生きるか死ぬかの問題【箴言―正しい選択を導く知恵の言葉】#3

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2人の兄弟だけが家に残されていました。しかし、焼きあがったばかりのケーキを食べてはいけないと、母親からきつく言われました。しかも彼女は、子どもたちが言いつけにきちんと従うよう、罰の脅しも付け加えておきました。

母親が家を出てから、少年たちがケーキを食べようと決心するまで、わずか数分しかかかりませんでした。「これは生きるか死ぬかの問題じゃないよね。ママはぼくたちを決して殺したりしないさ。だから、食べちゃおう!」と、2人は言い訳を作りました。

しかし「箴言」の教師にとって、彼が語っている問題は、まさに生死に関わる問題です。彼の言葉は強く、ときとしてあからさまです。言うまでもなく、イエスは永遠の命と死という問題についてお語りになったとき、極めて強い言葉を使われました(マタ5:21~30参照)。それもそのはずです。結局のところ、私たちの最終的な運命、永遠の運命は(これ以上に大切なものがあるでしょうか)、私たちが今ここで行うさまざまな選択にかかっています。それゆえ私たちは、強い言葉の切迫感を文字どおりに受け止めましょう。

私たちの生活における律法

箴言6:21と7:3を読んでください。先の課で触れたように、「箴言」において「心」は感情と思考の座(seat)をあらわしています。「箴言」の教師は、律法を心に結びつけなさい(箴6:21)と言うことによって、私たちは常に律法と密接につながっていましょう、ということを言っています。私たちが律法とのつながりを失ってもよい瞬間はありません。なぜなら、律法は罪を明らかにするものだからです(ロマ7:7)。「箴言」の教師はまた、ちょうど十戒が神によって石の板に書かれたように(出24:12)、この律法は心の中の板に書き記しなさい、とも主張しています(箴7:3)。

律法が心に記されるというのは、単に律法が私たちに課される一連の外的な規則でないことを意味します。律法は私たちの動機、密かな意図にまで浸透し、自己の一部にならなければなりません。これは、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望」(コロ1:27)というパウロの約束を私たちの生活の中で実現することを言い換えたものです。

律法を「首」に巻きつけるというのも、私たちが律法を身近なものにしていましょう、という意味です。古代の人々は、よく貴重品を自分の首に巻きつけました。首は、そこを通じて空気が肺に入る場所、呼吸と生命を与える場所であり、「喉」または「呼吸」を意味する言葉から派生した「命」を意味するヘブライ語の「ネフェシュ」(魂)によって説明された思想が集まっている場所です。

律法を「指」に結ぶことは、律法を行動の領域に持ち込むことを意味します。「箴言」の教師は、最も注意を要する私的な行為を示唆するために、指に注目しています。律法は、私たちが行う大きな選択だけでなく、もっと小さな選択にも影響を及ぼすでしょう(ルカ16:10参照)。

これらの比喩を用いた聖書の意図は、純粋に象徴的なものでしたが、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の伝統の中で、これらの象徴が文字どおりに受け取られてきたということは注目に値します。そのことは、ユダヤ教徒が頭や指に付ける「テフィリン」[聖句の書かれた紙片が収められた小さな箱]、キリスト教徒が首に提げる十字架、イスラム教徒(やキリスト教徒)が指に巻くロザリオ(数珠)などによって確認できます。

光と命

箴言6:23を読んでください。「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」(詩編119:105)とあるように、神の御言葉や律法は、聖書の中で光にたとえられてきました。ヘブライ人の考え方では、「律法」と「光」の間につながりがあります。光が私たちの歩く道を照らすように、律法は、私たちが道を外れずに進むのを助けるでしょう。つまり、私たちが道徳的な選択を迫られるとき、たとえ、理性や個人的な都合が律法を無視するように私たちを誘惑するときでさえ、律法は、何が正しい選択であるかを知る手助けをするでしょう。

問1

神の律法に従わない十分な理由があったにもかかわらず、神の律法に従うことを選んだ人物として、聖書の中にどのような例を見いだすことができますか。彼らの服従から、私たちはどのようなことを学べますか。(もしあったとして、)忠実であろうとした彼らの選択が、少なくとも人間的観点からすると誤っているかのように思えるケースがあったでしょうか。

