エデンからの贈り物、結婚【創世記―起源】#9

目次

この記事のテーマ

幸せな結婚と愛に満ちた家庭がもたらす数々の祝福について考えてみてください。このような経験にあずかる人たちは何と幸運なことでしょう。悲しいことに、多くの人にとって、結婚生活は喜びと平安よりも、ほとんど苦痛と怒りの経験になっています。このようなことは意図されたことでもなければ、あるべき状態でもありません。多くの結婚生活に見られる悲しむべき状態は、罪が人類にもたらした堕落の顕著な現れです。

「神は最初の結婚式を執り行われた。したがって、結婚の制度は宇宙の創造者である神にその起源を持つ。『結婚を重んずべきである』(へブル13:4)。それは、神が人間にお与えになった最初の賜物の一つであった。また、それは、堕落後、アダムが楽園の門から持って出た二つの制度のなかの一つである。婚姻関係に関する神の原則をわきまえ、それに従うときに、結婚は祝福である。それは、人類の純潔と幸福を守り、人間の社会的必要を満たし、肉体的、知的、道徳的性質を高める」(『希望への光』20ページ、『人類のあけぼの』上巻21ページ、一部改訳)。

何と素晴らしい理想でしょう。今回の研究では、結婚の背後にあるいくつかの原則について考えます。

“ロ・トーヴ”(良くない)

太古の混沌から、神は御言葉の超自然的な力によってこの世界を創造されました。天地創造の記録を通じて、御業が完結するまで、すべては「良し」とされています。この時点では、主がお造りになったものはすべて「極めて良かった」と宣言されています(創1:31)。

問1

しかし、その中で、“ロ・トーヴ”なもの、つまり「良くない」ものが一つありました。創世記2:18を読んでください。「良くない」ものとは、何でしたか。その理由は何ですか。この聖句は何を暗示していますか。

アダムを創造された時点で、神は天地創造のすべての局面を「良し」と宣言されました。この時点では、人間はアダムだけでした。アダムは神にかたどって造られました。しかし、一人だけでは、三位一体の神の、他者との関係において存在する神のかたちを完全に反映することができませんでした。言うまでもなく、三位一体の神は父なる神、御子、聖霊からなっています。したがって、アダムは相互の愛と協力の関係を築くことのできる、自分に似た相手を必要としました。それによって、彼は三位一体の神のうちに例示された愛の関係を反映する者となるのでした。

創世記2:19~21を読んでください。神はアダムを眠らせ、彼の肉から妻を造られる前に、アダムにある活動をさせています。その活動は、神がアダムのために妻を造られたことと関係がありました。

ここで鍵となるのは20節の最後の部分です。動物に名前をつけていくうちに、それらが独りの自分とは異なり、雄と雌のつがいで来たことに、アダムは気づいたはずです。主は初めから、アダムが妻を持つように意図しておられたと思われます。おそらく、主はアダムのうちに一種のあこがれ、つまり自分自身のうちに何かが欠けているという感覚を植えつけようとされたのでしょう。アダムはこうして、主が妻において与えようとしておられた賜物をいっそう深く感謝するようになるのでした。

アダムのための伴侶

アダムが動物に名前をつける創世記2:20の記述は、人間とその他の地上の生き物との大きな違いを明らかにしています。アダムに比べられる動物はほかにはいませんでした。サルの中にも、アダムのような生き物はいませんでした。なぜなら、アダムはサルのようではなかったからです。現代の社会には、人間が発達したサルに過ぎないという考えを広める人々が多いことを考えれば、これは覚えておかねばならない重要な点です。人間はサルではありません。サルが私たちにふさわしい伴侶でないのと同様に、サルはアダムにふさわしい伴侶ではありませんでした。

創世記2:21、22に注目してください。神が自ら土の塵でアダムの身体を造られたように、神は自ら、まずアダムのあばら骨の一部を用いてエバの身体を造られました。あばら骨は体全体ではありません。そこで、神は追加の材料を用いて、エバの身体を完成させられました。アダムの身体を造られたように、神は塵からエバの身体を造ることもおできになりました。神はエバを造るのにアダムのあばら骨を必要とされませんでした。あるいは、言葉を用いてエバを出現させることさえおできになりました。

