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神学者のウィリアム・ペイリーは1802年に『自然神学』という本を著し、その中で、人は自然を観察することによって、神の品性を理解することができると主張しました。彼は豊富な例によって、動物が創造主の思いやりと技能を示す特徴を持っていることを明らかにしました。しかし彼は、罪と堕落が自然に与えた影響を認めなかったため、いくつかの特徴を強調しすぎる嫌いがありました。それでも、多くの強力な反対意見があるとはいえ、彼の全体的な主張は決して論破できないものです。
対照的に、チャールズ・ダーウィンは、自然のあらゆる特徴を設計された神は善良ではなかったと主張しました。その証拠として、イモムシの生体に宿る寄生生物や、猫がネズミをもてあそぶ残酷な様子をあげています。彼にとって、これらの実例は、愛に満ちた創造主なる神が存在することに対する反証でした。
明らかに、ペイリーの方がダーウィンよりも真理に近いものではありますが、今回の研究では、自然が神について啓示していることとしていないことに関する問題について、聖書にもとづいて考えます。
地は主のもの
ある科学者がかつて、神の必要性について神に議論を挑みました。自分はほかの神々と同様に、人間を創造することができると、彼は主張しました。そこで、神は言われました。「よろしい。では、やってみなさい」。科学者は土を集め始めました。すると、神は言われました。「ちょっと待ちなさい。まず自分で土を造りなさい!」
これは単なる作り話ですが、言わんとしていることは明らかです。神は無から創造することのできる唯一の方であるということです。神は私たちの世界、持ち物、身体を含めて、宇宙のあらゆる物質を創造されました。神は万物の正当な所有者です。
問1
次の聖句は、私たちがこの世界と同胞、神に対してとるべき態度について、どんな基本的なことを教えていますか。詩編24:1、2、50:10、イザヤ書43:1、2、Iコリ6:19、20
クリスチャンに親しまれている讃美歌の一つに、「ここは神の世界なれば」という言葉で始まる讃美歌があります[『希望の讃美歌』14番参照]。確かに、この世界は私たちの父なる神の世界です。なぜなら、神がそれを創造されたからです。創造主であるということ以上に正当な所有権への要求はほかにありません。神は創造されました。したがって、神は全宇宙、天と地、その中のすべてのものの所有者です。
神はこの世界の所有者であるだけではありません。神はまた、地上のあらゆる被造物に対する所有権を主張されます。(私たちが知る限り)他のいかなるものも、生命を創造する力を持ちません。神はただ一人の創造者であるゆえに、すべての被造物の正当な所有者です。私たちはみな、その存在を完全に神に依存しています。私たちの忠誠のほかに、私たちは何一つ神にささげることはできません。地上のほかのすべてのものはすでに神のものです。
そればかりではありません。私たちは創造によって、そして、さらに重要なことに、贖いによって神のものです。神からの素晴らしい賜物ではあっても、人間の生命は罪によって大きく損なわれ、死において終わります。このような展望は生命からあらゆる意味と目的を奪うものです。現在の私たちの生命はそれほどの価値を持ちません。私たちのただ一つの希望は贖いの素晴らしい約束のうちにあります。これだけがすべてを元の状態に「回復」してくれます。したがって、私たちは創造と贖いによってキリストのものです。
堕落した世界
はっきりと言えることが一つあります。私たちがいま住んでいる世界は創造週の終わりに主から出た世界とは大きく異なっているということです。確かに、美と意匠の力強い証拠はほとんどあらゆるところに見られます。しかしながら、私たちは罪によって損なわれた存在であって、罪によって損なわれた世界に住み、罪によって損なわれた世界を理解しようとしています。洪水以前から、この世界は罪によって否定的な影響を受けてきました。「ノアの時代、アダムの反逆とカインによる殺人の結果、二重の呪いが地上に臨んでいた」(エレン・G・ホワイト『闘争と勇気』32ページ、英文)。
問2
世界はどのようにして「呪われ」ましたか。これらの呪いの結果は何でしたか。創3:17、4:11、12、5:29
アダムのゆえの地に対する呪いは植物界にも及んだと思われます。なぜなら、その結果として、茨とあざみが生じるようになるからです。このことは、被造物全体が罪による呪いの影響を受けることを暗示しています。上記のエレン・G・ホワイトの引用文ははっきりと、カインに対する呪いが単に彼にとどまらず、世界全体にまで及んだと述べています。
不幸にも、罪による呪いはそこで終わりませんでした。なぜなら、世界はさらなる呪いによって大きく損なわれたからです。言うまでもなく、それは世界的な規模の洪水でした。「主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい』」(創8:21)。
洪水は神が天地創造において定められた水系を破壊し、地上のあちこちから土壌を奪い、ほかの場所に蓄積しました。現在でも、雨は土壌に浸透し続け、その地力を奪い、さらに収穫高を減らしています。神は憐れみをもって、二度と地を呪わないと約束されました。しかし、私たちの受け継いだ土壌は、神が初めに創造された肥沃で、生産性に富んだ土壌には遠く及ばないものです。
この世の支配者
「主はサタンに言われた。『お前はどこから来た。』『地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました』とサタンは答えた」(ヨブ記1:7)。
「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(Iペト5:8)。
