考えたようにはならない【箴言―正しい選択を導く知恵の言葉】#6

目次

この記事のテーマ

パウロは言いました。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」(Iコリ13:12)。私たちに見えるのはわずかであり、私たちが見ているものは、常に心のフィルターを通っています。私たちの目や耳—実際には、五感のすべて—は、そこに実在するものを部分的に捉えているにすぎません。

私たちは外界に関して欺かれますが、自分自身に関しても欺かれます。私たちの夢、見方、意見などは、非常にゆがんだ自己イメージをもたらし、それはあらゆる欺きの中でも、飛び抜けて悪いものになる可能性があります。

それでは、このような欺きから自分自身を守るために、私たちは何をすべきでしょうか。「箴言」は基本的な勧告を与えています。私たちは、愚かな人がするように、自分自身を信用すべきではありません。そうではなく、私たちが信用すべきは主—すべてがうまくいかないように思えるときでさえ、物事の成り行きを支配しておられる主—です。要するに、私たちはただ見えるものによって生きるのではなく、信仰によって生きる必要があるということです。なぜなら、私たちの視力は、現実の一部しか見せず、しかもさらに悪いことに、そのわずかなものをゆがめており、非常に当てにならないからです。

愚か者の確信

問1

箴言14章を読んでください。愚か者に関して、何と書かれていますか。

愚か者は傲慢なことを言います(箴14:3参照)。愚か者の最初の描写は、その傲慢な話しぶりについてです。愚か者の口に関連づけられている杖(のたとえ)は、最終的な罰を暗示しています。彼の高慢な言葉は、自らの唇に一撃を招くことになりますが、その結果は知恵ある人の唇と対照的で、後者の唇は守られます(ダニ7:8も参照)。

愚か者は知恵をあざ笑います(箴14:6~9)。愚か者は知恵を求めているように見えますが、実際のところ、彼は知恵を信じておらず、疑っています。愚か者は、自分自身以外には知恵がないと思っているので、知恵を見いだすことはありません。最も驚くことは、律法を冒する彼の態度です。罪をあざ笑うこと以上に致命的なことが、ほかにあるでしょうか。

愚か者は軽率に信じます(箴14:15)。おかしなことに、愚か者は知恵の価値を依然信じている理想主義者を笑い物にしますが、その一方で彼は耳にしたことを批判的に考える能力を失っていて、「何事」も信じ込みます。こういう皮肉な状況は、世俗社会の核心を突いています。懐疑的な人たちは神をあざ笑い、宗教を笑い物にし、こういった信仰は子どもや老人のためのものだ、と主張します。しかし彼ら自身が、単なる偶然によって地上に命が生まれたというような最も愚かしいことをしばしば信じています。

愚か者は衝動的です(箴14:16、29)。愚か者は自分自身の中に真理があると思っているので、考えるための時間を取りません。彼の反応はすばやく、たいてい衝動によって決まります。

愚か者はほかの人を虐げます(箴14:21、31)。抑圧と不寛容という無意識の仕組みは、愚か者の心理の中で動機となっています。彼は他の人々に寛容でなく、彼らをさげすみます(ダニ7:25、8:11、12参照)。

知恵ある人の畏れ

箴言14章には、知恵ある人についても書かれています。

知恵ある人は謙虚に語ります(箴14:3)。知恵ある人は唇を自制して使います。彼らが沈思黙考するのは、傲慢な自信を持っていないからです。知恵ある人は、ほかの人の考えを大切にします。それゆえ、彼らは時間を割いて証拠を検討し、じっくり考えます。彼らはまた、ほかの人の話に耳を傾け、学ぼうとする心構えができているので寡黙にしています。

知恵ある人は学ぶことや知識を大事にします(箴14:6、18)。愚か者は教師の教えを受けることが苦手なので、学ぶことが困難です。対照的に、知恵ある人は謙遜なので、学ぶことが容易です。従って彼らは、学び、成長する体験を楽しむことができます。このような知恵の探求、自分にない知恵の探求とが、彼らを賢くもしているのです。

