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人間は「人権」について語るのが好きです。マグナ・カルタ(1215年)から、フランス人権宣言(1789年)、そしてさまざまな国連人権宣言に至るまで、人間は「絶対的権利」、つまりだれも奪うことのできない権利を持つという思想が奨励されてきました。人権は人間であることのゆえに与えられているというのです(少なくとも、理論上は)。
しかし、ここにも問題があります。人権とは何でしょうか。人権はどのようにして決められるのでしょうか。これらの権利は変えられるものでしょうか。もしそうであるなら、どのようにして変えられるのでしょうか。そもそも、人間が人権を持つべきであるのはなぜなのでしょうか。
一部の国では、女性は20世紀になるまで投票する「権利」を与えられていませんでした(今でも投票権を認めていない国があります)。しかし、政府はどのようにして「絶対的権利」を国民に与えることができるというのでしょうか。
これは難しい問題です。その答えは人間の起源の問題と密接に関わっています。今回は、この問題について考えます。
私たちは創造主に依存している
創世記2:7で、神はアダムを個人的に創造し、彼を動物ではなく知的、道徳的存在者としておられます。聖句には書かれていませんが、神は御自分の手を使って、土の塵を意図された形と大きさに形づくられたと考えることができます。宇宙の偉大な主権者は身をかがめて、手を汚して、人を造るようなことはされないと考えるかもしれませんが、聖書は創造主を天地創造に深く関わられた方として啓示しています。聖書はたびたび、神が自発的に物質や人間に手を触れられたことを記録しています。出エジプト記32:15、16、ルカ4:40、ヨハネ9:6はそのよい例です。事実、キリスト御自身の受肉、つまり肉体をとって人となられたこと、そして日ごとに私たちと同じように被造物に手を触れられたことは、神が身をかがめて、人間の間で「手を汚す」ようなことをなさらないという考えを論破するものです。
問1
創世記2:16、17を読んでください。神はアダムに何と命じておられますか。この命令は何を意味していますか。
神はどんな権限によってアダムとエバに規則を与えられたのか、と私たちは尋ねるかもしれません。この状況を家族の中の子どもの状況と比べてみてください。子どもの両親はその子のために家庭と生活に必要なあらゆるものを備えます。彼らは子どもを愛し、子どもの最高の利益を心にとめます。彼らのすぐれた経験と知恵は、もし子どもがその指導を受け入れるなら、子どもを多くの不幸から守ります。中にはこの指導を快く思わない子どももいますが、子どもが生活必需品を両親に依存している限り、両親の規則に従うことは義務であると、一般に考えられています。
同じように、私たちもつねに命と生活必需品を天の父なる神に依存しているので、神の指導を受け入れることはいつでも適切なことです。神は愛の神であるゆえに、つねに私たちの幸福のために必要なものを備えてくださる神に信頼することができます。
神にかたどって
問2
創世記1:26~28を読んでください。人間には、動物に与えられていないどんな特別な属性が与えられましたか。
「神のかたち」とは、具体的に何を意味するのでしょうか。この問題は多くの議論を生み出しました。考え方もさまざまです。しかし、聖句は考え方の本質について、ある程度の手がかりを与えています。第一に、神にかたどって造られたということは、私たちがいくつかの点で神に似ているという意味です。神のかたちの重要な側面の一つは、神が人間にほかの被造物を支配する権限をお与えになったことです。神は万物の主権者ですが、人間に魚と鳥と地上の動物を支配する権限を与えることによって、人間を主権にあずからせてくださったのです。
さらに、神が人を「我々」にかたどって、つまり複数の、三位一体の神にかたどって造られたことに注意してください。次に、神は人を男と女に創造されました。神のかたちが完全に表現されるのは個人においてではなく、関係においてです。三位一体の神が三者の関係において現されるように、人間における神のかたちは男と女の関係において表現されます。関係を築く能力は神のかたちの一部です。言うまでもなく、関係は責任と義務、つまり道徳性を意味します。このことは、道徳性が天地創造の物語にその基礎を置くことを強く暗示します。
