扶養者また維持者、イエス【創世記―起源】#8

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神は非常に規則正しい方法で被造物を支えておられるので、この宇宙はときどき、自らの力で動くようにと、神が置いて行かれた機械にたとえられます。

しかし、より適切なたとえを用いるならば、被造物は機械というよりも、神が思いのままに「メロディー」を奏でるために用いる楽器のようなものです。つまり、御自分が造られたものを支えるために、神は絶えず関わっておられるのです。

この宇宙の中に、主から独立して存在しているものは何一つありません。創造されたものはすべて、主によって創造されました。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1:3)。そればかりでなく、主はそれらすべてを支えておられる方です。さらに驚くべきことに、それらすべてを創造し、支えておられる方は私たちのために十字架にかかられた方です。

「使徒パウロは、聖霊の感動をうけて筆をとり、キリストについて、『いっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている』(コロサイ1:16、17)と言明している。すべての世界を空間にささえ、宇宙の万物を整然たる秩序と倦むことのない活動の中に保つみ手は、われわれのために十字架に釘づけされたみ手である」(『教育』143、144ページ)。

維持者

問1

ヘブライ1:3とコロサイ1:16、17を読んでください。宇宙が存続する上で、イエスはどんな役割を果たしておられますか。

ここに暗示されているのは、イエスが御自分の力によって宇宙の存在を支え続けておられるということです。宇宙は独立した存在ではありません。宇宙の存在は神の御心の絶えざる行使に依存しています。このことは理神論、つまり神がこの世界を自ら制御するものとして創造し、その後、世界が神のさらなる介入なしに発展するままに任せられたと教える哲学に対する論駁となります。聖書はそのような理論を排除しています。

また、汎神論(神と宇宙は同じもの)や万有在神論(神は宇宙のうちに宿る)といった偽りの理論に見られるように、神は被造物のうちにいて、絶えずそれを創造しておられるのでもありません。神はいかなる意味においても宇宙に依存されません。神は宇宙から区別される方です。神は宇宙から独立して存在されたし、独立して存在し続けられます。宇宙は神に依存していますが、神は宇宙に依存しておられません。

問2

コリントIの8:6、使徒言行録17:28を読んでください。パウロは私たちとイエスとの関係をどのように描写していますか。

私たちは一瞬一瞬を、一日一日を、神の維持力に依存しています。私たちが絶えず存在し、活動し、関係を築くことができるのは神の愛のゆえです。このことは特別な意味で、神に献身した人たちにとって、またパウロが言うように、「キリストと結ばれる」人たちにとって真実です(IIコリ5:17、エフェ2:10—これらの聖句が創造に言及していることに注目)。救いを拒絶する人たちも同様に、その存在を神の維持力に依存しています。ダニエルは鋭い口調で、ベルシャツァル王に対してこの点を強調しています。「だが、あなたの命と行動の一切を手中に握っておられる神を畏れ敬おうとはなさらない」(ダニ5:23)。

寛大な扶養者

創世記1:29、30には、神が初めに生き物を創造されたとき、それらに食物を与えられたことが書かれています。植物と果物、種が人間と動物のために選ばれた食物でした。そこには、資源をめぐる強奪や競争について何一つ書かれていません。寛大な扶養者である神はすべてのものに暴力を使わなくても得られるだけの十分な食物を用意されました。

人間をはじめ、すべての生物が弱肉強食と適者生存によってのみ存在すると教えている進化論による一般的な起源論と、何と対照的なことでしょう。創世記の初めの数章には、そのようなことは全く書かれていません。対照的に、そこに啓示されているのは、当初から文字通りの楽園であった世界です。それゆえに、主が世界の創造を終えられたとき、聖書は次のように記しているのです。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である」(創1:31)。