問2

箴言6:23と7:2を読んでください。律法は、なぜ「命」とつながりがあるのですか。

堕罪以来、永遠の命に対する私たちの希望は、律法の中にではなく、キリストへの信仰を通してのみ、見いだすことができます。しかし、律法と、律法が示す原則に従うことは、信仰生活において中心的役割を果たし続けます(マタ19:17、黙14:12参照)。私たちが従う理由は、数千年前、主がイスラエルの人々に言われたように、「わたしは[キリストが]あなたたち[私たち]の神、主である」(レビ18:4)からです。神が私たちの命の源であるという単純な理由のゆえに、神の律法は「命」とつながりがあります。この原則は、真の霊的な生き方—永遠の命に対する神の約束を信頼することと、神と、現世の生活に対する神の約束を信頼するようにと—を表しています。

誘惑と戦う

昨日の研究で見たように、箴言6:23の著者は、聖霊の霊感の下にあって、光や命を神の律法と直接結びつけています。そして次の節では、その律法が光や命として、いかに強力な霊的保護を与えるかを示す、絶好の実例を挙げています。

問3

箴言6:24で、私たちは何について警告されていますか。明らかな警告のほかに、どのようなさりげない警告がここで与えられていますか。

信心深い人が誘惑されるとき、最大の誘惑は、その不正行為を正当化する宗教的な理由を見つけることです。不品行を合理化するために神を用いることは、単なるひどい冒ではありません。それは極めて欺瞞的です。もしだれかが、「神は私に味方しておられる」と考えているとしたら、あなたは何を言い返せるでしょうか。姦淫の場合でも、このようなことが起こりえます。「私が一緒になるべきはこの人だと、神が示されたのだ」と、彼らが信じているとしたら、一体だれ(何)が「神」の示されたものに勝てるでしょうか。

また、彼を魅了しているのが彼女の肉体的な美しさだけでないことにも注目してください。彼女は、獲物をわなに引き寄せるために言葉(お世辞)を使っています。男も女も、なんとしばしば巧妙で魅惑的な言葉によって、ときには宗教的に表現された言葉によって、恥ずべき関係に陥ってきたことでしょうか。「箴言」の著者は、このような欺きに対して私たちを警告しようとしているのです。

律法は、「みだらな女の、巧みな舌」(箴6:24、口語訳)に対する完璧な防御手段です。律法の命令とそれに従う義務だけが、実にまことしやかですばらしく思える彼女の甘い言葉に私たちが抵抗するのを助けます。確かに、みだらな女は、あなたがハンサムなだけでなく、賢くて聡明であると気づくでしょう。彼女は霊的必要さえ言い出し、皮肉にも、また危険にも、「神の愛」が罪の正当化になるかもしれません。

「盗んではならない」

姦淫に関する警告(箴6:24~29)の直後に、「箴言」の著者はもう一つの罪—盗み(同6:30、31)—について語り始めます。二つの掟(姦淫と盗み)のつながりは、一つの掟に違反することがほかの掟の順守にいかに影響するかを示しています。神の律法をえりすぐること、つまり妥協する態度は、律法をまったく守らないことよりもずっと危険になることがあります。「世の中で最も根強い悪徳のとりでは、すてばちな罪人や卑劣なごろつきたちの邪悪な生活ではなくて、表面善良な尊敬すべきりっぱな生活に見えながら、実は心の中に一つの罪を宿し、一つの悪徳におぼれている生活がそれである。……人生と真理と名誉について高い観念を持っていながら、しかもなお神の聖なる律法の一つを故意に犯している者は、そのとうとい賜物を悪用して罪への誘惑としているのである」(『教育』168、169ページ)。

箴言6:30、31を読んでください。貧しさや乏しさは、盗みを正当化しません。泥棒は、たとえ「飢えを満たそうとして」(箴6:30)いたにしても有罪です。飢えていた泥棒は軽蔑されるべきではありませんが、彼は盗んだものの七倍の償いをしなければなりません。これは、彼の絶望的な状況が罪を正当化しないことを示しています。その一方で聖書は、貧しい人たちが生き残るために盗まざるをえないと思い詰めないように、彼らの必要を満たすのは私たちの義務である、と主張しています(申15:7、8)。