問3
創世記9:6、ヤコブ3:9を読んでください。人間が「神にかたどって」造られたという思想は、道徳性という概念とどれほど密接な関係にありますか。
人間は何千年にもわたって、道徳性の問題と闘ってきました。正しい道徳性とは何かについて考える以前に、道徳性についての思想そのものが多くの難解な問題を提起します。人間はなぜ、カブトムシやノミ、チンパンジーなどと違って、道徳的良心、善と悪を区別する能力を持つのでしょうか。本質的に道徳とは無関係の物質(クオーク粒子、グルーオン粒子、電子など)から造られた人間が、どのようにして道徳的観念に気づくことができるのでしょうか。その答えは聖書の初めの数章にあります。それらは、人間が「神にかたどって」造られたことを啓示しています。
一つの血から造られた
創世記2:23で、アダムは自分の妻に名前をつける役割を与えられ、彼女を“ハバー”と呼んでいます。この言葉はヘブライ語動詞の“ハヤー”(「生きる」)と関係があります(ユダヤ人はときどき、これと関連した表現“レハイム”「生命に!」を用います[相手の健康と幸せを祈ってささげる乾杯の言葉])。「エバ」(“ハバー”)というヘブライ語は「命を与える者」と訳すことができます。エバという名前は、彼女がすべての人類の祖先であることを意味します。私たちはみな、文字通りの意味において、一つの家族です。
問4
使徒言行録17:26を読んでください。人類がみな兄弟であることを、パウロはどのように天地創造と結びつけていますか。マタイ23:9と比較
私たちはみな、一人の女エバと一人の男アダムから生まれたという意味において一つです。神は私たちすべての者の父です。この事実は、人間の平等性の基礎となるものです。もしすべての人がこの重要な真理を認めていたなら、人間関係はもっと違ったものになっていたはずです。私たちがどれほどひどく堕落しているか、罪がどれほどひどく私たちを傷つけているかを知りたいと思うなら、人間がしばしば動物を扱うよりもひどい方法で互いに傷つけ合っているという悲しい事実を見るだけで十分です。
政治的、国家的、民族的、そして経済的なさまざまな要因が人類を分裂させています。おそらく、経済的な要因は最も重大な要因の一つと言えるでしょう(決してカール・マルクスが思い描いたようにはなりません。世界の労働者は決して団結しませんでした。むしろ、国籍のゆえに互いに闘ってきました)。今日、常にそうであったように、貧しい人たちと富める人たちは疑惑と軽蔑の目をもって互いに相手を見ています。こうした感情はしばしば暴力に、そして戦争につながります。貧困の原因を取り除くために、私たちは今も格闘しています(マタ26:11参照)。しかし、神の御言葉ははっきりと教えています。裕福であっても貧しくても、私たちはみな自分の起源[神によって創造されていること]のゆえに尊厳に値する者です。
私たちの創造主の品性
神は御自分にかたどって私たちを創造されました。これは、とりわけ私たちが品性において神に似る者となるようにされたという意味です。したがって、私たちは人間的に可能な限り、神に似る者となるべきです(神に似るとは、決して神の位に昇ろうとすることではありません)。神の品性を反映するという意味において神に似る者となるためには、神の品性がどのようなものであるかを正しく理解する必要があります。マタイ5:44~48を読んでください。これらの聖句は神の品性について、また私たちが自分自身の生活において神の品性を現すべきことを教えています。
問5
ルカ10:29~37を読んでください。ここにも、神の品性について、またそれが人間のうちに現されるべきことについて、何と教えられていますか。フィリ2:1~8参照
イエスが語られたこの物語には、互いに敵対している異なった民族に属する二人の人物が登場します。しかし、イエスによれば、彼らは隣人同士でした。それぞれが相手に対して責任を負っています。彼らが相違点を捨てて、憐れみと同情をもって相手に接したとき、神はお喜びになりました。