しかし、神がアダムのあばら骨の一部をエバの身体に組み込まれたことには理由がありました。もし二人が完全に別々に造られていたなら、彼らは本質的に完全に独立した個人となっていたはずです。しかし、肉を分け合うことによって、二人が一つに結ばれ、「一体」となるように意図されていたことがわかります。

エバは造られた後で、アダムを助ける者としてアダムのところに連れて来られました。彼女はアダムから造られ(22節)、アダムに与えられました(22節)。神がエバを造られた過程を見れば、神がアダムに必要ないかなる伴侶をも与えることがおできになることが明白でした。この点が、アダムが後にエバと共に果実を食べるべきか、それとも神の状況支配に信頼するべきかという誘惑に直面したときに重要になります。アダムには、神が自分に心を留めてくださることを信じる十分な理由がありました。それだけに、彼の罪はいっそう悲しむべきものとなりました。

創世記2:23に出てくるアダムの言葉に注目してください。エバを見たとき、アダムは興奮のあまり詩の形式で歌い出しています。これは聖書に見られる最初の詩で、妻に対するアダムの敬意と二人の関係の親密さを表しています。エバはアダムと同等の存在となるのでした。それは堕落によって損なわれた、創造のもう一つの側面でした。

理想的な結婚

米国の小説家ウィリアム・フォークナーはかつて結婚を「失敗」と呼び、次のように言っています。「結婚生活から平安を得る唯一の方法は……最初の女[妻]と別れないで、いつの日か彼女に先立たれることを願いつつ、できるかぎり彼女から遠く離れていることである」。悲しいことに、これが多くの結婚生活の現状です。

問2

マルコ10:7~9を読んでください。ここで、イエスはどんな聖句を引用しておられますか。イエスのこれらの言葉の中に、幸せな結婚のどんな特徴が述べられていますか。

配偶者と家庭を築くために自分の両親を離れることの必要性は広く知られているので、ほとんど言及する必要がないくらいです。義理の親との問題は夫婦間の不和の主要な原因の一つです。幸せな家庭を築くための第一段階の一つは、可能なかぎり両親から離れた家庭を築くことによって、夫婦の独立を尊重することです。それが不可能な場合であっても、結婚生活のプライバシーと夫婦生活は尊ばれるべきです。

一致は幸せな結婚のもう一つの特徴です。一致とは、夫婦がそれぞれの頭脳を働かせることを止めることではなく、むしろ同じ目的において一つに結ばれ、お互いの幸福と交わりのために最善を尽くすことです。

イエスはまた、結婚生活が永続的なものであることを強調されました。結婚は意のままに結んだり、解消したりすべき軽々しい関係ではありません。それは終生の献身です。生涯、献身する用意のできていない人たちは、その用意ができるまで結婚生活に入ることを延期すべきです。

エフェソ5:22~25を読んでください。これらの聖句は幸せな結婚生活の原則について教えています。キリストが教会のために御自分をお与えになったように、愛の奉仕において自分自身を妻にささげることは夫の特権です。その一方で、妻は夫を尊敬し、お互いの目標を実現するためにそれぞれの働きに協力すべきです。ここに、罪が結婚関係にもたらした不一致に対する解決策があります。自己犠牲の愛は愛に満ちた尊敬と相互の幸福をもたらします。私たちの家庭は天国の前触れとなります。

尊いものを守る

人間に対する神の愛についての最大の模範の一つを、人間の性のうちに見ることができます。それは本当に素晴らしい神からの賜物です。しかし、私たちに与えられているすべての賜物と同じく、それは無条件に与えられるのではありません。つまり、自分勝手に扱ってよいものではないということです。神は一定の規則を設けておられます。実際、神の規則は非常に明確です。性的行為は夫と妻、男と女の間で、しかも結婚という枠組みにおいてのみ存在すべきものです。それ以外はすべて罪です。

