神に従う人の祝福【箴言―正しい選択を導く知恵の言葉】#5

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この記事のテーマ

タイトルが示しているように、今回は神に従う人の祝福について考えます。「神に従う人(義人、正しい人)」に相当するヘブライ語「ツァディク」は、今回の聖句を読み解く鍵の言葉です。この言葉の派生元である「ツェデク」(「正義」)は、「箴言」の導入部分に登場しています。「ソロモンの箴言。……諭しを受け入れて/正義と裁きと公平に目覚めるため」(箴1:1、3)。「箴言」が私たちに語っているのは、知恵は義(正しさ)であり、「義」とは神の掟に従って歩むこと—つまり、主が私たちに求めておられることを信じ、それに従って歩むこと—だ、ということです。義は、神からもたらされる賜物であり、その対極のものが、愚かさであり、不信です。知恵は、義、正義、慈善。愚かさは、罪、不義、不正、反逆。これから私たちが研究する聖句の中において、両者の違いははっきりしています。

義は全体的なもの

問1

箴言10:1~7を読んでください。人生と信仰に関するどのような原則が、ここに示されていますか。

船に乗っていた1人の男が、自分の足もとにドリルで穴を開け始めたという話があります。同船していた人たちが、やめるように要求すると、男はこう答えました。「あんたたちには関係ないだろ。ここはおれの席なんだから」。このような馬鹿げた答えは、罪人が自分の行動を正当化するために用いる言い訳です。「これは私の人生なんだ。あなたには関係がない」。言うまでもなく、私たちがする(あるいは、しない)ことは何であれ、ほかの人(とりわけ、ごく身近にいる人たち)に影響を及ぼします。一体、ほかの人が取った行動の結果、善かれ悪しかれ、大きな影響を受けたことのない人がいるでしょうか。

霊的・倫理的生活と肉体的・物質的生活は結びついているという原則が、箴言10:3~5で扱われています。その中心思想は、不義や道徳的欠如は、たとえその人が裕福でも割が合わないということ。第二に、義には、たとえその人が貧しくても、いろいろな点で常に報いがあるということです。

イエスは、いかに情欲は姦淫と同じであり、憎しみは殺人と同じであるかということについてお語りになりましたが、より初期の同類の表現が6節と7節の中に見られます。悪しき思いは、しばしば私たちの仕草や口調によって気づかれてしまいます。他者との良い人間関係の最良の出発点は、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18、マタイ19:19と比較)です。また6節と7節が示唆しているように、あなたが与える良い印象は、ほかの人にずっと影響を残します。結局のところ、これはある程度、常識の問題です。悪い評判より、良い評判のほうがよくはありませんか。

神に従う人の口

口は(その構成要素である唇や舌とともに)、「箴言」の中において最も重要な器官です。新キング・ジェイムズ訳の「箴言」の中では、‘mouth(口)’という言葉が50回、‘lips(唇)’が41回、‘tongue(舌)’が19回使われています。この言語の器官が使われていることが、箴言10章から29章における特に重要な主題です。

私たちの言葉には、善かれ悪しかれ、とても強い影響力があるという大前提が極めて重要です。舌は、私たちに与えられた最善の賜物にも、最悪の賜物にもなりえます。舌のこの両義性が、「箴言」における最も重要な教訓の一つです。確かに、舌は命を生み出しますが、死をももたらします。

問2

箴言10:11~14を読んでください。神に従う人の話し方と愚か者の話し方との間には、どのような違いがありますか。

11節の中にある「命の源」という表現に注目してください。これは、象徴的に知恵の性質に言及したもので、命の源であられる主を指す際にも用いられています(詩編36:10[口語訳36:9])。また、この同じたとえは、湧き水が流れ出ている神殿に関連して使われています(エゼ47:1、2)。イエスはこの比喩を、霊の賜物を例示するために用いられました(ヨハ4:14)。このように、神に従う人の口を「命の源」にたとえることは、それを神御自身に結びつけることになります。

この口を特徴づけているのは、「命」というすばらしい賜物です。この性質が、口の果たすべき正しい機能を物語っています。口は、(悪ではなく)善のための力、(死ではなく)命の源になるべきでしょう。ここで言われていることは、ヤコブ3:2~12にも見られます。

神が天と地を創造されたのは、言葉を通して、「御自分の力ある言葉」(ヘブ1:3)を通してであったことも思い出してください。それゆえ、言葉は創造的な目的のためだけに役立てましょう。

神に従う人の希望

問3

「正しい人は自分の無垢に導かれ/裏切り者は自分の暴力に滅ぼされる」(箴11:3)。この聖句が真理であるというどのような証拠を、私たちは持っていますか。この霊的真理が明らかにされたどのような実例を、あなたは見たり、聞いたりしたことがありますか。あるいは逆に、少なくとも今までのところ、この聖句を信仰によって受け入れなければならないどのようなことを、あなたは目撃しましたか。

問4

箴言11章を読んでください。この章は多くの主題に触れていますが、神に逆らう者に起こることとは対照的に、忠実な者に与えられる大いなる祝福には、どのようなものがあるでしょうか。

神に従う人にとって、未来に対する意識や、まだ見ていないものに対する価値観(IIコリ4:18参照)が正しく生きる動機づけに役立ちます。未来に対する希望のゆえに、彼らは謙遜に、正直に、憐れみ深くふるまいます。