神の国の原則とサタンの支配の原則との間には、何と大きな違いが見られることでしょう。神は強い者に対して弱い者の面倒を見るように求められますが、サタンの原則は弱い者が強い者によって排除されることを求めます。神は平和的な関係からなる世界を創造されましたが、サタンはそれを完全に歪めてしまったために、多くの人は「適者生存」を正常な行動原則と見なすようになりました。たとえ私たちが「自然選択*」(強者が弱者を支配すること)という悪しき過程によって存在するようになったとしても、私たちはそのような生き方をすべきではありません。もしそのような考えを受け入れるなら、私たちは神にも、また神が定められた自然の原則にも従っていないことになります。私たちは「自然選択」の恩恵を受けていない人たちを犠牲にしてまで、自分の利益を求めるべきではありません。
*環境の影響により異なる遺伝形質を持つ個体間に繁殖成功率にばらつきが生じ、成功率の低いものはますます数が少なくなって環境への適応が不利になるが、成功率の高いものはますます数が多くなって環境への適応が有利になるという説。
道徳性と責任
問6
先の研究で、アテネの住民に対するパウロの説教について学びました(使徒17:16~31)。彼の議論の流れに従って、初めから終わりまで再読してください。彼は特に起源と道徳性の問題についてどんな重要な結論を述べていますか。
アテネの住民に対するパウロの説教は天地創造をもって始まり、裁きをもって終わっています。パウロによれば、世界とその中のすべてのものを造られた神はこの世界を裁く日を定めておられます。道徳性が与えられているということは責任があることを意味します。私たちはみな自分の行為と言葉に対して責任を問われます(コヘ12:14、マタ12:36、37参照)。
問7
黙示録20:11~13、マタイ25:31~40を読んでください。これらの聖句は道徳性と密接な関係にあるどんなことについて、はっきりと教えていますか。
これまで生きていた人はみな、神の前で裁きを受けます。イエスのたとえにある二つの集団の違いは、各人が必要の中にある人をどのように扱ったかということです。創造主の関心は、人間がお互い、特に必要の中にある人をどのように扱うかにあります。天国には、自然選択の原則が入り込む余地はありません。それは平和の神の性質に反するものです。
聖書にはっきりと教えられていることは、この世に欠けている正義がいつの日か神御自身によって実行されるということです。さらに、裁きの思想は道徳的な秩序を意味します。もし人を裁くための道徳的基準がなければ、神は裁くことも、罰することもなさらないからです。
さらなる研究
聖書によれば、アダムは最初の人間で、神によって特別に土の塵から造られました。道徳性の起源についての私たちの理解はアダムの起源に根拠を置いています。したがって、道徳性に関する聖書の観念は起源に関する聖書の観念と密接な関係にあります。
アダムを最初の人間と認めることはまた、アダムやその他の人間の祖先とされているいかなる化石の可能性にも反駁します。では、これらの化石はどこから来たのでしょうか。いくつかの可能性が考えられます。
第一に、人類に似た化石は、知性は正常だが、成長の様式が現代人とは異なる人類の型であった可能性です。第二の可能性は、それらの化石が自身の生活様式や環境的なストレス、その他の要因によって退化していたことです。第三の可能性は、それらが私たちに理解できない方法で被造物を堕落させようとするサタンの直接的な試みの結果であったことです。その他の可能性は、それらが形態学的には人類に似ていても、実際には人類ではなかったことです。さまざまな人々がさまざまな説明をしていますが、問題を解決する直接的な証拠がないので、独断的な解釈を避けることが最善です。化石は「5億年前に中国で創造された」というラベルを付けて出てくるわけではありません。地球の歴史に関する私たちの理解は学者によって大きく異なります。それは化石を解釈する手がかりにはなりますが、私たちの解釈を立証するものではありません。それらは結局のところ、解釈以外の何ものでもありません。
*本記事は、安息日学校ガイド2013年1期『起源』からの抜粋です。