神聖な知恵【箴言―正しい選択を導く知恵の言葉】#4

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「箴言」の8章、9章において、知恵が再び登場しますが(箴1:20、21参照)、今回の聖句から明らかなように、知恵は真理(神の内に存在する「真理」、あらゆる真理の源、基礎)のことです。

真理の「絶対的な」性質をこのように強調することは、真理が相対的なもの、条件付きな(不確かな)もの、文化的なものとみなす現代の(とりわけ西洋の)思想や、人によって異なる個人の真理と対照を成しています。

しかし、そのような概念[真理は相対的、個人的なものという考え]は聖書的ではありません。私の真理はあなたの真理と同じであるはずです。なぜなら、「真理」は単純に普遍的なものだからです。全人類が認めていようと認めていまいと、真理は特定のだれかの所有物ではなく、すべての人の所有物です。

とても興味深いことに、ピラトがイエスに尋ねた、「真理とは何か」(ヨハ18:38)という有名な質問は、「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(同18:37)という主の言葉に応えて発せられました。真理、絶対的な真理は存在し、それは私たちに語りかけてさえきます。私たちにとって重要なことは、その語っていることに耳を傾けるかどうか、また従うかどうかです。

呼びかける知恵

箴言8:1~21を読んでください。知恵は重要なので、すべての人に届かなければなりません。神はすべての人間の命を生み出し、キリストは私たち1人ひとりのために死にました。それゆえ、知恵—神の知識と神が提供される救い—は、人類すべてのものです。

知恵を声として描くために用いられている言葉—「呼びかける」「声をあげる」「呼ばわる」「語る」「唇を開く」「口」「唇」「言葉」—に目を向けてください。これらの比喩がどのように理解されようと、はっきりしているのは、知恵は伝えられるものだということ、耳を傾けるすべての者に聞かれるものだということです。つまり前回の研究で触れたように、知恵が語ることは生死に関わる問題です。

知恵は、自分の言葉が真実であることについて8回語っています。とても興味深いことに、ここでの知恵の描写は、申命記32:4における主の描写と似ています。言うまでもなく、この類似は意外なことではありません。なぜなら、万物の創造主であられる神が(ヨハ1:1~3参照)、あらゆる真理の基だからです。

問1

箴言8:10、11を読んでください。これらの聖句は、知恵について何と言っていますか。

実に多くの人が、無知、愚かさ、暗闇の中で生きてきましたし、今もなお、生きています。多くの人が希望を持たずに、あるいは間違った希望を抱きながら生きています。この悲しい状況をさらに悲しくさせているのは、知恵や真理がとてもすばらしいものであるということです。知恵や真理は、現世におけるよりよい生活への希望と約束、また、新しい天と地における永遠の命の確証にあふれており、それらは何もかもイエスの犠牲のおかげです。この世のあらゆる富は、神の知識に比べれば、取るに足りません(コヘ2:11~13)。

知恵と創造

問2

箴言8:22~31を読んでください。知恵は、どのように天地創造とつながりがありますか。

これらの聖句において、知恵は創造主なる主と神秘的につながっています。この詩には、創世記1章、2章の創造物語と共通する言葉がたくさん用いられているとともに、「天」「水(海)」「大地」という三つの基本要素から成る創造物語の修辞構造も反映しています。このような類似の意図は、知恵の基礎的資格を強調することです。神御自身が創造のために知恵をお用いになり、知恵が宇宙よりも古い最古の道具であり、宇宙の存在にとってなくてはならないものであるとすると、私たちは生活の中で行うあらゆることにおいて、もっと知恵を用いなければなりません。

また、知恵の起源が神にあることも強調されています。この詩の最初の言葉は「主(ヤハウェ)」で、この主が知恵を「造られた」(二番目の言葉)と記されています。「造られた」に相当するヘブライ語の「カーナー」は、新改訳聖書で「得ておられた」と訳されているように、「創造する」よりも「得る」という意味合いを持っています(創4:1参照)。その次の言葉は創世記の天地創造と関連した専門用語「レシート」(「初め」)で、創世記の最初の節の中にあります。「初めに、神は天地を創造された」

しかし、箴言8:22の「初めに」という言葉は、創世記1:1とは若干異なる使われ方をしています。創世記1:1では、この言葉は天地創造そのものとつながっていますが、箴言8:22では、神御自身や、神の御性質を意味する「その道」(「デレク」)に結びつけられています。このように、知恵は神の御性質の一部です。

それゆえ知恵は、宇宙が創造される前からすでにありました。神だけがおられたときに存在したのなら、知恵の古さは「永遠の昔」にまでさかのぼれるということです。

ですから、知恵は私たちの中に起源を持つものではなく、私たちに啓示されるものです。私たちが学ぶ何かではなく、私たちによって学ばれる何かです。私たちが自分自身の中から生み出すものではありません。間違いなく、私自身の光によって歩くことは、暗闇の中を歩くことです。イエスは「まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハ1:9)と、私たちは言われています。すべての人もそれを必要としています。

創造の喜び

創世記1章を見ると、天地創造のそれぞれの段階が、「神はこれを見て、良しとされた」(創1:4、10、12、18、21、25、31参照)という同じ言葉の繰り返しで終わっていることがわかります。最終段階では、さらに「それは極めて良かった」(31節、強調筆者)とまで言われています。「良し(良い)」に相当するヘブライ語には「喜び」という概念が含まれており、この言葉は関係を暗示しています。創造週の最後に、神は一息ついて御自分の創造の業を心ゆくまで楽しまれ(同2:1~3)、この休息の時間、つまり安息日は祝福されます。同様に、私たちが研究している[箴言8:22~31の]詩も、天地創造を喜ぶ知恵で締めくくられています。

