天地創造と堕落【創世記―起源】#6

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ある喜劇俳優がジェラルディンという名の女を演じていました。ある独白の中で、彼女は高価な新しいドレスを身に着けて、家に帰ってくる牧師の妻として登場します。彼女の夫(同じ役者が演じている)はそれを見て、怒ります。すると、ジェラルディンは金切り声で答えます。「悪魔が私にこのドレスを買わせたのよ!私は買う気がなかったのよ。悪魔が誘惑したのよ」

この話は笑い話とされています。しかし、私たちの世界とその中の悪に目を向けるとき、サタンは決して笑い話ではすまされない存在であることがわかります。

ある人たちにとっては、悪魔という観念は、真剣に受けとめるべきでない古い迷信の1つです。しかしながら、聖書の言葉は、疑いの余地がないほどはっきりしています。サタンは敗北した敵ですが(黙12:12、Iヨハ3:8)、この地上にいて、神の被造物に対して可能な限りの混乱と破壊をもたらそうとしています。

今回は、サタンの最初の攻撃に注目し、そこから何を学ぶことができるかについて考えます。なおもサタンの攻撃の下にある私たちが、キリストにあって私たちのものである勝利を主張できるようになるためです。

蛇は最も賢かった

問1

創世記3:1を読んでください。蛇の姿をしたサタンがどのように描かれていますか。この描写の真実性がこの聖句の中にどのように啓示されていますか。

蛇の狡猾さはその誘惑の仕方に表れています。彼は直接的な攻撃を仕掛けるのでなく、むしろ女を会話に誘い込もうとしています。蛇の言葉は、少なくとも二つの問題点を含んでいることに注目してください。第一に、彼は神が本当にそのようなことを言われたのかと尋ねています。同時に、彼は神の寛大さを疑わせるような質問をしています。事実上、彼はこう言っているのです。「神は本当にあらゆるものをあなたから取り上げておられるのか。神は園のどの木からも取って食べてよいと言われたのではないのか」。故意に神の命令を間違って引用することによって、蛇は女に自分の言葉を訂正させ、首尾よく彼女を会話に誘い込んでいます。蛇の戦略は確かに「狡猾」です。

もちろん、これは驚くほどのことではありません。イエスは悪魔を偽り者、偽りの父と呼んでおられます(ヨハ8:44)。黙示録12:9で、悪魔は全世界を欺いていますが、私たちセブンスデー・アドベンチスト・クリスチャンも決して安全ではありません。サタンはその狡猾さ・欺瞞性を失ってはいません。彼は今も、エバに用いて成功したのと同じ戦略を用います。彼は神の御言葉と神の意図に関する質問をし、疑いを抱かせ、私たちを「会話」に誘い込もうとします。彼の策略に抵抗するために、私たちは目を覚ましていなければなりません(Iペト5:8)。

女と蛇

問2

創世記3:2、3を読んでください。女は蛇に何と応答していますか。彼女はどんな過ちを犯しましたか。

エバは神の命令をはっきりと知っていました。そのことは彼女に過失があったことを示すものです。それにもかかわらず、少なくとも聖書に書かれていることを見る限り、彼女は神の言われたこと以上のことを言っています。神はアダムとエバにはっきりと、善悪の知識の木からは食べてはならないと言われましたが、それに触れてはならないとは、ひと言も言っておられません。何が彼女にそう言わせたのかは明らかでないので、その理由についてあれこれ推測しないほうが最善です。しかし、その木に触れさえしなければ、その実を食べる誘惑を感じることも少ないと、彼女が考えたことは明らかです。なぜなら、触れることのできないものを食べることはできないからです。

今日、私たちもしばしば同じ問題に直面します。すべての点においてではなく、ほとんどの点で聖書に一致している教えを説く人がいます。聖書に一致していない、そのわずかな点がほかのすべてのことをだめにする場合があります。たとえ真理に交じっていたとしても、誤りは誤りです。