問3

マタイ5:27~30を読んでください。イエスはここで、御自分が扱っておられる問題をどれほど重要視しておられますか。結局のところ、危うくなっているのは何ですか。

私たちは、イエスが罪人に与えてくださる豊かな恵みと赦しに心を向けがちです(それ自体は正しいことです)。しかし、イエスが実践し、教えられた高い道徳的標準を忘れてはなりません。これらの数節に啓示されている性的不道徳に対する警告を、イエスがこれ以上に強い方法で表明されるのを想像することは困難です。目をえぐり出して捨てますか。腕を切り取って捨てますか。もし純潔を守るためにそうする必要があるとすれば、そうするだけの価値はあります。さもなければ、あなたは永遠の命を失う危険があります。

「もし神の律法に従うと言うすべての者が不義から解放されているなら、私の魂は救われるだろう。しかし、そうではない。神の戒めのすべてを守ると言う者たちの中にさえ、姦淫の罪を犯している者たちがいる。彼らの麻痺した感覚を呼び覚ますために、何と言ったらよいであろうか。道徳的原則を厳格に実行することが魂の唯一の防壁となる」(エレン・G・ホワイト『健康に関する勧告』621、622ページ、英文)。

教会の比喩としての結婚

旧約聖書においても新約聖書においても、結婚が神と神の契約の民との関係を表す象徴として用いられていることは、聖書を学ぶ者たちの間でよく知られているところです。たとえば、聖書が多くの場面で古代イスラエルに蔓延していた背信と背教の象徴として不義の女を用いているのはそのためです。出エジプト記の中でも、主は御自分の民に、周囲の異教徒といかなる親密な関係に入ってはならないと言っておられます。異教徒がイスラエルを迷わせる非常に淫らな民だったからです。

問4

出エジプト記34:15、16を読んでください。この特別な警告の中で、主はどんな象徴を用いておられますか。神の民が神と「結婚した」者であるという背景の中で、このことをどのように理解したらよいですか。エレ3:14参照

同時に、特に結婚に対する聖書の理想、つまり愛と自己犠牲の関係における一人の男と一人の女という背景において考えるとき、キリストの花嫁としての教会の象徴は信者同士の、またキリストとの一致を表しています。

問5

エフェソ5:28~32、黙示録19:5~9を読んでください。これらの聖句は何について教えていますか。

これらの聖句の中で、理想的な結婚に見られる関係が神と神の民との関係に比較されています。神は御自分の民を御自身との親しい関係に入るように招いておられます。これは、神が御自分の民に関心を寄せておられること、また神が私たちを御自分との交わりに入らせようと望んでおられることの驚くべき描写です。

さらなる研究

多くの点で、道徳、特に性道徳についての正しい理解は、私たちの起源についての正しい理解と結びついています。たとえば、進化論哲学は性的行動と道徳性の間のいかなる関係についても客観的な説明を与えていません。動物は種々雑多な「婚姻制度」を持っています。ある種は一夫多妻であり、ある種は雑婚です。一部に一夫一婦に近いものもありますが、遺伝子を調べると、一夫一婦のように見えても実際にはそうでないものが数多くいます。多くの種にあっては、メスは何匹もの子を産みますが、すべてが同じ父親によるものとは限りません。創造主によって与えられた客観的な道徳の基準がなければ、性的行動が道徳的に善か悪かを評価する基礎がないことになります。同性愛結婚を認めようとする最近の動きはこのことを例示するものです。創造の光によってのみ、結婚は正しく理解されます。

「旧約聖書にも新約聖書にも、結婚関係はキリストとその民との間に存在するやさしく聖なる結合をあらわすのに用いられている。婚宴の喜びは、キリストがご自分の花嫁を天父の家につれていかれ、あがなわれた者とあがない主とが、小羊の婚宴の席にすわるその日の喜びをキリストの心に思わせた」(『希望への光』740ページ、『各時代の希望』上巻176ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2013年1期『起源』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次