わせるものは何ひとつありません。

問4次の詩編は創世記1章とどのような相互関係にありますか。詩編24:1、2、33:6、74:16、17、89:12(口語訳89:11)

詩編は創造主に対する賛美で満ちています。創世記1章を思い起こさせる言葉で表現されていることもあれば、より一般的な言葉で表現されていることもあります。いずれの場合も、天地創造に関する記述は創世記1章と首尾一貫しており、創世記が神の息子・娘としての私たちの起源を理解する基礎であることを思い起こさせてくれます。

ヨブ記における天地創造

問5ヨブ記38:1~21を読んでください。次の聖句は天地創造にどのように言及していますか。4~7節、8~11節、12節、16節、19節

ヨブ記全体の文脈を心に留めておくことは重要です。ヨブは大いなる悲劇に襲われ、神に忠実に従っていた自分がなぜこのような目に遭うのか理解に苦しんでいました。主は38章~41章で、ヨブの苦しみに満ちた問いかけに応えて、御自身の創造力について語り続けられます。

ヨブ記42:1~6にある、主に対するヨブの応答を注意深く読んでください。ヨブがそのように応答した理由について学ぶことは、私たちが悲劇に直面したときに神に信頼する上で助けになります。

ヨブは天地創造の要点を説明することができませんでした。そこで、彼は自分の身に起こったさまざまな出来事にかかわらず、神の偉大さを認め、神に信頼するようになります。私たち自身も、天地創造の多くの疑問に答えることができません。ヨブの模範はどのようなときにも神に信頼するように私たちに教えています。私たちは、少なくとも今は、人生のさまざまな事柄について多くの疑問に答えることができないでしょう。しかし、今は理解できないように思われる事柄について、永遠にわたって学ぶ時が来ます。

現代の私たちはヨブよりもはるかに多くのことを理解することができます。重要なのは、創造の不思議な業を通して、信じ難い神の愛と力に信頼するようになることです。

預言書における天地創造

「神である方、天を創造し、地を形づくり造り上げて、固く据えられた方混沌として創造されたのではなく人の住む所として形づくられた方主は、こう言われる。わたしが主、ほかにはいない」(イザヤ書45:18)。

イザヤ書45:18は、神が計画的に人間の住む場所を用意されたことを強調しています。したがって、この地球が生命に適した場所であるのは偶然によるものではありません。

太陽系のほかの惑星とは異なり、この地球を人類の生存に適した場所としている特徴のいくつかについて考えてください。まず、水が豊かにあります。火星にも水が存在する証拠はありますが、火星や地球以外の惑星には、まとまった量の水がありません。地球に特有の、もう一つの特徴は、約21パーセントの酸素と79パーセントの窒素という大気の構成です。ほかの惑星の大気は、二酸化炭素かヘリウムでできています。生存に適した大気を持つのは地球だけです。太陽系のほかの惑星とは異なり、地上の気温の範囲は地球の生存に適したものです。これは、たとえば太陽からの距離、大気の構成、地球の質量、自転の速度といった、昼と夜の長さを決めるいくつかの要素の組み合わせによるものです。これらすべての特徴のゆえに、地球は生命を支えるに適した唯一の惑星となっているのです。

問6次の聖句は創世記1章に描かれた出来事について何と述べていますか。イザ44:24、イザ45:12、エレ51:15、16、アモ4:13、ヨハ1:9、ゼカ12:1

新約聖書における天地創造

問7使徒言行録17:22~31を読んでください。この説教はどのような状況において語られましたか。冒頭の言葉に続いて、パウロはこれらの識者に対して何と語っていますか(24、25節)。彼は創造主なる神と人間の関係について何と述べていますか。26~28節

この聴衆には、ストア学派とエピクロス学派の哲学者たちがいたことでしょう。ストア学派の人たちは、自然界が誰かによって設計されたと考えていましたが、エピクロス学派の人たちはそれを否定していました。どちらの人たちも真の神を知りませんでしたが、設計についての彼らの議論は今日もなされている議論に似たところがあります。

ここで重要なことは、これら異教の思想家・知識人に対する証しの中で、パウロが直接、万物の、また全人類の創造者としての主について論じていることです。パウロはこれらの人たちとほとんど共通点を持っていませんでした。そこで、彼はすぐに、自分たちが共通して持っているもの、つまり自分たちが存在しているという事実について語り、この否定できない現実にもとづいて自分の議論を構築しようとしたのでした。このことからも、天地創造が聖書の重要なテーマであることがわかります。

マタイ19:4~6、マルコ2:27、ルカ3:38、ヨハネ1:1~3、コリントIIの4:6、ヘブライ4:4、ヤコブ3:9、ペトロIIの3:5、ユダ11、14を読んでください。注目したいのは、これら新約聖書の記者たちがそれぞれ、直接的であれ間接的であれ、創世記の天地創造の記録に言及している点です。ここにも、起源に関する創世記の記録がすべての聖書記者によって広く受け入れられていた証拠を見ることができます。

問8黙示録4:11、10:5、6を読んでください。天の存在者たちは、神が創造主であることについて何と言っていますか。

天地創造は偶然によってではなく、神の御旨によって成されました。二つ目の聖句[黙10:5、6]には、明らかに出エジプト記20:11への言及が含まれています。ヨハネ1:1~3と同様、ここからも、ヨハネが天地創造の記録に精通し、そのことを確信していたことがわかります。それ以外のことを信じるのは愚かなことです。

さらなる研究

聖書は神についての、また神と私たち人間およびこの世界との関係についての書です。天地創造の出来事は独特で、超自然的なものです。それらは少なくとも二つの理由で、科学的探求の領域を超えたものです。第一に、それらは特異性を持ったものです。特異性を持つということは、一度しか起こらないということです。科学は特異性を扱うものではありません。なぜなら、科学は異なった状況のもとで反復したり、試験をしたりすることができないからです。第二に、天地創造の出来事は超自然的に起こった出来事です。それらは、神が被造物を支えておられることからくる必然的な結果ではなく、神の特別な、直接的な行為でした。科学は第二原因のみを扱うものであって、少なくとも現在の科学の立場では、神の直接的な行為にもとづく説明を受け入れません。天地創造の出来事は独特で、超自然的なものなので、科学の領域を超えています。

このことが重要なのは、起源についての人の考え方がその人の人間性や個性に重要な影響を及ぼすからです。自分の起源を理解することがきわめて重要であるゆえに、神はそれを聖書における最初の主題とされたのです。聖書の教えは、天地創造の記録が史実であることにもとづいています。科学によってこの世界の真の歴史を学ぶことができると主張することは、神の直接的な行為によらないでそれを説明することができると主張することです。このような誤りがさらなる誤りをもたらしています。

「人間は自然の原因によって創造の業を説明しようとする。神は決してそれを啓示しておられない。人間の科学は天の神の秘密を探り出すことはできないし、途方もない創造の業を説明することもできない。神の存在理由を説明することができないのと同様、それは全能の力による奇跡であった」(エレン・G・ホワイト『預言の霊』第1巻89ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2013年1期『起源』からの抜粋です。

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