問3

マタイ15:7~9を読んでください。人間の考えを神の御言葉に付け加えることに関して、イエスは律法学者とファリサイ派の人々を何と叱責しておられますか。このことを黙示録22:18、コロサイ2:20~23と比較してください。自分を罪から守ってくれると考える規則を作ることには、どんな危険がともないますか。

罪が問題となるのは、規則がないからではなく、心が堕落しているからです。一般の社会においても、すでに十分な法律があるのに、犯罪を抑止するためにさらなる法律を求める声があります。私たちに必要なのは新しい法律ではなく、新しい心です。

「証拠」によって欺かれる

問4

創世記3:4~6を読んでください。アダムとエバを堕落に導いたのはどんな原則ですか。誘惑に打ち勝つ助けとなるのは何ですか。

サタンはエバを会話に引き入れることに、また神が語られたことと、その理由について疑いを抱かせることに成功しました。彼は今、神がエバに真実を語っておられないと告げ、神が彼らに果実を食べることを禁止される動機について説明します。サタンによれば、神がアダムとエバによいものをお与えにならないのは、彼らを低い能力のままにしておくためです。サタンはこのように説明することによって、神が彼らに特定の果実を食べることを禁じておられるのではないかという先の疑問を裏づけるのでした。

エバは三つの「証拠」にもとづいて、果実を食べることが自分の祝福になると考えるようになります。第一に、エバにとって、その木はいかにもおいしそうに見えました。たぶん、蛇が果実を食べているのを見たのでしょう。その果実がどれほどおいしいかを、蛇が語ったかもしれません。アダムとエバがそれを食べてはならないと言われていたのに、エバがその木が「いかにもおいしそう」であることに気づいたのは興味深いことです。このことからも、人間の感覚と明らかな「主の言葉」がどれほど異なるものであるかがわかります。

エバが果実を食べる気になった第二の「証拠」は、それが目を引き付けるものであったことです。園の木はどれも美しかったでしょうが、なぜかエバはサタンの差し出した果実に特別に心を引かれました。

エバがその果実を食べたいと望んだ第三の理由は、その果実に人を賢くさせるような力があったことです。蛇は彼女に、その果実を食べると知識が増大し、神のようになると約束しました。皮肉なことに、聖書によれば、彼女はすでに神に似ていたのです(創1:27)。

エバはだまされたが、アダムはだまされなかったと言われています(Iテモ2:14)。もしアダムがだまされなかったのなら、なぜ彼は食べたのでしょうか。神よりもエバに従うことによって、アダムは意識的に神に背いたのです。今日、これと同じ態度がしばしば見られます。私たちは容易に他人の言うことや行うことによってだまされがちです。彼らの言葉や行為が神の御言葉とどれほど異なっていても、です。アダムは神に聞き従うよりも、エバに聞き従いました。その結果、人間は悪夢のような歴史を経験することになります(ロマ5:12~21参照)。

エデンにおける恵みと裁き(その1)

堕落後の、創世記3章における主の初めの言葉はすべて質問です。「どこにいるのか。……お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。……何ということをしたのか」(創3:9、11、13)。

問5

これらの質問の後に、この章における神の最初の宣言—神の最初の事実についての陳述—が出てきます。神は蛇に向かって何と言われますか。それは何を意味していますか。創3:14、15参照

これらの聖句に暗示されていることについて考えてください。堕落した世界に対する神の最初の宣言は、実際には人間に対する有罪宣告ではなく、サタンに対する有罪宣告です。それどころか、サタンに対する有罪宣告の中にさえ、神は人類に福音の希望と約束を与えておられます(15節)。神はサタンの運命を宣言すると同時に、人類の希望を宣言しておられます。アダムとエバの罪にもかかわらず、主は直ちに彼らに贖いの約束を啓示しておられます。

この約束の後に初めて、つまり15節で恵みと救いの希望が与えられた後に初めて(「最初の福音の約束」とも言われている)、主がアダムとエバに裁きを宣言しておられることに注意してください。「神は女に向かって言われた。『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む』。……神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い……』」(創3:16、17)。