知恵ある人は慎重です(箴14:15)。知恵ある人は、罪と悪が存在することを知っています。それゆえ、彼らは世渡りに注意深いでしょう。彼らは自分の感情や個人的な意見を強く信頼しないでしょう。彼らは物事をよく調べ、助言を求めます。しかし、ほかの人が言うことに対しても常に注意深く、良い助言と悪い助言をえり分けます(Iテサ5:21)。

知恵ある人は穏やかです(箴14:29、33)。知恵ある人は「自らの道」に頼らず、「神」に頼るので、黙っていることができます(同14:14)。彼らがリラックスし、自制心を働かすことができるのは、神に対する信仰のゆえです(イザ30:15)。彼らに自信を与えているのは、神への畏れです(箴14:26)。

知恵ある人は憐み深く、親切です(箴14:21、31)。「あなたの神である主を愛しなさい」という掟と、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟は、結びついています(マコ12:30、31)。私たちはほかの人を粗末に扱いながら、同時に神を愛することはできません。私たちの信仰は、他者をいかに扱うかということの中に、とりわけ困っている人の扱い方の中に最もよくあらわれます。

「主の目」

「どこにも主の目は注がれ/善人をも悪人をも見ておられる」(箴15:3)。

「箴言」の中で次の二つの章(箴言15章と16章)において、文調が変わっています。この二章は、それまでの章よりもずっと神学的であり、それまでの箴言よりも頻繁に「主」に言及しています。また、主について驚くべきことが記されています。「どこにも主の目は注がれ」(同15:3)ている。

主の御臨在に対するこのような強い自覚は、まさに古代イスラエルの人々が「主を畏れること」と呼んだものです。同じようなつながりは、詩編の中にも見られます。「見よ、主は御目を注がれる/主を畏れる人……に」(詩編33:18)。同様に、ヨブは神のことを、地の果てまで見渡し、天の下で起こるあらゆることを見ておられる方と評しています(ヨブ28:24)。それゆえ、「主を畏れ敬うこと、それが知恵」(同28:28)であると、彼は結論づけています。

この箴言は、神が善をも悪をも(それらがどこにあろうと)見抜く力を持っておられることを私たちに思い出させます。ソロモンが理解していたように(王上3:9)、真の知恵は善と悪を判断(識別)する能力です。人間にとってこのような意識は、私たちが決して悪を行わず、常に善を行うように助けてくれるでしょう。なぜなら、私たちのするあらゆることを、たとえほかのだれも見ていなくても、神はご覧になっているからです。私たちは、差し当たって悪事の罰を免れているので、自分は本当に罰を免れ得るのだ、などと思い違いをします。しかし長い目で見れば、そのようなことは決してありません。

「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(ヘブ4:13)。それゆえ、私たちは勤勉にしましょう。

主の喜び

問2

箴言15章を読んでください。喜びは、なぜそれほど人間の重要な財産なのですか。

聖書は私たちに、試練のない人生を約束していません。イエス御自身がおっしゃったように、「その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタ6:34)。箴言15:15は、災いの日々の中にあって朗らかな心でいる人はよりよい時間を過ごすだろう、と説明しています。痛み、苦しみ、試練はやって来ますが、私たちはたいてい、それがいつ、どのようにやって来るかをコントロール(操作)できません。私たちにできるのは、いかに応じるかを選ぶことくらいです。

箴言15:13、14、23を読んでください。これらの聖句は喜びの理由をはっきり述べていませんが、13節と14節の類似性からすると、「喜びを抱く心」は「聡明な心」であるようです。それは、信仰を持ち、目の前の厳しい試練の向こうに贖い(救い)を見る人の心です。だから神に対する信仰が重要なのであり、だから私たちが自分で、自分の体験によって、神と神の愛を実際に知ることが不可欠です。そのとき、どんな試練がやって来ようと、どんな苦しみに遭遇しようと、聡明な人は耐えることができます。なぜなら、彼らは自分で神の愛を知っているからです。