すでに見たように、この世界は創造と贖いによって神のものです。しかし、同時に、私たちはサタンの現実、大争闘の現実、そしてサタンが可能なすべてのものを支配しようとしている現実を忘れてはなりません。たとえ、十字架後、彼の敗北が確定したとしても、彼は静かに、おとなしくしているわけではありません。今は私たちの理解できない方法で神によって制限されているとはいえ、サタンの怒りと破壊力は決して過小評価すべきではありません。また、どれほど争点がぼやけて見えようとも、最終的な戦いは二つの勢力、つまりキリストとサタンにしぼられることを忘れてはなりません。中立はあり得ません。私たちも知っているように、この世界の大部分は悪の勢力の支配下にあります。そうであれば世界が病んでいるとしても不思議ではありません。
問3
ヨハネ12:31、14:30、16:11、エフェソ2:2、6:12を読んでください。これらの聖句は悪しき者の実在と力についてどんな重要な真理を教えていますか。
ヨブ記の中では、大争闘の現実を隠しているいくつかの幕が開かれており、私たちはサタンが自然界に大きな破壊をもたらす力を持っているのを見ることができます。「この世の支配者」という言葉が何を意味するにせよ、サタンが今も地上において強力で、破壊的な影響力を行使していることは明らかです。この事実は、自然界が大きく損なわれていることを理解するための、さらなる理由を与えてくれます。したがって、自然界から神について教訓を学ぶときには、十分に注意する必要があります。結局のところ、ダーウィンは世界の状態について大きな誤解をしていたことになります。
世の「知恵」
私たち人間は、特にこの200年の間に信じ難いほどの量の知識と情報を獲得しました。しかしながら、知識と情報は必ずしも「知恵」と同じではありません。私たちはまた、自然界について私たちの祖先よりもはるかに多くのことを理解しています。しかしながら、「多くの理解」も知恵と同じではありません。
問4
コリントIの1:18~21、3:18~21を読んでください。ほぼ2000年後の今日も、これらの言葉の力強い真理が私たちの時代と状況においてどのように現されているのを見ることができますか。
人間の思想には、神の御言葉と相容れないことがたくさんあります。問題がイエスの復活であれ、天地創造であれ、あるいはほかの奇跡であれ、神の御言葉と矛盾するときには、人間の「知恵」(たとえ、科学的な「事実」によって支持されるものであっても)は「愚かなもの」と見なされねばなりません。
また、先にも触れましたが、特に人間の起源に関する今日の科学の多くは、純粋な自然主義的見解にもとづいたものです。たとえニュートン、ケプラー、ガリレオといった歴史上の多くの偉大な科学の天才が、神を信じ、自分の研究が神の創造の業を説明するのを助けるものであると考えていたとしても(ニュートンは、「神よ、私はあなたの思想に従って考えます……」と記しています)、今日、そのような感想はしばしば科学界の嘲笑の的となります。
なかには、聖書の奇跡物語を説明して、それらが実際には自然現象であって、自然の法則に無知であった古代人がそれらを神のなせる業と誤解したのであると主張する人たちさえいます。たとえば、ある人たちはさまざまな自然主義的な理論によって、紅海の水が分かれたことを神の奇跡以外の現象として説明しようとします。数年前のことですが、モーセは麻薬中毒で、神から石の板に刻まれた十戒を与えられる幻覚を見たにすぎないと言った科学者がいます!
こうしたことがどれほど滑稽に聞こえようとも、ひとたび神や超自然的なことを否定するなら、それに代わるほかの説明を考え出さねばならなくなります。それゆえに、パウロははっきりと、預言的に[これらの説明を]「愚かなもの」と述べているのです。
信仰の目を通して
問5
詩編8編は最も愛されている詩編の一つです。神を信じるダビデにとって、天地創造は主の偉大さと愛について語るものでした。ダビデは詩編8編に記された天地創造からどんな特別な教訓を学びましたか。今日の私たちが月や星などの被造物について、当時知られていたことよりもはるかに多くのことを知っていることを考えると、ダビデの言葉がますます素晴らしいものに思われるのはなぜですか。
私たちが宇宙の広大さと、対照的に人間の物理的な微小さを理解するようになったのは、たかだか過去100年のことです。もし神の啓示がなかったなら、ダビデのように、「天」の大きさを把握することのできる人などいなかったでしょう。もしダビデがそのとき畏敬の念を抱いたとすれば、私たちはなおさらそうすべきです。宇宙の広大さにもかかわらず、神は私たちが計り知ることのできないほどの愛をもって私たちを愛しておられるからです。
問6
詩編19:2~5(口語訳、19:1~4)を読んでください。ダビデは天に何を見ましたか。
多くの人は夜空の星をながめ、神の偉大さと人間のちっぽけさを認めて、そんなちっぽけな人間に関心を向けてくださる神を讃美します。一方、ほかの人たちは自然界に見られる悪の問題に目を向け、実際には自分自身の選択や悪魔の働きの結果であるのに、問題を神のせいにします。
サタンによってもたらされた悪の中にあってさえ、信じる者たちにとっては、被造物は確かに神の愛情深い配慮について語るものです。しかし、創造された世界が力強い証し・証言であるとはいえ、そこに見られる啓示は、特に堕落とそれによって生じた呪いの結果のせいで、不完全なものとなっています。
さらなる研究
「私たちは今後、絶えざる論争に直面するようになるという警告が私に与えられた[1890年]。いわゆる科学と宗教が互いに対立するようになる。有限な人間には、神の力と偉大さを理解することができないからである。聖書の言葉が私に与えられた。『あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます』[使徒20:30]」(エレン・G・ホワイト『医療伝道』98ページ、英文)。
*本記事は、安息日学校ガイド2013年1期『起源』からの抜粋です。