一方、神に逆らう者は現在だけに生きます。彼らに関心があるのは、目にしているものだけ、目の前の利益だけです。彼らはほかの人のことを考える前に自分自身のことを考え、欺きや嫌がらせを用いるでしょう。例えば、自分の客を欺く販売員は、高い値段をふっかけることで目の前の利益を得られるでしょうが、最終的には客を失い、彼らのビジネスは失敗するかもしれません(箴11:3、18)。

神に従う人の真実

箴言12章を読み、特に真実を語るかうそをつくかを再検討する中で、言葉という主題に焦点を合わせてください。

女性哲学者のシセラ・ボクは、うそをつくことがいかに社会に害を及ぼすか、納得のいく形で論証し、「人々が真実性のあるメッセージと偽りのそれとを区別できないような社会は、成り立つはずがない」(『嘘の人間学』39ページ)と書いています。同じくアウグスティヌスも、ボクの上記の本の序文に引用されているように、「真理への畏敬の念が崩れあるいはいささかでも薄れるとき、すべてが疑わしくなる」(同9ページ)と指摘しました。

エレン・G・ホワイトは次のように記しています。「うそをつく唇は、神が嫌われるものである。『罪に汚れた者、異教のさまざまな罪に陥っている者、偽りを言う者は、決してそこ[聖なる都]に入ることができない』[黙21:27(現代訳)]と、神は宣言なさった。いつも真実を語るように努めなさい。それを生活の一部としなさい。真実をもてあそぶことや、自分勝手な計画に合わせるために真実をごまかすことは、信仰の破滅を意味する。……虚偽を口にする者は、安い市場で自分の魂を売る。彼のうそは緊急時には役立つかもしれないし、それによって、公平な取引では得ることのできないほどの利益が得られるように思うかもしれない。しかし、最終的に彼はだれも信頼できなくなる。自分自身がうそつきである彼は、だれの言葉も信じられないのである」(『きょうを生きる』331ページ、英文)。

言葉がいかに強力であるかを考えるとき、うそをつくことも同様であると考えましょう。なぜなら、たいていのうそは言葉で語られるからです。うそをつかれたときに、痛み、裏切り、汚されたという感覚を味わわなかった人がいるでしょうか。うそをつくことが規範からの逸脱ではなく、規範そのものになるとき、社会が完全な混乱状態に陥ることは想像にかたくありません。

別の観点もあります。つまり、うそをつくことがうそをつく人にも影響するという観点です。中には、うそをつくことに慣れすぎてしまって、気に病まない人もいるでしょうが、多くの人は、うそをつくときに罪悪感やうしろめたさを抱きます。それは、聖霊を受け容れる力がまだ残っていることを意味しているので、彼らにとっては良いことです。しかし、ためらうことなくうそをつく人の危険は、いかばかりでしょうか。

神に従う人の報い

これまで見てきたように、「箴言」の中にある諭しや教えの多くは、二種類の人の対比によって示されています。「知恵ある人はこれを行い、愚かな人はそれを行う」「神を敬う人はそれを行い、神に逆らう者はこれを行う」といった具合です。

もちろん実際には、私たち全員の中に愚かさとわずかな知恵とがたいてい併存しています。イエスを除いて、私たちはみな罪人であり、「神の栄光を受けられなくなっています」(ロマ3:23)。しかし幸いなことに、その次の聖句の中にすばらしい約束が与えられています。私たちは罪人ですが、信仰によって「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(同3:24)。

最終的に、すべての人間は二つのグループ(救われる人々か、それとも滅びる人々か)のいずれかに入ることになります。

問5

ヨハネ3:16を読んでください。すべての人間は、どのような二つの選択に遭遇しますか。

問6

箴言13章を読んでください。この章は、神に従う人と神に逆らう者の体験や運命を、どのように対比していますか。

知恵ある人が長続きする灯にたとえられている一方、神に逆らう者は消される灯にたとえられています(箴13:9)。知恵ある人は自分の働きの良い実を喜ぶ一方、罪人は災い(悪)を刈り取ります。子孫を通じて(同13:22)、知恵ある人にはずっと先まで未来がありますが、一方、神に逆らう者は自分の富を見知らぬ人に(神に従う人にさえ)残すことになるでしょう。

主を信じ、主に従う人生は、主に逆らう愚かな人生よりも良いものだということが重要な点です。

さらなる研究

「キリストへの信仰を表明して、名前を教会名簿に連ねるだけでは十分でない。……わたしたちが口で何を言おうとも、キリストが義の行為となってあらわされるのでなければ、それは無にひとしい」(『希望への光』1309ページ、『キリストの実物教訓』292、293ページ)。

「キリストの時代に人々の心のうちにあった最大の欺瞞は、真理にただ同意することが義であるということだった。真理を理論的に知っているということだけでは魂を救うのに不十分であることが、人間のあらゆる経験を通して証明された。……。歴史の最も暗黒な幾章かは、頑迷な宗教家たちの犯した罪の記録を背負っている。……同じ危険が今も存在している。多くの者は、ある神学上の教義に同意しているからというだけのことで、自分は当然クリスチャンだと思っている。だが彼らは、真理を実生活に持ちこまなかった。……人は、真理に対する信仰を告白しても、もしその信仰によって、彼らが真実で、親切で、忍耐強く、寛大で、天来の心を持った者となるのでなければ、それは所有者にとって災いであり、また彼らの感化によって、それは世にとっても災いとなる。キリストがお教えになった義とは、心と生活とを神のみこころのあらわれに一致させることである」(『希望への光』826ページ、『各時代の希望』中巻16ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年1期『箴言』からの抜粋です。

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