箴言15:23は、もう一つの重要な考えを私たちにもたらします。喜びは、私たちが受けることよりも、私たちが与えることから、よりたくさんもたらされます。与える人に喜びをもたらすのは、ほかの人々と分かち合った良い言葉です。言葉であれ、行為であれ、その両方であれ、ほかの人を祝福することでもたらされた祝福を体験したことのない人がいるでしょうか。「箴言」の中ですでに見てきたように、私たちの言葉には大きな影響力があります。言葉は大きな善をなすこともあれば、大きな悪をなすこともあります。その言葉が、善をなされた人だけでなく、善をなした人をも利するほうが、どれほど良いでしょうか。

神の主権

私たちはみな夢を思い描き、計画を立てますが、物事は、ときには良い方向へ、ときには悪い方向へと、違う方向に展開するものです。聖書は、人間の責任と自由の価値を認めていますが、物事の成り行きに対する神の支配権も認めています(箴20:24、21:31、ダニ2章、7章参照)。

箴言16:1を読んでください。私たちは準備をし、計画を立てますが、それでも最終決定権は神のものです。これは、私たちの準備には価値がないということを意味しているのではありません。しかし信仰生活において、もし私たちが自分の計画を神に委ねるなら、神は私たちの計画に働きかけ、それを導き(箴16:9)、最終的に成し遂げられるでしょう(同16:3)。私たちの敵の働きさえ、私たちの利益となるように用いられるでしょう(同16:4、7)。

こういったことは、とりわけ私たちが困難な状況に直面するとき、簡単に納得できる考えではありません。しかし、たとえ物事がまったくうまくいかないように思え、計画が期待していたとおりの結果にならないときでさえ、先のような考えは私たちに慰めを与え、主に信頼できるように助けてくれるでしょう。私たちにとっての鍵は、神に完全に服従できるようになることです。もし私たちが神に服従するなら、どんなに困難なときでも、神の導きを確信することができます。

箴言16:18、19を読んでください。例のごとく、聖書は高慢を警告しています。結局のところ、堕落した存在である私たちに何か誇るべきものがあるのでしょうか。最初の罪である高慢以上に神に反する悪徳があるのでしょうか(エゼ28:17参照)。イエスは、偉くなろうとする悪についてきっぱり教え、高慢の代わりに謙遜を追い求めなさい、と弟子たちに強く求められました(マタ20:26~28)。

箴言16:33を読んでください。聖書は偶然というものを認めていません。物事が偶然によって決まるように思えるときでさえ、私たちは、神が依然として支配しておられることを信じることができます。

さらなる研究

「サタンは、最初から罪によって利益が得られると人々に言ってきた。こうして彼は、天使たちをあざむいた。同様に彼はアダムとエバを罪に誘惑した。彼は、今もなお、こうして多くの人々を神に従わせまいとしている。罪の道は好ましいもののように見せられているが、『その終りはついに死に至る道』である(箴言14:12)。この道に踏み込んでも、罪の結果の苦さを悟って、早くその道から離れたものは幸福である」(『希望への光』375ページ、『人類のあけぼの』下巻418ページ)。

「感謝と賛美の精神ほど心身の健康を増進するものはない。憂鬱、不満な気持ちや思想に抵抗することは、祈ることと同じように積極的な義務である。もしわたしたちが天に向かって歩いて行っているなら、わたしたちの父の家に行く道すがらを、どうして会葬者の一隊のように嘆き、つぶやきながら歩いたりできよう。常につぶやき、快活や喜びは罪であるかのように思っているクリスチャンと称する人々は、真の宗教を持っていない」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』240ページ)。

*本記事は、安息日学校ガイド2015年1期『箴言』からの抜粋です。

聖書の引用は、特記がない限り日本聖書協会新共同訳を使用しています。
そのほかの訳の場合はカッコがきで記載しており、以下からの引用となります。
『新共同訳』 ©︎共同訳聖書実行委員会 ©︎日本聖書協会
『口語訳』 ©︎日本聖書協会 
『新改訳2017』 ©2017 新日本聖書刊行会

よかったらシェアしてね!
目次