問3

創世記2:8、9を読んでください。これらの聖句はアダムとエバを扶養する上での神の特別な関心についてどんなことを示していますか。

すでに見たように、神は人間を含む御自分のすべての被造物に食物を与えられました。神がなさったのはそれだけではありません。神は全地に食物を豊かに与えると同時に、アダムとエバのために特別な園を設けられました。そこには、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらす木々がありました(創2:9参照)。美しく、多様な食物のある園は神の豊かな愛と恵みから出たものでした。それは恵みの賜物でした。なぜなら、アダムとエバはそのために何一つ労していないからです。それは無償で与えられ、十分に整えられていました。

すでに述べたように、私たちは天地創造の当初からかけ離れた状態に置かれています。私たちの世界は大きく損なわれています。損なわれずに残されているものは、地上には何一つないように思われます。しかし、そのような状況にあっても、神の愛についての力強い証拠が見られます。

自然悪

愛の神を信じるすべての者が理解しなければならない重要な問題の一つは悪の問題です。それは人間の悪だけでなく、いわゆる「自然悪」をも含みます。「自然悪」とは、自然界に起こる悪い出来事のことであって(洪水、暴風、干ばつ、地震など)、それらは人間と動物に計り知れない痛みと苦しみをもたらします。

私たちはこれらのことをどのように理解したらよいのでしょうか。そもそも、もし神が被造物を支配しておられるのであれば、なぜそのようなことが起こるのでしょうか。

ヨブ記は聖書の中で最も初期に書かれた書巻の一つですが、その中で、これらの問題がヨブにとって現実の問題となりました(第4課参照)。

問4

ヨブ記42章を読んでください。この章は私たちのどんな疑問に答えていますか。

ヨブ記を読んだことのある人なら、たぶん[読んだ後で]答えよりも疑問のほうが増すはずです。ヨブ記は大争闘に関するいくつかの重要な真理を啓示していて(黙12:12参照)、そのことは悪の存在を理解する上で欠かせない背景を明らかにしてくれます。しかしながら、大争闘の筋書きはそれぞれの悪の事例を説明するものではありません。それどころか、悪について説明することはある意味で悪を正当化することであって、決してできることではありません。大争闘は悪の背後にある壮大な問題を啓示してはいます。しかし、その主題がそれぞれの悪の事例について何かを明らかにすることは、ないとは言えないまでも、ほとんどありません。

災いに見舞われたとき、ヨブはその意味を理解しませんでした。私たちも同じです。神はヨブに語られましたが、ヨブの疑問に答えることも、災いの原因について説明されることもありませんでした。神がヨブに言われたのは、自分の知識を超えたことがあるということ、また神に信頼しなければならないということでした。そして、ヨブは神に信頼しました。私たちも、しばしば同じような経験をしながら、疑問に対する答えが与えられないかもしれません。しかし、ヨブの物語は悪の本質について重要な洞察を与えると同時に、神が私たちの直面する闘いを見過ごしにされないことを示しています。

損なわれた被造物を支配する

私たちは日光や雨についてよく知っています。科学者はそれぞれの作用についてあれこれと解説します。しかし、そこには、科学によっては説明することのできないことがたくさんあります。背後にあって、神は活発に御自分の被造物の必要を満たしておられます。私たちは神の方法を理解することができないかもしれませんが、神は確かに支配しておられるのです。優れた音楽家は楽器を用いて美しい音楽を奏でるので、聴衆は音楽家よりも音楽に心を引かれます。同じように、神は被造物を整えられるので、私たちはしばしばその秩序を見て、被造物の荘厳さに心を打たれます。同様に、神が背後にいて、物事を御心に従って命令し、万事が神を愛する者たちの益となるように共に働くようにしておられることに、私たちは気づいていないかもしれません(ロマ8:28)。