姦淫から盗みに進んだ話が、ここでまた姦淫に戻っているのは、なんと興味深いことでしょう(箴6:32~35)。これら二つの罪は、確かに幾分似ています。いずれの場合も、だれかがほかの人の所有物を不法に奪っているからです。しかし、盗みと姦淫の決定的な違いは、前者の罪が物の損失に関係しているにすぎない一方で、後者の罪はもっと重要なものに関係しているという事実にあります。盗んだ物に対する弁償は、場合によってはできますが、姦淫の場合、特に、子どもが関係する場合、そのダメージは盗みのときよりもはるかにひどいものになります。

「『あなたは姦淫してはならない』(出20:14)。この戒めは、不純な行為だけでなく、好色的な思いや欲望、あるいは、そうしたものを刺激する行為を禁止している。外にあらわれた生活だけでなく、ひそかな意図や心の感情においても、純潔が要求される。キリストは神の律法について深遠な義務をお教えになり、邪悪な思いや目つきは、不法な行為と全く同様に罪であると言われた」(『希望への光』156ページ、『人類のあけぼの』上巻360ページ)。

死の脅威

たいていの人は、罪を犯すときに死について考えたりしません。彼らの心にあるのは別の事柄、たいていは、その罪を犯すことですぐに得られる満足感や喜びです。大衆文化はしばしば姦淫や不正行為を奨励しますが、それも役に立ちません。対照的に、「箴言」は罪を正しい視点で捉えており、その見方は、数百年後にパウロによって繰り返されています。「罪が支払う報酬は死です」(ロマ6:23)。

箴言7:22、23を読んでください。女に従う男は、人格と意志を失った者として描かれています。彼はもはや考えていません。「たちまち」という言葉は、彼が時間をかけてじっくり考えていないことを示唆しています。彼は「屠り場に行く雄牛」や「罠にかかる鳥」にたとえられています。そのどれもが、自分の命が脅かされていることに気づいていません。

箴言7:26、27を読んでください。ここでの女は、「単なる」姦通者以上のものを表現しているのかもしれません。実のところ、彼女は知恵と正反対の価値をあらわしています。ソロモンはこの比喩を用いて、あらゆる形の悪に対する警告を教え子に与えています。この女は傷つけるだけでなく、殺すので、とても危険です。彼女の力は、最強の男たちさえ殺してきたほどに強いものです。言い換えれば、あなたよりも強かった者たちが、彼女の手にかかって生き残れなかったということです。この箇所がだれにでもわかる言葉で書かれていることは、「箴言」の著者が人類全般について語っていることを明確に示唆しています(27節に出てくるヘブライ語の「シェオル」は、一般的に考えられているように、「陰府」とは関係がありません。それは死体が現在ある場所、つまり墓を意味しています)。

結局、重要なのは、姦淫であれ何であれ、罪は、神がイエス・キリストを通じて私たちに与えたいと望んでおられる永遠の命とは正反対のもの、つまり滅びをもたらします。

前に述べたように、強い言葉が用いられていることは驚くに値しません。私たちは文字どおり、生死に関わる問題を扱っているからです。

さらなる研究

「サタンは、もし人間が彼に主権を譲り渡すなら、この世の王国を彼らに提供する。多くの人がそうして天国を犠牲にする。罪を犯すよりは死ぬほうが、だますよりは事欠いているほうが、うそをつくよりは飢えているほうがずっとよい」(『教会へのあかし』第4巻495ページ、英文)。

「罪によって魂を汚すよりは、貧しさ、非難、友との別れなど、いかなる苦しみをも選びなさい。不名誉をこうむるくらいなら死を、神の律法を破るくらいなら死を、というのが、すべてのクリスチャンの座右の銘となるべきである。改革者と公言する民、最も神聖なものを大切にする民、神の御言葉の真理を純化する民として、私たちは現在よりもはるかに高く基準を上げなければならない」(『教会へのあかし』第5巻147ページ、英文)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年1期『箴言』からの抜粋です。

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