このことを忘れてはなりません。つまり、救いの約束が裁きに先立つということです。裁きは福音という背景においてのみ、与えられます。そうでなければ、裁きは有罪宣告以外の何ものでもないことになります。聖書ははっきりと述べています。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハ3:17)。

エデンにおける恵みと裁き(その2)

創世記1章と2章で、神は次のように宣言(命令)しておられます。「天の大空に光る物があれ。……地は生き物を産み出せ。……人が独りでいるのは良くない」。これらの宣言はみな天地創造と、その中の人間の創造に関連しています。昨日の研究で学んだように、聖書に記録されているその次の宣言は創世記3:14、15に見られます。そこで、主は人間に福音を提示しておられます。

このように、聖書においては、神の最初の宣言は天地創造に関連して、次に贖いに関連してなされています。この贖いは裁きそのものに関連してなされます。それもそのはずです。結局のところ、もし裁きがなければ、つまり免れるべき有罪宣告がなければ、何が福音の目的で、何が「良い知らせ」なのでしょうか。「福音」という概念そのものの中に、有罪宣告、つまり私たちの免れる有罪宣告という概念が含まれているのです。それが「良き知らせ」なのです!

私たちは神の律法を犯しました。神はこれらの違犯をお裁きになります。しかし、キリスト・イエスにおいて、私たちはこの裁きが必然的にもたらす有罪宣告を免れています。

問6

創造、福音、裁きは聖書の初めの部分だけでなく、終わりの部分にも出てきます。黙示録14:6、7を読んでください。これらの聖句はどんな意味で、創世記の初めの3章と関連がありますか。つまり、これらすべての聖句には、どんな共通の思想が見られますか。

黙示録14:6、7には、創造主としての神が宣言されています。これは創世記の冒頭部分の中心テーマです。しかしながら、黙示録14章では、「永遠の福音」が初めに来て、その後で裁きが宣言されています。創世記3章と同じです。裁きはありますが、福音より前ではありません。従って、私たちの伝える現代の真理のメッセージの土台は恵み、つまり福音でなければなりません。この福音とは、私たちが有罪宣告を受ける身でありながら、イエスによって赦され、清められ、義とされて立つことができるということです。福音がなければ、私たちの運命は女とその子孫の運命ではなく、蛇とその子孫の運命と同じものになっていたはずです。しかも、驚くべきことに、この喜ばしい知らせはエデンにおいて、堕落した世界に対する神の最初の宣言の中で与えられています。

さらなる研究

「神は人類が食するように計画された食物を、われわれの最初の先祖にお与えになった。どんな生物の生命をも断つことは、神のご計画に反していたのである。エデンにおいて死があってはならなかった」(『教会への勧告』下巻、279ページ)。

「サタンは神の愛の律法を利己主義の律法であると言う。彼はわれわれがその戒めに従うことは不可能だと宣言する。人類の始祖アダムとエバが堕落してあらゆるわざわいが生じたことを、彼は創造主の責任にし、人々に神が罪と苦難と死の張本人であるかのように考えさせる。イエスはこの欺瞞をばくろされるのであった」(『希望への光』677ページ、『各時代の希望』上巻9ページ)。

「しかし、人は自ら選んだ罪の結果の中に捨てられたままでおかれなかった。サタンに対する宣告の中には、救済の告示が含まれていた。……この宣言は、アダムとエバにも聞こえるように告げられ、それは、彼らへの約束となった。彼らは、自分たちが経験しなければならない茨やあざみのことや、労苦や悲哀のことや、土に帰らなければならないことなどを聞く前に、希望を与えずにはおかない約束の言葉をきかされた。サタンに屈服したために失われたすべてのものは、キリストによって再びとりもどされることができるようになった」(『教育』18ページ、一部改訳)。

*本記事は、安息日学校ガイド2013年1期『起源』からの抜粋です。

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