問5

次の聖句はどんな似通った現象について記していますか。創8:1、出10:13、民11:31

風はありふれた現象であって、私たちはみなそれがどのようにして生じるかを知っています。しかし、これらの聖句の中で、風は特別な状況において生じています。それらは「摂理的な風」と呼ぶことができるかもしれません。それらは特別な時間と場所において生じ、特別な目的を果たしています。それらは「自然」なように見えますが、目に見えない[第一]原因なる神が御自分の目的のために働いておられます。神は御自分の創造された世界の特徴を用いて御自分の目的を果たしておられます。

列王記下20:9~11には、聖書の中でも最も異常な奇跡の一つが記されています。太陽と地球と一日の長さの関係は、人間経験の中でも最も安定した、予測可能な特徴の一つと考えられます。もし現代において同じことが起こったなら、今日の科学界の衝撃がどれほどのものか想像してみてください。結局のところ、私たちは次のように言うしかありません。「主に不可能なことがあろうか」(創18:14)。こうした数々の奇跡が私たちに教えていることは、被造物とその中における神の活動には、私たちの理解を超えたことがまだまだあるということです。神を個人的に知り、神の愛の現実を自分で知ることが大切なのはそのためです。こうして、たとえ理解できないことが多々あったとしても、私たちは神に信頼することができるようになるのです。

損なわれた被造物の扶養者

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(マタ6:26)。

アダムとエバが罪を犯し、もはや園に入ることができなくなった後も、神は彼らのすぐ身近な肉体的必要のために備えをしてくださいました(創3:21)。罪は新たな必要、つまり着物の必要をもたらしました。アダムとエバは自分で着物を作ろうとしましたが、いちじくの葉では全く不満足でした。もっとよい着物が必要でした。神は皮によってその必要を満たされました(皮の意味については、後で詳しく学びます)。重要なことは、彼らが罪を犯した後でさえ、神は彼らの必要を満たしてくださったことです。ここにも、価値のない私たちを養ってくださる神の恵みの実例を見ることができます。

問6

マタイ6:25~34を読んでください。イエスはここで、どんな重要なことを教えておられますか。多くの人が経験する試練や悲劇を前にして、私たちはこれらの言葉をどのように理解すべきですか。

これらは慰めに満ちた言葉です。深刻な苦しみと損失、必要に満ちた時代にあって、私たちは心と霊と思いを尽くしてこれらの言葉に信頼する必要があります。イエスは野の花や空の鳥のためにではなく、私たちのために死んでくださいました。どのような状況にあっても、私たちはイエスの愛を確信することができます。しかし、だれもが知っているように、状況は時としてすさまじいものです。私たちは至るところに干ばつや洪水、疫病、死を見ます。クリスチャンもこれらの悲劇を免れることはできません。

神は御自分の民に苦しみのない、贅沢な生活を約束しておられません。しかし、私たちの必要を満たし、問題に対処する力を与えると約束しておられます。私たちは、大争闘が現実のものであること、また私たちが堕落した世界にいることを忘れてはなりません。

さらなる研究

「それにもかかわらず、科学者たちは、神の知恵、すなわち、神のなさったこととおできになることなどを理解できると考える。神は、神ご自身の法則に制限されておられるという思想が一般に広まっている。人々は、神の存在を否定するか、あるいは無視するかして、すべてのもの、人の心に働く神の霊の作用さえも説明できると考えている。そして、彼らは、神のみ名を敬わず、神の力を恐れもしない。彼らは、超自然ということを信じず、神の律法、また、彼らを通じて神のみこころを行われる無限の能力を理解しない。一般に、『自然の法則』という言葉は、物質界を支配する法則について、人間が発見し得たことを言うのである。しかし、人間の知識は、なんと限られていることであろう。そして、創造主がご自身の法則にかないながらも、なお、有限な人間の思考を越えて働かれる範囲はなんと広いことであろう」(『希望への光』25ページ、『人類のあけぼの』上巻33、34ページ)。(エレン・G・ホワイト『教会へのあかし』英文第8巻259~261ページ、「自然の法則」参照)

*本記事は、安息日学校ガイド2013年1期『起源』からの抜粋です。

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