問3

箴言8:30、31を読んでください。なぜ知恵は喜んでいたのですか。

知恵の喜びは、天地創造の際の神の喜びを反映しています。この喜びは「日ごと」に、つまり天地創造のそれぞれの段階で起こっているだけでなく、(地球上の命の)創造が完成したときに、創造の業の最後をも飾っています。

箴言8章の中に、私たちは知恵の喜びの理由—「人の子らと共に楽しむ」(31節)—を見いだすことができます。創造週の最後である安息日に、神は人間と交わられました。1週間の働きのすぐあとに、神が休息し、喜ばれたことは、人間の安息日の経験に示唆を与えています。「神のやり方に倣うことで、人間もまた、自分がなし終えた働きを喜びと満足をもって振り返ることができる。このようにして、人間は神の創造を喜ぶだけでなく、被造物を(利己的に利用するのではなく)統治するという責任の重い権利を喜ぶことができるのである」(ゲルハルト・F・ハーゼル『聖書と歴史の中の安息日』[ケネス・A・ストランド編]23ページ、英文)。

知恵の訴え

箴言8章の最後の数節は、再び個人的なこと(知恵を持つことの意味)に戻っています。それに比べると、知恵の先在性に関する知識や、天地創造時に知恵が存在したことに関する知識は、確かに深いものです。しかし聖書の中では、常にある点で、私たちがイエスによって与えられたものに応答できるようにするために、真理が人間のレベルに下げられなければなりませんでした。

箴言8:32~36を読んでください。「幸い」と訳されているヘブライ語は、「うれしい」ということを意味します。この箇所では、「幸い」という言葉が二つの意見と結びつけられています。最初の意見は、行動について述べています。「わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか」(箴8:32)。同じ言葉が詩編119:1、2では律法に関して用いられています。「いかに幸いなことでしょう/まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。いかに幸いなことでしょう/主の定めを守……るひとは」

二番目の意見は、態度について述べています。「わたしに聞き従う者……は、いかに幸いなことか」(箴8:34)。いずれの場合も、その必要条件は継続的な努力を暗示しています。正しい道を発見するだけでは不十分で、私たちはそれを「守(ら)」なければなりません。神の御言葉を聞くだけでは不十分で、私たちは「日々……うかがい」、知っていることに従わなければなりません。イエスがおっしゃったように、「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人」(ルカ11:28)です。

「身体的、道徳的な法則に反し、背く生き方に見られるものに、望ましい幸福があるだろうか。キリストの生涯は、幸福の真の源と幸福を得る方法とを指し示している。……もし本当に幸福になりたいのなら、彼らは与えられた義務を進んで果たし、委ねられた働きを誠実にこなし、心を合わせて完全な手本に従って生きるだろう」(エレン・G・ホワイト『きょうを生きる』162ページ、英文)。

どちらかを選ぶ

知恵の訴えに従い、霊感を受けた箴言9章の著者は、二つの生き方(知恵か愚かさ)のいずれかを選択するようにと、ここで聴衆[読者]に迫ります。9章の最初の6節(1~6節)と最後の6節(13~18節)は対照的になっていて、二つのグループの違いを際立たせています。

問4

箴言9:1~6と9:13~18を比較してください。知恵と愚かさの違いは何ですか。

①知恵は有用で、天地創造に関与しており、ここ(1~3節)での知恵の行動を記すために七つの動詞が使われています。また、知恵が「刻んで立てた」(1節)七つの柱は、天地創造の7日間を示唆しています。対照的に、愚かさは座り込んで何もせず、「わきまえがなく、何も知らない」(13節、新改訳)のに、本来の姿を隠しています。

②知恵と愚かさは同じ聴衆に呼びかけているのに(4節と16節が同一であることに注目)、それぞれが提供するものは本質的に異なります。知恵は客を招くとパンを食べさせ、自ら用意した飲み物を飲ませます(5節)。一方、愚かさは食べ物も飲み物も出さず、盗んだ食料をただ自慢するだけです(17節)。

③知恵は私たちに、愚かさを捨てて生きよ、と呼びかけます。一方、愚かさはもっと寛大で、何かを捨てよ、と私たちに要求しませんが、その結果は死です。知恵に従う者は前進し、「分別の道を進む」(6節)でしょう。愚かさに従う者は動かず、彼らの中に「知る者はない」(18節)でしょう。

問5

箴言9:7~9を読んでください。知恵の諭しに対して、神に逆らう人と知恵ある人は、どのように応じますか。何が知恵ある人を、神に逆らう人よりも賢くさせるのですか。

知恵を得る鍵は謙遜です。知恵ある人は、教えやすく、心を開いて諭しに応答する人です。知恵は、子どものように成長の必要を感じている人にのみ与えられます。それゆえイエスは、これ以上にない明瞭さで次のように教えられました。「子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」(マタ18:3)。

さらなる研究

「宇宙の統治者は、その恵み深いお働きをひとりではなさらなかった。彼には助け手があった。すなわち、彼の目的を理解し、幸福を与えることを、共に喜び合える共労者であった。『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった』(ヨハネ1:1、2)。言であり、神のひとり子であったキリストは、永遠の父と1つ、すなわち、その性質、品性、目的が1つであって、神のあらゆる計画と目的に参加できる唯一のお方であった。……また、神のみ子は、ご自身について、こう言明された。『主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。……また地の基を定められたときわたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽し』んだ(箴言8:22~30)」(『希望への光』13ページ、『人類のあけぼの』上巻2、3ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年1期『箴言』からの抜粋です。

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